第25話 花の都・エンジュ
午前4時。
山の端の向こうに昇りはじめた太陽が、藍色の空を少しずつ明け初めていく頃。
《スズの塔》の祈りの間には、もうせっせと働く人影があった。
男だ。
まだ若い。
歳の頃は15、6といったところか。
少年というには大きいが、一人前の男というにはまだ幼い、そういう曖昧さと危うさを併せ持っている。
青年はたった独りで、床板や柱を黙々と拭き清めていた。
いかに初夏とは申せ、この時刻はまだ暑熱穏やかである。
ましてや九重の塔の最上階であれば、吹き流れる風は余程涼しいのだが、一所懸命に掃除しているせいで滝のような汗を掻いていた。
「…………ふぅ」
青年が、きゅ! と雑巾を動かす手を止める。
あちらこちらを見渡して、完璧に磨きあげられていることを確認し、小さく頷いた。
秀麗な面差しであった。
色素の薄い髪色に、役者のごとき細面。
肌は眩いばかりに白く輝き、目鼻唇の全てが行儀のよい位置に行儀のよい大きさで収まっている。
美男子である。
「今朝のお清めは、こんなものかな」
まだ子供らしい響きの残る声で独りごちた。
声変わりを経ていないらしい。
雑巾を手桶に落とし、濡れた手を懐紙でよく拭ってから、祭壇へと膝行した。
青年の位置から祭壇の前までは10メートルほどもある。その距離を、歩くのではなく膝を滑らせて近づくのは、尊き御方がおわすからである。
祭壇の四囲には
御簾の中には特上の紫檀から切り出された経台が置かれ、繊細な刺繍が施された絹布がかけられている。この絹ひと切れで、庶民が3年は遊んで暮らせる
祈りの間には仄かに沈香*1の煙が漂っている。
無論、最高級の
少しでも癒しになればと、当代の座主がひねもす
青年は知っている。
そんな絹と香りにくるまるようにして、一羽の鳥が深い眠りについていることを。
本来なら彩やかに輝く翼が、痛ましいほどにすっかり色褪せていることも。
両膝を揃えて畏まり、額を擦りつけんばかりに平伏した。
「今朝のお清め、済みましてございまする。
「……………………」
返答はない。
一声鳴くのも億劫なほどに、心身が弱りきっておいでだからだ。
毎朝この無言を浴びるたびに、青年の心は鋭く痛んだ。
「…………。後ほど、また参ります」
膝を着いたまま、御前をにじり下がる。
祈りの間の戸を閉めて、10秒ばかり数えてから、おもむろに立ち上がった。
神がおわします清浄な空間において、せかせかと動くことは何よりも無礼な振る舞いである。
何事につけゆったりとした所作であらねばならぬ。
けれど、このような事態にゆったりと構えていていい訳がない。
青年は唇を噛み締めながら、西の彼方を睨みつけた。
この《スズの塔》と対を成す《カネの塔》は今日も無惨な焼け跡を晒しているであろう。
かの塔で、鳳凰様は討たれかけたのだ。
卑劣なる何者かの手によって。
「────絶対に、許しはせん」
青年は低く唸るように呟いて、《スズの塔》を降りていった。
〇〇〇
あれはもう一月前のことになるか。
夜中に突如噴き上がった大火が《カネの塔》を包み込んだんだ。
折悪しく風の強い日だったからよ、火の勢いは衰えることを知らねえで、大勢の坊主や巾獣を巻きこんだ。
えれえ騒ぎだったぜ、ほんとに。
一体どこのどいつがそんな火事を起こしやがったのかと思うだろ?
聞いて驚け、火元は鳳凰様だったのさ。
まさか乱心なすったわけじゃねえ。
抗いなすったのさ。
何にって?
