ヘルヘイムの森を越え、地球ともヘルヘイムとも違う三つ目の世界――フェムシンムの世界へと足を踏み入れた鉱芽。戦極岳斗の案内の元、鉱芽は首都シェガウへ辿り着き、フェムシンムの王――ロシュオと出会う。黄金の果実、そしてコウガネの謎が明かされる中、ついに鉱芽は母――葛木舞衣との悲願の再会を果たす。しかし彼女は全ての記憶を失い、更には精神すら幼子のものへと退行していたのだった。
俺がこの世界に足を踏み入れてから一夜が明けていた。
あの屋敷で母さんと会ってからのことはよく覚えていない。あの場で戦極岳斗の「鉱芽でもダメか」と言う言葉を聞いた気がするが、目の前の光景を見るのが苦痛になっていた俺はあの場で何が起こっていたかなどもはや知覚していない。誰かに連れられて屋敷から離れ、しばらくしたところでようやくそこがロシュオと初めて会った場所だと気づいたほどだ。その時の俺は何をしていただろうか。何かを口走ったかもしれないし、嘆きを漏らしていたかもしれない。怒鳴り声をあげていたかもしれない。心の中が押しつぶされてぐちゃぐちゃになっていた俺が、何をしでかしていてもおかしくはなかっただろう。
いつどうのようにしてベッドに入ったのかは覚えていない。どうして眠りに落ちることができたのかも皆目見当がつかない。ただ夜が明けた時、自身が再び虚無に包まれたことだけは覚えている。だが、自分が目覚めたその日が一体何の日であったのかは、もはや俺の中には残っていなかった。
「…………」
今、俺は独りだ。あの後どうやってそこにたどり着いたのか全く覚えていないが、今はただ静かに、無心に、湖の変わらない水面を眺めていることだけは確かだった。
目的なんてない。思考もない。その行為は眺めるというよりも、ただ腰を下ろして顔の正面を湖に向けているだけと言った方が正しいだろう。故に、太陽が頂点に上り水面が激しく光ろうとも、湖の色が黄昏色に染まろうとも、俺がその変化を感じることはなかった。
彼がそこに現れるまでは。
「抜け殻に逆戻り……か」
「……」
明らかに自分に向けられたその声に、ようやく俺は「音」を意識することを思い出し、重たい首だけを動かして声の主の方へ顔を向ける。久しぶりに「視覚」を意識したそこには、先日とは打って変わって街中で見かけたような民族衣装に身を包んだロシュオが立っていた。黄昏に照らされたその顔は神秘的なほどまでに綺麗で、あまりの美しさにようやく虚無から解放されるに至った。
「お前の心情は察するに余りある。だが、元の世界に帰る気はないのか? まさか全てを置き捨ててこちらへ来たわけではあるまい」
お陰でロシュオの言葉を意識できた俺は、しかし言葉を発することはできなかった。彼の言っていることが一瞬理解できなかったからだ。
──帰る? 何故? その必要がどこに? 自分は何かを忘れていただろうか……? 嫌だ、何も考えたくない……っ。
ずっと虚無感の中に身も心もを委ねていた俺には、自分の記憶を辿ることすら苦痛になっていた。記憶の中の変わり果てた母さんの姿を思い出してしまうのが嫌で、だから何も考えたくなかったのだ。しかし俺の思いとは裏腹に、脳は記憶の中でその何かを探し続けていた。そうして長く、重く、苦しい思考がしばらく続いているうちに、近い記憶から二つの約束だけは思い出すことはできた。できてしまったのだ。
──ああ、ミッチに戻ってこいって言われてたな。あと、何か大きなイベントがあったっけ……何だっけ……ああ、ラブライブ 。あったなそんなの。もう今頃、始まってるだろうけど……。彼女たちに見に来てほしいと言われていた、と思う。だけど──
「無理……どうせ、間に合わない」
無気力に、俺は誰に言うでもなくただ言葉を発する。その言葉には希望も絶望もなかった。ただ事実を事実として捉え、もはやどうしようもないという事が分かった上で、ヤケになって出た言葉だった。
きっと今更立ってもμ’sの舞台には間に合わない。そればかりか、それを理解して尚この場から動くことが出来ない自分がいる。何もやる気が起きず、約束も守れず、一人静かに居座るだけの置物。いっそこのまま惨めな姿を極めてやろうかとも思えていた。
