皐月賞馬というのはそこまで取材やファンが増えるわけではない。
例えばこれが皐月賞本命の馬だったら「いざダービーへ」という記事になるのだが、6番人気程度の中穴馬が雨で荒れた皐月賞を制したところで大した目玉にはならないのだ。
というわけで今日も井野厩舎は閑散としており、張り込んでいるマスコミはいつも取材に来ている寺尾記者ひとりである。
「コウヘイ、そろそろ馬場空いただろ。いこうや」
「あい」
そんな声が事務所の方から聞こえ、しばらくするとしっかり身支度を整えたコウヘイがやってきて、馬房の扉を開けた。
皐月賞が終わってからしばらく曳き運動程度で退屈だったので、久々に馬場に出れるとなると嬉しい。
なるほど馬は走れないとストレスが溜まるというのがよく分かった。
準備は全部やってもらう立場なので当然じっとしていた方が早く終わる。
「あ、ちょっと鞍つける前に写真いいですか?」
井野
俺はフラッシュを焚かれても気にしないが、さすがにそれをやらかす競馬記者はいない。
近年スマホのカメラも進化しているが、盗撮防止のためにシャッター音が鳴る仕組みになっており、馬が驚くこともある。その点デジカメは基本的に無音だ。
ピッ、ピッという小さな電子音が数回聞こえたあと、寺尾記者がカメラから目を離した。
「いや、どうもありがとうございました」
コウヘイがせっせと馬装をしているあいだ、俺は井野調教師と寺尾記者の話に文字通り耳を傾けていた。
「よくこの馬体で皐月勝てたもんだよ。ダービーも勝つつもりで仕上げるさ」
井野調教師の本音としてはなるべく坂路は使いたくなかった。
どうにも馬体に緩さが残っており、脚元の故障はあまり気にしてはいないが筋肉への負担が心配だったのだ。
しかし皐月賞馬としてダービーに挑むとなれば生半可な仕上げはできない。
苦手な東京の直線に負けない脚をつくるには坂路が不可欠なのだ。
「コウヘイ、とりあえず流してくるだけでいい。タイムは重視しないからジェルがどれくらい走れるかチェックするだけだ」
「わかりました。速かったら抑えますか?」
「一切合切馬なりでいい。ヨレるようなら矯正はしろ。併せられてもそのままだ」
なるほどなるほど。井野調教師の指示を全部頭に入れ、馬上のコウヘイの合図に合わせてトラックコースに向かう。
まずは軽くウッドコースで慣らしてから坂路のコースに移る。馬も人もウォーミングアップは大切なのだ。
もとよりビッシリ追うつもりはないので、坂路の近くにあるアップ用のコースではなく、Dコースを流して一周する。
「おっと」
コーナーに差し掛かると、コウヘイが少しバランスを崩した。
「お前、コーナー回るのまた速くなったな」
中山内回りで2回も走らされたらさすがに慣れたものだ。美浦ウッドのコーナーなど大して難しくない。
もっとも中山は右回り。
左回りの坂路の前のウォーミングアップでは当然左に回るのでややぎこちなかったと思う。
この時期の坂路入り口はまだ涼しい。
あと半月もすればジメジメとした半地下空間になっていくのだろう。
前が空いたので、コウヘイが内側に頭を向けさせた。外の方は強めに追って加速してくる馬に譲る。
さて、馬なりでとは言われたものの、普通の馬が鞭やハミの強さによる加減速の合図に従って動くのに対して、俺はハミの詰め方とか合図とかそういうのは一切関係ないわけだ。
さすがに手綱を引いて顔を引き上げられたら走りようがないが、騎手がただ跨っているだけでもある程度考えて走ることはできる。あとはメンタルの問題だ。
コースに出るとすでに前に何頭か走っている。体格的に新馬ではなさそうだ。
ワザと馬体を寄せて並走してやろうかとも考えたが、厩舎同士で打ち合わせもしていないのに寄って行ったらマナー違反で、コウヘイが叱られるし井野調教師の評判にもかかわってしまう。
だが、向こうから寄ってきた場合は話は別だ。俺は悪くない。
外を回して後ろから来た馬は、どうもササり癖があるらしく、懸命に乗り役が顔を外に向けさせたり、左ムチを入れていた。
こちらに馬体が寄ってきているが、もともと群れで生活する馬が自ら追突しにいくことはない。
少しペースを落とすと、後ろの奴が追いついてきた。
ペースをその馬に合わせ、ぴったり左隣に付いた。
「おい、あぶねえじゃねえか」
コウヘイが怒鳴っているが、相手の乗り役もどうしようもない状況だ。
基本的に優先権は自動車と同じように、直進していて且つ前にいる馬にあるのでもう俺に責任はない。
馬に限らずどの動物でも当たり前だが、攻撃意識があるわけでもなく普通に走っている場合、障害物に当たる前に避けようとする。
隣の馬もこちらに寄ってきたが、ぶつかる直前で重心を動かしまっすぐ走り出した。
「なんだ、まっすぐ走れんじゃねえか」
コウヘイも前に向き直った。
ちょうどいい具合に併入できたので、200の標識を過ぎたあたりから少しペースを上げてみた。
