爪を
舌の上を転がる紅き甘露に愉悦を覚えた。
久々の獲物だった。
三度の食事に事欠かなくなって久しい。
己の手を汚したのは、さて何時ぶりか。
やはりよいものだ。敵の肉を裂くというのは。
獰猛な興奮に身を委ね、心まで託し、思うさま爪を振るう快楽は、何物にも代えがたい。
「そうは思いませぬかぇ?」
ニューラが、尻の下に敷いた刺客へ呼びかける。
影の中からチマチマこせこせ狙ってきた不届き者を引きずり出し、散々に嬲ってやったところ、もう物を言う気力も無くしたと見えて、息も絶え絶えに突っ伏していた。
「冥界の者なら死ぬることもありますまい。これ」
無造作に爪を突き立てる。
死に損ないが「ぐぅ」と呻いた。
「まあまあ、愉快なお声でありんすなぁ」
おほほと嗤ってやれば、潰れていない方の眼がギロリと睨め据えてきた。
怒れる眼差しに口角が上がる。
よいよい。
それでこそ、虐める甲斐もあるというもの。
虚空に向かって息を吹きかける。
途端に周囲の空気が冷えた。
もしもここに温度計があらば、氷点下を示すことだろう。
「…………ねえ、お前さま」
“凍える風”を発動していくらも経たぬ内に、パキ、と音を立てて周囲が凍てつきはじめた。
尻の下からひしゃげた悲鳴が迸る。
刺客──ジュナイパーの毛並みには既に霜が降りていた。
「お前さま、草木の眷属でありんしょう。
いかがどす、わっちの氷細工は。
お気に召しましたかぇ?」
刺客は懸命に足掻くが、脚の腱を断ち切られていてはのたうつのが関の山。
そうする間に、ますます躰が凍っていく。
「わ、わがっだっ、降参だっ、降参ずる!」
薄みっともない絶叫に、いよいよ笑みが深まった。
「降参、でありんすか」
するりと音もなく立ち上がる。
見逃してもらえると思ったのだろう、ジュナイパーは安堵しかけ──たちまち絶句した。
一抱えほどもある氷柱が、頭上に出現したが為に。
「お前さまがその手にかけようとしたのはねえ、わっちの恩人でありんすよ。本来なら、八つ裂きにしても飽き足りないところでありんすが……」
パキパキパキパキ、と不穏極まる音を響かせながら、氷柱が大きく太くなっていく。
(死ぬ、死ぬ、死ぬ……!)
もはやジュナイパーは、声も出ないほど怯えていた。
本来、冥界に属する者にとって《死》はあくまでも他人事である。どんな怪我を負っても、影の中に戻りさえすれば、冥王の加護を受けて復活できるからだ。
だが地上に氷漬けにされては、さしもの冥王の加護も届かない。
即ち、
「待ってくれっ、待っ……」
懇願にうっとりと瞳を閉じてから。
ニューラは、氷柱を落下させた。
○○○
「お
カラシ和尚が庭先に回ってみると、愛猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。
和尚は目を細め、次に首を傾げた。
はて、うちの庭にあんな大きな氷柱があっただろうか。
季節は初夏を過ぎ、そろそろ夏本番に差しかかろうとしている。中天にかかった太陽は、情け容赦ない陽射しを地上に射かけて眩しいくらいだ。
アサギからタンバへ渡るかの若人がさぞかしうんざりするだろう暑さが、もうそこまでやって来ている。
だというのに、この氷はどうしたことか。
おっちょこちょいの氷屋が庭に放っていったのか?
