ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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ステイヤーズS(3歳以上 GⅡ)

ナレーションレース


無謀な試験

 

「よくこれで長距離走れるもんだわ」

「いや、折り合いは悪くないっつーか、勝手に走ってることに変わりはないんスけど」

「折り合ってるって言えるのかそいつは?顔上げてるわけじゃないから注意で済んだけどな。縛るかぁ」

 

 井野調教師と上田騎手を悩ませるジェルの悪癖、ソラとハミ受け不良を何とか矯正しようと調教を積んできたのだが、いくら調教で折り合ってもレースに出たら勝手に走るのでいい加減井野も諦めがついた。

 とりあえず次のレースは舌縛りをして出走させるということになった。

 

「なあ、アキ」

 

 井野が9回目となる菊花賞のビデオを見ながら呟くように言った。

「乗ってみて、どうだ?まだ走れそうかアイツ」

 上田はちょっと考えた。

「底は見せてないッスよ。まだなんか測ってるような感じですわ。5000mのレースとか無いんスかね」

「今時あるわけねえだろ。4000mのゴールドカップとか楽しそうだけどな」

「のびのびと走るんじゃねえスか。5ハロン1分ちょうどぐらいで」

「死ぬわ――ほかの馬が。……アキ、試してみる気、あるか?」

「マジすか?」

 井野はクリップボードを取り出した。

「来週、Eコースで2周させる。アキ、乗ってくれや。入りの5ハロンを60秒ちょうど、上がり3ハロン36秒台目標だ。できれば時計は5分10秒以下で。成功したらステイヤーズで試す」

 

 そんなやり取りがあった翌週。

 すっかり日も登った9時半ごろ、上田が井野厩舎に寝ぼけ眼で顔を出した。

「おうアキ、間に合ったか。眠そうだなぁ?」

「すんません。ギリギリまで寝てたもんで……」

 井野が苦笑しながら曳手綱を渡した。

「お前さんにとっても大事な時期だってのにノンキなヤローだな。コウヘイと一緒にジェルを洗ってやれ。ついでにお前も顔洗ってこいや」

 

(最近谷地さんも有田以上に贔屓してるってのに、ここでほかの馬主から依頼集めないと先がないぞ)

 谷地は馬主としては勝っている方ではあるだろうが、それでも大手クラブや馬主会の幹部を務めるような馬主ほどの勢力ではない。

 つまりいくら谷地からの依頼が集まったとしてもほとんどが1.5流以下の馬質になるのは間違いなく、「平場なら押さえてもいいが重賞では買えない」と評価される騎手にとどまってしまうだろう。

 

 上田は井野厩舎所属ではない。

 今はフリーだが、もとは美浦・張谷信一厩舎の所属で、フリーになる前から井野や高橋調教師を通じて谷地オーナーがちょくちょく乗せていた。

 ジェルの母セーフティアイコンには3戦目の未勝利戦からラストランの函館記念まで12戦に跨っている。

 

 ある意味で谷地オーナーお抱えという地位はキープしているのだが、さすがにそろそろエージェントをつけた方がいいとは思う。

 しかし一方で、そのエージェントを探すツテがないというのも事実。

 谷地オーナーが贔屓にしている有田騎手のエージェントはもう枠がない*1し、井野厩舎の番記者である寺尾は馬券を禁止される*2仕事には就かないだろう。

 

(ま、仕事が無くなったらウチで乗せてやりゃいいか)

 

 一応ドサ回りもやってるようだし、慌てなくても大丈夫だろ、と井野はスマホを閉じた。

 ――厩務員過程から調教師になった井野は騎手のコミュニティには縁がないのである。

 

 

「アキさん、とんでもないテストやるんですってね」

 俺(ことジェルディサヴォア)に水をぶっかけながら、コウヘイが顔を洗っているアキさんにタオルを投げた。

「サンキュ、これ馬のやつじゃないだろうな?――ダートで1000m1分ちょうどか。Eコース2周だと4000m超えるんじゃないか?」

「インベタで走っても4400ぐらいで、ゲートも使うらしいから引き込み線入れたら4600ぐらいすかね」

 