コウヘイが少し驚いたように手綱を握りなおした。
隣の馬が寄ってきてもマイペースで走っていたのに、急にペースが上がったので若干バランスを崩したようだ。
結局、最終地点では隣の馬が半馬身前に出ていた。
言い訳になるが、隣の馬はしっかり追われていたのに対し、こちらは井野調教師の指示通り終始馬なりだったので、首の上げ下げで勢いをつけることができなかったのだ。
コウヘイが馬上で12秒4、とつぶやいた。
おそらく最後のラップタイムだろう。
つまり俺に合わせてきた奴も12秒前半が出たというわけだ。
まあコウヘイの体内時計は0.5秒ぐらいはブレがあるんで、実際はそこまで早くないかもしれないが。
隣の馬がどのレースに出るのかはわからないが、12秒前半となればGⅠでも買えるタイムである。
おそらく週末の競馬新聞の調教情報には“皐月賞1着馬ジェルディサヴォアと400mより併入、
「この時間は坂路
レヴィンデザートは現在1勝クラスでキャリア9戦目。
さすがにそろそろ昇級する見込みがないと、この馬にも先がないことは覚悟している。
坂路タワーに腰かけて双眼鏡で馬を探した。
まだ後ろのタイムモニターにはレヴィンデザートの名前はない。
坂路の入り口付近でようやく見つけた。
レヴィンデザートは1勝クラスなので、ゼッケンには4桁の番号が振られているだけだ。
坂路コースのスタート地点は半地下なので一瞬馬体が消え、少し待つとタワーからも駆け上がってくる馬が見えるようになる。
後ろのタイムモニターにも名前が表示された。馬の調子は良さそうだ。
コーナーを左にカーブすると、やはりまた手前替えに失敗したのだろう、コースを横切るように内にササった。
「まずい!」
つい漏らしてしまった声に、タワーにいる記者や他の調教師が一斉に双眼鏡を覗き、事態を飲み込むとどよめいた。
双眼鏡でレヴィンデザートが流れていった先を見た三船は背筋が凍るような感覚に陥った。
ヨレて行った先には他の馬が走っており、あろうことかゼッケンに星がひとつ入っていたのだ。
ゼッケンに描かれる星はGⅠ馬の証。
一つ星だとしても、1勝クラスでクスブっているレヴィンデザートと比べたら馬としての価値は月とスッポン。
(頼む、当たらないでくれ……)
三船はレヴィンデザートと平手に向かって祈った。
当たる直前ようやく手前が替わり、今度こそレヴィンデザートはまっすぐ走り出した。
三船は崩れるように椅子に座り込むと、タワー内を見渡してようやく井野調教師の姿を見つけた。
すぐにでも駆け寄って謝りたかったが、馬を管理する責任者として、調教が終わるまで目を離してはならない。
ようやく2頭が坂路の終点を通過し、馬を止めた。三船は後ろのタイムモニターを一瞥すると井野のもとへ走った。
「井野センセイ、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
調教師としてのキャリアは三船の方が上である。
懇意にしている馬主が谷地しかいない井野と違って、三船は競馬クラブからの委託も受けている。
しかし今回はそれが災いした。
クラブの最有力馬はリーディング上位の厩舎に行ってしまうので、三船に回ってくるのは年間50頭から100頭以上もいる募集馬の中でも下から数えて両手で足りるレベルの馬ばかりである。
そうなるとレヴィンデザートのようなクセ馬ばかり集まってくるのだ。
「いえいえ、いい併せになりました。むしろジェルが噛みつきに行かないか心配でしたよ」
井野はにこやかに言った。
ここのところジェルの調教が上手くいっておらず、久々にいい走りを見たと満足げだったのだ。
井野はタイムモニターに目をやると、時計をサッと手元のバインダーに記録した。
「三船センセイ、馬迎えに行きましょ」
井野は寺尾記者を呼ぶと、三船とともにタワーを降りて行った。
<――4コーナーを回って直線コースに入ります。
先頭5番ボーナススピンを2番ジョーゲンロールス交わしていって、馬場の真ん中10番リミッター前に迫ってくる。
まだ粘るジョーゲンロールス、大外から7番のレヴィンデザート追い込んであと200メーター。
リミッター前に出るが、その外から7番のレヴィンデザート。レヴィンデザート交わした!ゴールイン!
最後は7番レヴィンデザート交わしきりました。後方3番手から一気にとらえて1着の入線。
2番手は内から伸びた10番リミッター、その後ろ3番手争い2頭接戦になりましたが、2番のジョーゲンロールス、粘ったように見えます。
着順掲示板2着まで上がっております。
1着7番レヴィンデザート、2着10番リミッター、3着4着写真判定、確定までお待ちください。
東京7レースお伝えいたしました>
実況が終わると、スタジオのアナウンサーが勝ち馬のプロフィールを読み上げる。
「東京4レース、勝ったのは7番のレヴィンデザート。5歳の牡馬で、父はインディチャンプ。
この子は脇役馬です。