「何やってんだよあのバカ野郎が」
井野厩舎の事務室でコウヘイが悪態をついたのは1月最後の土曜の夜であった。
東京競馬11Rに行われた白富士Sで、メトロヴィーナスに騎乗した上田秋信騎手が斤量超過の制裁を受けたのである。
本来55kgで出走するところ、調整失敗で55.5kgでの出走となったのだ。
本人からの釈明も寺尾記者が伝えてはいたが結果は変わらない。
これにより2月7日から22日まで開催6日間の騎乗停止処分が下され、ジェルディサヴォアの始動戦に設定していた京都記念に騎乗できなくなったのである。
斤量超過で開催日6日間もの騎乗停止というのは些か制裁が重い部類ではあるが、上田は負担重量注意を受けていた実績があったので仕方がない。
しかも今回、前検量ですでに超過が確定していたのに、カラカラの天気にもかかわらず、後検量でさらに0.2kg増加していた。
当然谷地オーナーもそれを知ることとなった。
というより、そもそものメトロヴィーナスが谷地の馬だった。
牝馬限定の2勝クラスを勝っての格上挑戦だったが、フルゲート割れをしていたので相変わらず井野に無理を言ってねじ込んでもらったのである。
格上挑戦で斤量0.5kg(0.5kg単位で切り捨てて発表されるので、0.5kgの超過となってはいるが、実際は前検量0.8kgオーバーから後検量でさらに0.2kgほど増量)の超過という不利を受けながら、なぜか牡馬相手に1と1/2馬身差で勝利したため、谷地オーナーの機嫌も悪くならずに済んだ。
ところが皮肉なことに、勝ってしまったからこそ後検量の対象となり、体重のさらなる増加がバレて処分が重くなったのである。
一方谷地オーナーは騎乗停止処分を受けた騎手に対しては甘いタイプである。
昔、若手時代の有田騎手が調整ルーム内でスマートフォンを使い約4ヶ月の騎乗停止処分を受けたが、復帰初週には4鞍を依頼し、2勝を挙げさせたこともあった。
今回の上田もすでに「ドバイは任せるから、くれぐれも延長されないようにしてくれよ」との言葉ももらっている。
さて、そうなると忙しくなるのは井野調教師だった。
斜行や妨害等の裁定はその開催日が終わってから正式に公示され、更にほぼ形式上とはいえ異議申し立ての猶予期間があるが、斤量超過に関してはある意味現行犯である。
フェブラリーSは井野厩舎の出走馬はいないのでどうでもいいが、2月末のサウジカップデーに行われるレッドシーターフハンデへの予備登録はしていなかったのが不幸中の幸いではあった。
斤量超過が発表された時点で騎乗停止になる期間はだいたい分かるので、井野のもとにはジェルの京都記念に代役として乗りたい(乗せたい)騎手やそのエージェントがさっそく売り込みをかけてきた。
――ここで上田騎手がエージェントを雇っていたのなら、その者が担当する他の騎手を優先して乗せればよかったのだが、上田はまだエージェントを持っていなかった。
その中でも特に、日本の通年免許を取得しているドイツ人騎手、ハリル・ルードルフを担当しているエージェントのセールスが凄かった。
もとより彼はジェルの主戦にルードルフを据えようと目論んでいるわけではない。
まずはこの機を利用して谷地オーナー、井野調教師とのコネをつくり、その後自分が担当する若手騎手にも谷地オーナーの馬を振り分けようという魂胆であった。
ちょうどよく今年はルードルフにアミール・スウォード・フェスティバル(カタール国際招待競走)での騎乗予定がなかったこともあり、現役最高の騎手を乗せて谷地オーナーの覚えを良くするにはうってつけだったのだ。
実際これには井野調教師は二つ返事でOKを出そうと思っていた。
井野としても日本競馬の超一流騎手を2人も抱えているエージェントとつなぎを持てるのは願ったり叶ったりだからだ。
一方で谷地オーナーはこれに難色を示した。
ほとんど谷地の好き嫌いの問題ではあるのだが、このエージェントは競馬紙・馬伯楽の記者で、一度、谷地の所有馬でジェルの父であるセスナを「スピード不足で長距離の消耗戦でしか勝負ができない、価値のない馬」とコラムで扱き下ろしたことがあったのだ。
実際セスナは未勝利戦ですら2000m以下で勝てず、着を拾えた一番短い距離は勝った宝塚記念の2200mという馬ではあった。
6歳で宝塚記念を勝った時、谷地は件の記事と、セスナに印を一つも打っていなかった馬伯楽の予想面をリポストして晒し上げていた。
しかし今回は珍しく井野調教師の顔を立てて谷地が折れ、ジェルの京都記念にはテン乗りでルードルフ騎手が跨ることになったのだ。
こちらは様似。
年末年始の冬休み、俺はオーナーの所有する牧場で弟・シビアレコードとの雪遊びを楽しんだ。
レコードは雪だるまづくりは早々に飽きたようだが、それならばと木を揺らして雪を落としてやると喜んで、「もっとやって」とあちこちの木の下に連れまわされた。
防水性は高いとはいえ、馬服を着て雪の上に寝転がるのは嫌なので、放牧場に生えている木にもたれかかって休んだりしたが、寒くなると弟が俺の腹の下に潜りこんでくる。
一応体重差は50kgほどあるから俺の方が大きい。
だとしても体高はほとんど変わらないのに、上手く脚を折り畳んでは腹の下にすっぽり入り込み、前脚の間から首を出す。
ちょうど見学に来ていた客が「かわいい~」と言いながら携帯のカメラを向けていた。
