いくらフロック視されてようと一冠馬は一冠馬。東京優駿に向けての話を聞くため、上田騎手と井野調教師が厩舎前に呼ばれていた。
カメラマンの方はそこまで物々しいカメラを構えているわけではないので、テレビ用の取材というわけではなさそうだ。
大方競馬予想をしているYoutuberか、公式チャンネルを開設しているテレビ局だろう。
井野はカメラマンの後ろでスタンバイをして、先に上田がインタビューを受ける。
――皐月賞を勝ち、二冠に臨む感覚はどうですか?
「今回は楽に逃げられそうにもないですから、不安はあります」
まずは挨拶代わりの当たり障りのないインタビューから、だんだんと作戦やオフレコ話など深い方向へ話を進めていく。
――皐月賞では好スタートから見事な逃げ切りでした。ダービーでも前の方に行く意識はありますか?
「スタートはいい馬ですから、前目につけることは変わらないでしょう」
――最終追い切りに乗ってみての感想は?
上田はちらっとカメラマン越しに井野を見た。井野も一つ頷くと、促すように手を振った。
「追い切れてないですけどね全然。体調も良くなかったので流してきただけで」
――体調に不安があるということですか?
「はっきり言って体調はどん底と言えますね……」
井野の番になっても体調について聞かれたが、井野は
「どん底なんてものじゃないです。マイナスに振れてますよあれは」
と箸にも棒にもかからぬコメントが続くだけであった。
これほどまでに上田と井野がネガティブなコメントを続けたにもかかわらず、ネット界隈では「逆フラグを立てようとしている」だの「
日曜日の東京競馬場は穏やかな風が小さな雲をゆったりと流していく、世代の頂点を決めるにふさわしい快晴であった。
初夏の最後の風を受けてサワサワと揺れる青い芝を平場クラスの馬たちが踏み荒らしていく。
東京競馬第10R、ワグネリアンCの出走馬がパドックを離れ馬場に出ていくと、入れ替わりで11R、東京優駿の出走各馬が順番にパドックに姿を現す。
既に馬体重の増減は表示されているが、【13番ジェルディサヴォア 500kg/+12kg】という数字に前日発売組は悲鳴を上げた。
前走が痩せすぎだったり、長期休養明けで成長分だったり、ということもあるので+12kgというのは一概に悪い数字とは言えないが、それでもGⅠを快勝して僅か1ヶ月で2桁増というのはいい印象はない。
しかもジェルの場合、調整不足だという情報ももたらされているのだ。
群衆はまずジェルの馬体に目をやり、そして異常なまでに発汗している姿を見て急いで印を打ち直すのだった。
ジェルはいつもやる気を全く見せないダラダラとした歩様でパドックを周回し、いざレースになるとあの姿は何だったのかと言いたくなるような大駆けで度々穴をあけてきたのだが、今日は打って変わって極端なほどチャカついている。
東京優駿の熱気に当てられたのかと言えばそうではなく、ジェルはトイレを我慢しているだけであった。
ジェルは身体は馬でも精神はヒト8、ウマ2ぐらいの割合で振れている。
そうなった経緯などは今さら語りなおすこともないが、人間がトイレを我慢するときせわしなく身体を揺すったり、脂汗がにじんでくる現象を馬の身体になってもついやってしまったのである。
その結果、傍から見たら普段おとなしい馬が小刻みに歩いたり、首を上下に振ったり、またひどい発汗をしているように見えるのだ。
当たり前だが人間と馬との身体のつくりは違うので、そんなことをしたところで便意が落ち着くわけもなかった。
「この様子だとちゃんと走るかどうかすら怪しいですね。アキさん、調教再審査ならいくらでも受けていいですが、5週以上の騎乗停止にはならないようにお願いしますよ」
パドックで騎乗前に挨拶に来た上田に、谷地オーナーが声をかけた。6週間以上の騎乗停止となるとパリ大賞典に乗れなくなってしまうのだ。
ジェルは仔馬の頃から人前で尿や糞をすることはなかったのだが、ここに来て初めて
あれほどイレ込んでいたのが一転しょんぼりした雰囲気に変わり、客席やパドック内の関係者から顔をそらすように、パドックのビジョンの方に顔を向け歩き始めた。
馬場まで我慢できず出す
周回が終わって地下馬道に向かう直前にチラと後ろを見たが、普通の土のような糞ならさっさと片づける職員が、液体に近い糞の処理にだいぶ手間取っていたのを見て余計に申し訳なくなっていた。
まだ地下馬道じゃなかったのが救いだろうか?
