ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

38 / 72
ドバイゴールドカップ(4歳以上*1 GⅡ)


馬番馬名アルファベット負担重量ゲート番
1ブラックソルトBLACK SALTせん559,5kg7
2カナリーカレントCANARY CURRENTせん959,5kg2
3クルーエルロードCRUEL LOAD559,5kg4
4エクステンドマックスEXTEND MAXせん759,5kg6
5グローバルコンダクターGLOBAL CONDUCTORせん659,5kg1
6ラムダLAMBDA759,5kg10
7マスキングヘロドMASS KING HOROD559,5kg8
8オールドメソポタミアOLD MESOPOTAMIA659,5kg13
9パノルムスPANORMOS559,5kg7
10アンドラーシュANDRASせん457kg12
11オートプラトンAUTO PLATON457kg3
12ジェルディサヴォアGEL DES AVOIRS457kg5
13スワーヴシティSUAVE SITYせん457kg14
14フォールスターズ(南)FALL STARS353kg11

*1
南半球産3歳以上




Maydan lullaby(メイダン・ララバイ)

 ゴールドカップなぞGⅠ勝ちすらなくても招待を受けるのだから、いくら京都記念でボロ負けしたとはいえ菊花賞とステイヤーズSを勝っていれば出走は余裕というものである。

 

 出国前の追い切りはアキさん(上田秋信騎手)が乗ってひたすらDコースの周回。たまに弟のシビアレコードが併入してくる。

 出国の検疫は明日の3月10日から1週間かかるが、その前の最後の追い切りとして先週の木曜、そして本日月曜とシビアレコードと併せている。

 併せといってもシビアレコードはまだまだ仕上げ途上のため、しばらくゆっくり走って、俺がまた一周して追いついたらもう一度寄せておく、といった程度である。

 

 シビアレコードには晴れて3月から見習い騎手となった進藤誠紅(しんどう まこう)騎手が乗っている。

 彼はまだ初陣は済ませていないようだが、俺のドバイ遠征でアキさんが乗れないことを口実に、シビアレコードで毎日杯に出走する。

 今週末には井野センセイの馬で2鞍乗るらしいが、どちらも他の馬主の馬であり、谷地オーナーは相当口惜しがっていたらしい。

 先週の火曜日に俺と併せてくれたシングルベルは谷地オーナーの持ち馬で古馬の2勝クラス、俺の一つ先輩の馬で、一昨日の2勝クラスで進藤君を彼女に乗せて初騎乗の記録を作らせる予定だったのだが、直前の挫跖(ざせき)で出走回避となっていたのだ。

 

 先にシビアレコードが上がったので、俺はアキさんともう少し汗を流す。

 どうせこれから半月ほどまともに追い切りをできないのだから、坂路に行ってひと叩き。

 菊花賞の時のように、オーバーワークになるほど叩いて一番時計をもらう。

 コウヘイにベタベタした汗を丁寧に流してもらうと、ほどなく輸出検疫の厩舎に入る。

 

 まあぶっちゃけ、暇だ。

 どうせならテレビでも流してほしいものだが、そんな要望が通るわけもなく。

 きれいに清掃、消毒された美浦トレセンの検疫厩舎は古新聞の切れ端一つ落ちていない。

 とりあえずトイレになる場所を確保してその周りに寝藁を盛り小さな壁にするなど、こういう地味な作業で時間をつぶすしかなかった。

 

 刑務所の房で一番偉い人が率先して掃除をするのはそういう理由(ひまつぶし)だ。

 井野センセイもこういう状態になるのを見越してかなり絞ってくれたので、()()前の、寝藁がきれいなうちに一眠りしてしまおうと脚を折って伏せると、追い切りの疲れもちょうどよく出てくるタイミングで気持ちよく眠りに落ちた。

 

 検疫中も軽いトレーニングは毎日あったが、他馬の近くには行けないので短時間で軽く曳き運動のみという、いよいよ受刑者のような1週間であった。

 海外では出走前にドクターストップがかかって出走を取り消されるということも珍しくないが、喉の問題については対象にはならないだろう。

 異常ではなく未発達というだけなのだから。

 

