【サンプル】祝福よ、その愛を伝え継げ 冒頭2章試し読み 作:椚木
在来線を乗り継いで見知らぬ場所へ。初め「何か用事でもあるのかな」と思ったライスだが、いつも電車に乗る時に用がある都心の方ではなく、ブルボンは逆のホームへ。そのままやって来た電車に共に乗って、今の今まで彼女に任せるまま電車に揺られ通しであった。
電車というのは不思議なもので、いつも利用している区間とは違った未知の区間を進むだけで、距離は変わらないはずなのに2,3駅もすれば随分遠くまで来たように感じられて心細くなるものだ。そんな中、数駅のみならず電車を幾度も乗り換えて、どこかへ向かおうとするブルボン。いつもはあれだけライスの挙動を気にする彼女が、今回ばかりはなりふり構わず己の任務を遂行する心積もりだったのだ。
都心へ向かう時は線路の両側に見える商店街や住宅といった建物もまばらになっていき、電車を乗り継いだ先、トンネルを潜ればそこはもう山の中といった風情。切り立った斜面に設けられた、カーブと勾配の際立った線路を進んでいく車両。
やがて進行方向の線路は、開けた場所に出た。電車は小高い場所を進んでいく。遠くに見える建物の明かりはまるでミニチュアのそれのよう。最奥に見える山のシルエットが、電車の進行に合わせてゆっくりと後方に流れていった。
そんな事を考えているうちに行く手の線路はまた山間に入り、窓の向こうは闇に染まった木々の暗い緑しか見えなくなった。
そうしてたどり着いたのは、ライスシャワーには全く聞き覚えのない駅。電車を降りてフラットな作りの駅舎を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
その頃にはブルボンも自分がしでかした行為による焦燥から、多少は平静さを取り戻していたようで、またライスへの気配りができるようになっていた。
だから彼女は親友と優しく手を繋ぐと、かねてより把握していた道を歩むのだった。
旅館の主は一見無愛想な女将だった。とは言ってもこれは生来の寡黙な質からくる第一印象らしく、むしろ気配りの行き届いた気の良い人だったと、どちらかと言うと人見知りのライスも後から語るのだった。
「ふぅ、突然こんなところまで来るから、少し怖かったよ~」
「ごめんなさい。何も説明せずに連れてきて」
滞在先の旅館を訪れチェックインを済ませた、部屋の中である。荷解きを済ませ、ベッドの上で語りあう。
夜中に訪れたウマ娘二人連れという組み合わせにも胡散臭い視線ひとつ送らず、女将は2人を部屋へ案内したのだった。
部屋の間取りは民宿に相応のシンプルなもの。ドライヤーの様な生活家電こそ各部屋に用意されているが、テレビは食堂兼ダイニングの広間にあるものだけで、個室にはない。ネット回線なども、自前のものを利用することが前提となっている。
それでも必要な品は予めトランクに詰めて送っておいたし、トレセン学園で青春を送ったストイックな2人からしたら、十分過ぎる程だった。
「退院後の療養先が、ここになるんだね~」
「はい。宿泊先に何かご不満がお有りですか?」
「ううん。そんなことないよ~。やっぱり初めはびっくりしちゃったけど、静かで良い場所だな~って思ったもん」
「そうですか、良かったです」
「荷物を整理しなきゃだけど、まずはライスお手洗いに行ってきて良いかな」
ライスが緊張もほぐれすっかり緩んだ表情でそう尋ねる。
「はい、こちらこそずっと連れ回していてごめんなさい」
ブルボンが答えた。
「これでいい」部屋で1人になったブルボンは、険しい顔つきになりそう考える。「ライスに必要なのは、平穏。ただそれだけなのだから」
あのまま退院後学園に戻ったライスを待ち受けている運命。
英雄としての凱旋だ。
春の天皇賞での復活を遂げ、観衆から歓呼の声で迎えられたライスシャワー。とは言え未だ「タイトルブレイカー」の記憶は彼女に付きまとい、恨みを持つ特定のウマ娘のファンを始め、ライスに対するアンチの声は根強かった。得てしてそうした風評に付き物なのは、「周囲がそう言うのだからきっとそうなのだろう」という空気感で付和雷同する者たち。そうして雪だるま式に膨れ上がった悪意の声が、凶器となってライスを傷つける。
確かにそうした風評は淀で起こった悲劇を前に、一夜を待たずして塗り替えられた。「思い出す度に忌々しいレースの記憶」は「悔しいけれど、これもまた勝負の倣い。お互いに死力を出し尽くした名勝負であった」といった記憶として昇華され、人々の間に語り継がれていく。かつてはフロックとしてライスを軽んじた者たちも、これからは確かに名勝負を彩った名将として、彼女を認めることだろう。彼女を「ヒール」と呼ぶ者はもういない。
だがそれをブルボンは、認められない。
