ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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東京優駿直前の


路線変更

 美浦トレセンの記者ルームでジェルディサヴォアの立ち写真を並べている寺尾記者が頭を掻きむしった。

(どうすんねんこれ……)

 パソコンには皐月賞翌週から今週までのジェルディサヴォアが映っているが、明らかに酷い馬体をしている。

 皐月賞で一番人気に推されていたドメスティックギアはNHKマイルCに行ってしまったが、東京優駿(日本ダービー)の出走予定馬ではアンベストネヴァー、ヴァルカリ、ミュージカルレースの皐月賞組が好気配らしい。

 坂路で追われてタイムもGⅠ超級、アンベストネヴァーに至っては今秋の凱旋門賞挑戦プランも浮上しているとのことだ。

 

 寺尾はスマホをもって記者ルームを出た。

『――はい、戸次(とつぎ)です』

「どうも、寺尾です。トッちゃん、ダービーの本命、ジェル外すわ」

 電話相手の戸次記者はアンベストネヴァーの所属厩舎の担当で、寺尾と同じ全報(ぜんぽう)スポーツの競馬記者である。

『え、それならそのつもりでネヴァーの千石センセイに張り付きますけど、ジェルそんなにヤバいんすか?』

「来週の一週前追い切りまで追ってみるけど、よくならねえだろうな」

『怪我ですか?』

「いや、怪我とかはないんだけど、なんだかなあ……」

 

 寺尾にとっては、ここ数年で一番惚れ込んだジェルディサヴォアを東京優駿の本命から外すのは非常に口惜しいものがあるが、せめて自分が担当している関東の馬に勝ってほしいという思いもあった。

「ジェルはよくて押さえまでだ。東の軸はネヴァーかルブルムバイキングで行く。ロクさんに負けんなよ」

『バイキングは調子上がりそうなんスか?』

「調教の動き見てからだな、とりあえず――ネヴァーの取材はきっちり頼むわ」

 

 東京優駿まで残り2週間を切った。

 今週末は優駿牝馬(オークス)が開催されるという中、コウヘイこと宮国浩平(持ち乗り)厩務員がジェルディサヴォアの馬房の掃除に入った。

(下痢だ……)

 コウヘイが小さく舌打ちをした。

 それでも馬房の壁やしっぽに飛び散っていないのは流石だが、まずは早いところ掃除を終わらせて井野調教師へ報告しなければならなかった。

 

 しばらくして、調教から帰ってきた井野をコウヘイが呼び止めた。

「センセイ、ジェルのやつ、下痢してました」

「そうか……。とりあえず医者呼んで検査してもらうか。今のうちに洗ってやってくれ」

 一応下痢や便秘に効果がある整腸剤入りの飼料もある。レース前に投与しても問題ない成分だ。

 獣医を呼んだのは変な病気に罹っていないかの検査である。

 採尿と採血検査があるが採血の方は問題ない。

 暴れる馬は鼻捻子(はなねじ)を使うこともあるが、ジェルディサヴォアは鼻捻子どころか針を鼻先で一旦見せた方が安心する。横に立ってこっそりブスリはご法度だ。

 むしろ大変なのは採尿の方で、ジェルディサヴォアは馬房の近くに人がいるときは尿が出ない。

 バケツや(たらい)を馬体の下に置き、馬房を2分ぐらい離れているとジャーと音が聞こえるのである。

 

(なんでこうなるかなあ……)

 井野厩舎の事務所のムードは重苦しい。

 井野厩舎にとってはジェルディサヴォアの父セスナ以上に東京優駿制覇の期待がかかる馬であった。

 中山のコース特性に加えて不良馬場の皐月賞で逃げ切ったのは有利な条件が重なったからだという意見が多いが、決してフロックではないと厩舎スタッフならわかっている。

 

 もちろん誰も口に出すことはないが、むしろ上田騎手という余計なハンデを背負って走っているのだから、トップジョッキーが乗ったら無敗の3冠すら狙えた絶対的な能力はもっていると信じていた。

 なお担当のコウヘイは、一番の弱点はメンタルの上下幅が激しいことだと言う。

 だが、そのトリガーがどこにあるのか、それはまだわかっていない(いうまでもなく、東京阪神競馬場嫌いである)。

 