 個人的にはこれ以上発達したくないので、他に誰もいないときは口呼吸を繰り返して穴を広げようとしている。

 まだうまく舌に息が当たる感じがしないので母音の音しか出せないし、喉が震える感覚がないのでイントネーション的な音程差もだせない。

 まさに「舌っ足らず」といった状態だろうか。

 これで広がるかどうかはわからないが、水泳をずっとやっている人は水かきのように指の間の皮膚が広がるという話もあるし、猿に鼻呼吸ができないように手術をしたら筋肉や骨格が変形し口呼吸をするようになったという実験結果もある。

 あまり人が出入りしない検疫厩舎は口呼吸トレーニングにはもってこいだった。

 

 ――しかし何度も言っているが、全くもって無駄極まりないトレーニングである。

 そもそも、人間だって普段生活する上で口呼吸するメリットはほとんどないのだから、馬であればなおさら百害あって一利なしというものだ。

 

 ドバイへの出国はまあ頭数が多い。

 欧州遠征の時は帯同馬を含めて3頭だったのに、10頭を超えている。

 これに加えてすでに現地入りしているサウジアラビアからの転戦組もいるはずだから、帰りは15頭を超えるのだろう。

 

 隣の奴はまだ輸送慣れしていないのか、「せまい、こわい」というメッセージが飛びまくっていたが、しばらく相手をしてやればおとなしくなった。

 離陸してしまえばあとは水平飛行なので揺れも少なく、隣の奴の返事がないと思ったらもう寝てしまったらしい。

 

 馬に限らず、牛や鹿のようなデカい草食動物は超ショートスリーパーで、1回での睡眠は30分ほど、寝たり起きたりを繰り返して、1日あたりの睡眠時間は3時間ほどと言われている。

 草原で肉食動物に見つかる隙を減らすためだが、サラブレッドやホルスタインのように家畜として品種改良された動物でもそれは引き継いでいる。

 

 かく言う俺も人間時代ほど眠れなくなっており、安全に管理されている厩舎や牧場でも夜は5時間ぐらいしか眠れん。

 昼寝もしているから若干オーバーしているが、要はここは安全だと本能以上に「理解」しているからに過ぎず、夜間放牧や海外遠征だと30分サイクル程度でしか眠れない。

 

 海外の厩舎なんていちばん危ねえからな。

 急に銃持ったイカれ野郎が入ってくることもあれば、いつの間にか禁止薬物盛られることだってある。

 海外でリラックスできるのは、コウヘイやアキさんが近くにいる、スクーリングかレース中なのだ。

 

 相変わらずアテンダントサービスの一つもない、リクライニングすらもできない、そして臭いというLCC以下の満足度ではあるが、エミレーツ航空なので遠慮なく低評価を入れてやろう。

 1時間おきに隣の奴にたたき起こされながら、なんとか12時間を耐えて馬運車に移された。

 

 メイダンにはプール施設はあるが一本道で、日本のトレセンのように何周もできるわけではない。

 流石に平泳ぎは出来ないので、脚を揃えてバタフライに近いような動きをしていたらコウヘイに

「まじめにやれや」

と叱られた。

 

 メイダン競馬場での滞在は1週間しかなく、ほとんどの馬がスクーリングの直後に追い切りに入っている。

 俺もウォーミングアップとして、ドバイシーマクラシックに出走するアンベストネヴァーとの先行併せを芝コースでやった後、ダートの方に誘導された。

――アイツ、かなり露骨に馬体ぶつけてきたから本気らしい。

 

 ネヴァーとは久々の併走だったが、鬣に赤いポンポン*1が付けられていた。

 かく言う俺も尻尾に赤リボン*2が付いている。

 BCを終え、帰国してそのまま3ヵ月の検疫に入っていたので直前までまともな調整ができていなかったはずなのだが、ぶつかり稽古の感じでは去年以上に当たりが強くなっていた。