馬場に出るとアキさんの指示通りに馬場の内外を歩き回ってみた。
今週から東京競馬場はCコースを使用している。仮柵が埒から6mのところに立てられているが、それでもまだ最内は荒れている。
不良馬場の時は
最内からさらに3mほど外になれば芝の傷みも少なく走りやすそうではある。
馬場入り後はゲート裏の外ラチに張り付き立ち止まると、右耳でアキさんの独り言を聞き取りながら左耳をグルグル回して他馬の騎手の独り言を拾う。
発走がスタンド前ということもあり雑音が多いが、1番人気3番のヴァルカリは今日も後方待機から思い切って大外を回す予定のようだ。
逆に2番人気のアンベストネヴァーは早め進出と。この馬場では皐月賞繰り上がり2着の10番ジャストフォーカスは気にしなくてよさそうだし、他の逃げ馬は……と。
輪乗りまでに大体有力馬の情報は集まった。最後方からの大外一気を企てる馬が2頭いるらしい。
ターゲットはヴァルカリと、京都新聞杯勝ち馬16番のキズナノミチだ。
おあつらえ向きに両馬とも
スターターが歩いてくると、観衆から拍手が沸き、いつの間にか手拍子に変わる。
フライングに気づいたスタンドが一瞬静まりかえり、ファンファーレとともに再度手拍子と、オイオイという合いの手が入る。
この日本独特のスタイルには賛否あるらしいが、俺は手拍子も合いの手も大好きだ。ヤジも大歓迎である。
競馬はロマンと言われるが、そもそもロマンとは何だろうか。
ロマンとは空想的な強い憧れや夢を持つこと、と辞書にはある。
つまり馬の体型や速さなどを科学的に論じ、機械的に強い馬を作り出すことはロマンには値しない。
ならば競馬におけるロマンとはどこにあるのだろうか。
俺は「賭けること」にあると思っている。
前世の俺が馬券を買ったのは一度だけ、死ぬ数時間前の有馬記念でリリックジェームズとアズサロケットの馬連を1万円買った。
その時、普段は口張りで予想するときとはまるで違う感覚に陥ったのを思い出す。
全身の血液が凍るような感覚。
俺はあの時ウインズで買っただけだったが、あの感覚をもう一度感じるのなら今度は競馬場のスタンドに行きたかった。
残念ながら俺がいるのはスタンドから3階層は下に降りたところなのだが。
小さな紙切れに書かれた番号を透かして、そのゲートに収まる馬を見つめる。
自分が汗水たらして稼いだ、命の次に大切な「金」を一頭の馬に託す。
その瞬間、馬は自分の分身となり、人生の一部として刻み込まれていくのである。
<東京競馬場はメインレースを迎えました。第103回東京優駿日本ダービー、GⅠです。
快晴の東京競馬場、今年の世代の頂点を決める戦いが始まろうとしております。
スタンド前の枠入り、奇数番号から誘導を受けます。5番のミュージカルレース。11番のルブルムバイキングと、そして皐月賞馬13番ジェルディサヴォア2冠に向けて、ゲートに収まります。
17番のアリゼオグルーヴが誘導を受けます。
ここから偶数番の枠入りに替わって、10番のジャストフォーカス。6番のリヴェッティ収まって、そして16番のキズナノミチ、収まります。
最後は18番ディープセンチュリが、今誘導を受けまして、大外18番ゲート、収まりました。
係員が離れて――スタートしました!4番のリリックケルピス、ややダッシュが付きません。
さあ1コーナーへ向かっての先頭争いに入ります――>
今日も絶好のスタートを切ったが、すぐ内から騎手が「オラぁー!」と声を上げながら一気に手綱を動かして上がってきた馬がいた。
