ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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庭先取引

 

 日本では安田記念が終わり、宝塚記念を2日後に控えた6月の金曜日、馬主の富永は妻と息子を連れて日高自動車道を東に飛ばしていた。

 生産業はしていない富永にとって、馬主としての活動はあくまで趣味なのだから、家族旅行を兼ねて襟裳岬にいったところで趣味に趣味を重ねているだけで何も問題はない。

 一番の目的は勿論、昨年末の朝日杯で偶然知り合った谷地の牧場で馬を買うことである。

 思えば、馬を買うために日高に来たことはあっても、浦河より東に車を走らせたのは初めてであった。

 

 今日のうちに馬を見せてもらって、明日から3日ほど家族旅行に費やす、と谷地に電話で伝えたところ、

「それならば金曜の午後4時ごろがいいでしょう」

と言われた。

 馬を見るのに午後の4時というのは非常に遅い時間だが、新千歳から様似までは休みなく、かつ信号に捕まらずに車を飛ばせても3時間以上かかるので、妻や息子が疲れていたらそのままホテルにチェックインして休ませ、富永が一人で牧場を訪れることができる時間帯を指定してくれたわけだ。

 案の定、富永の妻はギブアップしてしまったが、息子の方は「自分も馬が見たい」といってついてくることになった。

 非常に将来有望……いや心配な息子である。

 

 馬を見に行く、特に馬主や調教師が馬を買うために牧場に行くのであれば、遅刻は当然マナー違反だ。

 というのも、ただの牧場見学とは違い、馬を売る牧場側は少しでも馬の見栄えをよくするために、時間に合わせて馬体を洗ったり、放牧のスケジュールを管理したりしているからだ。

 遅刻は仔馬1頭だけではなく、牧場に繋養しているすべての馬、そしてそれを管理する全スタッフに影響を及ぼす。

 もちろん遅刻だけでなく、ちゃんと時間通りに来たとしても、社長や牧場長と長時間話し込んでいつまでたっても馬巡りを始めないのも、スタッフ達からすれば非常に迷惑な話である。

 

 牧場の事務所の前で谷地社長(オーナー)が牧場長とともに待っていた。

 車を止めて挨拶をすると、牧場長が富永の息子に、

「臭いは大丈夫?」

と聞いた。

 実際、牧場は獣臭いというか、家畜臭いというか、馬糞などが入り混じった臭気がある。

 もとより観光目的の牧場ではないので、動物園などと比べても臭いが強いのだが、息子は

「うん!大丈夫!」

と笑いながら返事を返していた。

 やはり頼もしさより心配が先に来てしまうところである。

 

 さて、いよいよ馬巡りだが、谷地曰く、今年の庭先では富永が一番乗りだったらしい。

 この牧場は他の馬主からの繁殖牝馬の預託は受け付けておらず、最優先の販売先である谷地の都合もあって当歳馬の売り出しもまだやっていないため、一応一通りセール登録はしているものの、現状では富永が選び放題になっていたのだ。

 もちろんこれは谷地が富永との商談を最優先にしようと、他の馬主からの予定を全て再来週以降に回していたからである。

 流石に九州には上場しないので、6月中であればすべての馬の商談が可能であった。

 

「富永さん、先にお話しました通り、今年はまだ当歳馬は売れません。まだ育成施設がしょぼいもんで……。今年の秋には外厩ができますんで、来年からは当歳馬から売れるかもしれませんが」

「ええ、ええ。聞いとりますよ。もし今日買えましたら、入厩まではどこで?」

「このままウチで預かるか、富永さんが贔屓にしてる育成牧場があれば速やかに移送しますよ。でもこのままウチで預かる場合でも預託料かかりますが」

「ああ、ほなら入厩までここでお願いしますわ」

 ま、買えたら、の話やけど、と富永も笑いながら牧場のバンに乗り込んだ。

 

「富永さん、先にお送りしたカタログは今日お持ちですか?」

「もちろん、持っとりますよ」

 富永は自分の鞄から当歳馬の写真やプロフィールが載っているカタログを引っ張り出した。

 すでに何度も読んだようで、そこかしこに折グセとボールペンの走り書きがあり、表紙にはコーヒーのシミまで残っていた。

 

「順番に出します?気になったやつから?」

「いや、順番に」

 牧場スタッフが最初の馬を曳いてきた。

「まずはオリガシェミーの36年から。父はセスナ。牡で、本日の馬体重438kgです――」

 

 富永がもともと目をつけていたのは2頭おり、そのうちの1頭が3番目に出てきた。

「フルウエストの36年。父はウエストオーバー。牝、馬体重は452kgです」

「これは気になっとったんですよ。女の子にしてはだいぶ大きいやないですか」

「両親ともだいぶ歳なのは気になるかもしれませんがね」

「その分安くならんですかね」

「カタログだと……350万でしたっけ。300万ぐらいなら」

「うん、ちょっと保留させてもらいますわ」

「では次に行きましょう」

 

