京都記念(4歳以上 GⅡ)
「寺尾さん、口呼吸のことはしばらく黙っててくんねえか」
馬診から帰る道すがら、井野は寺尾記者にくぎを刺した。
「AEのことは書いていいから、さ。牧場や競馬場で、ジェルにちょっかい出してくる輩がいないとも限らん」
口呼吸のことが伝われば、そこから「声を出せる」とまで考えつく人は少なからずいるだろう。
そういう人たちがジェルに「吠えてみろ」とばかりに余計なことをしてくる可能性だってある。
まだ「ワンって言ってみろ」などと言ってくるのはいいが、何かで叩いたり、脅かしたりして悲鳴を上げさせようとしてくる人だっていないとは限らないのだ。
「わかってますよ。AEのことはすぐ書かせてもらいますけど、実際そんなにレースに影響ないんでしょ?」
「まあな。聞いてたと思うけど、AEは異常というよりは未発達の部類だから。それでも今まであの成績を残せてんだから、今後さらに良くなることはあっても悪くなっことァねえだろうさ」
「それなら問題ないですわ。あ、京都記念の前に囲み取材すると思いますけど、その時まで公表待ちますか?」
「いや、すぐ書いていい。他に売ってもいいぞ」
ジェルの調教はいつもトレセンの閉門ギリギリの11時ごろ行われるので、そこから馬診に行き検査を終えれば昼間も過ぎている。
他新聞の記者はとっくに午前中の取材を終え、記事を書いているところだ。
なんなら寺尾が所属する全報スポーツだって今から寺尾が記事を書いて送ったとしても締め切りギリギリで、14時を超えたらブン殴られる。
ジェルが調教後すぐ馬診に担ぎ込まれたときには、スペースを開けといてもらうようデスクに泣きながら電話をした。
井野と別れた寺尾は記者ルームに戻って急いで記事を書き上げたが、結局14時を回ってしまった。
やや不謹慎な話だが、これがジェルにとって重大な故障であればいくらでも枠を取ってくれるのだが、競走能力にもさほど影響しないものであったため、デスクも呆れた声で「明日に回す。他に売ってもいい」と突き返してきたのだった。
大方、「喋る馬」なんて記事を書いたら間違いなく一面ではあるのだが、そこはそこ、番記者としてのモラルもあるし、別に明日に回したところで給料が変わるわけでもないと、寺尾はノンビリ高山厩舎の囲み取材に向かった。
【全スポ 2/5 12:50】
~ジェル喉に異常アリ? 井野師「レースには影響ない」~
京都記念に向けて1週前追い切りに臨んだジェルディサヴォア(牡4)は、調教終了後美浦トレセン内の競走馬診療所で呼吸器系の検査を受けた。
担当の井野叶偉調教師は「AE(喉頭蓋の未発達)だった。形態の異常ではなく、あくまで発達に遅れがあるだけ。今まで普通に走れていたから未発達とはいえ影響はない。予定通り京都記念からドバイを目指す」と語った。
AEは若い馬には珍しくない症状で、成長とともに未発達の部分は解消されるが、当馬はすでに4歳ということもあり、これ以上発達が進むかは微妙なところである。
しかしながら3歳時から呼吸器系が未発達であるとは思えないパフォーマンスを見せてきた同馬であるから、まずレースへの影響はないものとみてよさそうだ。
※AEとは喉頭蓋が未発達で、軟口蓋と適切に接触していないなどの状態。DDSP*1の発症につながることもある。
(美浦担当・寺尾)
最終追い切りもコウヘイを乗せて順調にこなし、高級夜行バス……もとい馬運車に揺られている。
前世では別にアスリートなどではなかったので、果たしてこの仕上げが五分なのか、七分なのか、メイチなのかはわからない。
井野センセイの判断に従っているだけである。
しかし何とも気が乗らない。
アキさんが乗れないのはしょうがないが、お試しで若手を乗せるならまだしも、1月を終えて順当にリーディングトップを走る外国人騎手を乗せるのはどういうことだ。
快勝したらアキさんが降ろされるかもしれないな。
京都記念は芝の外回り2200m、日経新春杯と距離の区別をつけたかったのか、それとも春先のお披露目ってことでスタンド前発走にしたかったのかはわからないが、始動戦としては1800mの中山記念と2200mの京都記念の非根幹距離2つはGⅡといえどもドバイを目指す馬が多い時は少頭数になりやすいレースである。
