【サンプル】祝福よ、その愛を伝え継げ 冒頭2章試し読み 作:椚木
病院の入口を抜け控えめな足取りで一歩進むと、視界の向こうに縁《えにし》の友を見つけて彼女は可憐な顔に満面の花を咲かせた。だから出迎えの少女も祝福を受けたとばかりに、きつく唇を結んでいた顔をほころばせた。
「ごめんね、ブルボンさん。お世話になった看護師さんやお医者さんにご挨拶をしていたら、すごく遅くなっちゃった」
「いえ、本来の待ち合わせの時間まではまだありますから。ライスさんが恐縮されることはありません」
と笑顔から一転。本心からすまなそうな顔をする相手――本日めでたく退院したライスシャワーの感情が負に傾かぬよう、出迎えに現れたミホノブルボンは、早急に取りなすのだった。
「建物の中は涼しいし、病院のエントランスで待っていても良かったんだよ」
「そうですね。ただそこは人が多いですから。ライスさんが目立つのも良くないと思いまして」
「でもお外は暑いよ。ブルボンさんも汗かいちゃうよ」
「確かにその通りかも知れません。……けれど」サイボーグと呼ばれるこのウマ娘は、本日2度目の――そして最前よりも優しい笑みを見せた。「ライスさんにお会いしたら、暑さも吹き飛びました。さぁ、行きましょう」
そう言ってライスシャワーのワンピースの小さな背中を優しく押し、退院祝いへの出立を促した。
灼熱という形容がつく真夏は通り過ぎたが、それでもまだ日差しの照りつける身体に暑さの感じられる頃。サイボーグと呼ばれるウマ娘だって、運動をすれば筋肉質な身体が人並み以上に汗をかく。だから2人は並木道の影になった場所を選んで歩んだ。
「今日はライスなんかの為に時間使わせちゃって、本当にごめんね」
「いえ、以前申した通り、今日私が出迎えに参るのは、かねてより身内で打ち合わせてた通りですので。ちゃんと外出許可も得ております。……それに嬉しいんです」
「え?」
「何故って、こうしてライスを独り占めできるのですから」
ブルボンの言い放つ冗句に、ライスシャワーがつぶらな丸い目を更に真ん丸にして驚く。ただその朱に染まった顔に浮かべた表情は、決して否定的なものではなかった。
「とはいえせっかくの退院の日だと言うのに、こうして出迎えが1人だけの形になって、ライスさんには申し訳ないと思っています」
ブルボンの謝罪に、ライスはお気に入りの青い薔薇が載った帽子ごと、小さな頭をぶんぶんと振ってみせる。
「そんなことないよ。だってみんな用事があって忙しいのはライスも分かっているし、そんな中ブルボンさんが時間をつくって来てくれたっていうだけで、ライスとっても嬉しいよ」
「そう言って頂けると、有り難いです」
と、これからの予定を確認しようと、ライスが尋ねる。
「えっと、今日はこのまま帰っちゃう、って訳じゃないよね?」
「ええ。本日は出迎えだけでなくライスさんの退院祝い――これも私一人になって申し訳ないのですが、それも兼ねていますから。せっかくです。入院中我慢していた分楽しみましょう」
いつもはストイックなこのウマ娘からの誘いに、
「本当? ブルボンさんこそ、今日は一緒に楽しもうね」
ライスは嬉しそうに微笑んだ。
2人が訪れたスイーツで人気のレストランは、午後の早い時間もあって客入りもまばらだった。
「わー、本当にこの中からどれでも好きなものを選んで良いの?」
「はい、もちろん。今日はライスさんの為のお祝いなのですから。それと私はライスさんと一緒のものをお願いします」
「うん、分かった」
店は「タッチパネルで注文を」方式とのことだったが、「私が機械に触ってしまうと、軒並み故障してしまいますので」とブルボン。「そう言えばそうだったね」と、ライスシャワーが注文を代行することになった。
「でも本当にライスと一緒ので良いの?」
「私もこうしたお店は詳しくありませんので」とブルボンが語る。「ですのでライスさんと同じものを楽しめるのなら、ぜひご一緒したいのです」
「うん、分かった。じゃあ遠慮なく注文させてもらうね」微笑みながらタッチパネルを操作して、2人分のメニューを注文した。
