毎日杯(3歳 GⅢ)
「マコ、そう緊張しなくていいぞ。コイツはもうおめえの馬だ。ヘマしたって降ろさねえってオーナーも言ってた」
井野調教師と宮国調教助手はジェルと一緒にドバイに行ってしまっているので、厩務員の中村学がシビアレコードと、帯同も兼ねてもう一頭を阪神競馬場に連れてきた。
もう一頭の方は6Rに出走し、進藤誠紅騎手が乗り5着であった。
進藤は先週の中山8Rで初勝利を挙げ、今年デビューの新人騎手としては4番目に初勝利をゲットしている。
残念ながらそれは谷地オーナーの馬ではなかったが、それで余計に意固地になったのか、谷地オーナーはジェルディサヴォアが出走するドバイには行かず、阪神競馬場に来ていたのである。
進藤からすればたまったものではない。
いずれは重賞に勝ち、GⅠを、ダービーをと夢見てはいたが、重賞レースに乗れるとしても早くて2,3年後ぐらい、さらに5年ぐらいのキャリアを積んでようやく上位人気クラスの馬で重賞に出られたら順調なくらいだと思っていた。
いくらシビアレコードの調教をずっと担当させてもらっているとはいえ、デビューからまだ一ヶ月も経過していないルーキーがいきなり重賞レースに跨るなど、近年ではありえない話であった。
しかも乗る馬は、とうに見放されたような凡馬どころか、つい3ヵ月前に2歳王者になった新進気鋭の3歳牡馬。
当然単勝オッズは1番人気である。
騎手がルーキー、しかも特別競走ということで減量恩恵も外されているので、2歳王者と言えど単勝オッズは3.4倍ではあったが、それでも進藤に与えるプレッシャーはとんでもないものであった。
毎日杯はいつだって出走頭数10頭前後である。
今年はドバイミーティングと被っていることもあり、トップクラスの騎手が皆ドバイに行ってしまっている。
そういう騎手たちを囲い込んでいる大手クラブの出走が少なく、個人馬主にとっては狙い目のレースではあった。
毎日杯は阪神競馬場芝1800m。
ワンターンの比較的シンプルなコース形状なだけに、このレースが皐月賞へ繋がることは少ない。
どちらかと言えばこれまたコースがシンプルな東京優駿やNHKマイルC向けといえる。
しかも少頭数になればなるほど単純な直線勝負にしかならないのが実情だ。
よって、他の騎手、馬も中堅クラスが多く、ワンターンのヨーイドンとなればそこまで微妙なコントロールを必要としないので、進藤の重賞初挑戦にはちょうどいい舞台だった。
――というのは陣営の思惑を読みきれなかった外部からの見解であり、実際は「上田がジェルディサヴォアに乗るためにドバイに行っているから同厩舎の進藤に乗せた」と、合法的に「言い訳」を使うために選ばれたレースである。
もしドバイミーティングが2週ほどズレて、ニュージーランドTと被っていたら、中山競馬だろうとそちらに出走させていただろう。
井野がドバイに発つ前に進藤とのミーティングも済ませてあり、作戦は簡単で「そこそこベテランの誰かについていけ」であった。
「マコ、しょせんGⅢだぞ。ルーティーンは6Rと同じだ。俺もゲート裏まで行くから、楽しんでこようや」
地下馬道でも固くなっている進藤に、中村がひたすら話しかけている。
一方シビアレコードは泰然自若といった様子で、どことなく気取ったように一歩一歩、蹄鉄を鳴らして歩いている。
ジェルとひたすら併せ、騎手との付き合い方などの指導も受けてきたシビアレコードは、進藤の緊張感を打ち消すように地下馬道出口の上り坂を戸惑いもせず上がっていった。
GⅢ開催日とはいえ今日の阪神競馬場の客入りは少ない。
本日のメインコンテンツは(日本時間で)深夜のドバイミーティングであるのに加え、明日は中京競馬場でGⅠ高松宮記念がある。
