足の裏から芯まで凍えそうな冷たい雪を踏みしめて、一歩一歩前に進む。
行く手は見ない。ひたすらに足元を見つめる。
下手に視線を上げればよくて転倒、悪けりゃ滑落だ。
テンガン山の麓は、雪と、静寂と、死の気配に満ちている。
「…………」
息を長く吐き出す。視界が烟るほど白い。
視線を集中させたまま、ウォロに呼びかけた。
「平気か、ウォロ」
「──ええ」
返る言葉には覇気がない。昨日ミカルゲに取り憑かれた疲労が癒えていないのだ。先祖代々霊とともに生きてきたマツバのような家系を除き、一般人がゴーストタイプに操られると魂が汚染されてしまう。その穢れが祓えないまま世に名高い天嶮を踏破しようというのだ、尋常でなくしんどかろう。
(ごめんな……ホウオウ様に浄化してもらえりゃ一発で楽になるんだが……)
ミカルゲとの密約で、除霊はしないと決めている。
ウォロには申し訳ないが、行けるところまで頑張ってもらわねば。
前を行くガブリアスへ声をかける。
「一合目まではどのくらいだ?」
答えたのはガブリアスではなく、その肩に座ったグレイシアだった。
夫婦喧嘩を終えてすっかり愛を取り戻した凍土のオヤブンが、ちょいちょいと前脚で指し示す。
僅かに顎を持ち上げると、雪の斜面のなかにぽかりと口を開く黒い穴が目に入った。
「もう少しよ人の子。洞穴の入口が見えてるわ」
俺はほっと息をついた。
グレイシアいわく、テンガン山の頂きにある神殿に到達するには、たった一つのルートしかないらしい。
それがすなわち、山の内部を穿って造られた洞穴だというのだ。
ぐるぐると緩やかな螺旋を描きながら続く階段を昇ることで、雪崩や吹雪に悩まされることなく頂上に行けるという。
かつて神殿を建立した昔の人々が設けた参道なのだろうが、一体どれだけの年月を費やしたのだろう。
凄まじい信仰心だ。
碌な道具もない、文字通りの手作業だったろうに。
ジョウトはエンジュに聳えるスズの塔に想いを馳せる。あれもまた見事な建築だった。九重の塔は、現代建築でもそれなりの日数を費やす代物である。
信じるという一念が、これほどまでの活力を生むのだ。
なにか荘厳な気持ちになりかけたところへ、はたと思い当たった。
(スズの塔は、千年ぶりに目覚めたホウオウが翼を休めるためのもの。なら、燃えちまったカネの塔は、ルギアのためのもののはず)
ホウオウとルギアは、千年ずつ交代で眠りながら魂を循環させる役目を果たすという。
魂の循環。つまり、輪廻転生だ。
スズの塔とカネの塔は、そんな大役を果たす彼らを労うために建てられた。
しかし、この時代のルギアは影も形もない。いまはホウオウのターンだからだ。たぶん、どこかの海底で深い眠りについているんだろう。
──そう、思っていた。先程までは。
ホウオウのターン?
だったらどうして、燃やされたのが
この世がホウオウの時代ならば、狙うはスズの塔であるべきだ。
なのに、実際はカネの塔が燃やされている。
正確には、カネの塔付近でホウオウが襲われたために、出火した。
襲ったのは誰か。決まってる。
ギラティナだ。
神の序列に連なるポケモンを、そんじょそこらのゴーストポケモンが倒せるわけがない。
そしてホウオウが襲われるわけだが、実はそれより先に攻撃されたポケモンがいる。それがルギアだ。
今の今まで気づかなかったが、この時代はちょうど、ルギアからホウオウへ役目を譲る過渡期なのだろう。
千年働いたルギアは疲れきった躰を休めようと、カネの塔にやってくる。ギラティナはそこを狙いさえすればよかったのだ。哀れにもルギアは瀕死の重症を負い、命からがら塔の中に逃げ込んだ。
そして、片割れの窮地を救おうとやってきたホウオウをも、魔の手にかけたのだ。
エンジュに来たばかりの頃、おもちゃ売りの親爺が言っていた。
──夜中に突如噴き上がった大火が《カネの塔》を包み込んだんだ。折悪しく
ルギアは
たまたま風が強い日だったんじゃない。
