ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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パリ大賞典(Grand Prix de Paris)(3歳牡/牝 GⅠ)


【8R】 Grand Prix de Paris
Groupe Ⅰ - 600,000 € - 2,400 metres

*1

1BELLEARU BLANC6M gr 358kg
2GEL DES AVOIRS (JPN)2M b 358kg
3HABIT KISSFORSWIFT (IRE)5M b 358kg
4HOLD FLOATER LAW (GB)3M bb 358kg
5PALEM4M bb 358kg
6SOUVENIR TO RICHE (IRE)1M Al 358kg


*1
左から 馬番 馬名 枠番 性別 毛色 馬齢 斤量




大ブーイングの夏のグランプリ

 日本より緯度が高いフランスではもうすぐ午後の8時になろうかというのに空はまだ明るい。

 日の入りはさらに2時間ほど進んだ(サマータイムの)夜10時――まだ日が出ているのに夜、と表現するのは違和感がある――ぐらいであろうか。

 

 ロンシャンのパドックは非常に賑わっていた。

 フランスで人気があるレースと言えばもちろん凱旋門賞とディアヌ賞(フランスオークス)なのだが、パリ大賞典もそれに負けず劣らず熱気だけはある。

 日本におけるジャパンカップをさらに熱狂的にさせたような、いい意味での傲慢さがこのレースの醍醐味だ。

 

 ジャパンカップはもともと、世界の強豪を集めてそこに日本馬が挑戦する、という立ち位置だったが、2000年代に入ると日本馬の勝利は当たり前となり、むしろ“世界の挑戦を迎え撃つ”というものに変わってきた。

 その後、なぜか「欧州の大レースを勝った海外馬はアジア最高峰のジャパンカップを目指すだろう」という驕りか、整備や調整がまったく行われず、年末の欧州馬は賞金で下回る香港に向かっているのは周知のとおりである。

 

 パリ大賞典は昨今のジャパンカップと同じ、“フランス馬に挑戦しに来た欧州他国の馬たちを迎え撃つ”という立場をもって開設されたレースである。

 特に今年はイギリス馬やアイルランド馬ならまだしも、極東の日本馬が出走するとあっては笑わずにはいられまいと、パドックですらブーイングや野次が飛び交うなんとも頼もしい光景が広がっていたのだ。

 例によって俺がダラダラ周回していたのも嘲笑に拍車をかけた。

 間違いなくベストターンドアウト賞はもらえない。

 アキさんとコウヘイは居づらそうだったが、俺は鉄火場(てっかば)の雰囲気を微かにでも味わえたことに内心感動していた。

 

 パドックの周回中はやはりヒマである。

 欧州の競馬は必ずしもオーロラビジョンがあるわけではない。

 フランスではブックメーカー(ノミ屋)は禁止だが、複数の公認馬券会社が馬券を売り出しているからだ。

 JRAのようにフランスギャロが直接馬券を売っているわけではないので、結局はノミ屋が馬券を売っているのと大して変わらない。

 もともと国有企業が唯一の馬券発売業者になっていたが、民主主義国家お得意の独占禁止法云々による法改正で、民間企業でも馬券を売れるようになった。

 オッズそのものは各企業共通だが、レースとは直接関係ないところで発売している上に、複数の馬券会社があるので、競馬場としてはわざわざビジョンを設置して馬体重や現在のオッズなどを表示する義理はないのだ。

 

 ちなみに俺のオッズは現地で6頭中5番人気。

 俺の実績の薄さに加えて、アキさんが武者修行としてマカロフィ師の馬に乗せてもらっていたが全く成績を残せていないことも影響しているだろう。

 一方、JRA発売のオッズでは応援も上乗せされて3番人気だったと後から聞いた。

 

 あまりにヒマなので観客にちょっかいかけようかとも思ったが、ヤジもフランス語なのでわからない。

 たまに強引に日本語の悪口を言ってくる人もいるが、「ローニン(浪人)」とか「ヘンタイ(変態)」とかはこの場の野次として正しいのだろうか?