 

 本場のアメリカに寄せているとはいえ、メイダンのダートはそこまで固くはない。

 同時に最終追い切りに入ったドバイWCに出走するジャクソンソードと併せ、あっさり追い抜いた時にはソードの鞍上がため息をついていた。

「ほんと今からでもワールドカップの方に出せんかなあ」

 コース脇でタイムを計っていた井野調教師も頭を抱える時計である。

 当然、現地の海外記者によってこの追い切りの動画は”X”にアップロードされ、日本の掲示板でもまた盛り上がった。

 

 メイダン第1Rのカハイラクラシックはアラブ種限定レースのため当然日本馬の出走はなし。

 日本馬が集まる馬房から最初に連れ出されたのは俺の隣にいたセッツガバメントで、第2Rのゴドルフィンマイルに出走する。

 

 彼を見送ってしばらく、コウヘイがやってきて頭絡とハミをつけると、いつものように包帯で舌を固定する。

 ステイヤーズSから舌縛りをしてくれるようになったがこれはありがたい。ハミがスッと奥に収まるようになった。

 じゃあなぜ前走の京都記念では口向きが悪かったのかと言えば、「わざとやったから」である。

 

 レース後にコウヘイとアキさんには「わざとだよ」と言ってみたのだがやっぱりうまく発音できなかった。

 歯の角度が違うのと、人間の前歯にあたる切歯と臼歯の間に隙間があるので、うまく息が歯に当たらないのだ。

 

 あの礼儀知らずの外国人が気に入らなかったから反抗した、それまでの話である。

 なんだったらアキさんが騎乗停止になった段階で回避しても別によかったし、タナボタでもいい思いがしたい若手を乗せてくれてもよかったのだ。

 アイツも騎乗停止にしてやろうと斜行を繰り返したのだが、無事初めての降着処分になったのに過怠金までで騎乗停止にはならなかったらしい。

 何故だろうな?

 

 馬体検査とともに、ドーピング検査が行われた。

 採血はさっさと終わるが、例によって尿検査が長い。

 逃げも隠れもしないから、ちょっと向こう向いてて欲しいんだよな。

 水桶が出されるがそうじゃないんだと。

 尿が出るまで40分は要した。

 痺れを切らしたスタッフがちょっと外を眺めている隙にジャーと。

 

 ようやく採血採尿が終わったので、あとは血圧と体重身長腹囲測定…ではなく獣医による馬体検査へ直行である。

 特に自分自身痛いところもないので、問題なくパスできた。

 海外遠征で一番大きな関門はここなのである。

 下手にふざけたりすると歩様に異常とかイチャモンをつけられてスクラッチ(出走取消)にされてしまう。

 

 ゼッケンと鞍をつけパドックに出ると、隣のウイナーズサークルで表彰を受けている馬は3のゼッケンを着けている。

 日本人顔の人が多く、騎手が着ているあの勝負服の模様は間違いなくセッツガバメントのものだ。

 元禄柄なんて海外で使う馬主は滅多にいないから。

 

 表彰式が終わるとパドックはにわかに賑わってくる。

 アキさんも騎手ルームから出てきて井野センセイと話しているのだが、今日は谷地オーナーが来ていない。

 代わりにオーナー夫人が娘さんと、女性旅は怖かったのか弟さんを連れてやってきて、馬主代理になっていた。

 谷地オーナー本人はと言えば、昨日行われた毎日杯の現地に行っていたようで、オーナーにとって俺のドバイはそこまで重視していないのかもしれない。

 

 パドックでの周回が止まり、アキさんが歩いてきた。

 井野センセイがいたずらっぽくニヤッと笑い、

「アキ、追込、決めてこいや」

と、言った。

 