かつて「ヒール」であった悲運のウマ娘が、歓呼と共に「ヒーロー」として迎えられる。それ自体は望むべき顛末なのかも知れない。いや確かにその通りだ。
ブルボンの憤り。それはまさにこうした「都合の良い結末」に対する拭いきれぬ不快感。
人々の心を打つ感動的な、綺麗な物語化の果てにあるのはなにか。ライスシャワーというウマ娘が体験したありとあらゆる出来事が、待ち受ける『悲劇』の前日譚、その舞台装置に成り果てるということだ。
彼女が辛かった思い出も嫌だった出来事も何もかもが綺麗事として祭り上げられてしまう。それは違うのじゃないかと訴えても、人々は感動に水を差す言葉に耳を貸しはしない。
眼の前の友が、世間に創られ流布された物語に囚われてしまう。それがブルボンには耐え難い。ライスシャワーは決して物語の中の登場人物ではなく、確かに目の前にいて触れられる、1人の生きた女の子なのだ。
人工的に産み出された都合の良い物語に、人々が安易に追随することへの不信もある。いっそ憎むなら(ああ、こんなことを本人でもない私が言うのはおかしいことなのかも知れない)これまで通りお前は「ヒール」なのだと憎んでいて欲しい。それが彼女が確かに「今」を走ったという証なのだから……。
このまま退院したライスが学園に帰ったとしよう。そこで彼女を待つのは何か。悲劇のヒロインとして人々の同情を集める、舞台役者としての役割だ。
もちろん学園はレースの記憶を無くしたことや、それを思い出すことへの本人の拒絶について、配慮こそするだろう。ただしそれはあくまで学園としての裁量が及ぶ限りのこと。当然限度がある。
熱狂的なファンや報道陣をシャットアウトするのも限界がある。如何なる手段を取ってでも、彼ら彼女らはライスに接触しようとするだろう。そのうちの幾らかは実際に成功する筈だ。学園の外となれば言わずもがな。彼女の安穏はすぐに奪われるだろう。
そして優しいライスは、必ずや己の役割を全うしようとする筈だ。「悲劇のヒロイン」としての立ち回りを。
逃避行に際してライスのトレーナーには事情を打ち明けることも考えた。彼女もまた、ライスの気持ちと立場を汲んでブルボンに賛同すると思われたからだ。
ただ学園に所属するトレーナーの立場上、やれることに自ずと限界はあるし、むしろブルボンの暴走を止めなければならない板挟みになることも考えられた。
故に迷惑はかけられぬと、単独での決行を決断したのだった。
理由を作って通信機器の類を持ち込まずにいたから、ここでは外界の情報も遮断されている。ブルボンが監視している限り、ついうっかりといった理由で、ライスがレースの情報に触れ傷つくこともないだろう。
自分でも大それたことをしたと思う。
無感動の仮面を顔に貼り付け、無機質に任務を遂行する。このサイボーグと言われたウマ娘が、親友を攫っての後先考えぬ逃亡劇だ。
もっとも考えてみれば昔から自分はそうだった。命令に忠実で感情のないようでいて、実のところ我を張っているのは誰であったか。物事を数値しか捉えられない冷酷なウマ娘のようでいて、仮面の顔の下、本当は感情的ですぐ熱くなっていたのが、自分ではないか。
己に向いているのは短距離路線だと皆から勧められながら「あくまでクラシックを目指す」と譲らず、一度は周囲から見放された時もあった。
そんなときに「言っておくが俺は他の奴らみたく甘っちょろくないからな」と救いの手を差し伸べたのが、現在のトレーナー黒沼である。
彼の手を取り、マスターに血の滲む厳しいトレーニングを申し出たのは、他ならぬ自身の方であった。
自らの指導者を思い出したブルボンは、寂しそうな顔をする。
「今頃マスターは私の手紙を読んで対応に追われているのでしょうか。本当に申し訳無さでいっぱいです」
それだけは拭えぬ悔恨とともに、己のトレーナーである黒沼のことを思い出すのだった。
その黒沼は、ブルボンの手紙を読んで事態を把握。何より先に報告すべき相手のところへ、可及的速やかに駆けつけたところだった。
「頭を上げてください」
当事者――シャツの襟先までピッタリ釦を閉じた長髪の女性は、放っておけばそのまま床に頭を擦り付けかねない勢いで頭を下げる黒沼に、そう鷹揚に述べてみせた。
ブルボンが拐かした相手であるライスシャワーのトレーナーである。
今も部室で執務中であった彼女は、その几帳面さを絵に描いたような外見とは裏腹に、どこか捉え処がないような印象を相手に与える不思議な佇まい。
「しかしこの様な不始末をしでかし、弁解の余地も。トレーナーとしても、いや……全責任は――」
「まぁまぁ」
ここに至って「悪いのは俺だ、俺が責任を取る」と言い出さんばかりの相手の機先を制し、
「何もミホノブルボンさんは、ライスシャワーを獲って喰らおうという訳ではないでしょう?」などと浮世離れたことまで述べて、黒沼をいなすばかりだ。
