ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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シャンティイの森


居眠り運転には注意

 シャンティイ(Chantilly)調教場は広い。とてつもなく広い。

 しかもシャンティイと一言に言っても、シャンティイ競馬場の周りに4つの調教場が点在している形だ。

 

 シャンティイ競馬場から一番遠いコイ(Coye)=(la)=フォレ(Forêt)調教場まで直線距離で5kmはある。

 一応一番設備が整っているのはそのコイ=ラ=フォレ調教場であるが、そこまで移動するのが大変だ。

 人間なら確実に車移動。

 馬の歩く速度は5km/hから7km/hであるから、ウォームアップで軽く散歩したとしてもコースにつくまで30分から1時間はかかる。

 

 ジェルディサヴォアとアンベストネヴァーは馬房が離れている。

 それぞれ馬主の伝手で委託している厩舎が違うためだ。

 本来こういう状況になることを考えて帯同馬が同じ厩舎の隣の馬房にいたりするのだが、その程度でストレスになるようなら逃げ戦法なんて出来やしない。

 むしろ両隣と正面の馬房を空けてくれているのはありがたい。

 トイレをするのにコソコソと出すのはそれこそストレスになるのだ。

 

『どうも、ミスター・マカロフィ。今年もお世話になります』

 谷地オーナーはジェルの到着より早く先乗りして、顔なじみのアーネスト・マカロフィ調教師を訪ねていた。

『こちらこそ、よろしくお願いします。しかしよりによってパリ大賞を選ぶとは、なんとも命知らずですな』

『来年は本格的に世界に乗り出すつもりですから、ここであっさり潰されてたら話にならないでしょう。それに、あなたにとってはジェルに勝ってもらった方が嬉しいんじゃないですか?』

 マカロフィはハハハ、と笑って谷地の肩を叩いた。マカロフィ調教師はシャンティイに所属する調教師だがアイルランド人である。

 

『そのあとは弟の牧場で放牧でいいですかな?』

 マカロフィ調教師の弟はアイルランドで牧場を経営しており、当然谷地とも面識がある。

 アイルランドの調教は例に漏れず競馬場を開放して行われるのが一般的だが、バリードイル調教場のように日本競馬で言う外厩を持っているところもある。

 尤も莫大な建設費と維持費、人件費がかかるので、それこそその国の競馬会を牛耳るレベルのグループ企業でなければまず持てない。

 

 マカロフィ・ファミリーの牧場も幼駒育成用のコースなどは造られているが、現役馬を鍛えうるレベルではなかった。

 マカロフィ調教師としてはここで超一流の調教師になって、バリードイル調教場に負けない私設調教場を弟の牧場に併設して作りたいと夢見てはいるのだが、一世一代ではなかなか厳しい夢と言わざるを得ない。

 マカロフィ・ファミリーとは家族ぐるみ、というより牧場ぐるみでの付き合いがある谷地は新入りの牧場スタッフをマカロフィ家の牧場や厩舎に修行に行かせるのが定例となっている。

 

 今のところマカロフィ・ファミリーと谷地はいい関係を築いているといえるだろう。

 それどころか弟のサムエル・マカロフィ牧場長は何度か谷地の牧場に繁殖牝馬を連れて行き種付けさせたりもしていた。

 4年前にディアヌ賞(仏オークス)や英チャンピオンズ・フィリー&メアーズSを勝ち、その翌年には牡馬で10戦無敗のミドルディスタンスホースであるブレイムヴィンセントを破ってチャンピオンSを搔っ攫い、一躍ヒールになったミレシアは谷地の持ち馬フォルジュオンの子である。

 

『ええ、その予定です。帰国は8月末ですので、それまではお任せします』

『もちろんです。マリデメッツァを未亡人にさせたくはありませんからね』

 既にジェルの初年度交配相手も決まっていた。

 

 シャンティイの馬場は走りやすかった。

 確かに重い馬場ではあったが、ゴリゴリ踏み締めるような感覚はなく、最低限の力でフッと前に進んでいく。いい具合にグリップが効いている感じだ。

 併せ調教は専らアンベストネヴァーと行う。

 アンベストネヴァーはやはりまだ馬場に戸惑っているのだが、それでも騎手の指示にはしっかり従っているので折り合いには問題なさそうだ。

 