中京競馬場参戦のファンはすでに前乗りを済ませ、ホテルのテレビでドバイを見るために買い出しの真っ最中であろう。
シビアレコードは11頭立ての7枠8番である。
進藤は7番のソーニャドーリスに跨る長野騎手にずっとついていき、彼が馬を返したら一呼吸おいて同じ方向にシビアレコードを走らせる。
いつものように当たりは柔らかく、ゆったりと外ラチ沿いを回して引き込み線のゲート裏で馬を止めた。
待ち構えていた中村が曳き綱をつけ、輪に加わって歩き始める。
場内アナウンスで中京11Rの払戻し情報が流れた。
3場開催で、中山のメインはGⅡ日経賞なので、中京→阪神→中山の順に10分おきにレースが始まる。
中京11Rが確定し、駆け込みの馬券購入が終わると投票は締め切られ、スターターがスタート台に立つとゲート入りが始まる。
外目の発走ではあるがシビアレコードは偶数番号の後入れである。
3歳戦でまだゲート入りを渋る馬が出てきやすく、後入れはありがたい。
シビアレコードはゲートにすんなりと入り、中村が曳き綱を外してゲートを出ていった。
発馬は出遅れこそないが、やや後手を踏んだ。
スタートで落馬をしないように、進藤が静かにゲートから出ることを心掛けたためである。
スタートから3コーナーまで600m、すでに馬群は縦長になり、進藤とシビアレコードは7番手の外目を走っている。
阪神の外回りなのであまり外を回したくはないのだが、とはいえ縦長の馬群で、まして11頭立てなのでそこまでロスはない。
長いコーナーを回りながら、進藤は井野との打ち合わせを思い出していた。
「とりあえず慌てんな。もともとこいつは2000以上(の馬)だから、大外を回るロスがあっても心配ねえ。ただコーナーで加速するのはあんまりうまくねえな。4コーナーで少し押してやれ。そこでペースが上がったらそのまま上がって行けばいいし、もし反応なかったら直線入るまで我慢しろ」
「直線まで待って届きますか?」
「そうなりゃあとは賭けにしかなんねえ。ま、レコードにとっちゃ何としても取らなアカンっちゅうレースでもないしな。おめえにとってはそうじゃないだろうけど」
「勝ちたいっスね」
「いい意味でおめえの教材にはならん馬よ。一個だけ忠告しとくけど、レコードに慣れてしまったらいかんよ?あいつは3歳とは思えねえほど素直な奴だ。他の厩舎にもちゃんと挨拶いって、調教乗せてもらってみろ。絶対あんな綺麗に走れる奴はいねえぞ――」
4コーナーに入ると馬群が詰まり、後ろから来る馬にムチが入る音も聞こえるようになる。
1馬身前方を走っていた長野騎手騎乗のソーニャドーリスとの距離が少しずつ開き始めたのを見て、進藤は慌てて気合を入れるとシビアレコードが加速した。
「速っ!」
進藤の想像していた以上の加速に、慌てて手綱を引いた。
800mは切っているのだが、このペースで加速したら間違いなくコーナーを回り切れない。
思いがけずソーニャドーリスに追いついて逆に少し前に出てしまったが、シビアレコードは「あれ?」という風にまた耳を立て、ペースを緩めた。
外回りのコーナーはまだ続く。進藤には600mのハロン棒が遠い先のように感じた。
許されることならここから手綱を緩めてシビアレコードの好きなように走らせたい。
実際、兄のジェルディサヴォアが何やら余計な指導をしてきたせいで、ここから手綱を開放してもゴール板を過ぎるまで駆け抜けられる程度には競馬を理解しているのだが、そんなことは誰も知らない。
600mのハロン棒を過ぎたので、進藤はもう一度シビアレコードを促す。
今度もダッシュは抜群だった。
4コーナーを抜けたときにはすでに先行集団の外目3番手までポジションが上がったが、まだ2週前追い切りで感じたような馬体が沈む感覚はない。
直線に入るとすぐシビアレコードが軽く跳ねるようにして手前を替え、馬体が少し沈んだ。