 追い込み?俺は両耳を井野センセイとアキさんの方に向け、一語一句聞き逃さないようにした。

「大外ぶち抜きますんで、見ててください」

 アキさんの言葉に井野センセイも頷き、アキさんが背中に跨った。

 今日はまさかの追込勝負らしい。

 俺も一回やってみたかった後方一気。

 とは言うものの、長距離で追込となるとマイルや中距離の後方一気とは違い、スパートの瞬間にはすでに先頭集団に取りついていることが多い。

 ヘバる馬は4コーナーを待たずして脱落するので、脱落した馬のさらに後ろについていったら間に合わないのだ。

 スタートから終盤にかけての消耗戦を制し、決勝トーナメントに進出した数頭をスパートでぶち抜くのが長距離の追込ってわけだ。

 

 

 馬場に出ると上田は軽くジェルディサヴォアを走らせ、スタート地点の後ろまで軽く流す。

 反応はよく、踏み込んだ時のダン!という衝撃も強く返ってきた。

 ジェルディサヴォアはブックメーカーのオッズでは順当に一番人気である。

 日本での馬券発売はないが、あったらあったで単勝1倍台前半は堅いだろう。

 

 井野調教師とは何度も打ち合わせをしたが、コース全体がほぼ平坦で、しかも引き込み線から1周しかないメイダンで逃げを打つと、息を入れるタイミングがつかめないのが不安だと伝えたところ、

「それなら後方から外回して追い込んでいいぞ」

と言われた。

 むしろ前に行って息を入れるために中途半端にペースを落とすと、相手が送り込んできたラビットに一気に前に出られて蓋をされる可能性がある。

 但し、道中はいつも通り手綱はくれてやれ、とのことだった。

 

 ゲートの後ろに着くと、ジェルディサヴォアが外ラチに尻を当てるような格好で立ち止まった。

 拍車をかけたり、軽く首筋を叩いても動こうとしない。

 耳は絞られているわけではなくピンと前を向いているが、両目を閉じている。

 

 他の馬より早くゲート裏に到着したので、まだ時間はある。

 ジェルディサヴォアがこうやってゲート裏で立ち止まるのはたまにあることなので、曳き綱をつけに来たコウヘイに、

「ゆっくりしてていいぞ」

と伝えると、コウヘイもジェルディサヴォアの隣でラチに寄りかかった。

 

「後方から、ってどうスか?ジェル行けるんスか?」

 コウヘイがゲートの横を抜けて輪乗りを始める他馬を眺めながら聞いた。

「いいんじゃね?普通に切れる脚あるし。最初の直線が長いから、1コーナーまでは馬なりで行かせるわ。前に行きそうだったら抑える感じ」

 ちょうど一緒に出走する日本馬のオートプラトンが目の前を通り過ぎたので、作戦が聞こえないよう声を落とした。

 

「今日長くないスか?ジェルこんな立ち止まってましたっけ」

「長いな。そろそろ動かすか?」

 上田がもう一度ジェルディサヴォアの首筋を叩くと、ジェルディサヴォアが首を持ち上げて左右に振った。

「よし、付けて」

 コウヘイが曳き綱をつけると、首を落としてようやく外ラチから離れた。

 

 輪乗りの輪に加わるとすぐ、ゲート入りが始まった。

 ジェルディサヴォアは12番のゼッケンをつけているが5番ゲート。

 日本では奇数番→偶数番→大外の順でゲートに入れられるが、海外ではその限りではない。

 準備ができた馬からさっさと入れていくのでここも一つの駆け引きである。

 大抵の馬は後からゲートに入れたいと思っているが、ジェルディサヴォアは相変わらずコウヘイを引き摺るようにしてゲートに入っていく。

 

 そしてなぜかいつもゲート入りが長引くのである。

 

 今日もゲート入りが始まってから5分以上を要した。

 ジェルディサヴォアはゲート内で待たされてイレ込む馬ではないので、上田も呑気に他馬の枠入りを待っているが、まさか真っ先にゲートに入る自分の馬が枠入りを長引かせる原因になっているとは思うまい。

 

