「アキ、面倒なことになった」
井野調教師が面倒なこと、と言いながらも楽しそうに上田騎手を呼び止めた。
「……すみません。初めての海外GⅠを勝利で飾って、舞い上がってしまったようです。もう一度気を引き締めて――」
「そうじゃねえ」
井野は上田の顔を覗き込んだ。
「ジェル、連闘だ。イギリスはアスコットのキングジョージ。芝2400。プラス10かな。作戦はお前に任せる。逃げだろうが追い込みだろうが、好きに走らせてみろ」
「キ、キングジョージ?」
「ああ。オーナーが凱旋門賞以上に目指してるレースだぞ。ただ、さっきも言ったが連闘だ。もし、何か異常があったと思ったら即座に止めろ。オーナーの我儘で出すんだから、そこはオーナーが矢面に立ってくれるさ」
はあ、と上田が気の抜けた返事を返した。
「最終登録前で6頭、追加登録があっても7頭か8頭だろう。少頭数なのは変わらない。行ってこいや」
「いや、行ってこいって言われても?」
「とりあえずオーナーのところに顔出してこい。なんだかんだであのオーナー英語ペラペラだし何とかしてくれるだろ」
上田が行ってしまうと、井野は厩舎の敷地から外れて煙草に火をつけた。
どうしようもなく今が楽しい。もちろんロマンとかそういう喜びに加え、これからウチの厩舎に預けてくれる馬主が増えてくるかも、とか、持ち切れないほどの栄誉と進上金、という俗な感情も少なからずあるが。
パリ大賞典は必ず7月14日のフランス革命記念日に開催されるので、今年は月曜日だったのはラッキーであった。
一般的な連闘出走となれば中6日であるが、このローテーションでは中11日と、ギリギリ許容できる間隔ではあったのだ。
井野は今まで連闘で出走させた経験はない。
もとより馬の体調にはとことん気を遣ってきた。過保護だと言われるぐらいには坂路のメニューも少ない。
井野は完全に守りの姿勢であった。
井野厩舎の立場として、重賞級を何頭も任せてもらえるわけがないというのは以前述べた通りである。
大手クラブ馬が井野厩舎に入るのは、贔屓にされているリーディング上位の厩舎が手いっぱいで面倒が見られなくなり、かつ未勝利突破すら怪しいレベルで「価値無し」と見放され転厩してくる場合だ。
そのような馬ばかりならば未勝利や平場クラスで一発勝負に出るより、細く長くコンスタントに走って出走手当をかき集めてくれたほうが収入になる。
馬をゴリゴリに鍛え上げた経験はなく、逆にそれが追い切りなしでの出走にも抵抗がない理由でもあった。
ジェルディサヴォアの父セスナを管理していた時も、菊花賞も天皇賞春も有馬記念も、そしてキングジョージですらも余裕を残した仕上げを施した。
井野にとってジェルのダービー直前での下痢は屈辱でもあった。特になにか細菌やウイルスが検出されたわけでもないのに、ああなってしまったのはいまだに科学的な面での結論は出なかった。
実際はジェル側のサボり癖、もっといえばただの仮病が本当に胃腸炎を発症した逆プラシーボ効果に過ぎなかったのだが、井野はそんなこと知る由もない。
今度こそ完璧に体調を戻してやると、井野は煙草の煙を深く呑み込んだ。
「はあっ!?連闘?」
井野に呼び止められた全スポの寺尾記者は慌ててボールペンを取り出すと、手帳を投げ捨ててシャツの裾に何やら書き始めた。
「落ち着きなよ寺尾さん。手帳は地面だ」
寺尾はわたわたと手帳と散らばった付箋を拾い上げた。
「私金曜には帰るつもりだったんですけど?」
「このネタと一緒に会社に送れば延長してくれるだろ。さ、話を戻すぞ?ジェルの次走は来週末にイギリスのアスコット競馬場で行われるキングジョージだ。ただこの最終決定は明日の午後あたりになるから、それまで会社には送らない方がいいかもしれねえ」
寺尾は急いで手帳に書き留めた。
「追加登録が必要ですよね?いくらとか聞いてますか?」
「7万と5000ポンドだってさ。レートはそっちで計算してくれや。具体的なところは明日また話すんで、とりあえず出走の可能性は高いってことだけ含んどいてくれ」
「スプリングから中2週で皐月、ダービーから中4週でパリで、そこからさらに連闘ですか?」
「連闘っつーか、中半週っつーかな。オーナーの拘りなんだわこのレース」
谷地オーナーは優しそうに見えて、別に馬ファーストでもなければ厩舎ファーストでもない比較的ワンマン馬主なので、ヘソを曲げるとなかなか面倒なタイプであった。
「そこからまた菊花賞ですか?セントライト記念は?」