 過去にも「気分屋」と呼ばれる馬は多く存在した。「新聞を読める馬」と呼ばれた馬も何頭かいる。

 だがそれは得てしてコース相性が極端だったというタイプが多い。

 賢い馬ほど中山や京都、あるいはローカル開催を得意とする。複雑なコース形状や起伏を楽しみ、「遊ぶ」ことができるのだ。逆にシンプルな東京や阪神競馬場では「飽きる」。

 一方、育成のころから直線一本の坂路をひたすら走らされたような馬は東京競馬場では鬼である。

 

 だからこそ「中山巧者」と呼ばれる馬がいたり、東京優駿だけ勝ちそれ以降は鳴かず飛ばずの馬、秋の天皇賞、ジャパンカップでは惨敗が続いても有馬記念で激走するような馬がいるのだ。

 

 閑話休題。

 

 さて、井野も井野で胃が痛くなっていた。当たり前のことだがこれはオーナーの谷地に報告しなければならない。

 井野は3回トイレに駆け込んだ後、ようやく電話を手に取った。

 厩舎のトップと、トップホースがそろって下痢になっていた。

 

「あらら、ジェル、あんま無理しなくていいからなー」

 谷地が美浦トレセンに顔を出したのは土曜のことだった。

 検査の結果も出ており、「病気はみられない。ストレス性」という診断だった。

 馬に限らず動物というのは非常にデリケートなので、ストレスで体調を崩すなど日常茶飯事ではある。だが、馬を預かっている以上、ストレスを少しでも少なくする環境を整えるのも調教師の役目だ。

 一方谷地は穏やかな表情から変わらない。谷地からしてみたら「井野調教師の下で体調崩したのならしょうがない」という考えを持っていた。

 

 井野は馬の体調管理の腕はいいが、あまり強めの調教を課さない分なかなか勝ち星が伸びず、大手競馬クラブからは敬遠されているのが実情だ。

 一方で少しでも長く走らせて、少しでも賞金や出走手当を稼いでほしいという個人馬主からの人気は高い方である。

 

「ダービー、あんまり頑張らなくていいと思いますよ」

 軽い口調で言ったものの、どうせならエプソムダービーに登録しとけばよかったなあと谷地は後悔した。

 谷地の持ち馬はほとんどが流行から一歩か二歩引いた血統ばかりである。

 今の競馬界を席巻しているのはディープインパクトとその兄、ブラックタイド(ある意味ウインドインハーヘア系と言ってもいい)血統と、キングカメハメハ、というよりロードカナロアやドゥラメンテの血統であるが、その主流系統の馬はもっていない。

 

 一方でステイゴールドやハーツクライの系統は何頭か所有しており、ジェルディサヴォアの父セスナはヒシイグアスの子であり、いうまでもなくハーツクライの孫にあたる。

 ジェルディサヴォアはアウトブリードであるが、今時アウトブリードを作り出すのは非常に難しい。

 谷地と、その先代である谷地の祖父が半ば強引に5代血統表からクロスを消した成果がジェルディサヴォアなのである。

 

 あくまでアウトブリードというのは5代血統表にクロスが生じていないだけであり、血統表から消えた6×6にはリファールが入っている。

 それでも天下のサンデーサイレンスが5代血統表の一番端に位置しており、血の飽和と言われていた十数年前よりは楽になったのかもしれない。

 

 ジェルディサヴォアの血統表にはチャンピオンSの勝ち馬デビットジュニアなどを輩したプレザントタップが、また血統表から外れた6代目にはフランスのリーディングサイアーで日本でもプレクラスニーなどを輩したクリスタルパレスや前述したリファールなどが名を連ねており、それにハーツクライ血統なのだから世界中どこでも走れるのではないかという期待を谷地は持っていたのだ。

 

「この調子なら勝ち負けは厳しいでしょうしね。どうです、井野センセイ。ダービー終わったらフランス、走らせませんか」

「え、凱旋門ですか?」

「いえ、それだと菊花賞に出られなくなりますから、ダービー終わったらすぐ飛んで、7月半ばのパリ大賞典というのは。追加登録にもまだ間に合いますし、アイルランドに知り合いがやっている牧場がありますから、そのまま向こうで夏を越させたいのです」

「はあ……いずれにしてもダービー終わったらそちらの牧場にお返しする予定でしたから、セントライト記念に間に合えば問題ないですが」

 