 レース想定で超スローペースで走る調教も進められた。

 俺が先導役で、アンベストネヴァーは俺を絶対に抜かないように追走する。

 俺のスローペース適性は素晴らしいとマカロフィ調教師から太鼓判を貰ったが、井野調教師はやや渋い顔をしていた。

 こちらのスローレースに慣れてしまうと、日本に帰った時にズブくなる恐れがあるからだ。

 とくに逃げ先行の俺にはテンの遅れは致命的になる。

 

 一応俺がこの遠征のメインなのだが、世間一般ではアンベストネヴァーの帯同馬の一頭という立場で知られているらしい。

 調教では常にアンベストネヴァーに教え込むような走りを繰り返している。

 

 最近はアンベストネヴァーも俺の3馬身後ろをきっちりキープできるようになっているが、たまにゴドルフィンブルーの勝負服を見かけると一気に熱が入るのは困りものである。

 奴が暴走しそうになるたびに威嚇して叱りつけなければならなかった。

 その対策として、厩舎から一番近いエーグル(Aigles)・コースでの併せ調教からコイ=ラ=フォレ・コースの使用に変更され、馬房からコースまで1時間ほど歩かなければならなくなったのだ。

 

 欧州の長丁場において超スローで走るのは簡単なことではない。

 ちょっと危険な例えだが、スローテンポのクラシック音楽を聴きながら30km/hをずっとキープして自動車を走らせているようなものだろうか。

 

 集中が続かないのだ。

 

 そしてついウトウトし始めたところで急に前の車がブレーキを掛けたり、子供が飛び出してきたりする。それが競馬で言えば逆に一気に加速するポイントにあたる。

 そうすればいくら30km/hで走っていたとしても事故を起こしてしまうだろう。

 しっかりとブレーキを掛けられる集中力と意識は残していなければならない。

 

 後方からの競馬が主流になっているのは、他の馬を見せつつリズムを合わせることで折り合いをつけたいからだ。

 スローペースの欧州では前目につけるのがセオリーだと日本では思われていることが多いが、欧州でも後方からの瞬発力重視タイプのほうが多いのはそういう事情だ。

 

 逆にハナを切ってしまうと当然馬個人でペースをつくって走らなければならなくなる。

 これを遂行するには手段は二つ。一つはコースや競馬を熟知した騎手の判断、指示にぴったり折り合って従うこと。

 もう一つは馬自身に仕掛けるタイミングを憶えさせることである。

 

 後者の方は日本の競馬でも当たり前に行われている。カーブして直線に入る坂路コースの形状の恩恵を受け、コーナーを曲がったらドーンである。

 だが欧州の場合、どこがコーナー出口かわからない緩い最終コーナーの後、500mを超える直線が続くのが一般的だ。

 

 話は前後するが、スローペースになる要因のひとつがこの長くて広いコーナーだ。

 基本的に馬は右コーナーのときは右手前、左コーナーのときは左手前で走る。

 そうしないと外に振られて曲がりきれなくなるのだ。

 片側の手前で長々と走れば当然疲れるので、無駄なスタミナ消費をさせないために少しでも遅く走ることになる。

 

 さて、追い出しのタイミングは大体残り400m地点からになる。

 つまり最終直線に入ってから100mほど馬なりか軽く追っ付ける状態で我慢しなければならない。

 そこで馬がまたフッと気を抜いたところで追いが始まる。

 

 中盤から終盤への動きは日本競馬も欧州競馬も変わらない。残り800mから600mあたりで後方の馬が進出を開始して、残り400m地点で一塊となった馬群が一気に追い出しを始めるヨーイドン競馬なのだ。

 そして逃げ馬は可能な限り遅く走ってスタミナを温存し、最後のコーナーを回る直前、残り600mあたりから一気に突き放すしかない。

 残り400m地点で逃げ馬だけが単騎先頭、3~4馬身離れて先行から追込勢まで一塊になった馬群がある形になる。

 

 ここで5馬身以上残っていたら先頭の馬にもチャンスはあるが、3馬身未満だとほぼ絶望的だ。

 

 ロンシャン競馬場の細かい作戦はマカロフィ師に聞くのが一番なのだが、残念ながら俺の頭にはフランス語はインプットされていない。

 英語は若干わかるがスラスラと会話が可能なレベルではなかった。

 先述した通り欧州の競馬は差し追い込みが基本だ。

 一見逃げ切りのように見える勝利もあるにはあるが、本質が逃げなのではなく、少数頭立てでその中でも能力が抜けている馬が押し出され、そのまま一気に突き放した結果というのがほとんどである。