 次に富永がストップをかけたのは9頭目だった。

「スピリットアイコンの36。父はラムジェット。牡、馬体重は474kg」

 おお、と富永が感嘆の声を上げた。

「これはすごいで……」

 母名から察する通り、セーフティアイコンの半妹の子で、ジェルディサヴォアのいとこに当たる血統だ。

「どうです、富永さん」

「これは950万どころか、ン千万言われても納得やわ。セリに出したら億行くんちゃいますか」

「ダート系なので億は高望みでしょうね。血統を上乗せしたら3000万クラスは堅いんじゃないかなと」

「ホンマにこの仔を1000万足らずで売ってくれはるんですか」

 富永は何か裏があるのではと、馬の周りを一周して脚の向きや蹄などを確認した。

「初回限定価格です。来年からはもう一桁上がるでしょう」

 谷地が笑いながら言った。

 

 牧場長としてはなるべく高く売れよ、と言いたいところではあったが、一応その分は谷地が他の馬を高く買って補填はしてくれるのでまだマシだった。

 しかしこの調子だと1億ぐらい補填してもらわないと厳しいかもしれない。

 本業とは別に牧場も谷地が社長を務めるが、連結子会社ではないので、当然会計は別にしなければならない。

 

 生産牧場というのは産ませて売ったらその売上が収入のほぼ全てなのだ。

 一応JRAから贈られる生産者賞もあるにはあるが、金額としてはGⅠ1着で100万円であり、それ未満の重賞で1着65万、平場で45万と、特別ボーナスどころかスタッフ2,3人分の給料が精一杯の額である。

 

 ここで牧場長が谷地に小さく耳打ちをした。

「富永さん、もう1頭、見て欲しい仔がいるんですよ」

 牧場スタッフが、1頭の芦毛馬を曳いてきた。

 間違いなく芦毛ではあるが、1歳ではまだほとんど黒い。

「アルテミススカイの36、牝馬で、父はヤマニンウルス。ちょっと前後から脚を見て欲しいんですが、前脚がX脚になっていまして」

「ああ、確かにちょっとおかしいですな」

「しかも脚元が外に向いているという、まあ難しい馬で。育成段階や現役中でも故障を起こしやすいタイプなんですね」

 

 富永はまさか、という風に谷地を見た。

「一緒に買ってくれんか、って言うお話ならわかります。けど、売れんかったら肉ってやつやおまへんよな?」

 谷地は笑って手を振った。

「いやいや、それならそれで無理はせず繁殖なりなんなり、まずは考えますよ。幸い、うちは年間何十頭と産ませてる牧場じゃありませんからね。余裕はあります。

で、さっき仰ったように、抱き合わせ販売のご相談なんですが、セリでもほとんど期待できない仔なんで、スピリットアイコンの仔と一緒に買って頂けたら、2頭で1000万ちょっきり。いかがです?」

 富永はううん、と考えた。

 今まで馬の購入は調教師頼りだったこともあり、そこまで考えて馬を買ったことはなかった。

 ジャスタウェイの血統であることを考えれば、この脚の型も悪いものではない。

 しかしまず無駄なリスクがある上に、ダート馬2頭はもったいなかった。

 

 もう一度その仔の後ろ脚を見ていると、いつの間にか馬に近寄っていた息子が、顔を撫でていた。

 仔馬も威嚇したりはせず、息子に鼻先を寄せて遊んでいた。

「決めました。谷地さん、買わせて貰います」

 谷地は良かったと思う反面、残念だという感情であった。

 谷地好みの性格の持ち主で、ここで富永が首を縦に振らなければ、セリには出さず自分で持つつもりの仔だったからだ。

 

「この子の大雑把な育成方針ですが、脚の向きを少しでも矯正させる方向にしますか?それともこのまま、馴致を行います?」

「ほなら最初だけ、矯正を試して欲しいですな。もしちょっとでも苦しそうやったら、絶対にそれ以上はせんでやってください」

 直ちにスピリットアイコンの36とアルテミススカイの36の馬房には「売約済」の札がかけられ、馬房のネームプレートの馬主欄には富永の名前が書き加えられた。

 

 馬は動産なので、購入に際してはクレジットカードを出して紙切れのレシート1枚貰えばいいというものではない。

 2頭合わせて税込1,000万強と金額も大きいものであるから、調教師や弁護士など馬の売買の専門家が同行しているならともかく、富永1人では流石に今日この場で売買契約を交わすことはできず、とりあえず仮契約と一月分の預託契約だけ行い、正式な契約は改めて行うこととなった。

 

 





次回は14日(土)

取引はかなり簡略化してます。
16時からの商談なんて、スタッフ全員時間外労働になりますわな。

ちなみに連絡無しに2,3時間遅刻してくる馬主や調教師も珍しくないとか。
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