 今日もスタートは抜群で、上田の足がゲートの前扉に軽く掠る。

 当然先頭でスタンド前に入るのだが、押さずに手綱を緩めたままで外から競りかけてきたラムダ、そして内から来るカナリーカレントを先に行かせることに成功する。

 ジェルディサヴォアの外から発走する馬はかわいそうなことに、ジェルディサヴォアがスタート時のレーンのままゆっくり垂れてくるものだから、内に潜るにはもう一度加速してジェルディサヴォアの前に出るしかなく、そのまま外を走ればとにかくロスが大きくなる状況になった。

 

 ジェルディサヴォアがペースを落とし外に取り残されているので、マーク相手を失った馬はさらにペースが落ちていく。

 当然、ドがつくスローペースになった。

 上田は特に何も指示はしない。高めに腰を浮かせて、手綱はいつものようにダラリと垂らす。

 するとジェルディサヴォアがカクっと首を落とし、内埒の方に向かって顔を傾けた。

(ん?)

 上田が少し覗き込むと、ジェルディサヴォアの右目が閉じていた。

 普段レース中ではやらないような仕草ではあるが特に異常なく走っているので、首の傾きに併せて手綱を余す長さを調節しておく。

 

 1コーナーに入るとジェルディサヴォアがゆっくりと内の隊列に馬体を納めるが、内から3頭目のレーンをキープして必要以上に内ラチには寄らない。

 結果、1,2コーナーではジェルディサヴォアのさらに外に3頭が取り残される格好となり、後方集団5頭が横に広がったまま向こう正面に入った。

 ジェルディサヴォアはさらにペースを落として、外にいる馬の後ろに下がる。

 その空いたスペースに、外に取り残されていたオールドメソポタミアとフォールスターズが割って入り、それをクロスするようにジェルディサヴォアが外に膨れた。

(よし、いいぞ)

 上田が前との距離を測りながら少し手綱を詰めるが、ジェルディサヴォアに反応がない。

 

 3コーナーではいよいよ脱落者が出てくる。

 真っ先に限界を迎えたのは9番のラムダで、並んで先頭にいたカナリーカレントを一頭残してズルズル失速した。

 内ラチ沿いを落ちてくるラムダを避けるように各馬が外に向いた。

 4コーナーに差し掛かると6番のエクステンドマックスが、そして14番のフォールスターズがスタミナ切れで脱落。

 まったく名前負けの2頭である。

 

 いよいよ馬群がバラけたところで、上田がハミを詰め軽く気合をつけてもジェルディサヴォアが動かない。

 

(まさか?)

 

 上田が鞭ではなく素手でジェルディサヴォアの顔に手を伸ばし軽く叩くと、ジェルディサヴォアは首をもとの高さまで起こして、軽く頭を振った。

 

「おい、寝てんじゃねえ!行くぞ!」

 

 上田の声に反応したのか、ハミを詰める前にジェルディサヴォアがスーッとペースを上げ、直線に入るころには5番手まで上がってきていた。

 逃げるカナリーカレントをパノルムスが交わし、それを目掛けてマスキングヘロドとクルーエルロードが横に広く広がって脚を伸ばす。

 

 直線は残り400m、上田がハミを一杯に詰めた瞬間、追い出しを待たずしてジェルディサヴォアがターフを強く叩いた。

 得意の右手前に替わり、一気にハミが引っ張られる。

「まてまて!早い早い!」

 上田自身はまだゴーサインを出したつもりはなく、想像以上の加速に慌て、バランスをとるために手綱を緩めてしまった。

 

 しかしジェルディサヴォアの加速が止まらない。

 上田は手綱を手繰るのを諦め、コース取りに集中することにした。

 

 そもそもの話、騎手が手綱を動かすのは「速く走れ」の合図をしているだけであり、そう調教しているからこそ馬が従うというだけである。

 

 手綱はあくまでも革の紐であり、バイクのハンドルのように馬の首に固定してあるわけではないので、腕を大きく動かしたら首が伸びるというものでもない。

 また、騎手は手綱を放してもギャロップで駆ける馬に乗り続けることができる。

 手綱を手繰るのも合図以上の意味はなく、追う姿勢を維持するために手綱に「掴まって」いるわけではないのだ。

 