「さすがに中間使えんよなあここまで使い詰めると。ここからはまだ書かないで欲しいんだけど、多分メルボルンも有馬も無理だわ――」
寺尾はホテルに戻ると、キングジョージⅥ&クイーンエリザベスSの出走予定馬を検索した。
キングジョージは欧州3冠のひとつに数えられているように、欧州では凱旋門賞の次に権威があるレースである。
尤も近年は短中距離偏重によって英チャンピオンSにその座を明け渡しつつあるが。
キングジョージは凱旋門賞より過酷なレースとされている。
理由の一つは開催が真夏であるということ。
高緯度のイギリスにあるアスコット競馬場で開催されるが、近年は30℃を超えることも珍しくない。
二つ目はアスコット競馬場の形状だ。
日本の競馬ファンは凱旋門賞が開催されるロンシャンの高低差10mで大騒ぎするが、アスコットはその倍、20mもの高低差があるコースである。
アスコット競馬場はご存じの通り三角形のコースになる。
スタートから最初のコーナーまで下り坂、角を曲がってからずっと上り坂。しかも踊り場付きの二段坂だ。
最初の直線で勢いづいてしまうとコーナーに苦しみ、さらに上り坂のダブルパンチを食らう。
そして三つ目は斤量差である。
凱旋門賞の斤量が3歳牡馬56.5kg、古馬牡馬59.5kgに対して、キングジョージの斤量差は3歳牡馬が約56kg、古馬牡馬で約61kgになっている。
3歳馬がキングジョージの前に主に出走する英愛ダービーはどちらも約57kg、一方で古馬組が前哨戦として出走するプリンスオブウェールズSやサンクルー大賞典はどちらも斤量58kg。
3歳馬は前哨戦より斤量が約1kgほど軽くなるのに対して、古馬はさらに約3kgプラスされ、3歳と古馬の斤量差は約5kgとなる。
一般的に2400m戦であれば斤量差1kgで0.3秒*1ほどの差が生じると言われているので、5kgとなればほぼ1秒半、着差にして7馬身程度の差が見込まれる。
逆に言えば未熟な3歳馬がハンデ無しで古馬に挑むとそれくらいの差が出ると想定されているわけだ。
さらに言うなら3歳馬の想定ローテーションは英愛ダービーから直行であり、パリ大賞典から連闘などナンセンスである。
英愛ダービーの牡馬斤量は約57kgだというのは前述したが、パリ大賞典は58kgなのだ。
普段キングジョージに出走する3歳馬と比べ、約1kg程度ジェルディサヴォアのほうが恩恵は大きかった。
今年出走予定の3歳馬はジェルだけで、他は古馬である。牝馬は1頭。牝馬の斤量は牡馬の1.4kg減で約60kgになっている。
ブックメーカーのオッズによると1番人気はドバイシーマクラシックで3着、そして前哨戦のサンクルー大賞典を勝った4歳騙馬のインディアナセックメイクとなっている。
ジェルはまだ正式な出走登録がされていないので、あくまで出走すれば、という前提で5番人気想定のオッズが付けられていた。
この時期の古馬クラシックディスタンスはなかなか読みにくく、最も参考となるのは前哨戦のサンクルー大賞典である。
それ以外はGⅢクラスかミドルディスタンスのレースを参考にするしかない。なおドバイシーマクラシックや香港ヴァーズは毎年のように日本馬が勝つので評価が難しい。
寺尾は明日に向けてデータを調べ、記事の下書きを書き上げた。
翌朝、ジェルの馬房の前に井野調教師をはじめ、マカロフィ調教師、コウヘイ、上田騎手、寺尾記者、そして谷地オーナーが集まった。
コウヘイがジェルに曳き綱をつけると、厩舎の前に連れ出す。
まず井野が脚を触診すると、コウヘイが厩舎の前を軽く曳き回した。
「歩様に問題はなさそうですね」
井野の言葉に、マカロフィ師も頷いた。
息遣いもチェックしたが、問題はなかった。
「よし、ちょっとコースに出てみよう。アキ、ここからもう乗ってくれ」
ジェルに鞍と鐙が付けられ、上田騎手が跨った。コウヘイが曳き綱を外し、一番近いエーグル・コースまでゆったりと歩く。
コースまでゾロゾロと連なって歩き、井野調教師が一歩一歩ジェルの歩様を確認した。
「ここまでは問題なし。よし、アキ、800mぐらいでいいから軽く流してくれ。タイムは出さなくていい」
井野はバインダーにメモを取ると、帰ってきたジェルの脚を確認した。
「熱はもってない。息遣いもよし。走りに問題はなかった。行けると思いますが、何が起きるか分かりません。オーナー、どうします?」
全員が谷地に注目した。谷地はジェルの目を見つめた。
「――行きましょう。キングジョージ」
馬名考えるのがしんどい