 あと「ヤムチャ」はダメだぞ。弱いキャラ選手権代表みたいな扱い受けているけれども。

 

 ようやく馬場に出ると、パドック以上のブーイングに迎えられた。

 案の定アキさんがイレ込んでいる。ハミが必要以上に詰まった。

 軽く流した後スタート地点までゆっくりと戻る。

 非公式ではあるが俺の今日の馬体重は496kg。欧州馬にも十分圧をかけられるはずだ。

 父のセスナは太目残りでも460kg台に乗せるのが精いっぱいだったようだが、俺はこのままなら菊花賞には500kgを超えて出られるだろう。

 

 もう投票は締め切ったはずなので、輪乗りをしながら一気に気合を入れる。

 ゲートにも率先して入って行き、ピリピリとした雰囲気を出してしまえば3頭ほど圧に負けてゲート入りを嫌がる馬が出てきた。

 俺はゲートは大好きなのでいくら待たされてもかまわないが、すでにゲートに入っている馬たちはどうだろうか。

 馬である以上ゲート内はストレスが溜まるはずだ。

 結局ゲート入りが終わったのは俺が納まってから3分ほど経ってからだった。

 

 さてようやく発走だが、ここのスタートは難しい。

 目安となる合図や掛け声などがない上に、ゲート難の馬が多いので枠入りが完了してからもなかなかゲートが開かない。

 こうなったら仕方がない、馬心に還って単純にゲートが開いたら走り出そう。馬の目では立体視が難しいがゲートの網目をじっと見つめる。視界がブレたらスタートだ。

 

 視界が揺れた瞬間一歩目を踏み出す。若干ゲートが完全に開ききる前に飛び出したのか、ゲートの扉に左の前腕部を擦った。

 アキさんも何とかバランスをとってくれたようで、結果として完璧なロケットスタートが決まった。

 俺はとりあえず5馬身差を目指した。どうせ後ろの馬はついてこないはずだし、アキさんも手綱をしごくことはせず軽くハミを詰めている。

 5馬身のリード。ペースを後ろの馬に合わせ減速する。ここから仕掛けどころまでおよそ1500mはヒマな展開が続く。

 

 坂を迎える前に意識をレースから飛ばす。コーナーの先や、壁のような坂を見てしまうとつい勢いをつけて突っ込みたくなってしまうのだ。

 車の運転中に考え事をするような感覚だろうか。カーブはちゃんと曲がれるのに、赤信号や歩行者に気づかずヒヤリハットや大事故を起こしやすい状態だ。

 鼻歌混じりに走ってもいいのだが、馬は鼻呼吸しかできないので走りながらハミングするのは非常に難しい。

 それにうっかりテンポが速い曲をイメージしてしまうと大変なことになる。だがスローテンポな曲はレパートリーが少なかった。

 というわけでしばらく先ほどのスタート方法について改良案を考えながら時間を潰そう。

 

 アキさんの手綱がさらに緩んだ。

 さらにペースを抑えながら、坂に差し掛かるところで少し脚に力を入れる。

 追い込み勢なら上りで力が入るのはあまりよくない傾向だが、ここで大きく減速したら逃げ馬としては致命的だ。

 

 後ろの馬は少し減速したかリードが7馬身に広がる。

 

 坂の下りに差し掛かったところでアキさんが手綱を引いた。余計な力みが入らないよう気を付けながら歩幅を小さく、ペースを一気に落として慎重に進む。

 坂の陰になって後続から俺の馬体が見えなくなったところでようやく一息つける。

 後続勢が坂の頂上に差し掛かり姿を現し、下り坂の勢いに乗って一気に差を詰めてくるが、1000直コースを横断してもまだ我慢して遅いペースを保つ。

 呼吸を整え、もう一度肺に新鮮な空気を満たす。3馬身まで縮まったところでフォルスストレートに入った。

 

 フォルスストレート入り口からゴールまでは約650m。

 逃げ馬の仕掛けどころ600mから500を待ってフォルスストレートを半分ほど過ぎた。

 

 ここでようやく俺の集中力がレースに戻る。

 

 残り500m、予定よりやや引っ張ったがアキさんの拳に力が入るのがハミを通して伝わってきた。

 重い馬場をしっかり深くまで踏みしめ、一歩一歩スキップをするような感じでペースを上げる。

 坂の下りからずっと右手前だが、フォルスストレートでもまだ右手前を維持。

 

 最後の直線、リードは5馬身差に戻った。

 右手前のままでラチに寄りながら手前を替える。これで両側から挟まれることはなくなった。

 アキさんの右ムチのタイミングも完璧。欧州はムチの使用制限が厳しいのであまりフラフラとは走れない。

 残り400m、リードはさらに広がって6馬身。

 残すどころか溜め切った左手前でアキさんの手綱を引っ張る。100mに一回アキさんの左ムチで進路を矯正してもらいながらひたすら前へ。

 

 あと200m、スタンドから悲鳴とブーイングが聞こえる。なかなか後続勢の足音が聞こえてこないのが不安でチラッと後ろを見たらリードがまったく縮まっていない。

 

 のこり100mで7馬身。

 アキさんが追うのをやめた。ゴールまであと2完歩、アキさんが馬上で立ち上がった。

 