ルギアが必死に抗った証が風となって残っていたのだ。
────これが、カネの塔消失事件の顛末だ。
なにより恐ろしいのは、俺が生まれるおよそ300年後まで、この世界は輪廻が滞っていた点である。
導き手のいない魂は、どうなるのか。
答えは冥王ギラティナのみぞ知る、だ。
300年間、好きなだけ、強者の魂を取り込み続けた冥府の王。
そんな化け物が俺の身の裡に巣食っている。
俺は鳩尾がずぅんと重くなるのを感じ、胸元を抑えた。
〇〇〇
『……有り得ない話ではないな』
休憩中、周りに聞こえないようにテレパシーで推理を語ると、ミュウツーは静かに同意してくれた。
『千年も働けばどんなポケモンとて
疲労困憊のところを冥王に狙われてはひとたまりもなかったろう。……だが』
ミュウツーの紫苑の瞳が、弁当にがっつくルギアを見やった。
『それ故にあれほど幼くなったのか?』
『いや、あれはマジモンの雛だと思う』
凍りかけているおにぎりをなんとか咀嚼しつつ、俺は首を振った。
『ポケモンは負傷したら躰を縮こませる特徴があるけど、頭脳まで衰えるわけじゃない』
ルギアに始めて出逢った日のことは昨日のことのように思い出せる。
俺のボロアパートの窓にぶつかってきたのだ。
こいつが成鳥ならそんなミスは犯さないだろう。
大体、いつまで経ってもてのひらサイズというのも解せない。こいつが大人ルギアなら、もうとっくに元のサイズになれてもいい頃だ。
そうならないのは、生まれたての雛だからだ。
ミュウツーが小首を傾げた。
『では、ルギアという種族は成長が遅いのか?』
『…………それァ違う』
割って入ったのはバサギリだ。
ミュウツーのテレパシーチャンネルは俺たちのチーム全員に開かれている。念じるだけで会話できる技術に、バサギリは驚くほどすんなり順応していた。
『ルギアとホウオウは魂の循環を司るんだろう。
当然、その使命を全うするたびにルギアたちも魂の欠片を大なり小なり取り込んでいたはずだ』
『そーだろうな。でもそれが
バサギリは苛立たしげに肩を揺すった。
『魂の欠片はそいつにとって最高のご馳走だろうと言ってるんだ。ニンゲンの貴様が与える餌よりも遥かにな。ちゃんと食えてりゃとっくに大人になれていたろうよ。だがそうはなっていない。何故だと思う?』
『あ…………』
そこまで言われてやっと俺も理解できた。
伝説級のポケモンは並のポケモンと違い、食事以外の方法で大いなる力を蓄えるという。
ルギアにとっては魂から貰う一欠片のエネルギーがそれにあたるわけだ。
しかし先代ルギアは、ギラティナにつけられた傷が300年も癒えぬままひっそりと斃れ、我が子──レヴィを右も左も分からない状態で放り出してしまった。
レヴィが俺の家の窓にぶつかってきたのはガラスが見えなかったからじゃない。飛び方すら教われず、見よう見まねで飛んでいたからだ。
鳥にとって基本中の基本である飛行技術も身についてないならば、世界に漂う魂を取り込み、廻らせる方法なんて見当もつかないに違いない。
『あいつ……ずっと飢えてるようなもんだったのか……』
俺の唐揚げを横取りし、俺のおやつを盗み食いし、俺の茶碗に嘴を突っ込み、作り置きしてたカレーを空っぽにしても。
ルギアには、摂るべき栄養が全然足りていなかったのだ。
『め、めちゃくちゃ食われてる』
気の毒そうに俺を見上げるテッポウオの呟きは努めて無視する。そうだ、あいつにはみんな散々やられてきた。やられなかったのはクチートぐらいか。でもそれは、圧倒的に足りない要素を少しでも補おうとする、雛鳥の涙ぐましい努力だったのだ。
俺は鼻を啜り、一心不乱に弁当袋に顔を突っ込んでいるルギアのそばに膝をついた。
「レヴィ」
「げる?」
レヴィが顔をあげる。
米粒だらけだ。
「もうすぐ腹いっぱい食わせてやるからな」
微笑みながらルギアの首筋を撫でる。
そして、がっしと握りしめた。
「だ・か・ら! い・ま・は!
全員分の食糧を食い漁るのをやめろっ!