彼女の毒気のない態度を前に、この案外直情的な――トレーナーと担当ウマ娘は似る運命にあるのだろうか?――男は、駆けつけた当初の勢いを引っ込めざるを得ない。
「信じましょう」
かつてライスシャワーのステイヤーとしての才能を信じ、刺客として送り込んだ大舞台で2度勝利を演出してみせた。いや、その後も共に歩み奇跡の復活劇を導いたこの才媛は、そう確信に満ちた声音で語るのだ。
「全ては導かれるまま。ウマ娘たちには時に、彼女たちにしか乗り越えられない試練が待ち受けているものです。それは怪我なのかも知れないし、私たちには本当に理解も及ばない、想像を絶する運命的な何かなのかも知れない。彼女たちにとって、今がその時なのだと、私は考えています。ですから私たちは彼女たちを信じて待ちましょう。彼女たちがこの不幸を、試練を、乗り越えられることを信じて」
「きゃっ」
可愛らしい悲鳴をあげて川の流れを蹴り上げると、盛大に飛び上がった飛沫が宙に弧を描いて、対面のブルボンに見舞う。
お気に入りのトレーナーが濡れてしまったブルボン。
「やりましたね。お返しです」
「きゃ、きゃっ」
今度は屈んだブルボンが手でパシャパシャと水をはらってライスを攻撃する。「喰らってなるものか」と他愛のないステップで小柄なウマ娘が回避を試みる。
透き通った川面の向こうに、はしゃぎ回る2人の白い素足が眩しかった。
「あー、ビショビショだよ~。やっぱり水着を持ってくればよかったね」
「そうですね。私としたことが、考えが至りませんでした」
民宿の近くで川遊びに2人して興じる。
近所の子なのか長期休暇中なのか、やはり朝から川で遊ぶ子どもたちのグループから少し離れた上流の辺りで、2人して遊んでいた。
そこから更に上流を行くと川の流れに段差が作られていて、そこを流れ落ちる水流が陽の光を浴び、小さな虹がかかっていた。
「わー、綺麗だね~」
「その辺りは段差工になっていて流れが深くなっている恐れがあるので、注意してくださいね」
「へー、ブルボンさん物知りだね」
「と、かつてマスターに教わりました」
こうして自然の中屈託なく遊んでいると、街中でひと目をはばかってのレクリエーションとはまた別の開放感がある。もちろんこうした場においても一定のルールと言うものはあって「旅の恥はかき捨て」とはいかないのだけども、そこはマナーの行き届いた2人だから心配はなかった。
「学生の長期休暇兼研究の為の実地調査」との名目で、宿をとったブルボンである。女将さんはその説明を特に疑うこともなく、今朝も2人のために真心こめた朝食を用意してくれ、寡黙だが篤実な態度で送り出してくれた。
川遊びの(本当は水流に逆らう修行だったのだけど)絶好のスポットを知っていることから分かる通り、実はブルボンはかつてこの地をマスターと秘密特訓のため訪れたことがあった。
かつてマスターと訪れた時、格式あるホテルならまだしも一般の民宿に突然G1レースの出走者が現れて、従業員は浮足立ちはしないのかなと懸念したブルボンであった。ところが女将さんは理由は定かでないが大のレース嫌いと見えて、レースに関する話題を口にすらしない。テレビでトゥインクル・シリーズにまつわるニュースがやっていても、すぐにチャンネルを変えてしまうくらいだ。お陰でブルボンが当時世間を騒がせた無敗のG1勝利者などとは、遂に気が付かれなかった。
当時のことを覚えていたブルボンは、ここならライスの素性もバレないだろうと、当民宿を彼女の「秘匿先」に選んだのだった。
休憩がてら川岸の大きな岩に腰掛け、先ほど水面を盛大に蹴り散らかした足をぶらぶら。
「たくさん遊んだつもりだけど、まだお昼になったばかりだ~」
「朝早くから宿を飛び出しましたから。一日が長く感じられます」
「そうは言ってもライスお腹はペコペコなんだけどね」
「確かに。お腹の時計は正直です」
宿に戻った2人を待っていたメニューは、狙ったわけでもないだろうが川魚の料理だった。
ブルボンたちが起きるより早く出かけて地元の市場から仕入れてきたそれを、「2人のお口に合うか分からないから」と、ムニエルにして都会風の味付けを施してある。
そうしたことをこの物静かな女将さんが逐次説明した訳ではないのだけども、確かに気持ちは伝わって2人のお腹に染み入った。
お昼を済ませた後は、腹を休めるつもりで部屋で小休止。持ってきたアナログゲームの対戦に興じてみたり、かねてより読み進めて私物として持ち歩いていたというライスの本を読み回したりしていたら、気がつけばあっという間に時間が経っていた。
夕方まだ明るいのに勿体ないよということで、2人は再び外に出て歩いて回る。
古い民家の間を縫って設けられた石段を登っていくと、小高い丘にたどり着いた。そこから展望台の様にして、切り開かれた土地に造られた街が見下ろせた。ブルボンにとってそれは、自分たちが世俗から離れていることを感じさせるのだった。