さて、美浦トレセンに帰厩して何度かダートやウッドコースを走らされていると、ある日乗りに来たアキさんが悔しそうな、バツが悪そうな表情を浮かべていた。
「ジェル、すまんなあ。京都記念、乗れなくなった」
別に俺に話しかけてるわけでもなく、後悔からの独り言だったのだろうが、調教が終わって馬場を出るタイミングでそんなことをボソッと言うもんだから、つい馬だということを忘れてしまい、足を止めて顔を後ろに向け、「はぁ?」という声を上げてしまった。
実際に出たのは「アァ」とも「ハァ」とも「カァ」とも形容しがたいような音ではあったが、アキさんは「えっ?」と声を上げ、軽く首筋を叩くと進むように促した。
「お前、今どこから音出した?」
厩舎前まで戻ると、アキさんが俺の鼻面に顔を近づけた。
戻ってきた井野センセイにアキさんが説明すると、井野調教師の顔色が悪くなり、すぐにトレセン内にある競走馬診療所(馬診)に担ぎ込まれた。
実際のところ俺自身もよくわからんのよな。なんでセンセイ達がそんなに慌てだしたのかと。
今日の周回も問題なかったはずだ。
急に息が詰まったりすることはないし、メシも水もちゃんと喉を通っている。そして何より3000mを軽く走破できる心肺機能も十分にあるのだ。
なにやら内視鏡にヘッドギアがついたような装置を突っ込まれ、そのままトレッドミルに連れていかれた。
ここ走るの?と。転びそうで怖いんだよルームランナーってさ。
回し車で遊ぶハムスターのように走らされたあと、ようやく鬱陶しい内視鏡が引き抜かれた。
「相変わらず
獣医師が内視鏡のビデオデータをコマ送りしながら井野調教師にも見せた。
「いわゆる『AE(喉頭蓋未発達)』というやつですね――本来ここ、喉頭蓋の先はもっと手前側、つまり鼻の方に出ていないといけないんですが、ここまでで止まってます」
「処置は必要ですか?」
獣医師は首を横に振った。
「現状、できることはないです。手術で切って短くすることはできても、伸ばすことはできませんからね」
「それで、この場合どういう影響があるんです?」
「呼吸はスムーズにできているようですし、今までの成績を見てもレースそのものには影響はないでしょう。まずはこの喉頭蓋がこれから発達して、正常に戻るかどうか。といってもすでに4歳ですからねぇ」
「発達しなかったら?」
「今と変わらず、ですね。ただ歳を取ると
それから、と医師は続けた。
「今の喉の状態は馬というより犬のような感じです。このまま発達しなかった場合、前代未聞ですが吠えるようになるかもしれませんね」
馬は口から声を出すことはできない。
馬が嘶く音を「馬の鳴き声」と表現することもあるが、犬のように口から鳴き声が出るのとは違い、馬の鳴き声はすべて鼻から出る(たまに口を開けて吠えるように嘶く馬もいるが、それは口から声を出しているのではなく、鼻を高く上げて遠くに向けた音を出そうとしている)のだ。
馬は
――ああ、それでか、と上田騎手がつぶやいた。
「さっき口から音が漏れたと思ったのはそういうことだったんスね」
思い返せば菊花賞前に坂路で追い切った時も、馬にあるまじき吠えるような音を出していたし、ステイヤーズSの前に超長距離のテストランをしたときにジェルが口を開ける仕草をしたのは――
「あの、先生、もしかしてジェル、口で息してました?」
獣医師は黙ってコマを戻した。
「この瞬間です。ペースを上げたとき、一瞬口を開けましたね。その時の喉の動きですが――喉頭蓋が一気に下に落ちて、口への気道が作られています。おそらく、一瞬ですがやってますねこれは」
犬に近い動きと言っても、犬でさえ口で「呼吸」することはない。犬が口から空気を吸うのは口の中を冷やして体温を下げるためで、例えるなら煙草を吹かすような感じだ。
地球上に口呼吸をする動物は人間以外にいないのである。
人間に近いサルですら基本的に口呼吸はしない。
しかし「構造上できない」のではなく、サルや犬のように「意味がないからやらない」というパターンが多く、馬と背格好が近い牛でさえ、モーという鳴き声が口から出ていることからも分かるように、やろうと思えばできるのだ。
一方で馬は「構造上口呼吸ができない」動物である。
診療所は静まり返った。
すごい!と喜んでいいのか悪いのか、微妙な空気感であった。
そもそも、こうなってしまったのはジェル本馬に問題があった。
とねっこ時代から、走った時に人間の感覚で口から息を吸おうとして息が詰まり、何とかして気道をこじ開けようと勝手に余計な努力をしてきた結果、
しかも人間最後の日にWINSからぶつくさ独り言を言いながら歩いていて轢き殺されたように、元来独り言が多い性格であったから、馬房や放牧地で暇になるとやっぱり独り言が「口をついて出ていた」のだ。
本馬は無意識だが、トレーニングは着々と進行していたのだった。
人間を含むどの動物でも似た構造だから、肺呼吸をする生物の原祖からこうなっているんだと思いますが、
喉で鼻→気管のラインと口→食道のラインが平面クロスしているのってよく考えると非合理的ですね。
エラ呼吸の名残かな?
とはいえ、食物の臭いを含んだ空気が鼻から抜けないと味がわからないので、食べてはいけないものを口にしたとき吐き出すかどうかの判断ができないのはこれもよろしくないか。