 谷地にしてみたら牧場スタッフを何人か同行させ、ジェルディサヴォアの面倒を見させつつ向こうのスタイルを勉強させる研修旅行という目論見もあったのだ。

 その後谷地は事務所でコーヒーをごちそうになった後、遠征の手配を始めるためにいそいそと帰って行った。

 

 日曜の午後、上田騎手は井野から電話を受けた。

 その日は珍しくメイン開催の東京競馬場で仕事があったのだが、だからと言ってGⅠ優駿牝馬で乗る仕事などあるわけもなく、第6Rの1勝クラスが終わったら着替えて帰宅していた。

 来週は東京優駿初騎乗になるので、作戦の電話か、激励か、最悪乗り替わりを告げられるのかもしれないと恐る恐る電話を取った。

 

『ジェルのことなんだが――』

 電話口から井野が切り出した。

『あいつの調子が悪いのは知っての通りなんだが、ダービー終わったら海外挑戦することにした』

 はあ、と気の抜けたような返事をして、上田は次の言葉を待った。

 

『アキ、お前さんパスポートもってるか?』

「いえ、持ってないです」

『じゃあ明日、朝一で申請しとけ。来週いっぱいでもらえるだろ』

「ジェル、香港でも行くんですか」

『いや、ちょっくらパリまでな。付き合ってくれや。どうせ安田も宝塚もヒマだろ?』

 身も蓋もない言われ方ではあるが、間違いなくヒマである。

 

「フランス?凱旋門ですか?菊花に出るって……」

『いや、菊には絶対出る。向こうで走るのは7月のパリ大賞典よ。気ィ抜くんじゃねえぞ?あのレースはフランスの中では多分一番地元贔屓がすごいやつだぞ』

 

 実際、パリ大賞典(Grand Prix de Paris)はフランスの競馬ファンにとって「ここだけは地元馬に」というレースである。ジョッケクルブ賞(Prix du Jockey Club)ことフランスダービー以上に熱いレースなのだ。

 フランスダービーは日程上イギリスの馬が遠征してくることはあまりないので「フランス3歳馬の頂点」を決めるレースに過ぎないが、パリ大賞典は「欧州で最強の3歳馬はフランスの馬である」ということを“前提にした上で”、遠征してくるイギリスやアイルランドの陣営に見せつけるレースであり、その入れ込み具合は凱旋門賞(Prix de l'Arc de Triomphe)など目ではない。

 

 スペルを見れば察すると思うが、フランスダービーが「ジョッキークラブ(プリ)」、凱旋門賞はそのまま「凱旋門(プリ)」であるのに対して、パリ大賞典は「パリグラン(最高の)プリ()」である。

 日本における○○大賞典というのは、大井競馬のGⅠ東京大賞典を除けば他はGⅡ*1、GⅢ*2であり低級重賞競走と思われがちだが、フランスにおいては最高峰のレースの称号を冠しているのは凱旋門賞ではなくパリ大賞典なのである。

 なお日本においても、中京大賞典と中山グランプリは後に高松宮記念と有馬記念にそれぞれ名前を変えている。

 

 こんな保守的なレースに日本馬が出走しようものなら徹底的に潰されるのは当たり前だ。

 

『ジェルはそのまま向こうで夏を越す。セントライト記念に間に合うようには帰ってくるらしいけどな。お前さんはずっと向こうにいるわけにはいかないだろうが、いい経験にはなるだろ。なんたって凱旋門と同じロンシャン2400mだ。で、話は変わるがダービーの最終追い切りだけど――』

 

 東京優駿に向けた最終追い切りの日。

 ジェルディサヴォアと上田を送り出した井野調教師は、番記者の寺尾を引き連れて調教スタンドに座っていた。

「寺尾さん、オフレコあるんだけど聞きたい?」

「オフレコったって、私に話したら全部オンになるでしょ」

 寺尾が手帳とペン、そして録音マイクのスイッチを入れるのを待って、井野がボソッと話し出した。

 

「ダービー、だめかもしれん。下痢が治まんなくてなあ。飼い食いはそこまで悪くないんだが、全然攻めきれんのよ」

 三船厩舎のレヴィンデザートが偶然併せてきたときは終いタイムもよく、走りが戻ったと思っていたのだが、翌週以降併せてみても明らかに足りてない。

 相手が古馬とはいえ2勝クラスの馬相手に併入(へいにゅう)*3までで止まってしまったときは流石に諦めがついた。

 