「そういえば」
「どうしたのですか、ライスさん?」
「うーんとね、以前もこんな場所でみんなで集まって、それで花火がぱーって打ち上がるのを、綺麗だな~って眺めてたなって思い出したの。あれ~、何時のことだろう?」
「さぁ、ライスさんがここに来るのは初めての筈ですが?」
「そうだ、合宿だよ~。夏の合宿で訪れた場所って、その時に必ず近くでお祭りがやってるんだよ~。ブルボンさんとも縁日を見て回ったね」
「この地は残念ながら行事は催されていないようですね。代わりにこの辺りは歴史にゆかりのある史跡などが多いようですから、明日からはそれを見て回りましょうか」
ブルボンは慌てて話を逸らした。
ライスも合宿とは具体的に何の合宿かは、とうとう思い出せないままのようだった。
滞在3日目。
やることのない逃避行とは言え遊んでいるばかりはどうかと思われたし、「自主研究に訪れた学生」という建前もあるから、今日は女将さんにもお昼はいらないと断りを入れて、この辺りの観光スポットを見て回ることにした。
歴史の表舞台に燦然と輝いて躍り出るような著名な史跡や遺物がある訳でもない。気に留めなければそのまま通り過ぎてしまうような場所にちょこんと配されているような、ささやかな在り様。
とは言っても確かにこの地に根ざした、掛け替えのないそれらに関わってきた人々たちの歴史と息遣いが、今のブルボンたちには感じられる。
初め「退屈かな」と心配していたブルボンであったが、それまで学園で寮生活を営んできたライスにとっても見るもの全てが数奇で好奇心をそそられ、「次はどこへ行こう」と1日中歩き通しであった。
5日目。
お昼もう何度目かの川遊びをしていたら、同じように遊んでいた子どもたちに声をかけられる。確かに自分たちと同じ場所で遊んでいるウマ娘の組み合わせなど、彼らにとっても物珍しいだろう。声をかけたくなる気持ちも分かる。
身バレを警戒するブルボンだが、子どもたちもよもや目の前の相手が有名出走者であったなどとはつゆ知らず、ただ旅先で連れ合った年上のウマ娘との触れ合いに、目を輝かせるばかり。結局共に遊ぶこととあいなった。
子どもたちとウマ娘の多対2で水を掛け合う勝負をしてみたり、ブルボンとライスの厳重な監視のもと、流れの速くなったところで滑り台のように遊んでみたりと子どもたちを楽しませ、すっかり旅先の思い出のウマ娘になった2人であった。
8日目。
当初「この辺りはお祭りがやってない」と言ったものの、話を聞くと少し離れた場所ではあるが、町のお祭りが開かれるとのこと。
この頃には堂々と歩いていれば意外と身バレしないものだと得心していたこともあり、ライスを連れ立って祭りを見て回った。
会場となった公園ではそこらに縁日の屋台が構えられ、チョコレートバナナやミニカステラ、早くもお腹の空いた人向けの焼きそばといった食べ物の香ばしい匂いが、ライスの鼻をくすぐった。
いちご飴に齧り付きながら訪れた小さなステージでは、地元のダンスグループがヨーロピアンスタイルの衣装に身を包み、腰を艶めかしくくねらせダンスを披露している。
広場の中央では櫓が組まれ、気の早い人は今から周囲に円陣を組み始める。盆踊りのセッティングなのか、櫓に登った人と何やら声を張り上げ語り合っていた。
ただ町を回っていた時は人気のない物静かな場所だと思っていたものだが、いざ祭りとなるとこうも一所に人が大勢集まり熱気に溢れるものかと、ブルボンは瞠目するのであった。
先ほどからうずうずし通しのライスである。
「どうしましたか、ライスさん」
「ブルボンさん、私たちも――」
そこから先は言わずとも分かる。日がとっぷり暮れ盆踊りの始まる時間となった。 どどんと景気よく打ち鳴らされる太鼓。調子の良い拍子が流れる。
他の祭りの参加者たちとともに輪に加わったブルボンたちは、音楽に合わせて時に優雅に、時に元気良く踊りを舞った。
「まぁ、別嬪さんだねぇ」
「お嬢ちゃんたちここらじゃ見かけない顔だね。どこから来たんだい?」
そんな彼女たちが物珍しいとばかりに親しげに、時に景気よく話しかけてくる人たち。皆気の良い人たちばかり。
「ふ~熱い。ライスすっかり身体がポカポカになっちゃった」
「あれだけ人がいましたから、ぎゅうぎゅう詰めでしたしね」
巨大な綿あめやヨーヨー、パックに詰めた縁日の焼きそばといったお土産を携えての祭りの帰り道。
全てが幸せに包まれていたブルボンは願う。
「願わくば、この平穏がいつまでも続きますように」
合理的に考えてそんなこと無理だというのは誰だって分かる。
いつまでも下宿先に世話になり続けるこんな生活を続けていられるのか。一週間、いやせめて一ヶ月そこらは、折り合いをつけてどうにかなるだろう。
それから先はどうするというのだ?
