ブン殴ってやる、と息巻いたはいいものの。
文字通り影も形も掴めない相手をどうするか思い悩むうちに寝入ってしまった。
どれだけ眠ったろうか。
不意に襖の向こうから呼びかけられた気がして、寝ぼけ眼のまま身を起こす。
まだ鳥の囀りも聞こえない深夜と早朝の狭間であった。気のせいか? と思った矢先。
「……先生」
押し殺した囁きに意識が覚醒する。
俺を先生と呼ぶのはこの寺で2人だけだ。
「イッテツか」
「……はい」
「どした、入ってこいよ」
努めて明るい声を出したつもりだったが、動く様子がない。
仕方なくこちらから襖を開くと、泣き腫らした眼がおずおずと見上げてきた。
一睡もできなかったんだろう、クマが酷い。
「……おいで」
手を差し伸べても、イッテツは根が生えたようにびくともしなかった。
それどころか、やおら冷たい廊下に突っ伏して「ここを出ていきます」とか言い出すもんだから、俺は面食らった。
「で、出ていくって。当てはあるのか?」
「ありません。でも、もうここには居られません。
和尚様にも先生にもウォロにも申し訳が立ちません。ぼくはもう、ここに居ない方がいいんです」
その言葉に、俺は二の句が継げなかった。
…………イッテツは真面目な子供だ。
朝は誰よりも早く起きて本堂や庫裏の掃除をし、修行に励んでいる。
ボール造りだって、何度失敗してもへこたれず、粘り強く頑張っていた。
そういう一途さが、この頑なな態度を支えてしまっている。
一度思い込んだらもうテコでも動きゃしないのだ。
「……そうか」
俺は早々に説得を諦めた。
といって、イッテツを見限ったわけじゃない。
有無を言わさず抱き上げ、俺の布団に引きずり込んだのだ。
「せ、先生っ、なにをっ!?」
「うるせぃっ」
慌てふためくイッテツをぎゅうぎゅう抱き締め、逃がさない。言ってダメなら実力行使に出るまでだ!
がしがしもしゃもしゃとイガグリ頭を撫でていると、少しずつ少しずつ暴れる力が弛んでいった。
「…………ぼく、酷いことをしました」
「うん」
「友達で、弟弟子のウォロに馬乗りになって」
「うん」
「枝を切り払うための鉈で、っ、殺そうと、して」
「うん」
胸元が、じわりと濡れていく。
イッテツは堰を切ったように、あの時の心情をぶちまけた。
「とつぜん、すごく嫌な気持ちが膨れ上がったんです。ぼくのほうが先に弟子入りしてたのに、ウォロばっかり上手くなって、嫌だな、悔しいなって」
「うん」
「先生はぼくのことも褒めてくれるけど、ウォロも褒めるのが嫌で、ぼくだけ見てほしいなって」
「うん」
「そういう、卑怯な考えが、いつもはもっと小さいのに、どんどん大きくなっていって、気がついたら、あんな、あんな」
しゃくりあげるイッテツの薄い背中を、俺は優しく撫でた。
(そうか……そんな風に感じてたのか)
いつもにこやかに過ごしていたから全く気づかなかった。
普段からそういう負の感情が激しく燃え盛っていたとは思えない。イッテツは良くも悪くも素直すぎて、考えていることがすぐに顔に出るタイプだからだ。
おそらく、人間ならば誰もが感じる程度の、ほんの些細なやきもちだったはず。
ぼんぐりを腐らせたクソッタレの誰かさんが、静かにくすぶっていた嫉妬と自己嫌悪を大いに焚きつけてくれやがったのだろう。
そして、あの凶行に繋がった。
安全圏からの見物は、さぞ愉しかったろうなぁ。
口の中がまずくなるほどの怒りを堪え、しばらくぎゅーっとくっついていると、イッテツの涙もだんだん引っ込んできた。
すかさず話を切り出す。
「…………なぁ、イッテツ。
少しばかり、昔話を聞いちゃくれねえか」
「…………むかしばなし?」
「おうよ。他でもない俺の、ガキの頃の話さ」
俺は学生時代の、親友マツバとの因縁をかいつまんで語った。
何度挑んでも、どれだけ戦術を練っても、マツバに勝てなかったこと。
負けるたんびに真っ赤な顔で悔し泣きをしていたこと。
あまりに負けるものだから、いっそマツバが戦えない体になってくれればいい、せめて居なくなってくれればいいと念じたことは一度や二度じゃないことを、ぽつりぽつりと語り聞かせた。
「ちっせぇだろ? 勝てないからって相手の不運を祈るような、ダサいガキだったんだよ、俺は」
「…………それなら、ぼくも同じです」
「いいや違うね」
俺はきっぱりと言い切り、イッテツの瞳を正面から見据えた。
「お前さんが鉈を振るったのは昨日が初めてだ。
それまではどんだけ悔しくても、ウォロの陰口ひとつ叩きゃしなかった。
お前さんの高潔な心が、そういうダセェ振る舞いを拒んだのさ。
でも昨日は違った。なぜか?