「そうか……ふん、どのみち、この世界に留まるつもりならばそれ相応の手続きが必要だ。悪いが今は付いてこい」
「……っ!?」
ロシュオが付いてこいと言った瞬間、俺の身体は見えない力が働いたかのようにスッと立ち上がった。突然の事に動揺してしまうのも、それが明らかに俺の意思とは違う行動であったからだ。本当に見えない力──超能力のようなものだろうか──によって無理矢理立たされたのだろう、俺はその元凶であるロシュオを恨めしげに睨んだ。
ただ、お陰で地面から生えていたように固く動かなくなっていた腰を上げることもできたのも事実だ。彼への軽い恨みもあるだろうが、先ほどまでよりは思考が働き始めているのが自分でも分かった。そんな俺を見たロシュオは無言で歩き始め、俺もまたその大きな背中を追うように、ゆっくり確実に足を出し始めた。だがそれでも歩いた道のりの記憶は全くない。相変わらずろくに頭で考えることもなく、ただ目標を視界に入れながら歩くだけの作業の中でどれだけ歩いたかなど分かるはずもなく、いつの間にか街の建物の特徴的な造り見えるところまで戻っていたことに声をかけられてようやく気づくほどだ。だがそれでもまだ街には遠く、どれだけ自分が遠出をしていたのかが思い知らされる。
「今なら話を聞く余裕はあるか?」
「……はい」
ふと、ロシュオは尋ねた。時間がそうさせていたのだろう、昨日よりは幾分か冷静さを取り戻していた俺は、久しぶりにまともな声を発することができた。彼がこれから話そうとしているのは間違いなく母のことだろう。それと同時に、自分が母の異変以外に何の情報も得ていないことをようやく自覚して、ロシュオに話を促した。
「彼女がああなったのは、十二年前のことだ」
「そ……(それって……)」
十二年前……それは丁度、母さんと戦極岳斗が俺の目の前から姿を消した時であった。あの時から二人が俺の前に姿を現さなかったこと、それは母さんの変貌も関係していたというのだろうか。しかしロシュオは思いもしない言葉を投げかけてきた。
「だが葛木鉱芽、本当に覚えていないのか? “ヤツ”がお前たちにしたことを?」
「ヤツ?」
「あの世界の黄金の果実の成れの果て。お前にコウガネと名乗ったものの本体たる存在。岳斗はそいつを『マルス』と名付けていた」
「マルス……」
「お前たちの世界で『邪悪な』あるいは『リンゴ』と発音される言葉らしい。ラテン語……だったか確か」
ロシュオはコウガネの本体について説明してくれるが、俺としてはそれどころではない。彼は言った「覚えていないのか」と。それはつまり、俺の記憶にも何かしらの手がかりがあるということだ。
「王様、覚えていないとは一体? そいつは……マルスは俺と母さんに何をしたんですか?」
さっきまで言葉すらまともに発せなかったとは思えないほど、自然と口から言葉があふれてくる。ロシュオの言葉通りならば母さんの異変はマルスの所為ということになる。ならば俺は知らなければならない。俺は縋るようにロシュオへ問いかけ続けた。
「それは……そうだな。お前が思い出さぬというなら、少なくとも今は言うべきではないと私は考えている」
「どうしてですか!!?」
「その事実は今のお前ではきっと耐えられぬものだからだ。母の有り様だけで心を乱しているお前にはな」
「っ、ぐ……それは……」
それでも彼は答えてくれない。だが確かに、母さんのあの姿を思い出すだけでも苦しい今の精神状況で、ロシュオがそこまで言うほどの出来事があるというのなら、それは知らない方がいいのかもしれないのだろう。その時、心の中でそれは違う、知らなければいけない、と叫ぶ自分がいたが、同時にそれに耳を塞ごうとしている自分がそこにいた。怖かったのだ。母の変貌以上に酷な真実がそこに待ち受けているということに。自分の中に失われた記憶があるという事実に。ああ、俺はまた、元の弱い自分に戻ってしまったのかもしれない。