 つまり、もし馬が全てわかっているとしたら、余計なことをしない方が馬としては走りやすいはずだ。

 

 その「もし」が世界で唯一該当するのがジェルディサヴォアだった。

 

 右手前なので少しずつ外にモタれていくが、どうせまた内に替わるのだからロスは気にしない。

 坂路で600mをダッシュしきったジェルディサヴォアが400mの平坦な直線で音を上げるはずもなく、残り200mで左手前に替えると外に膨れた分を一杯に使って追い込みに入った。

 先頭に立ったクルーエルロードを残り150mほどの地点であっさり抜き去ると、残り50mほどのところで一瞬グイッと顔を左に向け上田を慌てさせたが、すぐに前に向きなおすとまた右手前に替え、勝手に減速しながら3馬身差でゴール板を通過した。

 

「OK、OK」

 上田が軽くジェルディサヴォアの鬣を撫でると、すでに減速に入っていたジェルディサヴォアは外ラチに向かってどんどん逃避していく。

「どう、どう!」

 上田が慌てて手綱を引くとジェルディサヴォアはすぐ脚を止め、他馬がゴール後流して2コーナーをゆっくりと回っている中、1コーナーすら終える前にクルリと向きを変えると、他の馬を差し置いて真っ先にウイナーズサークルの方に走り出すのだった。

 

「アキ、お前サボってただろ」

 馬に乗っていそいで向かってくるインタビュアーと、曳き綱をもって追いかけてくるコウヘイをガン無視して、ただ一頭先にウイナーズサークルに文字通り駆け込むと、井野調教師が笑いながら上田に握手を求めた。

 

「後で見返してみろ。追込なのにほぼ馬なり、ノーステッキだ。逃げなら何度かあっけど、追込でそれやるバカはいねえぞ」

「サボってたのはコイツの方っスよ。あんまりにスローすぎて、居眠りしながら走ってたんスわ」

 上田がジェルディサヴォアの頭を指さして呆れたように言った。

「道中ずっと右目閉じてて、軽く頭叩いたら慌てて起きてアレっすよ?」

 

 上田と井野が通訳を伴ってインタビューを受けている中、優勝の馬着を着たジェルディサヴォアは谷地夫人らの前でスッと立っている。

 ウイナーズサークルの隅の方でスマホのカメラを構えて何枚も撮っている夫人の姿は、どう見ても馬主に同伴してきたツアー客である。

 まだ日も暮れておらず、ドバイミーティング後半のGⅠラッシュと比べると比較的穏やかなムードではあるが、案の定王族が臨席する表彰式の時は一家揃ってガチガチになっていた。

 

 夫人の弟はもとより、谷地夫人も井野とはほとんど会話もしたことがない顔見知り程度であるから、陣営筆頭と言っても四方どアウェイなのは仕方がないことで、一番付き合いが長い身内はといえばジェルディサヴォア氏であった。

 結果、3人ともジェルディサヴォアに触れていた方が落ち着くのか、表彰式が終わるまで隙があればジェルディサヴォアの背中に手を伸ばしており、表彰式が終わると3人ともすぐホテルに戻っていき、ワールドC後のセレモニーまで引きこもってしまう始末だった。

 

 

<ようやく各馬収まって、ドバイゴールドカップ、スタートしました。

ジェルディサヴォアは好スタートを切って、さあ上田騎手、押していくのかどうなのか、そしてオートプラトンは中団の内を進んでいきます。

 

入れ替わって6番のラムダが先頭か。カナリーカレントも前に行きましてジェルディサヴォア、今日も後ろに下がっていきました。

グローバルコンダクターが3番手、アンドラーシュ、そしてブラックソルトも前に行く。

その後ろマスキングヘロドから2馬身遅れての後方集団まだ横に広く広がって、ジェルディサヴォアはこの集団のちょうど真ん中あたり、内にはオートプラトンとクルーエルロード。