待ち時間の間、ブルボンが何の気なしといった風情で大きな窓から外を眺めると、ビルの電光掲示板が切り替わり、最近上映を始めたという映画のコマーシャルを流しだした。
「注文の品を持ってきたにゃ~」
しばらくすると、猫の意匠が施された液晶の顔に生意気にヒゲを生やした配膳ロボットが、注文の品を載せてやって来た。
これも機械に触れないブルボンの代わりに、ライスが2人のお皿を取り卓上に取り分ける。
「ライスさんのお祝いだというのに、お手間を掛けて申し訳ないです」
「ううん。こういうときはお互い様だよ~」
そんなライスだが、眼の前にある料理に、垂涎の様子。
見るからにふんわりとした、焼き立ての生地が幾段にも重なったホットケーキが、香しい匂いを立て2人の鼻をくすぐった。綺麗な小麦色に焼き上がった生地の最上段には、バターがででんと鎮座する。そしてダメ押しとばかりに、ふんだんにかけられてた蜂蜜。積み上がってタワーになった生地を垂れ落ちていき、お皿の方にまで溢れるほど。
それを見ているだけで、あのメイブルシロップの甘さが口の中で再現されて、頬が蕩けてしまいそう。
女の子に人気の飾りのついたケーキや今話題のスイーツより何より真っ先に注文したのが、このシェフ自慢の特製ホットケーキだった。
「えへへ……。いきなりこんなの注文して驚かせちゃったかな」
「そんなことありませんよ。私もスイーツは詳しくありませんので、むしろこうしたものの方が安心します」
「んとね。やっぱりメニューを見て色んなケーキやお菓子を見ていたら、どうしてもお腹の方がすいちゃって……」
意地悪くも、タイミングを見計らったかのようにライスのお腹が鳴る。
「あうううう……」
「やはり入院中の病院食は物足りませんでしたか。……お気の毒です」
体つきが小柄とは言え、ライスとて本来は食べ盛りのトレセン学園の生徒だ。さぞひもじい思いをしていただろうと、入院していたライスのことを思いブルボンは同情する。
「うん、とは言ってもちゃんと病院食はウマ娘用の量を提供してくれるし、食堂に行けば自由にお食事ができるんだけどもね。ただ……」
と言い淀むライスに、何かを思い出したブルボン。
「そう言えばライスさんは朝はパン派でしたね」
「てへへ……」
患者全員に提供することになる病院食は、運用の関係上曜日ごとにメニューが定められていた。当然朝食が和食の日も多い。ライスのことだから、そこは文句を口に出さず残さず食べたことだろう。
朝食で食べそこねたパンの仇(?)という訳ではないだろうが、退院するなり健啖家のウマ娘に向けた巨大ホットケーキを注文するのも無理はないだろうと推測し、心のなかで微笑むブルボンであった。
「んー、どこから食べようかなー」
早速食べようとするなり、ホットケーキの威容を前に手をこまねくライス。両手にナイフとフォークを掲げ、もじもじする。
「こちらにお皿がありますので取り分けましょう。どうぞ」
「ありがとう、ブルボンさん」
ライスが真上からナイフを差し入れると、ホットケーキは銀の刃を歓迎するようにふわっと受け止めてみせた。
「うわ~。中までお布団みたいにふかふかだ~」
「む、どこかでふわふわの気配を感じるわ」学園にいる一等星のウマ娘が目を光らせた。
「綺麗な色です。外はこんがり焼き上がって中はふわふわ。機械みたいに精密な焼き加減で、すごい手並みですね」
「温かいうちに食べないと勿体ないよ。ブルボンさんも早く切ろう」
「そうですね。私も頂くことにします」
切り分けたホットケーキをフォークで口に運ぶ。始めは勿体ないからと少しずつ掬っては食べ。そのうち我慢しきれなくなってフォークで刺してはあんぐり頬張る。頬を膨らませすっかりご満悦の表情。
それだけ食べてもまだまだホットケーキは積み上がっているものだから、ライスときたらすっかり舞い上がっている。
「うわ~。食べても食べても無くならないよ~」
「ええ。しかも意外と弾力がありますので、一枚一枚が食べごたえがありますね」
「シロップやチョコレートなんかもかけられるから、味が飽きるってこともないもんね」