今年の中山記念は12頭立てで行われ、京都記念は9頭立てだ。
単騎逃げならどちらにせよ影響ないのかと言えばそういうわけでもなく、特に俺のようなタイプでは、後ろで牽制しあったり馬群の抜け出しに脚を使うことがない少頭数は歓迎できない。
パドックに出てビジョンを見上げると、俺のオッズは1.4倍の圧倒的1番人気ではあった。
ステイヤーズSでも1倍台ではあったが、今日はアキさんではなくルードルフ騎手が乗るとあっては余計にオッズが跳ね上がるのも当然である。
ところでルードルフは関西所属ということもあって、テン乗りの為にワザワザ美浦トレセンには来ないというのはわからなくもないが、京都に滞在している昨日から数えても今まで一度も顔を見せに来たことがないのだ。
パドックでは井野センセイがニコニコしてルードルフと話している一方で、谷地オーナーは終始不機嫌そうな顔をして他の馬を見渡していた。
どちらかと言えば騎手や調教師、ほかの馬主を品定めしているような感じだろうか。
京都記念は当然というべきか関西馬のほうが多く、オーナーにロックオンされそうな陣営はなさそうだった。
「ハリー、よろしく。ビデオは見てくれてると思うけど、基本的にマイペースなやつだから」
「ビデオ見マシタ。アト、何回モ戦テマス。イツモ通リ、前、行キマス」
重賞ではあるが所詮前哨戦。
ジェルの得意戦法は決まっているうえに出走頭数も少ないため、特に細かくすり合わせをする必要もないと、ほとんど挨拶だけでルードルフ騎手はジェルに跨った。
ゲートはもともと問題ない馬であるから、ルードルフの腕であればスタートダッシュを決めるのは赤子の手をひねる様なものであった。
抜群のスタートを切ったジェルはしかし、ハナを奪えなかった。
ルードルフが気合をつけて手綱をしごいてはいるものの、馬群に沈むようにズルズルとポジションを下げていく。
ようやくペースが戻った時には後方3番手を追走していた。
一瞬故障を疑ったルードルフだったが、ペースが戻り、呼吸もバランスも問題ないと判断するとすぐに思考を差し追いのパターンに切り替える。
ジェルは逃げ想定とはいえ、出遅れなどに備えて後方からのパターンもインプットしてあった。
しかもスプリングSやセントライト記念で差し競馬を見せているので、最適な位置取りなどもデータとして残っている。
ジェルの差しパターンは向こう正面から外に持ち出し、3,4コーナーのでのロスは気にしないこと。
コーナリングは非常に上手いので必要以上に外に膨れることはない。
ただし、コーナーを抜けた後はすぐ外にモタれることに気を付けなければならなかった。
単騎先頭想定のジェルが出負けしたことにより、馬群は9頭ひと固まりになっている。
各騎手も読みが外れ、ベテラン騎手ならうまく切り替えられただろうが、若手騎手はどこをターゲットにすればいいのか混乱していた。
本来終始先頭にいるはずのジェルが人気、実力ともにターゲットだったので、極論、「最後にジェルを抜けば勝てる」という認識を全員が持っていたのだ。
そのジェルが6番手のしかもインコースを走っているとなれば、「ジェルはもう気にしなくてもいい」と判断した騎手、「最後にジェルは伸びてくるからマークは変えない」と徹底的に前を塞ごうする騎手、「どっちでもいいから誰か動け」とチラチラ馬群を見渡している騎手など、お互いがお互いを牽制しあって誰一人、動けない状態になる。
結果、1000mの通過タイムが65秒を超える超スロー競馬となり、淀の上り坂ではさらにペースが落ちた。
ルードルフは外に出すタイミングを測り、少しずつ外に持ち出そうと口向きを変えた。これにはジェルも反応し、少しずつ外に開いていく。
下り坂に入り、ペースが上がるにつれ徐々に馬群が解れていき、どの騎手も最後の位置取りの判断を迫られる。
その隙をついてジェルを大外へ誘導したルードルフは、下り坂が終わるのを待たずして追い出した。
ジェルのコーナーワークの上手さを知っているからだ。
スーッと4番手まで順位を上げると、4コーナーではほぼ直角に曲がるような角度で直線を向いた。
GⅡとはいえ他馬は格下。