 なんかとんでもない話が聞こえる。

 イギリスのゴールドカップやフランスのカドラン賞でも4000mぞよ。

「ちょっと調べたんだけど、ゴールドカップで大体4分と25秒ぐらいじゃん?」

「カドラン賞でも4分半ぐらいスね」

「で、ダートで4600(ヨンロク)と」

「名古屋グランプリの昔のレコードは2分40秒っスね。2500で」

「ラップ13秒だとちょっと遅いぐらいか。で、ゴールドカップで4分25秒ってことはまあ13-13か」

 

 ちゅーことは――とアキさんがブツブツと計算しているのが聞こえる。

「13-13で……まあほぼきっちり5分か。目標は5分10秒以下で入りの1000mは60秒、上がり3ハロンのノルマ36.9とすると――」

「道中は203秒で3000mを走破――平均ラップ13.5でクリアっすね」

「キツくね?」

「正直、キツいと思います。あとでセンセイから言われると思いますけど、息が上がったらすぐ止めろ、だそうで」

「あたりめーだろ……しゃーねー。腹くくってやるわ。ジェル、今日の攻めはキツいけど、頑張ってくれや」

 

 当たり前だがアキさんとコウヘイの会話は全部聞いていた。

 発走調教用のゲートがあるのはEコースの向こう正面引き込み線。

 2周で4600ってことはゴール地点も向こう正面のちょうど真ん中辺りを想定しているのだろうし、そうなると上がり3ハロンの計測開始地点は調教スタンド側から見て1コーナー半ばぐらいである。

 最終直線は250m程度だから、イメージとしては函館競馬場。

 残り4Fから一気にペースを上げる。

 作戦は決まった。

 なぜあの井野センセイがこんな攻めを思いついたのかは不明だが、何かにつながるというならやってみようと思う。楽しそうだ。

 

 

「ほんじゃ、アキ、頼むわ。コウヘイがもうゲートのとこに行ってるから、まっすぐ行ってくれ」

「うっす」

 

 ジェルと上田を見送った後、井野は寺尾記者と調教スタンドに登った。

「井野センセイ、結局なんなんスか?これ」

「ほんとはダイヤモンドSの3400を試したかったんよ。でもまあただでさえハンデがとんでもないだろうし、アイツにとっちゃ府中は()()だから。今日はアキもまだ仕上げ切ってないから斤量55kgぐらいか。どこでヤツがヘバるのか、確かめときたくてな」

「それでEコース2周スか」

「しかも目標タイム付きでな。15-15で4000m走れって言ったら普通に走り切るだろ」

 

 スタンドに上がると、ちょうどゲートの後ろで輪乗りをしているジェルが見えた。

「寺尾さんもタイムとっときなよ。ゴール地点が反対側になるから、表示タイムが当てにならんよ」

 井野は両手にストップウォッチを構えている。寺尾も慌ててストップウォッチを引っ張り出した。

 寺尾が双眼鏡を覗くと同時にジェルがゲートに誘導され、ゲート上のランプが点滅した。

 ほかにスタートをする馬はいない。

 後ろで待っている馬もいないので、時間帯を考えたら最後のスタートになるだろう。

 

(今日のゲートでは落ち着いてるな)

 上田がジェルの馬上で最初に感じたのはそれだった。

 普段のゲート入りでは常にピリピリした雰囲気を出しているジェルだが、今日はいったん首を大きく揺らすと、スッと力を抜いたように首を下げている。

 

 ゲート係員の合図もなく急にゲートが開いたが、相変わらずスタートは抜群であった。

 Eコースは引き込み線にゲートを設置したダートコースだが、ゲート訓練をした後そのまま馬場を周回する馬は基本的にはいない。

 そのため、コース脇のハロン棒の目安が当てにできないのである。

 おおよそ向こう正面の中間点手前あたりで300mというところではあるが、やはり1000m地点を正確に把握することは難しかった。

 

 Eコースは経済コースを回って1周2150m。コーナリングのロス等を考えたら1周2200mと見積もっていいだろう。

 コーナーごとに区切って4分割すれば550mであり、3,4コーナー中間で約900m。

 目標は400のハロン棒がある辺りを1000mとしておいた。

 並の馬ならコーナーでは大きく減速するので最初の直線で稼ぎたいところだが、ジェルはコーナーが速いのでそこまでテンを強める必要はない。

 まして美浦トレセンはスパイラルコーナーではないのだ。

 コーナーの入りではそこまで速度を上げず、スムーズに最初のコーナーを迎えれば――ピッタリ60秒だ。

 