 ここで落馬なんてみっともない真似はさせられない。

 俺はなるべくバランスを保ちながら足を進めた。

 ロンシャンの深い芝が衝撃をすべて吸収してくれる。

 大ブーイングの中、ゴール板を通過する。最高じゃないか。アキさんが俺の首筋を強くたたいた。

 

 

<いよいよ、発走となりますパリ大賞典GⅠ。フランスのロンシャン競馬場2400mは凱旋門賞と同じコース同じ距離。

3歳限定のフランスにおけるクラシック競走最終戦。日本からは皐月賞馬ジェルディサヴォアが、上田秋信騎手を背に出走。少数頭立て6頭でのレースとなります。

地元フランスから2頭、アイルランドからも2頭。イギリスから1頭、そして日本から1頭。

 

1番人気1番のブローブランは本国フランスダービー勝ち馬。イギリスダービー3着のホールドフローターローも現地オッズ3番人気での出走。日本のジェルディサヴォアは現地では5番人気。

さあ枠入りが、始まりそうです。最内1番枠にはスーベニアトゥリッチ、そしてジェルディサヴォア2番のゼッケン2番ゲートにすんなりと納まります。

5番のパレム。4番ゲート、納まります。そのあとちょっと枠入りを渋っているのが1番のブローブラン。

3番のハビットキスフォアスイフトもゲート前で後ずさり。その間に4番のホールドフローターロー、3番ゲートに先に納まります。

 

残るは2頭、ブローブランに目隠しがされます。ハビットキスフォアスイフトも促されますがまだ入りません。一度ゲートから距離を取って、勢いをつけますが、ダメでしょうか。

ようやく1番のブローブランがゲートに、今、入りました。ハビットキスフォアスイフト、どうでしょうかこちらも目隠しをして、勢いをつけて――今ようやく5番ゲート、納まりました。

 

落ち着くのを待って――スタートしました!

好スタート2番のジェルディサヴォア、ポーンと飛び出してリードを取っていきます。すでに2馬身から3馬身ほどのリード。

離れて2番手は6番のスーベニアトゥリッチ、並んで4番のホールドフローターロー3番手、その後ろ1馬身後方1番のブローブランが行って、ハビットキスフォアスイフト後方から2頭目、そしてパレムが2馬身後ろ最後方です。

 

先頭引っ張るのは日本のジェルディサヴォア上田秋信、リードは5馬身ぐらいに広げて、ロンシャン10mの上り坂。ゆったりとしたペースで逃げていきます。

2番手離れましてスーベニアトゥリッチ、ホールドフローターローが続きます。

そして1番人気ブローブラン、フランスダービー勝ち馬。

ハビットキスフォアスイフトが2馬身後方を進んで、最後方5番のパレムが足を溜めていきます。

 

今最初の1000mを通過、手元の時計で1分7秒7で行きました。

ゆったりと、ゆったりと逃げていきますジェルディサヴォア、リードは7馬身から8馬身。

ここから長いコーナーに入って下り坂、我慢の競馬が続きますジェルディサヴォア、まだ2番手とは距離があってスーベニアトゥリッチ、ホールドフローターローこのあたり態勢変わりません。

ブローブランとハビットキスフォアスイフト、それに少し差を詰めて最後方5番のパレムです。

 

さあ逃げているジェルディサヴォアリードが少し縮まったか、6馬身から5馬身に縮まった。

スーベニアトゥリッチとホールドフローターローに、ブローブランが順位を押し上げて2番手集団の一角。ハビットキスフォアスイフトと、外からパレムがゆっくり並びかけていきました。

 

ここから偽りの直線フォルスストレート、ジェルディサヴォアのリードが無くなってきた3馬身ほど、2番手に上がった1番のブローブラン、スーベニアトゥリッチ内から追走。

ホールドフローターロー少し遅れたか、外からハビットキスフォアスイフトが並びかけて、パレムがその外に続いていきます。

 

さあフォルスストレートを抜けて、最後の直線コースに入ります。

逃げるジェルディサヴォア、またリードを広げて4馬身から5馬身、ブローブランちょっと苦しいか伸びがない。

内からもう一度スーベニアトゥリッチ2番手に上がって、外から追い込み態勢5番のパレム。

 

まもなく残り200、上田のムチが入ってジェルディサヴォア、リードが広がる広がる7馬身から8馬身ぐらい、2番手争いスーベニアトゥリッチに、外からパレム2番手争いに加わってくるが、独走となったジェルディサヴォア、上田騎手左手を大きく突き上げて今ゴールイン!……そして2番手5番のパレム今入線です。

