ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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幼駒
転生


 

 ここに一人の男性がいる。いや、いた。

 

 日の暮れた県道で、押しボタン信号を無視したのか見落としたのか、高齢男性の運転する某ハッチバック車に撥ねられ、即死したのだ。

 彼の財布には払い戻していない、有馬記念のリリックジェームズとアズサロケットの連複馬券が1万円分、入っていた。

 

 

(まったく詰まらねえ)

 俺は競馬は好きだが、どうせ当たらんからと今までロクに金を賭けたことはなかった。

 競馬の中継や予想の番組、週刊の競馬雑誌だって毎週毎日欠かさず購読し、口張りで予想をしては一喜一憂し、SNSでは評論家気取りで総括やら評価を書いていた。

 

 しかし今年の有馬記念はどうしても買いたいと思い、WINS(ウインズ)に足を運んだ。

 買ったのは当然、リリックジェームズとアズサロケット。どうせなら2頭で1着、2着を取ってほしいと、応援馬券のつもりで1万円、買った。

 

(何が距離の壁だ。何が体調不良だ。ロクに折り合いもつけられない畜生頭のクセしてよぉ)

 

 俺はロットクリアバイの有馬記念での敗因は距離なんかじゃないと思っていた。

 昨今の競馬はとにかく鍛えるために、ひたすら直線の坂路を走らせる。

 その結果、まっすぐ走れば速いだけ、逆に言えばコーナーワークがヘタクソな直線番長ばかりで、中山競馬の、まして外回りとなれば複雑なコース形状に戸惑い、いつまでコーナーが続くのかと馬がまごついている間に手前を替えられず、すぐヘバってしまう。

 

(だから東京競馬場は嫌いなんだ)

 

 人間の記憶、精神を持ちながらサラブレッドに転生した俺は、ゆっくりと立ち上がった。

 

 俺が生まれた牧場は、北海道の様似町にある個人所有の牧場だった。国道から大きく外れて、アポイ岳の方に20分ほど車を走らせたところに土地を持っている。

 大体こういうのは経営難で破産寸前の牧場になるのがお約束なのだが、ありがたいことにここの経営主は事業主としても馬主としてもそこそこ成功している人だったので設備も充実していた。

 

 さて、馬として生まれても人間、しかもいい大人の記憶がある俺としてはとにかく暇を持て余していた。

 ちょっと走り出してみてもまだ競走相手はいないので、牧場長やスタッフの話を耳ダンボで聞くのが唯一の楽しみだった。

 

 俺の母馬であるセーフティアイコンは3勝クラスはなんとか突破したものの、リステッドクラスではさすがに戦えず、最後にゲート割れで出走できた函館記念9着を最後に引退した馬だそうだ。

 オープンからリステッドクラスで苦戦していて、ローカルとはいえ思い出出走の重賞で9着だったのはすごいと思う。

 

 父は同じ牧場に繫養されているセスナという馬で、名前の通り小柄だったが7歳まで走って菊花賞と宝塚記念、有馬記念を制したグランプリホースらしい。

 勝ち鞍は素晴らしいのだが、近年の短距離型偏重と馬格がネックになり種付け頭数を伸ばせていない。

 セスナはまさに俺が大好きなタイプの馬だ。絶対に父を名種牡馬と言わせて見せると誓った。

 

 俺はセーフティアイコンの初年度産駒である。

 ひいては母は初めての子育てになるので、お手本となる乳母役のおばちゃん馬がしばらく付き添っていたのだが、母は育児放棄するタイプではなく、どちらかというと子煩悩な面があるようだ。

 というのも俺がまだ馬と人との意識の調整に慣れておらず、乳をねだるのを忘れてしまうので心労が絶えないのだ。申し訳ない。

 

 たまに母から離れて誰もいない柵沿いを走ってみたりするのだが、ここでも人間の意識が強く残ってしまい、どうしてもハアハアという口呼吸を試みてしまう。

 当然馬に口呼吸はできないのだが、身体の構造的に「100%無理」というわけではないのだ。

 

 とねっこの時代から面白半分でいろいろ試していたら、筋肉や舌の動きが適応したのか、いつの間にかわずかではあるが口からも空気が通るようになってしまった。

 なんとなく嘶く音に「あいうえお」が混じるようになったものの、競走馬である以上特にメリットはない。

 むしろデメリットの方が大きく、誤嚥は人間時代の技で軽減することはできたが、歯や舌の位置がズレてハミ受けが悪くなり、のちに苦労することになった。

 