宿泊費という現実的な問題があった。貯金から都合をつけて滞在先を変えても、近場の人にはいい加減顔を覚えられて怪しまれる筈だ。世界に埋没するはずが、却って目立ってしまう本末転倒。
そうした一切からブルボンは目を背け、ただ眼の前にある『今』の幸せを願うばかり。草むらではコオロギの鳴き声が響き、一度気に留めたそれは不思議といつまでもブルボンの耳から離れなかった。
幕切れというのはいつだって唐突に、向こうの方から勝手に訪れるものだ。
宿に帰ってきた2人をいつも温かく迎えてくれた女将さん。そんな彼女が今日はしきりと動揺しっぱなし。玄関で取るもの手につかずといった感じで右往左往している。
ただそれがネガティブな出来事に起因するものでないことには、平静さを取り戻そうとするその顔から喜色が否が応でも溢れ出ていた。
「あ、ブルボンさんかい。帰ってきたんだね」
「女将さん。この様な場所でどうされたのですか」
「ただいまです」
「聞いておくれよ」ブルボンたちがとりあえず荷物を置き靴を脱ぐ間も惜しいとばかりに、彼女は喜び勇んで勢いよく語りだした。「息子がね、息子が帰ってきたんだよ」
「息子さん?」
「ああ、そうだよ。『中央でトレーナーになるんだ』って聞かずに家を飛び出した息子が、今日になって帰ってきたんだよ。まったく中央のトレーナーなんて、合格するのが東大よりも難しい試験だって言うじゃないか。それがとうとう試験に合格してトレーナーになって。初年度からいきなり担当がついて、レースにも初勝利したっていうのだからまったく……」
「トレーナー? ……レース?」
「ライスさん」
「それ以上はいけない」ブルボンの焦りも虚しく、とうとう感極まって涙を流す女将さんの喋りは続く。
「おや、とぼけても駄目だよ。中央のトレセン学園には地方とは別格の【トゥインクル・シリーズ】って最高のレースの舞台があることくらい、私もとうに知っているさ。それがまあ。あたしの息子も今年からトレーナーとしてそこで担当するウマ娘を率いてレースに参加するんだよ。ほら東京からお嬢ちゃんたちだって、本当はそれに出ているんだろう。そんでいつぞやみたいに、秘密の特訓に訪れてたんじゃないのかい。あたしには分かるんだよ、ひと目見た時ビビッと来たんだから、只者じゃない顔つきしているもんねぇ」
「え……え?」
何を思い出したのだろうか。ライスはにわかに動揺する。
「もうお母さん。いきなりそんなこと言い募ったら、お客さんだってびっくりしているじゃないかい」
奥から身支度中の女将の息子が、声をあげる。
「どうも母が失礼しています。母ときたらかつて私が家を飛び出してから、レースの類を食わず嫌いになっていたもので。世間で評判の話題が出ても知らんふり。テレビ番組なんかもすぐチャンネルを変えてしまう。そのような感じで皆様方にもご迷惑をおかけしたと思います」
などと、女将の「レース嫌い」の真相が詳らかに解説される。
そうこうしているうちに、身支度を終えた息子が皆の前に顔を出した。
「どうも、おふた方にご挨拶だけでもさせて頂きたいと思いまして……」
この将来有望な新人トレーナーの声が、そこで止まる。
無敗の二冠ウマ娘の、そしてあの最近『淀』の悲劇に直面したばかりの「ヒーロー」の顔を、関係者が知らない訳がなかった。
「あなた方は……」
「あ……、あ……………」
いよいよここで緊張の糸が途切れたのだろう。
身を翻し、旅館の外へ走り出していた。
「ライス!」
ブルボンが後を追った。
「うーん。私に言わせれば、そもそも記憶が消える、特定の事象についてだけ前後の脈絡なく抜け落ちる。大事な記憶が思い出せない、頭の中にあるものが綺麗さっぱり消えてしまう、なんて都合の良いことが、そもそも有り得ないわけでして」
例のトレーナー同士が集い語り合う、隠れ家的なバー。淑やかにグラスを傾けライスシャワーのトレーナーが語る。今日は用件が用件でもあるので、対談相手の黒沼ともども奥のソファ席に案内されていた。
「もちろんそうした『有り得ない』出来事が起こり得るのもまた、彼女たちの宿痾でもあるのですけど」と皮肉そうに述べた後、「かと言ってその様な『不自然な状態』が永遠に続くのもまた、おかしな話です。だってそうでしょう。先ほど述べた通り、記憶とは前後の時系列や関連する事象との連なり。然らば必然、他者とのコミュニケーションによって、時系列の矛盾が浮き彫りにされ、封じられていた記憶が掘り起こされる筈。――それがウマ娘の種族特性ならなおのこと」
その態度はウマ娘に待ち受ける『運命』を従容するしかない『ヒト』としての役割を受け入れながらも、しかし彼女たちが自ら『運命』を切り開くことを確信している――ああ、自らはそれを待っているだけで良い――者の口ぶりだった。
「その触媒となるのが、ブルボンだったという訳か、氷室」