 コーナーを抜けて少し手綱を緩めれば手前が変わってペースが落ち着く。

 無理やり抑えなくてもいいのはジェルの魅力だが、たまにハミを舌で押し出す癖が出てしまうのは不安なところでもあった。

 あとは基本的にハロン棒を目安として、コーナーで息を入れ直線出口で再加速、また緩めて、とリズミカルに繰り返してやれば、直線で11.7から12.1、コーナーでは14.5から15.0の13.5-13.5のラップを刻む。

 

 たまにジェルが口を開けるような仕草をするが、頭は低いままなので続行。

 2周目のホームストレッチ、調教スタンド前を通過した辺りでハミを詰めると、ジェルがまた口を開いた。そしてまたすぐ口を閉じて一気に加速する。

(終わったら確認するか)

 上田が鞭を抜き、追う姿勢のままジェルの首元に顔を近づけた。

 ここでヒュウヒュウという音が聞こえたら喉鳴りの可能性もある。

 

 600のハロン棒を過ぎて、ジェルのペースがさらに上がった。残り400でハミをいっぱいに詰め、左ムチをくれてやる。

 ジェルの馬体がさらに内に傾き、左後脚がダートを蹴る衝撃が強くなっている。

 上田はもう一度ジェルの呼吸に耳を傾けた――喉鳴りの音は聞こえない。

 追いとムチを一杯に使って向こう正面の中間点を通過。

 ハミを緩めるとジェルが徐々に減速、そのまま調教スタンド前に戻ると、スタンド上で親指を立てている井野調教師が見えた。

 

「ようし!アキ、合格だ。サンロク(ステイヤーズS)行くぞ」

「はぁ。有馬行かないんスか?」

「どうせ(年度)代表馬も(最優秀)3歳(牡馬)も取れないんだから行かんでもいいだろ。お前には谷地さんから仕事もらってるぞ。ほかに馬いないなら乗せてもらえや。朝日杯だ」

 

 谷地は朝日杯フューチュリティSには2頭出しの予定であり、高橋厩舎に所属しているカジュアルデイズはベテラン有田琉希に、そして井野厩舎に預けられたシビアレコードを上田に任せるつもりでいた。

 ちなみにシビアレコードは標準的な差し追込の馬であり、井野は上田に任せることに難色を示していたが、相変わらず谷地の意向に逆らえなかったらしい。

 

 ちなみにその対価として、来年井野厩舎に所属することが決まっている新人・進藤誠紅(まこう)騎手のお手馬に一頭出してくれることになっていた。

 

 各厩舎に配属された新人騎手は当然その厩舎の調教もつけるのだが、スキルアップの為とはいえ、何鞍も調教に乗れるわけではい。

 競馬学校で騎乗技術を身に付けてきたはものの、ドサ周りで追い切りに乗りに来る現役騎手は勿論のこと、ベテランの調教助手のほうがまだまだ技術が上なので、馬主サイドが自分の馬に新人騎手を跨らせること自体を嫌がることも少なくないのだ。

 

 調教師としてもその辺は気を遣っている部分であり、特に競馬学校3年次の実践課程で厩舎に来ている騎手候補生に調教をやらせてみたい場合、攻めで乗せていいかどうか馬主に連絡を入れ、了承を得てから乗せることになっている。

 進藤候補生が井野厩舎に来ている期間、ジェルディサヴォアは長期放牧中であまり関わることはなかったが、進藤がコウヘイに連れられて最初に掃除に入ったのはジェルの馬房であった。

 当時ジェルはまだ2歳。調教前の装鞍訓練などはもっと馬齢が上の馴れた馬でやらせており、ジェルの調教はコウヘイか上田がいつも乗っていたため、馬房の掃除以外では触れる機会はなかったのである。

 

 それでも厩舎にいる以上、谷地とも面識はある。

 進藤が谷地に挨拶に行くと、

「卒業したらここに来るの?そう。じゃあ無事卒業出来たら一頭任せようか」

と、見栄を張りたかったのだろう、あっさり約束していたのであった。

 

 閑話休題。

 

 上田に任されたシビアレコードはジェルの全弟で、菊花賞当日に新潟競馬場での未勝利戦を勝ち、抽選を潜り抜け朝日杯直行のローテーション。

 一方のカジュアルデイズは新馬戦を勝った後サウジアラビアRCで2着となっており、カジュアルデイズのほうが本命ではある。

 