決戦前に餓死しちゃうだろーがっ!」
「げるるるるるるる!!」
バタバタばさばさ猛抗議するルギアを押さえつける。ウォロとガブリアスは呆れたように、グレイシアはころころ笑いながら俺たちを眺めていた。
〇〇〇
長い長い階段を昇ること数時間。
洞穴のなかにいるせいで、現在時刻は知る由もないが、もはや一段も歩けなくなったあたりで広い踊り場に辿り着いた。
「今日はここで休みましょ」
グレイシアがガブリアスの肩からぴょんと飛び降りる。夫は不満げに鼻を鳴らした。
「なんだってこんなチンタラ歩くんだよ。
飛んじまえばいいじゃねえか」
それには心底同意する。
こっちもミュウツーの念力で飛べるのだ、無駄な労力は削りたい。
しかしグレイシアは頑として譲らなかった。
「神殿に詣でるものは必ずこの“祈りの
ホウオウもしたりと首肯する。
「これもまた一つの試練……楽をしようと企む不心得者には、加護は与えられません」
得心しかけた俺だったが、矛盾に気づき、ジト目で2人を指差した。
「そういうあなた方は肩に乗ったりボールに入ったり随分楽してしてませんかね」
グレイシアとホウオウは目を見合わせ、計ったように同じ言葉を口にした。
「「それはそれ、これはこれ」」
「…………そすか」
もう反論する気力も湧かない。
よぼよぼと飯の支度をし、腹に詰め込んで寝た。
〇〇〇
その夜。
ホウオウとミュウツーとバサギリが、額を突き合わせテレパシーで話し合っていた。
『そなたたちの考えは概ね正しい。あの雛鳥は輪廻の紡ぎ方を知りませぬ。故に幼く、故に弱い。冥王と対峙したとて、戦力にはならないでしょう。むしろ取り込まれてしまう危険性の方が高いかと』
バサギリの眦が鋭くなった。
『取り込まれればどうなる』
『腐っても我が半身、冥王をますます強靭にしてしまうでしょうね』
『それは貴方も同じでは』
ミュウツーが気遣わしげにホウオウを見つめる。
『奴の妨害を掻い潜り、アシタバの呪いを浄められますか。……取り込まれて、しまうのでは』
ホウオウは淡く微笑んだ。
『私の名にかけて、どんな手を使ってもアシタバを浄めましょう。ただ、聖なる炎で引きずり出された冥王は真っ先に私を屠るでしょうね。
二度と邪魔させないために』
ミュウツーは拳をぎゅっと握りしめた。
『……それを止めるのが、我々の役目…………』
『怖じけたか』
せせら笑うバサギリを、ミュウツーはきっと睨みつけた。
『違う!
ただ、考えられる事態は全て考えておくべきだ!』
『ニンゲンに飼われたヤツならではの思考だな』
『なに?』
『自然界は常在戦場。いちいち危うきを数えていたのでは底なし沼に嵌るようなものよ。
考えるより先に迅速に動く。これが肝要だ』
『ぐ……っ』
ミュウツーも多くの戦闘をこなしてきたが、バサギリはくぐって来た修羅場の数が違う。炯々と光る眼に射竦められて、言葉が出なかった。
バサギリは馬鹿にしきった笑い声を立てながら、泥のように眠るアシタバを顎でしゃくった。
『その体たらくじゃあ、ミカルゲとかいう悪霊の横槍も耐えきれまい。いっそ解呪など諦めて首を刎ねてしまえ。余程手っ取り早いだろうが。どれ』
バサギリが腰を浮かしかけた刹那。
刃に変形したミュウツーの腕が、バサギリの喉元に突きつけられていた。
あまりの早業にバサギリが瞠目する。
ミュウツーが、一語一語を噛み潰すように言った。
『次に、同じことを言ってみろ』
怒りに燃えたぎる眼差しが、バサギリの顔を睨め据える。
『それが、キサマの最後の言葉だ』
バチ、バチリと大気に不穏な火花が飛ぶ。
ミュウツーの激情が空気をねじ曲げているのだ。
ミュウツーは返事も聞かず、刃を戻すと、ふいと背を向けてアシタバの方に行ってしまった。
アシタバを背に庇うように片膝立てて座り、目を瞑る。きっと今宵は一睡もせず警戒し続けるのだろう。
ホウオウがテレパシーで囁きかけた。
『──少々元気づけるつもりが効きすぎましたね』
『全くだ』
バサギリが嘆息する。
ほんの少し発破をかけたら大爆発しおった。
まさかあんなに怒るとは。
冗談の分からん若僧である。
『……ま、腑抜けよりは余程いい』
バサギリはくっくっと喉を鳴らし、自分も眠る場所を探した。
────決戦前夜が、更けていく。
というわけで48話。
カネの塔が燃えた経緯を私なりに描いてみました。
先代ルギアについて。
先代はギラティナに負けたあと、命からがら海底の住処に戻りますが、300年の孤独な療養の甲斐も虚しく世を去ってしまいます。
死ぬ直前に、最期の力を振り絞って産んだタマゴから孵ったのがレヴィです。
レヴィは親の亡骸を見、本能的に海から出るべきだと悟り、必死に飛んで逃げます。そして出逢った最初の人間が我らがアシタバくんでした。
これがロケット団とかだったらエラいことになってましたねえ……。
このシリーズもクライマックスが近づいています。
どうか完結までお付き合いください。
よければ感想高評価おなしゃす!