「なるほど、自分でトッピングすると。そういった食べ方もあるのですね」
「味変って言うんだよ~」
お口の中にホットケーキが残っている中失礼して、そんな他愛ないお喋りする。食べたりお喋りしたりと、せわしなく動く頬。
その頬も甘さと美味しさの前に落っこちてしまいそうなものって訳ではないのだが、空いた手をぷっくりした頬に持っていき支えているなんて具合。
そんなライスの所作を微笑ましく眺めながら、しかしブルボンはその胸の裡に例の憂慮を忍ばせていた。
「レースに関する記憶の……喪失?」
「ええ、俄に結論づける訳にはいきませんが、現在見られる症状から判断するに、それが彼女にまつわる後遺症ということになります」
……ウマ娘に起こった不測の事態、それに由来する疾患や症状についてはもちろん関係者にも共有されるのだけども、同じウマが特別に報告を受けることがあった。ウマ娘の生態に関しては、どうしても人間には分からない、彼女たちだけが知り得る領域というものがあるからだ。
故に今回淀で発生した悲劇について、彼女の終生のライバルそしてかけがえのない親友であったミホノブルボンが、信頼に足るとしてこの場に呼ばれ医者からの説明を受けたのは、必然の事態であった。
「それではライスは、ライバルであった私たちのことも……」
「幸い……と言って良いのかは分かりませんが――」
医者が説明するには、現時点まで聞き取りをした限り、学園の思い出や生活スタイル、友人関係などは、元の記憶を留めているとのこと。
例えば自分がトレセン学園に通っていたことはちゃんと覚えているし、走ったりライブの演目を踊ったりするトレーニングだって、そういう学園のカリキュラムとして認識・記憶している。
そこで苦楽を共にした仲間たちのことだって、ちゃんと覚えているのだ。現に今もお見舞いに来たブルボンたちに、一刻も早く会いたがっているそうだ。
けれど、それが自分の「レース」のことになると、ぽっかりと記憶が抜け落ちてしまっている。直前の、あの「悲劇」があったレースだけでなく、彼女にとって輝かしい勝利の記録、不本意に終わった苦難の日々、初勝利の記憶も。その一切が、彼女の記憶から抜け落ちていたのだった。
つまり残酷にも、ブルボンたちがお見舞いに病室を訪れたとて、そこに自分たちが見知った相手――黒い刺客、孤高のステイヤーと呼ばれたヒーローはもういない。彼女はもう、自分たちが競い合い高め合い、お互いを認めあったかけがえのない思い出、トゥインクル・シリーズで築いた栄光といった、レースにまつわる紐帯を失ったのだから。
「初めは怪我のショックによる一時的な混乱も考えました。事実ライスシャワーさんが辛い思い出を振り返りたくないと、記憶に蓋をしてしまっている。そうした面も否定できません」
「確かにここ最近のライスはレース結果も伸び悩み、これまでかと思われていました。その様な中前回のレースで確かな復活を遂げたのです。その実力を遂に認められ、皆からも歓呼の声で出迎えられ……。それが今回の悪夢としか言えない出来事です」
親友のことを見守ってきたミホノブルボンが、医者にこれまでのあらましを説明する。
患者の事情を知った医者は一層気の毒といった顔をし、
「我々が把握しているウマ娘の生態に関しては、まだまだ未知の要素が多いというのが実情です。今度の事態に関しましても、受傷による外因性のもの、ウマ娘の生態による――まさにその未知の要素を区分けて手探りで解決策を探っていくといった状況でして」
「いえ、お医者様の献身。感謝いたします」
本人のレースに関する記憶だけがすっぽり抜け落ちるなど、ただの「記憶喪失」としては不合理だ。しかもそもそもレースに出るための学園に通っていた記憶や関係者たちとの思い出はしっかり残っている。
ただ医者が言う通り、ウマ娘の生態に関しては未知の部分が未だ多く、眼の前の事象に対して「そういうもの」として受け止めるしかないのが現実であった。
「本人が帰ってこれただけ良かった」「不幸中の幸い」誰かが言う通り、確かにそうなのかも知れない。