お隣12番モナコシップがすごい勢いで1コーナーに突っ込んでいく。
案の定オーバースピードで、1コーナー入り口で頭がひっくり返りそうな勢いでブレーキをかけられていた。
1コーナーに差し掛かる直前から内に進路を取る。モナコシップは2馬身前にいるが、俺のちょうど隣で落ち着いているのが8番のマルスグロウぺである。
1,2コーナーでの2番手争いになるが、アウトから1コーナーを回れた俺の方が若干スピードに乗れていたため、半馬身ほど先行できた。
<結局先頭は12番モナコシップ、水上騎手一気に
2番手13番ジェルディサヴォア控えました。内に8番マルスグロウぺで先団3頭。
その後ろさらに2馬身空いて1番のチェーンサプライが4番手、そして6番のリヴェッティ。
外から17番アリゼオグルーヴが続いて、1馬身後方11番のルブルムバイキング、外から10番ジャストフォーカスやや前目の競馬で2コーナーから向こう正面へ。
5番のミュージカルレース内に付けて、18番のディープセンチュリ、さらに4番のリリックケルピス順位を押し上げて、15番テクニカルシフトもこの集団に付けています。
1馬身後ろ2番のドーバーアルビオン、9番のアンベストネヴァー、外に7番のロックピア。
14番リリックフューリーの内に3番のヴァルカリが付けて、最後方16番のキズナノミチ、こんな隊形で1000m通過は59秒2で行きました>
14の標識を過ぎてさらに100mほど進んだところで、ようやく場内実況が1000m通過タイムを言ってくれた。
すでに
モナコシップとマルスグロウペは経済コースを回っているが、仮柵沿いとはいえやはり走りづらそうだ。俺は外を回っているから気にならないが。
3コーナーを左手前で入り、3,4コーナー中間で右手前に替える。
4コーナーでは外に膨れることになるが、いいタイミングでアキさんが右ムチを入れて矯正してくれた。
早くもムチが入ったことに観客のどよめく声が聞こえるが、このムチはあくまで進路矯正の為である。
馬にとってはムチをダッシュ開始の合図にすることもあるが、いずれにせよ「気合入れて最後のひと伸びを絞り出せ!」というような、親父の拳骨のような焼き入れの効果はない。
<4コーナーに入って、馬群が詰まってきました。
モナコシップまだ1馬身保って、ジェルディサヴォア早くもムチが入って先頭に並びかけようとしております。
マルスグロウぺも手綱が動いて、6番のリヴェッティ上がってくるか。
アンベストネヴァーが一気に順位を押し上げて内を狙っている、キズナノミチ外から、ヴァルカリはまだ後方で4コーナーから直線――>
右手前で4コーナーを回ったため、直線では馬場の三分どころから次第に外にモタれていく。
アキさんの右ムチが何度も振り下ろされるが、あんまり単調なリズムで打たれると慣れてしまう。そこんとこ覚えような?
400mを切るあたりでようやくターフビジョンの画面が見えた。
予想通りリヴェッティとアンベストネヴァーががっぽり空いた内に突っ込んでいく。
右目で後ろを見ると、坂の途中辺りでようやくヴァルカリとキズナノミチがものすごい勢いで大外から上がってきている。
さすがにジャストフォーカスはここでは分が悪く、とっくに沈んでいる。
3着をキープする為には、と自分に言い聞かせながら、俺は右手前のままカウントダウンを始めた。
(3、2、1――今!)
