ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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出国検疫


中小牧場主?馬を持てるぐらいの経営者ですとも

 

 一旦美浦トレセンに帰り、数日体を休めた後千葉の競馬学校に移動しての検疫期間が始まった。

 谷地オーナーと井野調教師は一刻も早く向こうに行きたいらしい。

 俺のためを思ってというより、オーナーの牧場スタッフ、井野厩舎のスタッフを向こうで勉強させるため、少しでも長い時間滞在させたいようだ。

 帰国初戦に予定しているセントライト記念は9月15日なので逆算すると最長で8月初週まで向こうに滞在できる計算になる。

 帰国時の検疫で約1ヶ月が必要となるからだ。

 夏を越すどころか、どう考えても一番暑い盛りに帰ってくる羽目になりそうだ。

 

「いやあ、ご相伴にあずかりましてありがたい限りです」

 千石調教師が井野厩舎を訪れていた。

「とんでもない。そちらからは2頭出していただけるんでしょう?うちの馬が同伴させていただいているようなものですよ」

 もともと輸送はジェルディサヴォアが一頭だけで行く予定であった。

 これまでの輸送慣れっぷりをみて、単独でもいいと谷地オーナーは言っていた。

 

 しかしそこに飛び乗ってきたのがアンベストネヴァーを凱旋門賞に出走させる予定の千石調教師である。

 招待競走でもなければ、貨物機を1機チャーターするだけで(燃料費や人件費を別にして)も億近い金がかかる。

 それなら一緒に乗せて行ってくれないかと臺屋RH(ダイヤルーラーホールクラブ)の関係者から谷地に打診があった。

 その結果、千石厩舎から帯同馬含め2頭を同乗させることになった。

 ジェルは8月で帰る予定だが、アンベストネヴァーはさらに2ヶ月在留するので別に帯同馬を用意する必要があったのだ。

 

 検疫の日程上アンベストネヴァーは年明けまで日本では出走できなくなるが、どうせなら香港にでも行ってみようかと千石は考えていた。

 香港の検疫は日本と比べはるかに早く、緩い。欧州各国でも1週間とかからないのだが、世界各国と比較して日本の検疫が長いのは日本側の都合であり、あれこれ言われる筋合いはないだろう。

 

「それで、ご存じだと思いますが、ウチから厩務員1人同行させる以上、千石センセイの方からも1人限りとなってしまいますが……」

「ええ、大丈夫です。ウチからも1人で」

 貨物機で輸送する以上、同乗できるスタッフの人数は1人か2人程度である。

 ジェル側はもちろんコウヘイだ。

 いくつか打ち合わせを済ましたのち、競馬学校に向かう馬運車が美浦トレセンを発った。

 

 安田記念が終わった夕方、寺尾記者は同僚の戸次記者とともに成田空港のANAスイートラウンジにいた。

 谷地オーナーが寺尾と戸次、井野と千石の分としてファーストクラスのチケットを押さえていたのだ。

 4人で片道1,000万円という、完全に金持ちの道楽というか見栄でしかないのだが、臺屋RHが千石に用意したチケットはビジネスクラスだったので、つい対抗してしまったらしい。

 なお寺尾と戸次は会社が出張費を出してくれたが、当然エコノミークラス分しかもらえないので谷地の厚意はアップグレードどころではなかった。

 

 こんな待遇は寺尾も戸次も人生で最初で最後だろうと思いつつラウンジに入った瞬間その格調に圧倒され、ようやく冷や汗が治まったのは入室してから30分を過ぎた頃であった。

 寺尾は一度出張で国内線のプレミアムクラスをとり国内線ラウンジにお邪魔したことはあったのだが、サービスが桁違いである。

 

「寺尾さん、お疲れさんだねえ」

 ようやく動けるようになったので、まずは軽いお茶を飲んでいると井野調教師が声をかけてきた。

「いや、こんなところ初めてですし、多分もうないでしょうが、いろいろと緊張してしまって」

 ハハハ、と井野も小さな声で笑った。

「まあせっかくのラウンジだし、仕事はしないことにしようや。取材とかは向こう着いてからな」

 井野が去ってしまって、寺尾はまだ固まっている戸次の肩を叩いた。

「せっかくだし一杯ぐらい飲むか」

 