トゥインクル・シリーズのレースは、本気を出したウマ娘が時速70[#「70」は縦中横]km[#「km」は縦中横]をゆうに超える速度で疾走する競技だ。端からアクシデントを覚悟で挑むものだ。
過去にも競技中の彼女たちがトラブルに見舞われたことは幾度とある。怪我に起因してもっと重篤な被害を被った者だっている。
いや、中にはレースとは関係なしに、何の予兆もなく精神が虚脱してしまった者さえいた。まるで闇の中に囚われてしまったかのように、外界への反応を無くしてしまったウマ娘たち。まさにそれが医者の言う、「未知の要素」がもたらす理不尽。
故に自分たちが無病息災でいられることを感謝して、今日もレースに挑むのがウマ娘という生き物だ。今はただ、あの愛らしいライスシャワーが戻ってきたことを喜ぶべきなのではないか。
けれどもだ。ブルボンは強く思う。
「彼女の結末がこれで良いのか」
物静かだが勝利への執念は決して周囲に劣らず、たゆまず努力し続け遂に栄冠を手にした。そんな中図らずも「ヒール」と呼ばれ、傷つき、一度は勝負から逃げ出そうとしたこともあった。
それでも泣き腫らし傷ついた先、かつてのライバル――ブルボンに向けて、夢を叶える「ヒーロー」として覚醒。自分が勝つことで皆に希望を与えたいという、自らの叶えたい夢もまた本物であったことを証明してみせた。例えそれが、また別の誰かの夢を阻むことだったとしても。
無論一度の勝利で彼女を認める者は少なく、そこから先もなお試練が待ち構えていたが。それでも皆に希望を与えるため走り続け、闇のトンネルをくぐり抜けたその先に、残酷にも待ち構えていた陥穽。
「記憶の喪失」などと、彼女の汗、涙、傷、喜び、栄光その「全て」を、運命の気まぐれに拭い去られるといったことが。そんなことがあって良いとでも!
日頃冷静に物事に取り組み事態に対処するこのサイボーグウマ娘とて、憤りを隠せない。
面談の日のことを思い出しているうちに険しい顔になっていたのだろう。
「大丈夫ブルボンさん?」
対面のライスに不安そうに尋ねられてしまう。
「ああ、すみません。つい考え事をしていたようです。それよりもほら、ホットケーキが冷めてしまいますよ。最後まで美味しく頂きましょう」
ライスシャワーのお皿には、かつてタワーだったホットケーキがもう2,3切れほどまで。ブルボンの方はそれよりもう少し多いといった程度。
「うん、そうだね。あ、そうだ。そろそろ別のケーキも注文して良いかな」
ホットケーキに名残惜しさを覚えつつも、「お代わり」にチラリと視線を移す茶目っ気も見せていた。そんな彼女に愛らしさを感じつつ、
「ふふ、ライスさんは食いしん坊ですね。もちろん構いませんよ」
「わーい。ブルボンさんもはい、選んでね」
「どれにしようかな」とうきうきし通しでメニュー表に目線を走らすライスを見ていたら、ついワクワク感が感染してしまったのだろう。気がつけばブルボンもメニュー表に視線を落としていたのだった。
「お腹いっぱいになっちゃったね~。もうお茶碗一杯も食べられないよ~」
可愛らしいケーキも瀟洒なパフェもお腹の中にギュウギュウ詰めにして、ライスはすっかり満ち足りた表情で幸せいっぱいに口にした。
「次はあちらに参りましょう」
「あ、待って〜」
向かった先はカラオケ店だ。
「ブルボンさんもマイクを握ってよ~。一緒に歌おう」
「いえ、私は歌唱中のライスさんにエールを送るという任務を背負っておりますので」
腹ごなしというわけでもないが、思いっきり歌って発散したいと、気合いの乗った2人。甘いものはしばらく見るのも億劫ということで、2人で烏龍茶を注文した。
機械を壊してしまうからカラオケのタッチパネルは触れないブルボンに、「代わりに入力するから交互に歌おうよ」と誘ったのだけども、彼女ときたらそう言って譲らない。
タンバリンを構えるブルボンに圧される形でライスが歌唱に入ったのだが、
歌唱に入ったのだが……
「Hey! Hey! Hey! Hey!」
「あ、歌が始まる。う~~~~~、うまだっち♪」
「うまだっち!!」
