持ち乗り厩務員・コウヘイ
2歳の夏に差し掛かるころ、厩舎の前に馬運車が一台止められた。
もうすでに俺の同期はみな乗って行ってしまっており、俺が最後の入厩である。
様似から函館競馬場で一休みした後、競走馬輸送会社の馬運車に乗り換え、フェリーで青森へ渡る。
南下して、山元トレセンを借りてそこでも1泊。
数年前から谷地オーナーがもうちょっと北の東北道沿いに外厩をひとつ建設しているらしい。
芝生の整備が完了して、馬を連れていけるまであと2年ほどだという。
山元トレセンからまた半日ほどかけて美浦トレセンに到着する。
さすがに俺も食欲がなくなっていた。疲れたのではない。ヒマで相当イライラしていたのだ。
馬運車から降りてきたときはまあ見栄えも悪いガレ馬だっただろう。
「おう、だいぶガレてんな。こりゃちょっと時間かかりそうだな」
馬運車を降りた俺を井野調教師が出迎えた。
飯や水はバスの中でも食えたから、とりあえず洗い場に連れてってくれんかなあ。
「コウヘイ、ちょっと歩かせてから洗ってやってくれ」
「はい。終わったら馬房に入れていいですか?」
俺の手綱を握ってる兄ちゃんが井野調教師と話している。厩務員だろうか?
「ああ、よろしく。大人しいやつだから曳くだけならこのままで大丈夫だろう」
井野調教師がクリップボードを片手に施設の方に戻っていく途中、若い騎手に挨拶を受けていた。
営業回りも大変だ。
洗い場で冷たい水を浴びると調子もすっかり回復し、厩舎に向かう道中では明らかに脚の踏み込みが力強くなっていると感じる。
「ようし、サッパリしただろ。あとでメシ持って来っかんな」
コウヘイ、と呼ばれた厩務員の兄ちゃんが馬房を離れたので、とりあえず隅に寝藁を盛ってトイレの場所を作る。
目が横についている馬の視界はほぼ全周である。といっても立体視できるのは前方、しかも人間より遥かに狭い範囲で、片眼でしか見れない尻の方の距離感は掴みづらい。
あまり壁に寄せすぎると糞が壁についてしまうので、一旦壁に尻をぶつけてから小さく一歩前進、そこをトイレとした。
美浦トレセンでの調教は牧場と比べるとやはり熱気がちがう。
調教師やスタッフは目を血走らせてストップウォッチと馬の状態を見比べているし、他馬、とくに歴戦の先輩馬からのプレッシャーも感じる。
「ちょっと暑いけど、今なら坂路も空いてるだろ。コウヘイ、頼むわ」
すでに馬装を済ませてスタンバっている俺の背に、コウヘイこと
坂路手前の追い馬場ではなく、Dコースを半周ほど軽く流し、コウヘイの手綱に従って坂路コースに入る。
美浦トレセンの坂路コースは改修によって半地下からのスタートになった。
問題はここ、半地下のスタート地点は左右が壁になっているため、熱がこもって夏はクソ暑い。
ミストは撒かれているが大した効果はない。ゆらゆら揺れる陽炎が余計暑さを感じさせてくる。
デカい扇風機の空気循環器でもつけた方がマシじゃないだろうか。
空いている時間を狙って馬場入りしたので前は空いている。さっさと行こうぜと、俺はハミをとった。
「よし、じゃあ行くか」
一気に坂路を駆け上がった。
昔と比べ勾配の距離は長くなっているが、相変わらずフィニッシュ地点からの余裕が短い。
トップスピードで駆けあがってきた馬が100mちょっとで止まるのはちょっと厳しいものがある。
乗り役によっては早めに減速をしてしまうので、関東馬の坂路タイムは終い1Fより0.2秒ぐらい速いと考えた方がいいらしい。
「この時期で54秒台はすげえわ」
コウヘイが首筋を軽くたたいてくれた。
ただ俺の場合、入りの2Fは速いのだが、終いのタイムは月並みと言っていいだろう。
「なかなかよかったな。コウヘイ」
クールダウンをしている途中、井野調教師がファイルを片手に歩いてきた。
「あ、センセイ。54秒は切っていましたよね?」
「お前、もうちょい精密になれるように頑張れや。あとコンマ5で52秒乗るところだったわ」
「あー、そんな速かったんですか」
パシッと井野調教師が浩平の頭をファイルで叩いた。ヘルメットをかぶったままなので痛くもかゆくもなかっただろうが。
「あとでオーナーと相談しないといかんな。予定より2ヶ月ぐらい早めてもいいけども、出来上がってないのに手荒に使うとパンクするよな」
「8月に使うんですか?」
「これから相談して決めるって。ええから早よ洗ってやりぃ」
おつかれ、と井野調教師は先に厩舎の方に歩いて行ってしまった。
「――久々にいい馬持てたから、センセイもご機嫌だわ」
確かに、普段は挨拶されても軽く返礼する程度だった井野調教師が、若い騎手にも軽く話をするぐらいご機嫌のようだった。
それからまた数週間、時計を出しながら暑い夏を過ごしていた。
次第に調教の時間が朝早く、坂路が混雑している時間に放り込まれるようになった。
というのも、僚馬との併せを始めたのだが、未勝利クラスの馬では相手にならず、リステッドクラスとの馬や、重賞に向けた追い切りの併走役になることもあったのだ。
自分の身体は自分がよく知っている。
2歳馬としてもトップクラスの時計は出しているのだが、どうにもまだ踏み込みが甘い気がしてならない。
「センセイ、ジェルのことですが、ちょちコズんでるみたいですね」
コズミというのは要は筋肉痛である。
「そっちが先に出たか。ソエは出てないんだよな?」
「今のところソエはありませんね」
「うーん……まあセスナもソエはなかったし、あいつもそんなもんかねえ。いったんソエが出てくれた方がありがたいんだが」
ソエは骨の炎症で、馬体が出来上がっていく過程で骨の組織が硬くなるときにおこりやすい。
逆に言えばソエを乗り切ったら骨が出来上がった証とも言える。
昔はソエが出たら一人前の馬とされ、女性の初潮の日と同じく赤飯を炊いて祝われたらしい。
俺は牧場の時期から今までソエが出てないので、牧場のスタッフも井野センセイも心配しているようだ。
「とりあえずコズミが落ち着くまでプール中心にするか。治ったらレースに向けて動き出すわ」
「もう行くんスか」
「新潟がやってるうちにな」
井野センセイはスマホをとりだし、メールを打ち始めた。