 ではなぜジェルの全弟で父は長距離馬のセスナであるシビアレコードが2000mのホープフルSではなくマイルの朝日杯を選んだのかといえば、今年の2歳混合重賞で牝馬の好走が目立ち、朝日杯のほうは収得賞金400万ラインの抽選枠が広かったからだ。

 他方、阪神JFは重賞2着馬すら抽選対象になるほどの賑わいぶりで、ホープフルSもその割を食って高レートのフルゲート抽選は確実だったのである。

 

 そういう事情からも察する通り、シビアレコードはそこまで期待されている馬ではなかった。

 上田も朝日杯はテン乗りで、来年の春には進藤に下げ渡すことも話がついていた。

 

 

 というわけで、弟もGⅠ出走となれば、併せる相手は必然的に俺になる。

 2歳1勝馬が3歳GⅠ馬と合わせても勝負にならないだろうが、俺の場合先日の無茶な追い切りをクールダウンさせるためにやや遅いペースでの調整でちょうどよかった。

 あの母にしてこの仔あり。

 逆に心配になるほど素直な仔で、頭の良さはウマナミではあるが多少煽っても(やや怯えてはいるものの)アキさんの手綱に従っている。

 

『よーし、よく我慢した。偉いぞ』

 圧を解くとシビアレコードの緊張がおさまった。

 

『まっすぐに入ったらただ走るだけじゃダメ。疲れるからね。反対側の脚でも走れるように』

 併入してリズムを合わせ、何度か手前を替えてみる。

 手前を変えるときにワンテンポのズレができるが、シビアレコードも俺とリズムを合わせようと軽くジャンプする。その瞬間に手前が替わるのだ。

『よし、上手い。そのまま曲がるまでスピードを上げて』

 俺の鞍上、コウヘイの手綱が小さく動いているので少し加速する。

 というか、アキさん、俺にずっと乗ってるから手前替えの指示の技術ねえわ。シビアレコードに勝手にやらせよう。

 

 東京開催が終わり、ステイヤーズSの追い切りもシビアレコードとの併せである。シビアレコードにとっては2週前追い切りにあたる。

 当然Dコースである。坂路?知らんよそんなもん。

 しかもどちらかと言えばシビアレコードに寄せた調教になっており、俺が半馬身先行のままコース一周という負荷ゼロの追い切りであった。

 コーナーで右手前、直線で左、右、左。はい2周目いくよ――。

 

 

「またしょーもない追い切りやってますねえセンセイ」

 

 調教スタンドで井野調教師と並んで双眼鏡を覗いている寺尾記者がボヤく。

「ジェルに負荷なんていらんよ。どっちかっちゃシビアレコードの攻めだ」

 ジェルはステイヤーズS終了後に放牧リフレッシュなので、シビアレコードと併せられるのは今年はこれで最後だ。

 

 コーナーワークでは圧倒的に兄だが、直線の追い脚は弟のほうが上である。

 コーナーの出口で2馬身ほど離されるのに直線の中ほどでほぼ並び、直線の終わりごろにはアタマ分交わしきっていた。

 もちろんジェルはひたすら馬なりではある。

 

「寺尾さん、アンテリゼストの時計聞いてる?」

「ええと……今週は53秒4の上がり12秒6だそうで」

「結構強めに追ったんだな」

「まだ2週前っスからね。あそこは相変わらず前で攻めて最終は軽いスから」

「だろうね……ついて行けないこと、ないかもなあ……」

 井野はタイムモニターに目をやった。

 

――シビアレコード 40.2 26.6 12.2 井野叶偉 908――

 

 ステイヤーズSは状況を伝えるまでもなく6馬身差の逃げ切りである。

 最初の1000mを1分1秒ちょうどという少頭数のステイヤーズSにあるまじきハイペースで行き、上がり3ハロンが35.1では当然レコードも出るというものだ。

 1994年のような、ハナの削り合いから第三者の進出、そして上がり最速というレースにはならなかったが、そのすべてを1頭でこなしたようなものである。

 なお上がり3ハロンのタイムは2位であった。

 

*1
エージェント一人につき騎手3人までとしか契約できない

*2
エージェントは公平を保つため馬券の購入ができない





【業を煮やした舌縛り】

ジェルディサヴォア【ウマ娘】の低級レース勝利演出では、レース中装着していたマウスピースをずらして口端に咥えている。

ウマ娘、もしくは競馬系のSSを、主にどのタイミングで読んでいますか?

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