「ライスは何を目撃しているのだろう」そのとき彼女は生涯で最も混乱したという。
歌唱が始まると、あのミホノブルボンが、いつものクールな様相をかなぐり捨てて、タンバリンをかき鳴らし素早く持ち替えたマラカスを狂奔の態とばかりに振りまくる。どこからか持ってきたピロピロ伸びる笛も加わった。手拍子だって忘れない。身体をゆさゆさ、盛大に揺らしまくって、「自分はこの瞬間のために生きていたのだと」全身で喜びを表現するサイボーグ娘。歌唱のさなかライスが息継ぐ間に放たれる威勢のよいコール。
「Hey!」
「Yo!」
「Chu」
「Fu-Fu-」
「FuWaFuWa!」
耳をかき鳴らすもう聞き飽きた筈の惹句が、非日常の興奮も相まってライスの精神を湧き上げ高揚させる。間奏中も暇は作らんとばかりに即興で作った自作のセンテンスをシャウトし、彼女を痺れさせ、瞬かせ、集中力が途切れるのを妨げる。それでいて決してライスの歌唱と被って彼女の声が埋もれてしまうことの無いよう、BPM170の旋律の中、四分音符いや16分音符で区切られ律動する世界を精緻なからくり人形となって厳密に動き回る。その練達具合はさながらリズムゲームでパーフェクトを出す手練れか。しかしあくまで自分は引き立て役。ライスの引き立て役としての役割を全うするのだという潔さ。歌唱の途中ドリンクを持ってきた店員が扉を開けるが、中の様子を一目見るなりそっと扉を閉じた。気の毒な店員に気ひとつ留めることなく、曲の最高潮に向け背中を仰け反りマラカスをかき鳴らした。
「こんな~思いは~~初めて~~」
「ほんとに初めて~~~!」
「「321Fight!!」」
歌唱を終えた。初めブルボンの仕草に驚きこそしたものの、かつて誰かに応援してもらうことを願ったこのウマ娘は、確かにブルボンの応援によっていつもより気持ちよく、そして技量面においても高いパフォーマンスを発揮できていた自分に気がついたのだった。
「わ~。初めはビックリしちゃったけど、とっても楽しく歌えたよ」
「良かったです。私も気持ちを込めて応援した甲斐がありました」
そこに溜まった高揚を撫で降ろすように、胸に手を当てて語る。
とは言えあのような歓声をのべつ幕なしに受けるのは、応援される身としても恥ずかしい。応援する側も恥ずかしくないのだろうか。そう尋ねたライスシャワーに、ブルボンはごく平然と答えた。
「そうですか? マスターは私の歌唱訓練のため共にカラオケ店を訪れた際、いつもこのように声援を送ってくださいましたが」
「え?」
その後は渋るブルボンにマイクを握らせて、ライスは可愛く合いの手を入れる。交互に歌いあったあと、最後はデュエットで見つめ合いながらしっとりと歌い上げたところで、終了時間となった。
そう。このまま青春を謳歌し、『今』を楽しむことに夢中になって。全てを忘れていてくれれば良い。
「言ってみれば今のライスシャワーさんは極めて不安定な状態です。これまで御本人の頭を占めていたであろう『レース』の存在がすっぽりと抜け落ち、その状態で元の日常生活を送ろうというわけですから」
「やはり記憶を思い出そうとすることはままならないという訳ですか?」
「こちらがそうした話を振りましても、本人は無反応といった状態でして。かといって無理に思い出させようとしましても、それ以上は拒絶を示すというのが現実です」
怯えるライスの様子を目の当たりにしただろう医者が、苦虫を潰したような顔で説明する。
レースの後、悲劇を目の当たりにした観衆たち、そして報道で知ったファン達から、数多くの激励・見舞いの便りが届いた。彼ら彼女らは、今も彼女の無事と快癒を願っている。
かつては「ヒール」の汚名を被りながら、それでも大勢の人達からこうして心配されるようにまでなったこと。それは、「自分の走りで誰かを笑顔にしたい」と願った彼女が、勝ち取ったものに他ならないのだ。
けれども今の彼女には、ファン達の声が届くことはない。それどころか、彼女を傷つける凶器になりかねないのだ。これ以上残酷なことがあるというのか。