後輩の名を呼ぶ黒沼の問いかけに、黙ってグラスの中身を飲み干すことで肯定に代えてみせた。
「ブルボンは」黒沼にしては珍しく、重たい口を開いて自ら語り続ける。「強い子だ。寡黙だがそれは決して遠慮している訳ではなく、むしろ定めた目標に向かって努力し続けていることの証だ。ただ生来のストイックさと、一見冷徹に見える態度からくる他者との関わりの少なさ故、幼少の頃から感情の表し方を知らずに育った。特にそれが他人に向けられる場合はだ」
そうしたブルボンの人格が、今回の「ライス誘拐」という極端な行為に現れたのだと、相手のトレーナーに釈明する。
結局のところ今回の「逃走劇」についても、本人にとってどれだけ真剣なつもりではあっても、所詮トレセン学園という鳥かごでレースに明け暮れ青春を送った子どもの考えたプランに過ぎない。黒沼たちはとうに2人の居場所について把握していたし、後は間違いの起こらないように、監視しているだけで良かった。それについてもどちらかと言えば、彼女たちではなくむしろ無理な接触を試みようとする者が現れないかをだ。
ただし当初ブルボンの逃走に手を貸したと思しき、黒沼とも懇意のあるトレーナーについては、夜中押しかけきっちり詰めたうえで腕ひしぎを決めさせてもらったが。
その人物は「頼まれただけです勘弁してくださいよ~」と泣き言を言っていたが、情けなさの裏腹得体の知れなさを腹の底に潜ませた彼の男だ。一体何を企んでいたことか。そしてその企みに、氷室も一枚噛んでいると見て間違いないだろう。
ただ何れにせよ、彼女たちは初めから大人の手の内だったのだ。
「俺もライスシャワーは『記憶』を取り戻すべきだと思っている。例えそれがどんなに辛い記憶であってもだ。『記憶』ってのは掛け替えのない、その者自身が生きた証だからな。しかしブルボンの行為は、むしろその機会を阻害してしまった」
「それで良いのですよ」
そうした黒沼の重い告白を受けてなお、ライスの〈お姉さま〉は楽観的に答える。
そんな氷室の返答に、さしもの黒沼も呆けた顔をして見つめ返すばかり。
「えーと、どこから語れば良いのか難しいのですけど、そもそも記憶という概念自体が曖昧なものであって、記憶のあるなしを『1』か『0』のデジタルで表せるようなものでもないと思うのですよ」
彼女は自らの考えを述べる。
「『記憶喪失』という言葉が重たいせいで、ついつい今回のライスの件だけ特別に考えがちですけど。我々だって記憶が曖昧になって『あの件なんだったっけ』ってなったり、逆に嫌な記憶を思い出したくなくて、無理やり蓋をしたり。まぁそういう時って大抵かえって思い出しちゃって『うわああ』ってなるんですけど」
何かを思い出したのか、1人可笑しそうに笑った後、
「そうしたことは枚挙に暇がない。古い実家の住所だの、何年も前の友達の電話番号だの、普段そんなこと思い出しもしない、『忘れていること』それ自体を忘れているような事柄でも、必要な時にぱっと思い出して記憶が蘇ったりもする。『忘れている』と『思い出す』なんてそれくらいファジーな事柄。みんな同じなんです」
「あくまで一般論で片付く範疇だと。そう言いたいのか」
「ライスにしたって、確かに入院時点で記憶を思い出しかけていた端緒があった。決して頭の中の記憶が空っぽになってしまったわけじゃないんです。ただ記憶の取っ掛かりに、不幸な出来事があって、それがあの子の負荷になっていたんです」
そもそも頭の縁にでも記憶が残っていたからこそ、医者の問いかけに対して拒絶を示すことができたのだ。
「思い出したくもない記憶に被せた蓋。それが重いかそうでないかの違いだった」
黒沼も得心したように呟く。
「『あの時』はまだ、あの子に辛い記憶を思い出させる訳にはいかなかった――必要なのは『傷』が癒える時間です。故にその時間を作るため、『レース』から、『世間』から切り離す、ブルボンさんの強硬策が必要だった。それで彼女と気の赴くまま楽しんで、辛い記憶を忘れていられる時間を稼ぐことができた。やがて時が経って傷が少しでも癒え。ライスがじょじょに自らの辛い記憶と向かい合えるようになった時、『記憶』の方だって自然蘇ってくる。そういうことで良いのではないでしょうか」
ウマ娘を信じ続けた女性はそう結んでみせた。
「ですから信じましょう。あの2人に限って、どのような間違いがあると言うのでしょうか」
「ああ」
黒沼もそれだけ述べると、胸の内のつっかえた物が降りたとばかりに、グラスに残った中身を一息に飲み干した。
「はぁ……はぁ……」
息せき切って走る。
夜の闇に包まれた古いコンクリートの石壁や生い茂った草木といった景色が後ろに流れていくと共に、封印されていた記憶がライスの脳裏に目まぐるしく展開されていく。
「あなたの、そして私の夢が走る、宝塚記念」
その日はライスにとっても思い出深い、京都レース場のG1レースで。