「にゃあん」
訝しんでいると、黒猫が足元にすり寄ってきた。やけに機嫌がいい。きっと、ぶぅすけがいない分構ってもらえると高を括っているのだろう。
己の好物にちなんでお萩と名付けた猫を抱き上げる。
「お萩はんな。
そない愛嬌振りまいてもあんまり可愛がってやれまへんぇ。わしかてやらなあかんことが仰山あるよって」
「にゃあ」
「そんな
ぴしりと言い渡すと、子猫は寂しそうな目で和尚を見上げてきた。
大きな瞳から、いまにも涙が溢れようとしている。
和尚はきゅっと唇を噛み締め、しかし堪えきれずに吐息した。
「〜〜〜っ、ああもうあかんわ。
わしこう見えても煩悩に打ち勝つよう修行してきたんに、そうも見つめられてはなぁ。
ほんま
「にゃあん♡」
子猫はあくまで愛らしく、和尚の腕の中で丸くなった。
○○○
「────ふぅ」
懐から手拭いを取りだし、うなじの汗を拭う。
まだエンジュを発って2時間も過ぎていないのに、カンカン照りの街道は茹だるような暑さだった。
道案内を担ってくれているウリムーも、少しずつ歩みが鈍くなっている。
もともと雪山や氷河などの寒冷地帯に生息するポケモンだから、夏の気候には弱いのだろう。
「少し休憩しよう、ぶぅすけ」
「ぶぅ」
ウリムーは素早い動きで近くの木陰に駆け込んだ。
俺もどさりと腰を下ろす。
「ぶーぅ」
ウリムーが俺に息を吹きかけてきた。
イタズラかと思いきや、その息吹きは驚くほど爽やかで涼しい。どうやら“凍える風”を使って俺を冷やしてくれたようだ。
「お前さん賢いなあ! ありがとな!」
わしわし撫でてやると、ウリムーは嬉しそうに鳴いた。
しばし、心地よい風に身を委ねる。
時々通りすがる旅人たちが、俺を見つけると小さく会釈していった。なかには拝む人もいて、俺はぎこちない仕草で頭を下げた。
なぜ彼らがそんな風に敬意を払ってくれるかというと、ひとえに俺の格好にあった。
出発の直前、マツバラが金子と一緒に任天教天堂衆の僧衣を貸してくれたのである。
おかげで、身分証を持たない無宿人ではなく、今をときめく天堂衆の坊主に成りすますことが出来ている──というわけだ。
なによりも有難かったのは面布だ。これには天堂衆の紋章*1が描かれており、行脚中の身であることを示すほか、ジョウト中の関所を尋問なしに通過できるという優れものである。
目元に包帯を巻く必要もなくなり、面布の粗い繊維越しではあるが、景色を楽しむこともできるようになった。
至れり尽くせりだ。
この恩は、何としてでも返さねば。
「アサギまで後どれくらいかな……」
何気なく独りごちたその時。
背後の林の奥から、甲高い悲鳴がきれぎれに聞こえてきた。
「っ!?」
その場に跳ね起き、辺りを窺う。
ウリムーも察知したらしく、不安げな表情でおろおろと見回していた。
もう一度、今度ははっきりと声がした。
少女のようだ。
間違いない、なにかに襲われている!
「いくぞ、ぶぅすけ!」
「ぶ、ぶうっ!」
声の方へとひた走る。
林が切れ、崖の上で立ち竦む少女を発見した。
空中をふよふよと浮かぶコイルに目が釘付けになっている。
野生のコイルに電気でも浴びせられたか?
懐からミュウツーのボールを取り出そうとした瞬間、俺は信じられない言葉を耳にした。
「いやぁああ可愛いぃいいい!
まるっこくてピカピカしてて最高ぉおおお! ねっねっ、こっちきて!
ぎゅーっとさせてぇええ♡♡」
「んんんんんん?」
思わず目が点になる。
…………なんか、思ってたんと違うなあ?
○○○
ひとまず彼女をコイルから遠ざけ、街道に戻ると。
少女は我に返ったのか、別人のようにしおらしくなった。
「あいすいません。
お恥ずかしいところをお見せいたしました」
「ああ、まあ」
楚々とした仕草で衿元を直す少女に、俺は曖昧に頷いてみせた。
「お前さん、ポ……
「はい! 特に、先ほどの“ぎんいろめだま”をこよなく愛しておりますわ」
なるほど。
この時代、コイルは銀色目玉と呼ばれているのか。
見たままの名前で分かりやすくはある。
「けど、あれは電撃を飛ばしてくるから危ないぞ?」
「それでも、愛おしい気持ちは止められませんわ。
無闇に触らなければ痺れることもございませんし」
無闇に叫んでも攻撃されると思うけど。
まあ、いいか。
幸せの形は人それぞれだし。
「俺はアサギ湊からタンバへ向かうけど、お嬢さんは?」
少女は、「まあ」と口元を押え、目を丸くした。
「なんと奇遇な。
わたくしもそうですのよ」
「へ?」
今度は俺が目を丸くする番だった。
いや、ならなんでエンジュへと続く街道に?
まるっきり逆方向だぞ?
そう尋ねると、少女は赤い頬を手挟み、気恥しそうに囁いた。
「わたくし、方向オンチですの……」
「オンチすぎるだろ」
考えるより先に突っ込んでしまった。
少女が俯く。
「我が家系は先祖代々筋金入りの方向音痴でして……」
「…………なら、一緒に行くかい?」
ここで出会ったのも何かの縁だ。
放っといたらまた道に迷うかコイルに向かって突撃しそうだし、どうせ目的地が同じなら道連れにしちまおう。
少女はぱあっと顔を輝かせ、俺の手を握らんばかりに歓喜した。
「本当ですの?
それはとっても嬉しいお申し出ですわ!
ぜひ同道させてくださいまし!」
「勿論だ。俺はワタヌキ。お前さんは?」
「ユズと申しますわ」
少女──ユズは、暖かな光の下で育つ果実のように、瑞々しい笑顔で言った。
というわけで30話。
ニューラちゃん曲者をシバキ倒すの巻。
ありんす言葉は遊女の口調なのですがニューラちゃんやたら似合うなあ。
そして我らが主人公はまた女の子と知り合ってます。
こいつ往く先々で女の子と仲良くなりますね。
ユズはお察しの通りあの子のご先祖さまです。
旅は道連れ世は情け。
タンバへ無事にたどり着けるのか。
良ければ感想高評価おなしゃす!