 

フォルスストレートでは一旦差を詰められましたが、最後の直線はリードを広げる一方で最後独走。日本のジェルディサヴォアやりました。ゴール前で立ち上がって大きくガッツポーズを見せた上田騎手、勝ち時計は2分26秒3です。

日本のジェルディサヴォア見事な逃げ切りでした。2着は5番のパレム、3着争い接戦ですが、内の6番スーベニアトゥリッチ、外から追い詰めた3番のハビットキスフォアスイフト。

1番スーベニアトゥリッチ体制有利とお伝えいたしましょう。それでは、マイクはスタジオにお返しいたします――>

 

 

 馬上でのインタビューはアキさんが英語を喋れそうにないので、誘導馬が近づいてくる前にさっさと馬を返して、オーナーたちが待っているメインスタンド方向へ速足で歩いていく。

 せっかくの海外GⅠ制覇を放送事故でオチをつけるわけにはいかん。

 ゴール前で口取り式のようなセレモニーが行われるし、そこで待っているオーナーが通訳をしてくれるはずだ。

 

 さすがに表彰式ではブーイングは収まった。

 これで「フランス人基準での」世界最強3歳馬は俺に決まったのだ。

 フランス人に、というより欧州のホースメンを絶望させる日本馬が後ろに控えているのだが。

 

 

「上田騎手、お疲れ様です。全スポの寺尾です。ちょっと取材大丈夫ですか?」

 表彰式が終わると、上田のもとへ寺尾が駆け寄ってきた。

「今更なにを改まってんよ?」

「いやー、一応私の記事を待ってる新聞社多いんで」

 勿論第一報は全スポに行くのだが、そこから各新聞社が記事を買っていく。

 

「まあいいけど、特に美味しいネタはないと思うよ?今日も俺は跨ってただけだし、ペースもジェルが勝手に作り出したようなものだし」

「いやいや、まあそんな謙遜せずに。ロンシャンでは逃げは圧倒的に不利だと言われておりましたが、それでも逃げを選択されました。その辺の意識や意図があれば」

「基本的にジェルは逃げだろうが追い込みだろうができる馬だとは思うよ。むしろ俺の判断力を信頼されてないんだと思うけどな。要するに俺はまだジェルを乗りこなせてないのよ」

 

 ゴールラインを通過する前に上田は立ち上がってガッツポーズを見せたのだが、その数秒後、とんでもないことをしたと悔やんだ。

 もちろんこれぐらいの着差がついているなら残り50mあたりから立ち上がったりステッキを客席の方に放り投げてもお咎めはないし、欧州競馬では当たり前と言ってもいいぐらいの行為だ。

 上田が後悔したのはジェルの勝利は全く自分の偉業ではないと考えてしまったからである。

 観客のブーイングがとても大きかったことも、ネガティブ思考に拍車をかけた。

 

 実際のところレースの勝ち負けは馬と騎手が8対2ぐらいの影響力であるから、いくら名手やレジェンドと言われる騎手でも、所詮強い馬に乗れたから勝ててきたのだという評価は決して負け惜しみや嫉妬に終始するものではない。

 

 増して今日の上田の騎乗は完璧だったといっても過言ではなかった。

 ジェルは確かに他の馬より賢い(理由はいわずもがな)。だが並の馬でも自分の走りやすいペースで走ろうとするし、学習もする。

 道中上田が長手綱でジェルの行く気に任せた競馬をしたのもジェルを信頼しているからであるし、ムチを入れるタイミングも(ジェルにとっては)完璧であった。

 だが上田は自分自身をまだ信じられていない。競馬サークルでも「上田じゃなかったら」という声を聞くことも多く、ジェルに乗せてもらってからは井野調教師に叱られっぱなしであった。

 

「では、この後は日本に帰って菊花賞での二冠制覇が期待されていますが、意気込みなどをお聞かせ願えれば」

「正直ここでの競馬ァ遅すぎたんで、日本に帰ってセントライト記念、かな。そこでちゃんとペースを作れるかどうかにかかっていると思うよ」

「菊花賞のあとはメルボルンカップも予定されていると井野センセイが仰っていましたが、上田騎手にとっても激動の一年になりそうですね?」

「さあ……俺はどこまで乗せてもらえるか分かんねぇから。オーナーは菊花賞までとしか仰ってないし、もしかしたら秋には降ろされてるかもしれない。でも俺の勝手な願いでしかないけど、ジェルで菊は獲りたいな」

 まあ詳しいことはセンセイかオーナーに聞いてくれ、と上田騎手はインタビューを打ち切った。

 シャワールームの方に向かう上田の後ろ姿にはまだ暗いオーラが漂っていた。

 