「ゲートが開いて17人、一斉に走り出しました」
ただスタートした時から何だか調子が悪かったから、後方に付けて走っていたんだ。
今日はもう順位争いを断念するべきか、それとも一位を目指して走り続けるべきか悩んだのだけども。
「頑張ってー!」「負けるんじゃないぞー!」
ライスのことを応援してくれるみんなの声を聞いていたらやる気が溢れてきて、もう少しだけ頑張ってみようと思って、足が勇んで前に出ていたんだ。
「~~! ~~~!」
後ろにいたチトセオーちゃんが、そんなライスに向かって懸命に何かを叫んでいた気がする。
数秒間走ってやっぱりこれは無理だなって思って、競争を中断しようと思ったのだけども、待ち受ける『運命』は、そんな数瞬の逡巡も許してくれなかった。
次の瞬間だった。
決定的な何かが壊れる――確かに音がした。
気持ちは前に進んでいたのに、身体だけ置き去りにされたようになっちゃって。
「あれ、何でだろうおかしいな」と思ったけど、それは自分の脚が正しく動いていないんだと気付いたよ。
気づいたときには壊れた脚で踏ん張ることはできなくなって。抑えが効かなくなった身体が倒れていく。
最後に少しでも前に行きたいと、懸命に頭を上げて身体を前へ伸ばしたのだけども。 それもすぐに叶わなくなって、そのまま地面に倒れ伏していた。
「大歓声、いや大きな悲鳴が上がった!」
信じられないとばかりにアナウンスする実況。
それに割って入る観客の皆さんのとりとめのない絶叫。
その時には怪我の痛みが押し寄せてきて。ライス痛くてたまらなかったし。
それよりも何より自分の身体に取り返しのつかない破局が訪れたことは既に分かっていたから、
「ああもうライス走れないんだ」
地面に伏したまま、たまらない絶望感が押し寄せてきて。
「今行くから!」「待ってて」
「骨が」「暴れないよう身体を抑えて!」「絶対に足を地面に付けるな!」
救急隊の人や、お姉さま、友達のみんながレース中にも関わらず駆けつけて来てくれているんだっていうのが感じられたのだけれども。
全てが遠く感じられて、気がつけば眼の前が真っ暗になってそれきりだった。
――闇雲に走っているつもりで身体は馴染みのある場所を選んでいたようだ。
ライスシャワーは気がつけば石段を駆け上り、あの高台に登っていた。
「待って、ライス」
追いついたブルボンが叫ぶ。
振り返ったライスシャワーは、ブルボンを静かに見つめた。その視線を受け止めた追跡者は気付いた。
ライスシャワーの瞳には、レースに出たウマ娘だけが分かる、あの情熱を灯した輝きが、確かに戻っていた。
「思い……出したのですね」
「うん、全部……ね」
そのとき2人で空を眺めあれだけ見たいと願った花火が、今になって打ち上がった。
麓の町の祭りの幕開けを告げんとばかりに、宙に放たれた巨大な花火。空で爆ぜて青と桃色の華を描く。
「それだけは……どうしても、避けるつもりでした」
苦渋をはらんだ表情のブルボンに、ライスが告げた。
「でもね、初めからおかしいと思っていたんだよ、ブルボンさん」
「え」
彼女の告白に虚をつかれたブルボンに、説明して見せる。
「退院祝いでケーキ屋さんに行ったとき、ブルボンさん機械を触ると壊しちゃうって言って、注文用の機械に触らなかったでしょ。最初はそんなこともあったかなって思ったけど、後から考えたらすぐにおかしいなって気づいたんだ」
確かにブルボンはライスの前で極度の機械音痴の振りをしていた。「世間知らずのブルボンは、触った機械を破壊してしまうくらい機械音痴である」などという、どこからか流れていた噂を逆手に使って、スマートフォンを携帯しない理由を作るつもりだったのだ。
外を見た時窓の外の電光掲示板や、駅の構内を歩いていた時に柱の広告が瞬時に入れ替わったのも、ブルボンの仕業。〈カノープス〉のトレーナーに「ライスがトゥインクル・シリーズの広告を眼にしないように」そうした工作を依頼したのだった。
「でもね。ブルボンさん昔逃げるライスを追いかけた時、ゴルシちゃん号に乗っていたでしょう。それを思い出して『あれ、おかしいな』って思ったの。ブルボンさんちゃんと機械を扱えるんだもん」
「…………」
確かにライスの言う通りだ。初めての「天皇賞・春」への出走を怯懦したライスは、話し合いをしようとするトウカイテイオーから逃走。彼女と共にいた負傷中のブルボンが、件の電動マシンに乗って追いかけたのだった。
「んーとね。それがきっかけとなって忘れていた記憶を思い出すようになったのかな。それとも元々頭の中にブルボンさんとの思い出が残っていたから、そうやって『おかしいな』って思えたのか。それはライス良く分からない。ただその時から、色んなことをきっかけに、記憶が少しずつ蘇っていったんだ」
今日あの様な偶然が起こらずとも、元々記憶は蘇りつつあったのだという。