 逆に多頭数のレースでは逃げ切りはほとんど見られない。短距離直線のレースでたまに成功する程度である。

 

 マカロフィ師は俺のレースビデオを何度も見返している。

 今どきインターネットの何かしらの手段を使えば、ほぼ全世界のレース映像を見ることができるようになった。

 案の定スプリングSでの差し競馬を見たマカロフィ師は後ろに控えることを提案していたが、谷地オーナーが反対した。

『逃げと言ったって走る距離は同じなんですから、ここは日本と同じスタイルで行きましょうよ。通用しないと分かったら来年は切り替えればいいですし』

 

 シャンティイでの単走調教は俺への調教というよりアキさんに欧州競馬を教えるような調教だった。

 エーグルの直線をひたすらダラダラと走り、残り600mの地点で一気に押し出す。

 エーグル・コースの直線コースは目印がないのでタイミングが難しい。

 だからといって今か今かと1000m以上ピリピリし続けていたらいわゆる“かかり状態”になる。

 ロンシャン2400mはここよりは簡単だ。

 コーナーがあるので感覚的にも目印はある。あとは下りで加速するタイミングを間違えないこと。

 京都競馬場の淀の坂とは違い、下りで勢いをつけて下りていくとまだペースアップのタイミングとしては早いのだ。

 

 そして調教が終わって厩舎に帰ると、ニコニコしたマカロフィ師と労ってくれる谷地オーナー、とりあえずカメラを向ける寺尾記者と、腕を組んでブスっとした井野調教師がいつも雁首をそろえていた。

 

 勿論井野が不機嫌なのは役目を奪われたという嫉妬ではなく、日本の競馬についていけなくなる危険性を孕んでいるためだ。

 菊花賞で確勝予定だった井野にとってはもうちょっとキビキビとした競馬をしてほしいのが正直なところであった。

 

 

【全スポ 7/14 14:32】

 

~ジェルディサヴォア、日本馬6年ぶりのロンシャンGⅠ戴冠へ~

 

 本日7月14日 20時20分(日本時間7月15日03時20分)、フランスのロンシャン競馬場で行われるパリ大賞典(GⅠ)に皐月賞馬ジェルディサヴォア(牡3)が出走する。

 日本ダービーを3着で終えると、そのダービーを勝ったアンベストネヴァー(牡3)とともにフランスに渡り1ヶ月近くシャンティイ競馬場で調教を重ねてきた。

 パリ大賞典は距離2400m。凱旋門賞と同じコースを走るが、残念ながらジェルディサヴォアは凱旋門賞出走の予定はない(ともに渡仏したアンベストネヴァーは出走予定)。

 ジェルディサヴォアを預託されたマカロフィ調教師は「我慢強い馬で、スローペースにも十分対応できている。坂の不安もなさそう」と太鼓判。

 今年のパリ大賞典は少数頭6頭立てながら、出走予定馬には地元仏ダービーを勝ったブローブラン、同じく2着のパレム、本場英ダービー3着のホールドフローターローなどが名を連ねている。

 

※データ

ジェルディサヴォアが勝つと日本調教馬のロンシャン競馬場での勝利は2年前フォア賞を勝ったエックストリテウム以来、GⅠに限れば6年前ムーラン・ド・ロンシャン賞を制覇したアズサフィリウス以来となる。

 

~現地・寺尾~

 

 

【8R】 Grand Prix de Paris

Groupe Ⅰ - 600,000 € - 2,400 metres

 

1BELLEARU BLANC6M gr 358kg
2GEL DES AVOIRS (JPN)2M b 358kg
3HABIT KISSFORSWIFT (IRE)5M b 358kg
4HOLD FLOATER LAW (GB)3M bb 358kg
5PALEM4M bb 358kg
6SOUVENIR TO RICHE (IRE)1M Al 358kg

*1

*1
左から、馬番、馬名、枠番、性別、毛色、年齢、斤量




黄金の血脈(ゴドルフィンキラー)

ハビットキスフォアスイフトの名前が読みにくいのはそういう名前だからです。
18字に収めるためにKISS FOR SWIFTの空白をわざと消してます。
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