「谷地さん、ジェルの次走なんですが、セントライト記念でよろしいですね?」

 シャンティイに帰った井野調教師と谷地オーナーがマカロフィ厩舎の事務所で顔を突き合わせていた。

 井野としては早く日本のペースに戻す調教を始めたいのだが、谷地は腕を組んだまま宙を見つめていた。

「谷地さん?これ以上予定を崩されるとこっちとしてもキツいんですよ」

 井野が強い口調で言った。アイビーSの出走を勝手に決められたり、そもそもこの欧州遠征だってダービー直前に言われたことである。

「いや、世話かけて申し訳ありません」

 少し間をおいて、谷地はため息交じりで謝罪をした。

 

「そうですね……。予定通り、放牧に出しましょうか」

 谷地はマカロフィ師に話をつけるべくゆっくりと立ち上がった。事務所の入り口に向かって歩きながらも、谷地の目はチラチラとカレンダーの方を見ていた。

 

「……なにか、出したいレースあるんですか?」

 

 事務所のドアに手をかけた谷地を、井野がため息交じりに呼び止めた。

「ええ、ええ。ジェルにとっては大したレースにならんかもしれませんがね」

「随分と自信があるようですが、GⅢクラスですか?」

 谷地は手帳を取り出した。

 

「キングジョージ、走らせてみたいな、と」

 

 はあ?と井野は大声を出した。

「キングジョージ?連闘じゃないですか!」

 正確にはプラス半週だが、今時地方競馬でも2週は空けるのが常識だ。

 

「アキさんの渡航期間もまだ残ってる筈ですし」

 上田騎手の海外渡航届けにはレース騎乗だけではなくマカロフィ・ファームの見学も含めているので、ある程度の日数は確保できているはずだ。

「最終登録はいつなんですか?」

「今週の土曜日。だから明後日までには結論を出さないと」

 

 井野はタブレットを開き、ジェルのデータを呼び出した。

「……レースを終えても一気に喰いました。今のところ歩様などに問題はなさそうですが。明日の朝、再検査をします」

 今のところ数値では問題ない。レース後もケロッとして水を浴び、今朝はもう馬体重を490kg台まで戻していた。

 だが何より脚だ。ジェルはまだ本格化していないので、脚元には不安がある。

 

「そういえば追加登録料、今からだといくらなんですか?」

「7万5000ポンド。日本円で1200万ぐらいでしょうか」

「何着までなら元が取れるんです?」

「3着までなら美味しいんじゃないですか。セスナでも届かなかったレースですからね、来年のリベンジに向けて経験だけでもできればいいなあと」

 

 ジェルディサヴォアの父セスナはキングジョージⅥ&クイーンエリザベスSに5歳のころ出走し、祖父のハーツクライと同じ3着に敗れている。もっと言えばそのハーツクライの母父であるトニービンも3着に敗れ、セスナの母方に名を連ねるクリスタルパレスも4着に敗れているのだ。

 

 ハンデやコースを考えると凱旋門賞より厳しいレースだと言われているこのレースを、谷地はどうしても獲りたかったのだ。

 すでに凱旋門賞日本馬一番乗りの座は奪われている。しかしパリ大賞典はジェルが、谷地が一番乗りの戴冠を果たし、返す刀でキングジョージを奪い取りたい。

 

 なにより、この血統がキングジョージの冠を渇望していた。

 

 井野もしばらくデータと睨めっこをしたあと、パタンとタブレット端末を置いた。

「これから1週間、調教は曳き運動だけ、追い切りもなしでレースに行きます。それでも――故障なく走れるとお思いですか?」

 

 ええ、と谷地は頷いた。

 

「わかりました。キングジョージ、行くつもりで調整します」

 結局、今度も井野が折れてしまった。

 




投稿するにあたって、すっかり失念していたのが海外の馬番の決め方でした。
ゲート番号と馬番が違うからといって、適当に馬番が振られているわけではなく、馬番を決めるルールがあり、しかも国によってルールが若干違いました。
というわけで初期馬番からすべて書き直し……。

世界的にいちばんオーソドックスなのは
斤量>馬名のアルファベット順ですが、例えば香港は斤量>国際レーティング>馬名のアルファベット順となっており、
フランスに至っては
斤量>馬主の姓、もしくは組織名のアルファベット順>馬名のアルファベット順となっております。

今回のパリ大賞典、そして凱旋門賞などを書くにあたり、各馬の馬主まで個別に設定するのはちょっと厳しいので、フランスの馬番はオーソドックス準拠で書かせていただきます。
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