「ふむ。代わりに別の話をするとしよう。お前はもう気づいているだろうが、お前の母はこの世界の住人だ」
「……フェムシンム……ですか?」
「そう。グランジョム……それが彼女がこの地で生まれた時に賜った名だ」
ロシュオの語る言葉に意外と驚きはなかった。フェムシンム、グランジョム……どちらの言葉もコウガネの話の中で出てきたものだ。音ノ木坂の学園祭の後、コウガネの言葉を頭の中で繰り返しているうちに、自ずとロシュオの言う事実にたどり着いていた。俺がグランジョムの子……つまりは葛木舞衣=グランジョム、そしてフェムシンムと言う言葉……。冷静になってみれば簡単にたどり着ける結論であった。だから俺がここに来る以前から、母さんの正体については覚悟ができていた。たとえ何処で生まれようと、どんな姿をしていようと、彼女が俺の母親である事実は変わらない、それを信じていたからだ。
だが、いざ会ってみた結果がアレだというのだから……俺の世界の神様とやらはどこまでも俺のことが嫌いなようだ。
「つまりはお前は、世界でただ一人の人間とフェムシンムのハーフということになる」
「そう……ですか。あ、あの、もしかして、それって俺の五感が優れていたり、傷の直りが早いことに関係しますか?」
本来は一応父親である戦極岳斗が俺に教えるべきことではある。だが、今は心情的にこの目の前の話の分かりやすそうな王様に聞くことが自分にとっても安牌に思えた。今まで特に貯めることなく言葉を返してくれたロシュオをだが、この時ばかりは少しだけ考えるように時間をおいてから、その質問に答えてくれた。
「……全てのフェムシンムの民はあの森から生き延びるため、拒絶者を除く全ての民の身体を、私の力で改造している」
俺の質問の答えとは違うが、前置きとして必要な説明なのだろう。だがあまりにも興味深い内容のために、俺は自分の質問の内容も忘れて入り込んでしまう。
「か、改造……?」
「具体的にはあの森の生物に近い身体の構造にだ」
「それって──」
「『怪物』などと私の民を軽々しく口にするなら今この場で貴様を葬ることになると知れ」
「──分かりました。決して口にはしません」
意外な形で知ることになったヘルヘイムの侵略を生き延びた方法であったが、それは民の身体を変化させることであった。なるほど、通りでヘルヘイムの果実を食べても変貌をしないはずだ。彼らの身体は既にインベスのそれと類似するものに変わっていたのだから。しかしそれでいて、彼らは人間性……フェンムシンム性の方が正しいか? それを失ってはいない。彼らは理性を保ったままインベスと化したようなものだ。以前と変わらぬ価値観のまま、超常的な力を手に入れたのだ。
そして、それはきっと母さんも同じ……。
「岳斗は『死を超越する者』と称して『オーバーロード』と呼んでいたが、まあそれはどうでもよいか」
「じゃあ母さんも、その……オーバーロードというやつ?」
「そうだ。それで質問の答えだが、お前の五感も再生力も、恐らくはオーバーロードの力を受け継いだ結果であろうな。オーバーロードとなった我が民は皆、強靭な肉体と同時に植物を操る術を得た。その力の一部がお前に宿っていてもおかしくはない、か」
「そう、なんだ……(人に植え付けられたヘルヘイムの植物を取り除けたのも……絵里を助けられたのも母さんのおかげなんだ……)よかった……」
自分の身体に関する謎はほとんど解けたことに安堵を覚えるとともに、この身体のおかげで……母さんが俺を生んでくれたおかげで、守ることのできた人がいるという事実が、今はとても嬉しく思っていた。ずっと母さんに助けられていたという実感を得ることができて、ようやく救われたような気がした。
「ありがとう……母さん……」
内に秘めようとした母さんへの感謝は、抑えきれずに口から漏れていた。恐らく先を歩くロシュオに聞こえていたことだろう。
いつしか、母さんの姿を思い出すのは苦痛ではなくなっていた。むしろそれは逆で──
「もう彼女には会いたくはないか?」