 

4番のエクステンドマックスの外にジェルディサヴォア、その外にはフォールスターズ、南アフリカ3歳馬。

オールドメソポタミアと、大外にスワーヴシティ、最後方は9番のパノルムス。

まだ馬群は一団で、最初のゴール板を通過していきます。

ラムダとカナリーカレントが2頭並んで先頭、グローバルコンダクターとブラックソルトが3番手4番手、その間にアンドラーシュ。

 

最初の1000mを1分4秒から5秒ぐらいのペースで、1コーナーに入ります。

 

馬群が少しずつ縦長になって、ラムダとカナリーカレントがレースを引っ張る形で2馬身のリードを取りました。

3番手グローバルコンダクター、外にブラックソルトと続いて、2コーナーのカーブ。

1馬身後方アンドラーシュ、さらにはマスキングヘロド。

日本のジェルディサヴォアとオートプラトンはほとんど同じ位置でしょうか内と外に分かれて後方を進んでいます。

 

2コーナーからバックストレッチに入りますが、後方の隊列変わらず、最内オートプラトンとクルーエルロード、エクステンドマックス、ジェルディサヴォアが並んで行きます。

その外フォールスターズとオールドメソポタミア、1馬身後ろにスワーヴシティ、最後方外からパノルムス。

まもなくバックストレッチ中間点を迎えるところで、馬群がやや縦長になって、ジェルディサヴォアはポジションをまた一つ下げて、一頭外に膨れて後方2番手を進んでいます。

 

向こう正面長いストレートが続いていきますが、先頭はまだラムダとカナリーカレント、先頭2頭は変わりません。

その間から前を伺うブラックソルト、外に切り替えてグローバルコンダクター。

まもなく残り1000mを切るところで、後方ではオールドメソポタミアが馬体を外に持ち出して大外から前を伺おうかという体勢。

オートプラトンが少しずつ外に切り替えて今馬群のちょうど真ん中あたり、馬場の三分どころ、その後ろにピッタリとつく形でジェルディサヴォアがいます。

 

3コーナーを迎えて、後方集団が少しずつ馬群を詰めてきました。

先頭は、単独先頭に替わったカナリーカレント。ラムダはもういっぱいか、内からズルズルと後退。

中団馬群一団で、ブラックソルトが替わって2番手に上がる。

大外から一気にオールドメソポタミアが前に進出、先頭集団に取り付こうとしています。

 

3コーナーから4コーナーに入って残り800m、オートプラトンは馬群の真ん中、今6番手ぐらいでしょうか。ジェルディサヴォアはまだ後方から数えた方が早い位置、上田の手が少しずつ動いています。

 

オートプラトン、テディ・スミスの手が大きく動いて4番手から前に迫って残り600を通過。

その外から上がっていくジェルディサヴォアまだ先頭から7馬身ぐらいのところ手ごたえはあるか、4コーナーから直線。

 

先頭カナリーカレント、それをとらえてパノルムス。

前4頭横に広がってクルーエルロードが先頭に立つか、オートプラトンちょっと伸びを欠いている。

その外、大外からジェルディサヴォア、持ったままで上がってくる。

残り300でクルーエルロード先頭激しく手が動くが、2番手馬場の外側ジェルディサヴォア、内外(うちそと)離れて残り200。クルーエルロード、まだ追わないジェルディサヴォア、先頭どうか捕らえたか。

離れて3番手パノルムス、オートプラトンは5番手まで。

 

先頭はジェルディサヴォア、3馬身4馬身リードを広げて、最後まで動かなかった上田騎手、手綱を引きながらゴールイン!楽勝でした!