「最終も流してるだけだ。見ての通り」

 スタンドから見て奥側、Bコース(ダート)を紫色のゼッケンが通り過ぎていった。

「え、これ最終なんですか?」

 寺尾は急いでタイムモニターを見た。今どき特殊な事情を除けば、GⅠの最終追い切りをダートコース、しかも狭い方でやる陣営などいない。

 

「ダービー終わったら放牧ですか?夏競馬行くんですか?」

「いや、海外のレースに出すつもりなんよ。フランスだ」

 寺尾のペンが止まった。

「凱旋門賞ですか?菊花にはいくって……」

「そうそう。だから出るのは7月半ばのパリ大賞。そのまま向こうで夏を越すってさ」

ヤネ(騎手)は?」

「秋信よ。変える理由もないだろ?」

 寺尾は、わざわざ重箱の隅をつつくように探さなくても乗り替わりの理由なぞいくらでも出てくる、と言いたいのをぐっと堪えた。

 

「で、これどこまで書いていいんですか?」

「任せるわ。全部ぶち上げてもいいし、遠征の方は全報さんの特ダネにしてもいいし」

 特ダネと言えるほどのネタでもないけどな、と井野は冗談交じりに言った。

「でもオーナーの意向があってな、体調不良のことと、このクソみたいな最終追い切りの情報は他のブン屋さんにもしっかり伝えといてくれって」

 腹の調子も最終追い切りも、下痢のようにダラダラとしたクソであった。

 

 ジェルディサヴォアの体調がとんでもない状態にあるということ、そして手抜きな最終追い切りも、その詳細が伝わると各新聞社のデスクの電話が鳴り響いた。

 “ジェルディサヴォア二冠へ”なんて記事を一面にしようとしていたスポーツ特報や名城スポーツは急いで新たな本命馬の組み立てに追われ、となると我らが関西馬のヴァルカリこそ最有力とみたアンテナスポーツは高笑いした。

 

 一応各社朝刊しか発刊していないのだが、輪転機が動き出すまでコーヒーを飲んでいる暇はない。

 今どき通勤通学中に電車内で新聞を読む人の方が珍しく、皆スマホでネット記事を読んでいるのだから、ネタが入ったらすぐ文字に起こして、どこよりも早くネットニュースに投稿しなければならなかった。

 一気にキーボードを叩けば多少の誤字脱字は必ず出てくるが、ネットニュースに投稿すれば読者がコメント欄で勝手に誤字脱字報告、さらには偉そうにネタの提供や文章の補足をしてくれるため、印刷前に校閲する手間が省けるのは喜ばしいところであった。

 

 

【全報スポーツ ダービー予想】

 

11チェーンサプライ牡3先行――――距離長い
2ドーバーアルビオン牡3差し―――△入着まで
23ヴァルカリ牡3追込◎◎○▲末脚届く
4リリックケルピス牡3先行――――追走厳し
35ミュージカルレース牡3差し▲△△○夢叶える
6リヴェッティ牡3先行―△△―前残れば
47ロックピア牡3差し――――力不足か
8マルスグロウペ牡3逃げ――――テン速い
59アンベストネヴァー牡3差し△▲◎◎ここなら
10ジャストフォーカス牡3差し――――雨降れば
611ルブルムバイキング牡3先行―――△復調伺ず
12モナコシップ牡3逃げ――――消耗戦で
713ジェルディサヴォア牡3逃げ△○▲△二冠には
14リリックフューリー牡3追込――――展開向く
15テクニカルシフト牡3差し――――ひと工夫
816キズナノミチ牡3追込△△△―府中勝負
17アリゼオグルーヴ牡3先行――――成長途上
18ディープセンチュリ牡3差し○―――血統良し

 

*1
阪神大賞典,京都大賞典

*2
新潟大賞典,小倉大賞典

*3
追い抜かず、並んで走ること




ずっとオリジナルキャラだけで進めていましたが、そろそろリネーム登場が出てきます。
モデルはいるけどあくまでフィクションです。


ちょっとアンケートがあります。今後の展開を左右するというものではないので、気楽にお答えいただけたらと思います。

Q. ごらんの通り、登場にあたり各メディアもリネームをかけていますが、これに準じてレース名も変えた方が違和感ないでしょうか?副賞の冠に関してはあまり触れませんが。
例.デイリー杯2歳S→アンテナ杯2歳S 朝日杯FS→日金杯FS など

会社名がついているレース名のリネームは必要?

  • した方がよい
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