そら、鳳凰様を襲った不届き者によ。
どうもな、《カネの塔》の近くを飛んでいるときに襲われたらしい。
鳳凰様に覆い被さる妙な影を見た、ってぇ証言する奴がいるのさ。
これが酔っ払いやガキの発言ならくだらねえ戯言と片付けられちまうところだが、当代座主の一人息子が見たってんだから嘘じゃあるめえ。
んで、よ。
辛くも撃退なされた鳳凰様はな、てめえの焔で命を落とした巾獣たちを哀れんで、何体か甦らせたもうたのだ。
いやはや、こう黒焦げの死体がバリっと割れてよ、中から元気な巾獣が生まれたのを目の当たりにしたときゃ、腰が抜けたね。
これぞ神の御力、御神力でござい、ってなもんよ。
その場のみーんな、畏れ入って地べたに平伏しちまった。
甦った獣たちは鳳凰様に恭しく頭を垂れてからぱっと散っていきやがった。
今頃どこで何してるやら。
見かけたって話は聞かねえから、海の向こうにでも行っちまったのかねえ。
ん? ああ、ヒトは生き返らなかった。
まあ、死んだのは大方坊主だったから、修行のおかげで迷うことなく極楽に行けたろうよ。
そうでなきゃ恥ずかしくって幽霊にもなれめえ。
いい話だろ? 信心が芽生えちまうよな。
ところが、この話はめでたしめでたしで終わらねえんだ。
やっぱりよう、神様にも弱みってのがあんだろうなあ。
妙な影と戦って、かつ御力を
以来、一度もお目覚めにならないんだとさ。
毎日毎晩、さっきも話にでてきた座主の息子がお世話してるってよ。
早く起きてほしいもんだねえ。
これは坊さんの受け売りだがよ、鳳凰様ってなぁ太陽を司る御方なんだそうだ。
万が一お隠れになっちまったら、この世が終わっちまうんだと。
おっかねえ。ぞっとするぜ。
だからほれ、見てみな。
エンジュの誰もが鳳凰様の快癒を祈ってんのよ。
「…………まあ、そんな感じだ」
露天商の親父はかったるそうに団扇を使いながら話を締め括った。
彼の前には茣蓙が敷かれ、竹とんぼだの風車だのが並べられてあるが、買う者はおろか立ち止まる者すら居ない。
誰も彼も不安そうな顔で行き過ぎるか、さもなくば縋るような目で《スズの塔》を見上げていくばかりだ。
「商売あがったりだな」
傍らに座っていた若者が水を向けると、親父はけっと唾を吐いた。
「おうよ。どいつもこいつもなまっ白い顔してやがら。不安の雲が都の連中の頭に巣食っちまって、こんなオモチャ売れやしねえ。
はるばるカントーから来たってのによぉ」
言うや、親父はぞんざいな手つきで品を纏め、茣蓙を畳み始めた。
今日はもう店じまいだ。
「にしてもアンタ、相当な田舎から出てきたな?
鳳凰様の話を知らねえなんてよ」
若者は薄く笑った。
真意の読めない笑みに、親父は訳ありなんだろうと得心した。
坂を転がるように治安が悪くなっていくこのご時世、みんな何かしら薄暗いところを抱えているものだ。
根掘り葉掘り尋ねるような野暮はしない。
カントーの男は
「それじゃあな。あまり遅くまでうろつくなよ。
野盗がでるぞ」
「ありがとう。これ、よかったら」
「あん? なんだいこりゃ」
掌に落とされたものを見て、親父は片眉を上げた。
丁寧に作られた木鈴がころりと揺れる。
「俺の作った鈴だよ。
その音色を聞いた巾獣たちは大人しくなる。
夜道を歩く時とか使ってみてくれ」
「へえ、まじない鈴か。あんがとよ」
「どーいたしまして。
…………あ、なあ。ひとつ聞いていいか?」
「あん?」
若者は妙なことを言いだした。
「鳳凰様のお世話をしてる人の名前、教えてくれないかな」
「なんだってそんなことを聞く?」
「いやあほら、俺たちの代わりに大変なお役目を担ってらっしゃるんだろ?
せめて御礼だけでも伝えたくてさ」
親父はしばし、若者をじっと見つめた。
両目に包帯を巻いた胡乱な出で立ち。
手には荒削りの杖が握られている。
着物はあちこちが破れ、まるで
病か怪我で光を失ったのか。
まじない鈴を握りしめながら往く姿を想像して、親父はそっと眦を拭った。
さては“甦り”の件を聞いて、もしや自分の眼も治してはもらえまいかと欲を起こしたか。
親父は溜息をつき、その名を口にした。
教えるくらいならバチも当たるまい。
どうせ、お目通りが叶うはずもないのだし。
「任天教は天堂衆の
当代座主のご子息だよ」
「僧都の、マツバラ……」
若者は何事かを口の中で呟く。
センゾ、と聞こえたような気がしたが、不意に匂ってきた焼き味噌の香りが、たちまち親父の胃袋を惹きつけた。
もう夕飯時だ。
早いとこ美味い飯屋に潜り込まねば、立ったまま茶碗を抱える羽目になる。
近頃のエンジュはとにかく人が多くて、何をするにも席の奪い合いが起きるのだ。
「それじゃあなっ、達者で暮らせよ!」
慌てる親父に若者は黙って頭を下げ、くるりと踵を返した。
こつりこつりと、行先を探る杖の音が遠ざかっていく。
親父は慌てて店探しを始めた。
さあ、今夜の飯は何にしようか。
■任天教──ジョウトで最も信者の多い宗教。
■天堂衆──ひときわ権勢を誇る宗派。
■座主──読みは“ざす”。その宗教の長。
■僧都──読みは“そうず”。僧の位階の1つ。
というわけで25話。
みんな大好きあの人のご先祖さま登場です。
名前結構悩みました。一発で先祖とわかってほしくてあの名前にしたんですがアレンジしにくくて笑 いっそ子孫と同じ名前もありだったかも。
スズの塔が生まれた経緯をご記憶の方は本作の矛盾に気づかれたかと思いますが、そこは次回以降ゆるゆる語りますのでしばしお付き合いください。
ホウオウの衰弱を知ってしまった若者はどうする気なのか。
よければ感想高評価おなしゃす!