街への入り口が見えてきたいうところでロシュオは俺に訊ねてきた。それはある種の挑発だろうか。どこか試しているようにも聞こえた。確かに俺はロシュオが会いに来てくれるまで、母さんに会うのが嫌になっていた。あの施設に近寄りたくなかった。
そうだ思い出した。俺はああなってしまった母さんのそばにいるのが辛くて、街から逃げてきたんだった。会いたかった人がそこにいなかったという事実を認めたくなくて、自分から遠ざかっていたんだ。
それでも、今俺はこうして帰ってきてしまった。ロシュオはきっかけだ。きっと彼がどういう風に誘おうとも、俺はここに戻ってきていただろう。
だって──
「──会いたい」
「お前のことを覚えていない。それどころか幼子に戻ってしまった。それでもか?」
「それでも……会いたい……諦められないです! こんな形で終わるなんて!」
それが俺の本心だった。母さんは確かに自分を失っていた。だけどそこで諦められるような性格はしていない。そうだ、俺たちの世界でも幼児退行は起こり得る。人によって治療法は違うけれど治る人だっている。十二年治らなかったからなんだっていうんだ。きっと戦極岳斗だって諦めていないだろう。だから俺をここまで連れてきたのだから。ならば俺が諦めてどうする。ここにいるのは母さんの一人息子だぞ。簡単に忘れ去られてたまるものか!
もはや覚悟を決めるのに躊躇いはなかった。
「王様、俺は絶対に諦めません。何度だって会いに来ます。何度だって母と話します。どんなになっても、あの人は俺の母親なんです!」
ロシュオの挑発に乗せられる形で、俺は啖呵を切った。相手が王様だろうがお構いなしだとは思ったが、もはや止められない。
だが、ロシュオは薄く笑みを浮かべ俺を見つめていた。それはどこか、眩しいものを見るかのように……。
「ふっ……どうやら存外、強かなようだったな」
「俺は強くないですよ。だって、俺よりもっと……本当に強い人を知っていますから」
コウガネに囚われた自分を救い出してくれた
例え彼女が今の俺と同じ立場だったとしても、きっと同じことを叫んだであろうという確信があった。
「その顔は知っている。よい伴侶がいるのだな」
「は、伴侶って、べ、別にまだそこまでの関係じゃ──ていうかなんで女性だって?」
「ふ、男の勘だ」
そう言って彼が見せてきた不敵な笑みは、あまりにも魅力に満ちたもののように感じられた。ダメだ、この王様強すぎる。勝てる気がしない。並ばれると同じ男としてこちらが情けなくなるレベルだ。しかしもう一つだけ、この王様に関して俺には気になることがあった。
「でも、あの、王様。なんで俺にここまで……?」
わざわざ遠く離れた湖まで俺を連れ戻しに来てくれたと思えば、母に纏わる話をしてくれたり、俺に覚悟を決めるのを促したり、ハッキリ言って一王様が個人に対応する範疇を優に超えている。そこまで彼は戦極岳斗に借りがあるとでもいうのだろうか。
「岳斗もそうだが個人的な事もある……が、それも時が来たらだな」
「そ、そうですか」
「それでどうする? ここに居座るか? それとも帰るか?」
「戻ります。俺の世界に」
先程も似た質問をされたが、今度は即答した。今更地球に戻ったところで取り返しが付くはずがないことは分かっている。それでも俺は彼女たちの結末を見届けなければならない。μ'sだけではなく、ツバサたちA-RISEもだ。どんなに辛い結果が待っていようとも、また自分が腑抜けになろうとも、それが自分への罰ならば受け入れるしかないのだから。
「そうか、では──」
「あっ、おうさまー!」
「っ……」
ロシュオの声を遮って耳にこだましてきたのは、あの少女のような声。あまりにも懐かしくて、そして苦しくて、胸が張り裂けそうな思いだ。
「きょうもおしごとだったの?」
「ああ、私はいつだって王様だからな」
ロシュオは母さんに向けて、親がそうするかのような優しい笑みと声で応えた。それに満足そうに微笑んだ母さんは、次に俺の方を見て、そして──