セントライト記念のようなことがなければまず確勝だと、ルードルフもスタンドやテレビで観戦をする競馬ファンも思っていた。
しかしそこからがまるで伸びない。
ルードルフが左ムチを入れれば内にササり、右ムチを入れてもウンともスンとも言わない。
手前は左手前に替わっているのになぜか右にササる。
かと思えば、何発目かの右ムチを入れた瞬間に左にハネたり、急に口向きがおかしくなったりと、さすがのルードルフもお手上げで4番手のままゴールした。
スタンドは怒りというより驚きのどよめきが続いている中、着順掲示板には久々に青の「審議」の表示が点っていた。
〈お知らせいたします。京都競馬第11レースは、最後の直線コースで、3番セッツロドリゴ号、1番ルブルムメテオール号の進路が狭くなったことについて審議を致します〉
セッツロドリゴは5着、ルブルムメテオールは6着だった上に、上位3頭においては審議対象ではないとして、払戻し開始の確定のランプに変わるのにはそう時間はかからなかった。
つまり審議対象馬は4着入線のジェルディサヴォアである。
コウヘイがジェルに曳き綱をつけ、ルードルフが下馬するとすぐ審判室に呼ばれていった。
井野調教師と、遅れて谷地オーナーも検量室前に降りてきた。
井野は気落ちした表情だが、谷地オーナーは打って変わってニヤニヤとしている。
「ま、ひと叩きとしてはこんなもんでしょ。センセイ、ドバイは予定通り、アキさんに頼みますよ」
井野は小さくため息をついた。
「わかってますよ。アイツが余計な事をしなければアキに戻します。シビアレコードはどうします?ルードルフに依頼するってこともできなくはなさそうですが」
「ダメです。毎日杯で再始動、ヤネは進藤君。譲りませんよ」
ちょうどその時、審判室から「確定!」の声が聞こえ、勝った宜保騎手が勝利騎手インタビューに出ていった。
その後、ルードルフがイライラした様子で審判室から出てくるのと同時に、審議のアナウンスが流れた。
〈京都競馬、第11レースの審議についてお知らせいたします。第4位に入線した2番ジェルディサヴォア号は、最後の直線コースで急に内側に斜行し、3番セッツロドリゴ号、並びに1番ルブルムメテオール号の進路を妨害したとして審議をいたしました。この走路妨害がなければ、被害馬は加害馬に先着できたと認めたため、第6着に降着とし、着順を変更の上、確定いたします〉
実際のところ、5位入線のセッツロドリゴは逆転可能としても、その後ろ、6位入線のルブルムメテオールの逆転は微妙といえるものであったが、3頭の着差が小さかったこともあり、まとめて繰り上げる裁定が下ったようだ。
コウヘイがジェルを引いて厩舎エリアまで戻ってくると、診療所の前で上田騎手が待っていた。
「アキさん、わざわざ来たんですか?」
「あんまりにも変な動きしてたからな。一応診察を見に来た」
獣医がジェルの目を洗い、舌を縛っていた包帯を解くと脚のチェックに入る。
アァオアォと、馬なのに犬のような声を出しているジェルの鼻面を軽く撫でた後、チェックを終えた獣医の話を聞く。
「特に異常はないですね。首とか痛めてるわけでもなさそうですし、ハミがズレていた形跡もありません。まあ見立てとしては外傷はなし、ということで」
ジェルは別にイライラしている感じもなく、むしろ機嫌がよさそうに上田の方をじっと見ていた。
馬房への道すがらも、上田とコウヘイは楽しそうに話している。
「アキさん、ドバイは頼みますよ。GⅡとはいえ結構メンツ濃そうですよ」
「坂もないし直線が長くて左回り、ってジェルの苦手な条件全部そろってるんだけどな」
「勝ったら天皇賞挟んでアスコットのゴールドカップですよ。そっちの方が楽しみじゃないですか」
「お前は例のスーツのクリーニングしとけよ」
「あれ着た後思いっきり腹壊したんすよ!桁が違うんスよ文字通り」
ジェルが横でブル……とひと鳴きしたので、コウヘイは慌てて声のボリュームを下げた。
「ドバイは前から行くんスか?後ろから?」
「後ろからでもいいかもしれんな。前行ったら息入れるタイミングが無くなるし、センセイ次第ではあるけど」
「目にもの見せてやってくださいよ。ね、アキさん――」
ワンマン馬主と波長が合うワガママ主人公