道中は後方3番手で、最後直線での伸び脚。

先に抜け出したクルーエルロードを、大外から楽々とらえたジェルディサヴォア。上田の手は全く動かず。

2着にはクルーエルロード、そして離れた3番手はパノルムス。

 

日本から遠征したもう一頭オートプラトンは直線先に抜け出そうとしましたが及ばず、マスキングヘロドの後ろ5番手の入線。

先ほどゴドルフィンマイルを制したセッツガバメントに続いて、日本勢2連勝。

ジェルディサヴォアは、すでにインタビュアーの乗った誘導馬から逃げるようにして、ウイナーズサークルに駆け込んでいきました。

ドバイゴールドカップ、実況をお送りいたしました。>

 

 

 現地記者のリポートによると、馬場からウイナーズサークルまで、上田騎手が手綱を引いているのに逆らってかなりのスピードでクランクを抜けてきており、観客やスタッフからも悲鳴が上がっていた。

 

 直角に曲がって花道に入る際もかなりアンダー*3が出て、左後脚の蹄鉄が吹っ飛び、トラックサイドで観戦していた観客の頭に直撃している。

 釘の方が下になっていなかったのは不幸中の幸いだが、その観客は当然病院直行となり、高い金を出して遥々ドバイにまで来たのに、ドバイワールドカップの観戦もできなかったらしい。

 

 別の海外記者がXにアップロードした写真には、ウィナーズサークルに向かう通路の入り口に、ドリフトをしたような、蹄鉄で強く引っ掻いた筋が残されていた。

 

 前にも言ったが、ジェルディサヴォアがしばしば海外のレース後にこういった凶行に走るのは、上田騎手が英語を話せないので、通訳がいるところまでインタビュアーから逃げているからだ。

 

 さて、今年もドバイミーティング後半のレースは必ず日本馬が複数頭出走するホームジャックレースとなったが、残念ながら日本馬が勝利を挙げたのはドバイシーマクラシックに出走したアンベストネヴァーのみであった。

 

 凱旋門賞での強引な競馬に味を占めたのか、あるいはアメリカに行って本場のロッキーでも観てきたのか、BCターフでアメリカの殴り合いを経て磨きがかかった喧嘩走りは、ついに3連続で他馬を外に吹っ飛ばすまで成長していた。

 

 昨年のアメリカ遠征では、筋肉隆々のアメリカ馬にも全く気後れしない、まるで狂ったかのような走りっぷりを見せつけてきたせいで、日本に帰国するまで3回程ドーピング検査を受けさせられた。

 が、もとよりケガや病気知らずの彼は、出国前にワクチンを打っただけで、遠征中は抗生物質の投与すらしていなかったので、まったくの素面でアメリカのヤク中どもを殴り倒してきたわけである。

 

 シーマクラシックの直後、表彰を受けている隣でパドックを周回するドバイワールドC出走のアメリカ馬が、全員酷い発汗の末、ウイナーズサークルに近い方に行きたがらなかったのは何かしらの事情があったのかもしれない。

 

 シーマクラシックの展開としては、最内の経済コースを進んでいたアンベストネヴァーが馬群に強引に頭を突っ込み進路を広げると、一頭分どころか文字通り頭一つ分の隙間しかなくても物理的にこじ開け、徐々に外に広がりながら最後は3馬身ぶち抜いていた。

 上手い事に必ず横から当たって外に向けて吹き飛ばすので、進路を狭めたり走路妨害にはならず降着にならないのが悪い技であった。

 

 海外は日本以上に接触に関しては厳しく見るのだが、主に「騎手がそこに誘導した」と見なされた場合に降着、失格になることがほとんどで、鎌田騎手はむしろ馬を止めようとしているのでお咎めなしに至っている。

 一方で鞍上の鎌田遼騎手は馬に挟まれてまたしても右足に重度の捻挫を負い、過怠金に加え脚部不安まで抱えることになってしまうのだった。

 

*1
噛み付き注意の印

*2
蹴り癖注意の印

*3
自動車用語。カーブを曲がる際、遠心力に負け、車体が外側に向かって滑ること。モータースポーツなどで良く使われる




クルーエルロードのLoadはこっちで合ってます。
Lordではありません。

アイルシリアス(アンベストネヴァー)のイベントではエルコンドルパサーのリングを借りてジェルディサヴォアとスパーリングをしている。
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