 ところで、競走馬に限らず畜産動物にはほぼ必ず蹄鉄を履かせる。

 最初の装蹄(そうてい)作業は本当に怖くて見ていられなかった。

 蹄をナイフのようなもので削られ、焼きゴテで焼き固められ、最後には釘で打ち付けるのだから。

「神経まで当たったらどうしよう」とずっと考えておびえていた。

 爪切りを「やってもらう」というのは前世からのトラウマである。

 人間時代の母親は爪切りが下手で、たまに指先に爪切りの刃が当たって怖かったのだ。

 

 しかしそこはプロ。

 痛い思いは全くなく、「馬糞を踏んでないんだね。偉いね」と褒められた。

 糞を踏むのは元人間として生理的に嫌なので、神経質なほど気にしている。

 馬房だったらトイレの場所を隅の1ヶ所と決めていたから踏むこともその上に寝転がることもなかったのだが、放牧場では至る所に馬糞が転がっているので、踏んづけた時はとにかく洗いたいと放牧地を横切る水路に向かっていた。

 

 産まれてから2ヶ月ほどが過ぎた。

 基本的にはそろそろ乳離れのための離乳食が出されるわけだが、まあこれが美味しい。

「人間が食べて美味しいものは馬も美味しい」と言われるが、味覚はさすがに馬だったようで安心した。

 いくら何でも馬の癖に味噌汁や焼き魚が食べたくて仕方がないとなったら消化器官的に大問題だったところだ。

 

 消化器官といえば、これは産まれて最初の災難だったのだが、仔馬は草を食べ始める前に母親の馬糞を食べなければならなかったのだ。

 草食動物は、体内に繁殖している微生物に食べた草を分解させ、微生物ごと消化することによってエネルギーを得る。

 ところが産まれたばかりの仔馬は綺麗な状態で、微生物が住んでいない。

 最初の微生物を得るため、仔馬は母馬の馬糞を食べて消化されきらなかった微生物を「お引越し」させるのである。

 俺は5回ぐらい吐きながら本能になんとか従い、セーフティアイコンの糞をひとかけら飲み込んだのであった。

 

 思い出したくない記憶を封印しつつ、競走馬用の離乳食を食べ進める。

 ペロリと平らげる俺を見て、スタッフも目を細めて喜んでいた。

「この馬は離乳が早くなりそうですね」と量も次第に増えていき、そろそろ離乳食だけで十分な量を配給されるようになってきたのだが、そんな俺を見て「ちゃんとお乳を飲みなさい」とばかりに母が寄ってくるのである。

 俺としては今すぐ離乳してもいいのだが、どうにも母の方が子離れできそうにない。

 

 それから3ヶ月、さすがにそろそろ引き離さないとまずいと、母には別の母馬が生んだ仔が預けられることとなり、母のロックオンから解放された俺はルンルン気分で仔馬の群れの方に走っていったのだった。

 

 さて、仔馬とはいえ群れとして成立すると、必ず誰かリーダー的な馬が現れるものである。

そのリーダーが急に走り出したりすると群れも一斉にその馬についていく。

 俺は馬群の中からスタートして、馬群に揉まれつつ手前を変え、馬の間を縫って先頭に躍り出る練習を繰り返していた。

 俺が先頭に立つと、リーダー馬が「勝手なことするな」とばかりに追いかけてくるが、父譲りの長距離向けの体格で、かつペース管理をしっかりしていた俺より先にリーダーの脚が止まる。

 そうしたらあとはしれっと群れの中に戻るのだ。いつの間にかリーダー馬が先頭に戻っているので、群れも俺をリーダーと認識することはない。

 あとはひたすら輪を描くように走りこんで、牧草を食み、また走った。

 

 ようやく夜間放牧の気温が10℃を下回るようになってきたころ、馬追い運動が開始される。

 羊を追い立てる羊飼いのようにおっちゃん馬に乗った調教スタッフが群れを追いかけてくる。

 俺たちは追いつかれないようにひたすら逃げる。

 このおっちゃん馬、「待て待てー」みたいなタイプかと思ったら、無表情で追いかけてくるから怖い。もうちょっとフランクな馬にしてほしい。

 

 年が明けたらいよいよ競走馬を目指して本格的な訓練、馴致(じゅんち)が開始される。

 

 まずは馬具の装着だ。

 これは特に気にすることはない。ただじっとしていればいいだけで、おとなしい馬ほど評価される。

 背中に人を乗せる訓練も同様だ。1歳になったばかりの俺にとってはちょっと重いが、人をおんぶしているというより教科書とノートを詰めたランドセルを背負っているかのようだ。

 重心がズレるとバランスを崩してしまう。

 とはいってもそれは乗る側の責任。俺の走り方のクセを把握していない乗り役が悪い、ってことで。

 

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