ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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谷地オーナー

 

谷地(やち)さん、どうですこの仔は」

 俺の背中に乗った調教スタッフが、コートを着た男を呼んだ。

「セーフティアイコンとセスナの仔でしょう?母のほうが色濃く出てる感じ?」

「そうですね。性格は足しても割ってもこの通りでしょうし」

「しかもいまどきアウトブリードだからねえ。群れではどうだったんです?」

「群れの中で走ってもおびえる様子はありませんでしたよ。追っているといつの間にか先頭にいるような感じで」

「いいじゃないの。この仔はそのまま私が持ちますよ」

 

 この谷地、まだ40代そこそこと言った感じの小太りな男性で、俺が生まれた牧場の牧場主兼馬主だ。

 いわゆるオーナーブリーダーというやつである。

 それにしても腰が低い。

 谷地はクリップボードにメモを書き込むと、次の馬を見に行った。

 

 それから数か月は基本的な馴致が続けられた。

 小学校で足し算や引き算を教わっているような、そんな感覚である。

 メンタル面を成長させるような基本的な馴致で、ダッと走り出したくなるがそこは我慢しないと、落第になってしまう。

 

 基本的に他の馬より順調にこなしていた俺だが、ハミ受けの訓練だけ長引いてしまった。

 人間だって馬だって、口の中に金属部品を突っ込まれるのは嫌なわけで、どうしても舌や顎で押し出そうとしてしまう。

 歯医者に行って、歯の裏側をチェックするために歯鏡を突っ込まれたことがあるだろう。それをつい舌で邪魔してしまうのと同じようなものだ。

 ようやくハミに慣れれば、乗り役を背中に乗せて歩いたり、軽く走ったり、ゲート訓練をしたりと丁寧に丁寧に馴致が進められ、馴致段階から調教へじわじわと移行するのだ。

 

 夏を越え、馬肥ゆる秋も過ぎ、12月も半ばに入るころ、谷地が同い年ぐらいの男性を連れて、私の馬房の前に立った。

井野(いの)センセイ(調教師)、今のところウチで5本の指に入る仔です」

 オーナー、微妙に評価低くないか……?TOP5レベルか。

「まだ緩いところは残ってますね……もう走ったんです?」

 

 トラックを軽く流したことはあったな。

 

「まだこの状態なので、そこまで強くは。でも最初にしては上々でしたよ」

「へえ……なかなかいいじゃないですか。高橋センセイじゃなくてウチでいいんですか?」

「ぜひぜひ。高橋センセイはすでに3頭決まってまして」

「こちらもぜひ預かりたいですね。夏の新馬はちょっと厳しいかな。10月末か、遅ければ12月になりそうですね。年が明けることはないと思いますが」

 

「早ければギリギリ朝日杯行けるかどうか、ってところですかね」

「いやあ……1戦だけ走って、抽選枠に届くかどうかですね」

「そうですか。セスナも仕上がりには時間がかかったし、そういうものでしょうね」

 どうやら井野調教師の眼鏡にかなったようで、合格印をもらえた。

 

「馬名、決まってるんですか?」

 ちょっと悩んだ後、谷地が口を開いた。

「そうですね……ジェルディサヴォアにしますか。早いうちに登録しちゃいますので」

「母から連想しましたね?」

「ですね。冠名あるともっと命名も楽なんですがね」

 俺の馬名はジェルディサヴォアに決まり、同時に美浦の井野調教師の許へ預けられることになった。

 

 年が明けたらすぐ入厩できるわけではない。

 調教師でも馬房の数は前年の成績などによって定められているので、大手競馬グループから依頼が来る敏腕調教師ともなれば出走する2、3週間前だけトレセンで最終調整を行い、それ以外はすべて外厩任せになるのが一般的だ。

 

とはいえ。

 

「馬房には空きがありますからね。入厩はいつでもいいですよ」

 この井野調教師、セスナが引退して以来大きな勝ちに恵まれておらず、谷地オーナーと懇意にしているとはいえ、谷地の最優先は高橋調教師であり井野は優先度3番目、といったところなのだ。

 

 谷地オーナーは馬主としてそれなりに実績はあるが、やはり勢力や権力では競馬会を牛耳る大手グループ企業には到底及ばない。

 谷地が最も信頼している高橋調教師ですら調教師のランクとしては30番目に数えられるかどうかであり、その下のさらに下の井野調教師はリーディング100位以内に入れたら大戦果といえるものである。

「じゃあセンセイ、よろしくお願いします。ところで、もう一頭見ていただきたいんですが」

「おお、ぜひ拝見したいですね」

 

 2人が満足そうに別の馬房に歩いて行ったので、俺はようやくトイレを済ませることができた。

 

 それから半年間、俺は同僚とともにじっくり乗り込まれた。

 同じ2歳馬のなかにはやはり直線番長がいるもので、トラックでは悠々先着できても坂路になると必ず最後の最後競り負けていた。

 前から行っても後ろから行っても1馬身負ける。

「まあ成長の差だろう」と調教のスタッフは楽観的に告げた。

「向こうの方が筋肉の付き方がいい。なあに、3歳になったら追いつけるようになるから大丈夫だ。お前さんは出来がいいからな」

 トラックコースでは時計出てるから問題なかんべ、とそのスタッフは俺の首筋をポンポンと叩いて洗い場の方へ手綱を向けたのだった。

 

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