「所詮私の足掻きなど、初めから無駄だった訳ですね……」
寂しそうに呟くブルボンに、
「ううん、そんなことないよ」
ライスが首を振った。
「まだその時はそれだけ考えるだけで、ライス限界だったもん。多分『これ以上思い出したくない』って、頭が拒否してたんだと思う」
いつの間にかブルボンの元に歩み寄っていたライスが、親友の掌に己の小さな掌を重ね合わせた。
「けどね、ブルボンさんとこうして触れ合っているうち。だんだん、ちょっとずつだけど、自分の中の心の傷が癒えていくのを感じたんだ。『ライスには、こんなに一生懸命になって自分を支えてくれる仲間がいるんだ』って実感があったから、ライス自身強くならなきゃって思えたんだ。そしてだんだんと、記憶が蘇ってきた。それもこれも、全部ブルボンさんのおかげなんだよ」
「そうですか、良かったです……」
「でも、ライスを独り占めしようとするのはずるいと思いよ」
こんな時でもそんなことを言っておどけようとしているのは、ブルボンに気を使っているのだ。
先ほどから花火が断続的に打ち上がり始め、ヒュ~と空気を切り裂くような打ち上げ音と、花火玉が爆ぜ空気を震わせる炸裂音が、2人のいる場所にも届く。だからこうして近づいて話していても、自然声が大きくなる。
「けれど」ブルボンは唇を震わせた。「私はライスに取り返しのつかないことをしてしまいました」
おかしい。追いかけていた側の自分が、胸張り裂けんばかりにこんな告白をしているのは。でもこれだけは絶対に言っておかなければならないという決意が、ブルボンの胸にあった。
「そんな大げさだよ」
「私はライスのためなんて言いました。けれど結局は、自分の我が儘に過ぎなかったのです」
「ライスはブルボンさんのお陰で、記憶を思い出して立ち直れるまでになったんだよ」
「でもそれは結果論です。正直に言います。私は憤っていた。あれだけライスのことを『ヒール』だの『空気を読め』だの言っておいて、今更しれっと『悲劇を前に涙が止まらなくなってしまった』なんて、のうのうと宣う観客たちが憎かった。『どうしても憎めないんだ』などと、いつの間にか味方面してお見舞いの集会の列に加わるにわか参列者に腹が立ってしょうがなかった。そんな奴らの手の届くところに、ライスを置いておきたくない。そんな気持ちでいっぱいだった。とても綺麗な気持ちで始めたことではなかった。全て私のエゴに過ぎなかったのです」
「かつてヒールの汚名を受けながらも、己の走りで人々を笑顔にしたいと願った悲劇のウマ娘がいた」
これからきっと、ライスシャワーの悲劇の物語は綺麗に飾り立てられて特に虚飾を交えて人々の口の端に上がるようになる。
中には逆に「本人の戦績に比して今の人気は過剰」と水を差す者だって現れる筈だ。そういった者たちは、本人の思い出を懐かしく語る人々の間に敢えて現れて、言わずとも分かっていることを殊更がなり立てて場を冷やさせる。空気を読めないのは一体どちらなのか。
「事故を契機に語られるべきは事故の反省と再発防止策であって、本人を過剰に美化するべきではない」と論評する者も現れるだろう。そうしたことを今の感動の空気の中敢えて述べるのは「ウマ娘が安全にレースを全うして欲しい」という論評者の良心に基づいた発言であり、本来的にはライスを物語の存在に堕したくないブルボンの思想とも、似通っている部分がある。ただどうしてもレース当事者と評論する側とでは、立場に壁があるのは否めなかった。
ここに及んで「ライスに言及する」全ての声が、ブルボンには疎ましかった。それ故の行動と、ブルボンは告白するのだ。
「こんな私に、ライスはきっと失望したことでしょう」
「ううん、そんなことないよ」
それでもなお、ライスは優しい声音でブルボンを諭すように
「だって突然周囲に人が集まって色んなこと言われたら、ライスだってきっとびっくりしちゃうもん。もちろん自分で撒いた種だから自業自得なんだけども、そんな立場のライスに代わってブルボンさんがライスを守ってくれたんだよね。そう考えちゃ駄目なのかな?」
「あくまでライスのためなんでしょう」そう語る彼女の思いやりに、とうとうブルボンの感情は決壊した。
「ごめんなさい。私は、私は――」
それ以上何も言えず膝を崩したブルボンを、ライスが優しくぎゅっと抱きしめる。
こんな時どうすれば良いのか分からなかったけど、ブルボンさんが落ち着くかなって思いついた所作を試してみた。
闇の中、ライスの手で撫でつけられるミホノブルボンの頭が、花火に照らされ赤に、紫に、目まぐるしく染まりゆく。
2人を見つけた女将と息子が駆け寄ってきて、この新人トレーナーは通話中のスマホを片手に、連絡を受けた黒沼と氷室が直ちにこちらに駆けつけていることを叫んで告げるのだった。
〈第一幕・了〉
続きは3/30実施されるURC02で(6枠22)