「故に私たちの方と致しましては、患者の安全を考慮し、それ以上は記憶には触れないということにしました」
「ご配慮感謝致します」
「ただ、最前申した通り、このままですとライスシャワーさんは今の状態のまま日常生活を続けることに……」
カラオケの後も思いのまま遊び続けた。
ショッピング広場で、ウインドウに飾られた帽子をしげしげと見て回ったかと思えば、
「おや、新しい帽子でも探しているのですか?」
彼女の帽子は普段使いの唯一無二のものだと思っていたのだが。
「えっと、これはブルボンさんに似合うお帽子がないかと思って」
「私ですか?」
「そうだよー」
どうやら自分へのプレゼントを探していたらしい。結局眼鏡にかなったものが無かったということで今回は見送りになったのだけども、「ブルボンさんに似合うのはあーでもないこーでもない」と駄目出しをするのがむしろライスの方だったので、ブルボンからすればライスのいじらしさに悶えそう。
大型施設に併設されたゲームセンターでは、
「ねーねー、ブルボンさん。こっちでプリが撮れるよ」
「プリですか。操作はライスさんにお任せしても」
「うん、私が全部やるから任せて。あ、仮装もできるみたいだよ」
ゲームセンターに付き物のプリのコーナーには、撮影用のコスプレ衣装も用意されていた。
所狭しとハンガーに吊るされて陳列された衣装の数々からライスが選び取ったのは、背中に羽の生えた吸血鬼をあしらった衣装。胸には大きなリボンがついている。そんなライスに合わせてるように、ブルボンも大きなフードの付いた白い衣装を纏って見せる。
それを見たライスは「わー、お化けさんだー」と眼を丸くして叫んだのだけども、本人曰くミイラだという。
「んーでも、ブルボンさん可愛いよ~」
「ライスさんもですよ」
「うふふ、そう言ってもらえると嬉しいな。ライスも凄く気に入っちゃった。今度学園でもこんな感じの衣装を作ってみようかなー」
「それも良いですね。ただハロウィンには少し早い気もしますが」
「え、お化け屋敷のつもりだったよ?」
「お化け屋敷ですか。果たしてライスさんを見て怖がる方がいるのでしょうか」
「言ったな〜。お化けだぞ〜」
「わー、怖いー」
「もうブルボンさん。声がちっとも怖がっていないよ」
なんて扮装のままふざけ合う2人だが、ライスの口から「勝負服に採用したい」という言葉は、最後まで出なかった。
思いつく限りの場所で、1日中存分に遊び回った2人。まだ日も長いから、夕刻を過ぎても時間の流れを気にせずにいられる。そんな楽しい時間も、やがては終わりを迎えようとしていた。
「うわー、すっかり暗くなっちゃったね」
「まだ遊び足りませんか?」
「ううん、ライスすっかり満足だよ」
「それは良かったです。私もライスさんと一緒にいて、楽しかったです」
「それじゃあブルボンさん、学園に帰ろう」
名残惜しさを覚えつつも、踵をくるりとさせ学園に続く道のりその進行方向へ。いざステップを踏もうとしたライスのその腕を、ブルボンが掴んだ。
「どうしましたか。私たちが行く場所はそちらではないですよ」
「え?」
眦を鋭く尖らせ唇をきつく結び、正面を絶えず睨む。意を決したとばかりの態度で、駅構内の通路をつかつか歩む。緊張感に張り詰めた頭の触覚が、彼女の歩調に合わせゆさゆさ揺れる。
既に夕刻をとうに過ぎたこともあって、駅は帰路につく勤め人や学生、買い物客たちで賑わっていたが、ごった返す人混みが、かえって2人の存在を隠していた。人々はよもや今隣を通り過ぎていった者が、あのトゥインクル・シリーズで名を馳せたウマ娘だとは思わなかった。
ブルボンに腕を引かれるライスシャワーは、大人しく従って、彼女に導かれるまま共に進んでいくばかり。どうしたんだろうブルボンさん。電車に乗るつもりなのかな。でも今からどこへ行くのだろう?
機械音痴のブルボンが放つ緊迫感に感化されてだろうか。2人の進行に合わせて駅の柱の液晶広告がちかっと瞬き消失。2人が通り過ぎるとまた画面が蘇った。
改札口にたどり着いた。ブルボンは事前に用意していたICカードをライスに渡すと、そのまま改札を通るよう促した。