「おにいちゃん、だいじょうぶ? いたいの、もうなおった?」
ポン、と。親が子にするのを真似する子のように、彼女は俺の頭に手を乗せて、優しく撫で始めた。彼女が現れてから今に至るまでがいきなりすぎて、何の反応も出来ずにいる俺。昨日は全く言葉を交わせなかったが、もうそうは言っていられない。俺は心の中で今にも消えてしまいそうになっている火を必死に滾らせて、そして彼女の──母さんの頬に手を添えた。
「もう大丈夫。ありがとう……お母さん」
俺は、十二年ぶりに彼女をそう呼んだ。
「おかあさん……わたし?」
「急にごめん。俺の名前は、葛木鉱芽。葛木舞衣の……貴女の子どもなんだ」
「かつらぎ……こうが……」
彼女は意識していないだろうが、その口から俺の名が呼ばれるのも十二年ぶりだ。そして母さんはその名前を覚えようとするかのように、数度俺の名を呟く。溢れそうになる気持ちを何とか堪えて、俺は母さんの反応を待つ。その名が彼女の中にずっと残り続けることを願って。
「こうが……ふふふっ、そう! わたし、こうがのおかあさんなのね! よしよし」
そう言って母さんは嬉しそうに、眩しいばかりの笑顔を浮かべて俺の頭を撫でまわした。母が子にするように、というよりは"ままごと"で女の子が親の真似をして振る舞っているように。今はそれでもいい。今はただ、自分の名前さえ憶えてくれれば……俺が彼女の息子だということを知ってくれれば、今はそれでいい。
「ありがとう、お母さん。でも俺、約束があるからもう行かなくちゃ」
「そうなんだ……やくそくはやぶっちゃダメだもんね。いってらっしゃい、こうが」
──行ってらっしゃい、鉱芽。
それは昔、たった一年と少しの間ではあるが、小学校へ行くときに毎日母さんから言われていた言葉。今の彼女にそのつもりはなくとも、俺にとっては母との貴重な思い出のワンシーンだ。忘れられるはずがなかった。図らずとも当時のやりとりの再現となってしまい、俺は懐かしさから目の奥が熱くなってしまっていた。
「っ……うん、行ってきます。また、会いに来るよ、お母さん」
「うん! たのしみ! えへへへへっ」
俺は母さんの両手を強く握り、約束した。もう彼女から逃げない、永久の別れが来るまでは絶対に諦めない。そう自分自身に誓い、名残惜しくも俺の手は母さんの手から離れた。
「王様、ありがとうございました。俺、行きます」
最後に随分と世話になったロシュオに告げる。彼には伝えたい気持ちは全て伝えているし、これ以上の言葉は時間を無駄にするだけだ。だが、踵を返そうとしたところで俺は重要なことに気づいてしまった。
「あ……でも、どうやって帰れば……? それにこっちへくる方法も……」
来る時は戦極岳斗に連れられ、ヘルヘイムの森の中で再度クラックを開けてもらい、この世界に足を踏み入れた。だが俺にはそんな力はない。覚悟を決めた手前で格好が悪いが、自分の意志で好きな時にこちらへの行き来が不可能なことは頭から抜け落ちていた。
「帰りの扉ならば私が開けよう。来るときも近いうちにまた岳斗が迎えに行くことになろうが……全く岳斗め、息子の見送りくらい来ればいいものの」
ロシュオの言葉通りなら、彼も戦極岳斗同様に個人でクラックを操る術をもっているのだろうが、そこに驚きはなかった。コウガネやマルスと同様の力を得ているならば、それは意外でもなんでもないだろう。しかし、やはりまたアイツに招待される流れになるのか、と口から出かかって何とか抑える。息子を失ったと語ったロシュオの前で、親への不快感など出すものではないだろう。そう考えていたのだが、ロシュオはまるで気づいているかのように俺に語り掛けてきた。
「だが、あまり邪険に扱わないでやってくれ。アレもアレで苦労しているのでな」
「そ、そうですか」
とは言われてもそう簡単に感情を変えることは難しい。現にあれから全く俺の前に姿を現さないのだ。不快に思わない方が難しいというものだ。
──ギュィィィィィィィィィン