左の後ろ脚に力を入れて、大きく一歩を――右方向に踏み出した。
ドン!という衝撃が骨から内臓に伝わったのを確認すると、それを合図に溜め切った左手前に替え、最後のひと伸びを加える。
スタンドから悲鳴が聞こえた。
俺が思い切りぶつかったのは外から並んで追い込んでくる2頭の内側、キズナノミチの左肩だ。
接触したキズナノミチが外に弾かれ、同じ脚で上がってきたためにピッタリ並んでいたヴァルカリも玉突きのように弾き飛ばされたのだ。
増えた馬体重も加味すると20kgから30kgは俺の方が重い。
外の2頭は全く抵抗できず吹き飛ばされ失速した。
ここで大切なのはキズナノミチの横からぶち当たることである。
鼻先に出てしまったら斜行妨害になるし、脚をひっかけて転倒させたら失格になる。
だが真横からぶち当たって弾き飛ばした場合審議にはなるだろうが降着にはならない。
有名なところでは2012年のジャパンカップという前例もある。
さらにキズナノミチには不運なことに、進路を矯正しようとしたアキさんの右ムチが鼻先を掠めたらしく、怯んでしまって力が入らなかったようだ。
すでにレースは100mを切っている。俺も左手前の脚を残しているし、内ではアンベストネヴァーとリヴェッティが俺の1馬身前で競り合っている。
これから立て直してもヴァルカリもキズナノミチも――俺には追いつけない。
<リヴェッティ、アンベストネヴァー、2頭の叩き合いになった。
リヴェッティ、アンベストネヴァー!ジェルディサヴォア3番手粘りそうだ。
勝ったのは10番、アンベストネヴァー!右手を上げた
時計は2分22秒3、上がり3ハロン35秒2、4ハロンは47秒3です。
しかしこのレース、審議のランプが点っております。
お手持ちの勝ち馬投票券はお捨てにならないようお願いいたします>
最も運がいい馬が勝つ東京優駿。
しかし
初めから諦めていた俺が東京優駿を勝つ運を引き寄せられる道理はないのだ。
それにしても勝ち馬はアンベストネヴァー。
名前からして「明日から本気出す」とか言いそうなのに勝ち運を引き寄せられたとはなんとも皮肉なものである。
<お知らせいたします。東京競馬第11レースは、最後の直線で、13番ジェルディサヴォア号、16番キズナノミチ号、並びに3番ヴァルカリ号が接触した件で、審議をいたします。
お手持ちの勝ち馬投票券はお捨てにならないようご注意ください>
こっちは審議対象だが、1着2着は変わらない。
アンベストネヴァーは鎌田騎手を背にウイニングランを始めている。
俺が馬場を離れる前にチラッとターフビジョンを見ると、黄色と黒の縦縞の勝負服をまとった鎌田騎手が大きく映し出されていた。
やはり競馬はこの勝負服がいないと始まらない。臺屋ルーラーホールクラブにとっては2003年以来実に30余年ぶりの東京優駿制覇であった。
<お知らせいたします。東京競馬第11レースは審議をいたしましたが、到着順通り確定いたします>
審議の結果がアナウンスされると歓声とともにブーイングや、アキさんに対してはヘタクソ!という罵声も飛んでいる。
アキさんは必死に進路を矯正しようとしていたし、おそらく戒告処分程度で収まるだろう。
騎乗停止になるとしてもあって2日ぐらいで、パリ遠征には影響がない。
そういえば東京優駿が終わった瞬間、腹痛も吹っ飛んでしまった。
すっかり忘れていたのだが、下痢が続いていたら検疫があやしくなるところだったのだ。くわばらくわばら。
次回あたり、ウマ娘ストーリーもちょいと挟みたいと思っています。
原作ウマ娘タグをつけていながら、ウマ娘SSがないのはマズいらしいですし。
全く筆が進んでいないのが露呈するので恥ずかしい限りですが、書き始めたのは2年ほど前。
主人公クラスの父に想定していた馬が繁殖に行けなかったり、ソールオリエンスが東京優駿で圧倒的1番人気に推されていたり。勝ってほしかったけど、勝ったら「30余年ぶり」を「およそ10年ぶり」に書き換えなければならないところでした。