進藤が初めて味わうシビアレコードの追い脚は、上田が言っていたように確かに飛んでいるかのようであった。
どうやって衝撃を吸収しているのか、地面からの反動が少なくゴムが伸びるように脚が伸びていく。
左手前なので次第に馬群から離れていくが、先輩方を邪魔しないコース取りになっていることを考えれば進藤にとってはありがたい。
一方でそういう大跳びタイプなだけに、シビアレコードの加速はジェルディサヴォアほど急激ではない。
600mから追い出したにもかかわらず、最高速に乗ったのは残り300mの辺りである。
すでに先頭を追い抜いて、後方から来る馬との追い比べになるかと進藤がチラッと内を見ると、2馬身差がついていた。
最後の坂を目前にしてまた手前が替わり、右手前になったまま一気に坂を登りきる。
ターフビジョンを見ると4馬身ほどのリードになっており、進藤が手綱を緩めた。
絞られていたレコードの耳が立ち、また手前が左に戻ると最後の50mは流してゴールした。
ほっと一息をついた進藤が馬を返して地下馬道に引き上げるときにはスタンドのファンから祝福の声が飛び交う。
なんとしても31勝を達成しないと、いつまでたってもシビアレコードをGⅠで走らせられない。
進藤はまだこれで2勝目。谷地オーナーが平場クラスの馬を積極的に回してくれているとはいえ、30勝はまだまだ遠い道のりであった。
――初重賞制覇となりました、進藤誠紅ジョッキーです。先ずは今のお気持ちからお伺いします。
「えっと、いいのかな、という気持ちが一番です」
――進藤ジョッキーは先週のデビューから僅か7日での重賞制覇ということで、歴代としても2位の記録になりましたが。
「ちょっと事情があって僕が乗せてもらえたんですけど、能力は間違いない馬なので、しっかり勝利まで出来たことで、オーナーや先生に少しでも恩返しになっていれば嬉しいです」
――最終的に4馬身の差をつけての圧勝でした。今後に向けても、弾みがついたんじゃないでしょうか。
「そうですね。まあマイルは少し足りないかな、というところで、スピードだけで勝ってるようなところなので、これから長いところを使っていければ」
――今日のプランとしてはどういうところを考えていたのでしょうか。
「直線のスピードは間違いないので、あとは他の馬に塞がれないように、外を回していけば何とかなると思いました」
――直線に入ってすぐ先頭に立ったように見えましたが、ゴールまで遠く感じたんじゃないでしょうか。
「最後、坂もあるので、止まらないでくれと、まあそういう感じでした」
――シビアレコードには進藤騎手がいつも調教で乗られているということで、これからも一緒に歩んで行く相棒といったところでしょうか。
「まあ、僕がまだGⅠには乗れないので、いつまでも一緒というわけにはいかないですけども。元気で走ってくれたらいいなと思います」
――シビアレコードで重賞初制覇、進藤誠紅ジョッキーでした。おめでとうございました。
「ありがとうございました」
【全スポ 3/27 15:42】
~〈毎日杯〉レコード誠紅重賞初勝利~
2歳王者シビアレコードが始動戦を勝利で飾った。朝日杯で手綱を握った上田秋信騎手がドバイに遠征中のため、代役として井野厩舎所属のルーキー・進藤誠紅騎手が手綱を取った。
やや後ろからのレースとなったが、朝日杯と同じようなパフォーマンスで大外を急襲。直線半ばにして先頭を捕らえ突き抜けた。
次走はまだ決定していないとのことだが、井野師は「中山で走れる馬じゃない。皐月はかなり厳しいと思う」と皐月賞回避も視野に入れていることを示唆。
進藤誠紅騎手は1年目。通算2勝目で、重賞は初勝利。デビューから7日での重賞勝利は歴代2位の早さ。
武幸四郎には及ばず