「き、巾獣の……?」
ぽかんと口を開けるイッテツに、俺は力強く頷いてみせた。
「そうだ。巾獣のなかには、悪い願いや思考をわざと煽ってくる輩もいる。
そうして穢れた魂を喰うためにな。
お前さんは、そういう手合いに魅入られちまったんだ。だから、お前さんのせいじゃない」
「で、でも、全部が全部その巾獣のせいではないでしょう? ウォロを妬ましく思っていたのは、ぼくの本心のはずです!」
「だろうな」
ここはあっさり同意した。
そもそも、歳が近い同性の子供を一つところで学ばせて、一切嫉妬するななんて言うほうが無茶だろう。
大人だってそんな環境じゃ心がモヤつく。
まして幼い少年なら尚更だ。
「だけどなぁイッテツ。妬み嫉みって必ずしも悪い感情じゃねぇんだぜ。それをバネにして頑張る力に変えちまえば、びっくりするくらい伸びるもんだ。
お前さんをそそのかしたクソ野郎は俺がとっちめといてやる。だから、さ」
ぽん、と背中を軽く叩き、俺はにっと口角を上げた。
「あんまり自分を否定してやるなよ。
お前さんは本当に頑張ってる、すげー奴だ」
イッテツの目がまん丸に見開かれ、透明な雫がぽろぽろと零れ落ちた。
「……さ。
まだまだ夜明けまでは時間がある。
寝ようぜ」
さっきとは違う涙を流すイッテツを、今度はふんわりと抱きしめながら、俺は静かに瞼を閉じた。
〇〇〇
その頃。
廊下の片隅で、彼らのやりとりを聞いていた者が2人いる。
カラシ和尚とウォロである。
2人とも、豹変したイッテツを案じてまんじりともできず、天井だの壁だのを眺めていたところに足音を聞き咎め、さては黙って去るつもりかと廊下に飛び出たところでばったり出くわしたのだ。
そのままイッテツの行方を追ってみれば、アシタバの部屋の前で立ち止まり──あとは読者諸君もご存知の通りである。
アシタバがイッテツを無理やり布団に引きずりこんだ際に襖が半開きになっており、廊下に居ても会話を余すことなく聞き取れた。
和尚は感動していた。
イッテツの苦悩を、なんと見事に癒してみせたことか。
巾獣に関しては、門外漢ゆえ嘘か真か判じがたいが、アシタバは嘘のつけぬ男であるし、そういう生き物もいるのだろうと得心した。
アシタバが退治すると言ったのならきっと退治するだろう。
そうすれば、また穏やかな日々が帰ってくる。
「────ほな、こちらも寝ましょか」
新顔の頭を撫でてやろうとして、和尚はぎょっとその身を竦ませた。
ウォロの双眸が爛々と輝いていたからである。
「うぉ、ウォロ?」
ウォロは、和尚の呼び掛けにも気づかないほど興奮した様子で、何事か低く呟いていた。
「人の悪意を操る巾獣……それがいれば……」
「ウォロ? どうした」
肩を揺すぶると、いつもの柔和な笑みが浮かんでいた。
まるで、さっきまでのギラついた眼差しが夢幻かのような変わり身の早さであった。
「…………いえ、すみません。
なんでもありません。おやすみなさい」
逃げるように去っていくウォロを、和尚はなぜだか引き止めることが出来なかった。
〇〇〇
「ふぅ…………ん」
ミカルゲはつまらなそうに鼻を鳴らした。
思っていたのとは随分違う展開になってしまった。
もっとこう、ドロドロギスギスした人間模様を見せてくれると想像していたのに、とんだ期待はずれである。
まさかただ抱きしめて話すだけで、あれだけ煽った妬心が鎮火するとは思わなかった。
「わたしもまだまだニンゲン観察が甘いですねぇ。
…………おや?」
なんだろう。なにかいい匂いがする。
影の中にまで漂ってくる芳醇で濃厚な香り。
これは──紛れもない、負の匂いだ!
「だれだ、誰が匂わせている?」
ミカルゲは影の中を自在に泳ぎ回り匂いの元を辿った。
それは案外近くに居た。
金髪に白い肌の、小綺麗な小僧である。
小僧は布団の上で胡座をかき、一心不乱に念じていた。
「来い……来い……イッテツを苦しめた巾獣よ……
わたしの元にこい……その力を見せてみろ……!」
ミカルゲは驚き、次いでにんまりした。
口が裂けそうなほど笑った。
よもやよもや、まさかこんな近くにこれほどの逸材が居たとは。
アシタバにばかり注目しすぎて、この子供に注意を払えていなかった。
調べてみればこんなにも純度の高い絶望の持ち主だったのか。
いったい、この若い身空で何をこんなにも失望することがあったのだろう。
知りたい。
とことんまで知って、骨の髄まで味わい尽くしたい。
「呼ばれたからには、応えませんとねぇええ」
刹那的な享楽に身を投じてこその生涯だ。
ミカルゲは悩むことなく、少年の──ウォロの前に姿を現した。
というわけで39話。
スタンド使いはスタンド使いと惹かれあうように、ヤベー奴はヤベー奴を引き寄せるようです。
果たしてウォロくんの過去に何があったのやら。
でもちゃんとミカルゲボコボコルートには入っていますのでご心配なく。悪党はね、きっちり成敗されてこそ悪党ですから。
よければ感想高評価おなしゃす!