その時、俺の眼前に突如としてクラックが出現した。静かにゆっくりと、俺たちの前で大きく開いていくそれは、宛ら本物の門のようにも見えた。恐らくこれがロシュオが開いてくれたクラックのなのだろう。
「ふ……まあそれもいつか解決すればいい。ではまた会おう、葛木鉱芽」
「ばいばーい! こうがー!」
「はい、ありがとうございました。お母さん、行ってくるね」
二人に別れを告げ、俺はクラックの中へ足を踏み入れた。振り向けば閉じるクラックの向こう側では未だ母さんが大きく手を振る姿が見えた。そんな姿が愛おしくて、こちらも手を振り返す。クラックが閉じていくのがもっとゆっくりになればいいのにと心の底で思いながら、俺は母さんとのやり取りを噛みしめるように手を振り続けていた。
「話し相手になってくれた礼だ、少しだけ時間を巻き戻してやろう」
「え──?」
クラックが閉じる直前にロシュオがとんでもないことを言った気がするが、その詳細を問う前にクラックは完全に閉じて消滅してしまった。『時間を巻き戻す』とロシュオは言っていたが、その意味が一体何をしているのか、その時の俺には分からなかった。
いや、まるで理解していなかったのだ。
黄金の果実の力、その一端を。
「……とにかく行かないとな……変身!」
自身の周りで起きている変化に気づかないまま、俺は鎧武へ変身を遂げる。召喚したサクラハリケーンに跨り、俺は異世界の森を疾走していくのだった。
残してきた約束を果たすために。
あの時、安心故に確認をするのを怠ってしまったことがある。「ヘルヘイム病を治せることもオーバーロードの力なのか」という質問をロシュオに投げかけていれば、果たしてどういう結末に至っていたのだろうか。いや、きっとろくな結末にならなかっただろう。自身の知らない真実を知るのが早まるか遅くなるかの違いだけであろうが、それによって間違いなく彼女たちとの約束は守れなかったのだから。
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鉱芽がフェムシンムの世界から去った後、ロシュオは一人その場で佇んでいた。
「……結局見送りに来なかったな」
「その方がヤツにも楽だろう」
「そういうものか……」
ロシュオの独り言のような発言に、静かに答える影があった。声の主──戦極岳斗は、鉱芽が去った後の空間を特に興味を持っていないかのように気だるく眺めていた。
「不肖の息子が世話をかけたな」
「何、存外に話ができて面白かった、とだけ言っておこう」
「泣き虫なところは相変わらずだったがな」
「仕方なかろう。あの時のお前も相当だったが……いや、過ぎた口だったな」
射貫くような鋭い目つきで自分を睨む岳斗に気づき、ロシュオは息を漏らしながら言葉を飲む。そして懐に手を伸ばし、それを取り出して──
「聞き分けがよくて助かった。手荒な真似をせずにすんだからな」
鉱芽のことを思い出し、そう呟く彼の手には一つのロックシードが握られていた。黄緑色に輝くそれは、鉱芽も持つメロンロックシード。そう、最悪の場合は実力行使に及んでいたことをロシュオは岳斗に語ったのだった。
だが、その力すら彼にとっては十分に手心を加えた選択だということを、その矛先が向けられていた本人は知る由もない。ヘルヘイムの浸食を乗り越えた王にとっては、その手に持つ強大な力ですら拘束具にすぎなかったのだ。それに対して岳斗はただ一言「甘いな」とだけ告げ、一人街の中へと去っていくのであった。それを見守るロシュオもまた、自らの責務を果たすべく街へと足を運ばせた。
戦極ドライバーとロックシードの生みの親、戦極岳斗。
フェムシンムの王──ロシュオ、かつての名をロシュシェンム。
彼らもまた、葛木鉱芽や立花道行と同様、世界の命運を握る戦いの中心に駆り出される
しかし、同じく戦極ドライバーを持つ彼ら四人が集うまでにどれほどの時間を有するかは誰も知る由もない。
舞台斬月で新たに登場する新フォームのお陰で今後の展開も大分やりやすくなりました。
本作におけるロシュオが変身するライダー……その活躍をお楽しみください。