 この調子で飛ぶのは不安ではあるのだが、機内では日本人クルーが対応してくれるのでテンパることはないだろう。

 なお戸次は千石厩舎の番記者として欧州だけではなく香港やアメリカを飛び回る羽目になり、図らずとも他人の金で世界一周を達成してしまうのであった。

 

 

 相変わらず輸送中はヒマだ。しかもパリへの空輸は15時間はかかる。古新聞でもいいから文字が読みたい。

 途中で一旦着陸したと思ったらまた離陸していたからアンカレッジにでも寄ったのだろうか。

 ドバイ程度なら直行で行けたはずだが、欧州だと給油が必要らしい。

 

 俺の後ろに積まれたアンベストネヴァーもその帯同馬も静かだ。

 アンベストネヴァーは東京優駿の時のパドックでチラッとプロフィールを見たが、ステイフーリッシュの孫だったはずだ。

 ステイゴールドの血を継いでいるからもっと騒がしいかと思ったのだが、この血は海外遠征には強いのだろうか。

 

 脳内シミュレーションやくだらない妄想などをしながらヒマに耐えた。こういう時ヒトの思考力が腹立たしい。

 やっと睡魔が襲ってきたのは、再離陸してから2時間ほどたったあたりだろうか。

 よくある話で、新幹線や旅客機に乗ると気分が高まってなかなか寝付けず、ようやく眠りにつくと行程の半分以上が過ぎていて、一番気持ちのいいタイミングで叩き起こされるやつである。

 馬の場合、CAに「着陸態勢に入りましたので背もたれを戻してください」と言われることはないのだが、着陸直前にコウヘイが様子を見に降りてきて起こされてしまった。

 

 ド・ゴール空港へ着陸したらまっすぐ馬運車に乗り換えてシャンティイまで直行する。

 アンベストネヴァーとその帯同馬も同じ馬運車だったのだが、飛行機ではあんなに大人しかったのに馬運車に乗り換えたら鎖をジャラジャラ言わせていた。

 

 厩舎に着いたらまず検疫に入る。下痢も治っているから引っかかることはないだろう。

 下痢と言えば、フランスの水は硬質である。

 日本のトレセンでは浄水器を通したりして真水に近い状態で供与されるが、遠征の時に日本から装置を持っていくとナトリウムを豊富に含んだ石灰質が内部で固まり、故障することが多いらしい。

 短期遠征の場合は日本から担いでいったミネラルウォーターなどで凌げるが、長期滞在となるとこちらの水に慣れる必要もある。

 特にお隣のアンベストネヴァーは凱旋門の後アメリカや香港に遠征するらしいが、ここで硬水に慣れたらどこの水だって飲めるだろう。

 

 しかしアンベストネヴァーは日本の競馬会を牛耳る臺屋(ダイヤ)グループの持ち馬である。一口たりとも肌に合わない水を飲ませない可能性もある。

 一方で谷地オーナーはとにかく現地の水を飲ませたがる。

 今回の遠征もオーナーサイドと井野調教師が一番揉めたのはその点で、結局オーナーの意向を無視することが出来なかった井野が折れた。

 

 で、俺の目の前の水桶にはシャンティイの水道水が当たり前のように入れてある。

 とはいってもシャンティイがあるフランス最北部はアルプス山脈に近い中南部と比べてそこまで極端な硬質ではない。

 前世でコンビニで水を買うときはとりあえずエヴィアン(evian)を買っていて、これくらいの苦みはウェルカムなのだ。

 そういう意味ではアメリカの方には行きたくないな。あっちの水はにーがいぞ。

 いやあ懐かしい味だ。日本ではめったに飲ませてもらえない味である。

 

 結果的に腹を壊すこともなく、体調は万全に整った。豊富なミネラルやマグネシウムが東京優駿や輸送の疲れを流してくれたようだ。

 実際ミネラルやマグネシウムなどは栄養ドリンクやサプリメントにもデカデカと書かれているように、疲労回復や体調管理には重要な成分である。

 なお競走馬の場合、科学的な飼料の中で成分がしっかり調整されているのでよほどのことが無ければサプリメントを投与する必要はないのだが。

 





オルフェがあんまり振るってないから、ステフは種牡馬入りすると思ったんだけどなあ…
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