しらさぎステークス(3歳以上・GⅢ)
宝塚記念を終えた翌週の阪神最終週。
阪神競馬場でもGⅢしらさぎステークス(旧・米子ステークス)が行われるが、稼いでいるヌーヴェルグループお抱えの騎手は東京の府中牝馬Sに行っており、ベテラン騎手は一足早く夏休みを取るか、避暑地の函館に飲みに行っている。
そんなわけで阪神のジョッキールームは比較的閑散としていて、普段ベテラン勢によってローカルに追いやられている若手騎手も多かった。
なお、強かなベテラン騎手はハンデ戦の府中牝馬Sには行かず、別定のしらさぎステークスだけに乗るために阪神に残っている。
古馬の最低重量が57kgのしらさぎステークスに乗るだけなら、普段以上に旨いものを食べて体重が増えても心配ないからだ。
一方、関東から遠征してきた進藤誠紅騎手は知り合いが誰もいない完全アウェイ状態であった。
ただでさえルーキーということで交友関係も狭いのに、他の同期騎手はそもそも仕事がなくて競馬場に来てすらいないか、ローカルの函館に行っている。
栗東トレセンの朝調教には顔を出して初対面の調教師にも頭を下げ何頭か乗せてもらえたが、天皇賞のときに挨拶できた先輩騎手達はほとんど阪神に残っておらず、わざわざ関東から遠征してきて乗鞍は午後の1勝クラスとメイン重賞だけという生意気にも程があるスケジュールだったために余計に肩身の狭い思いであった。
ついでに言うと、その1勝クラス、勝ってしまったのだ。
京都新聞杯の日に穴勝ちを決めたあの3歳馬で、距離は200m延長の芝1600mではあったが、4番人気で鮮やかな追込勝ちであった。
なお喜ぶオーナーの隣で調教師はまた頭を抱えていた。
大手クラブのために馬房を空けたかったのに、1勝クラスを突破してしまった為にいよいよ転厩を切り出せなくなってしまったのである。
平場の1勝クラスは減量恩恵があり斤量54kgであったが、しらさぎステークスは減量が外され56kgでの騎乗。
春の3歳馬が古馬と
当然、減量恩恵はない。
しかし残念ながら、昼に2kg分のメシを食えるかといえば物理的にも制度的にもそんなことはなく、急な騎手変更の依頼に備えて体重をキープしておかなければならなかった。
しかも平場となれば、減量恩恵で一般の騎手よりキツい減量が必要になる。
結局何事もなく9Rまで終わり、着替えを済ませパドックに向かうと、ひときわ大きな
シビアレコードが律儀に蹄を鳴らして歩いており、その後ろは4,5馬身程空いている。
井野調教師と、モーリッシュが出走する筈のロイヤルアスコット最終日をすっぽかして谷地オーナーが来ていたが、曳き手はコウヘイではなく中村厩務員であった。
一周する間はカツカツと蹄音高く歩いているシビアレコードは、井野達の近くに来ると、
「そっちに混ざりたいなー」
とばかりにチラチラ首を向けているのだ。
シビアレコードは鞍上不安に加え怪我明けということもあり5番人気。
進藤の減量恩恵がない、つまりは他の馬よりヤネのレベルが3kg分ヘタクソということを計算に入れると、実質的には負担重量59kgでの出走ということで、ある意味トップハンデである。
しかしもとより、脚部不安は仮病なので、ダービーを回避して中5週のシビアレコードは京都新聞杯のメイチから一旦立て直す猶予をもらっての好調仕上げ。
なんならこのままサマーシリーズを完走できるぐらいのバイオリズムであった。
号令がかかり、進藤がまずオーナーのところに走っていく。
ちょうどシビアレコードも近くに止まっているので、進藤、井野、谷地が一斉に近くに来てくれて嬉しそうだった。
誰に鼻を寄せようか迷ってるうちに進藤が背中に乗ってしまったので、レコードは後ろが見えるように首を傾げていた。
阪神競馬場の記者ルームでは、関西トラックマンの六角がまたムカつく
「クッソ蒸し暑ぇ……。なんで昨日降るかねえ」
いつもの缶コーヒーではなく、ポカリスエットの缶を傾けながら寺尾がタオルで汗を拭いた。
6月の梅雨どきで昨夜は雨が降っており、ジットリと蒸し暑い阪神競馬場は、良馬場発表ではあるがクッション値9.2とギリギリのラインであった。
「寺さん、アンタ、シビアレコードの為だけに帰って来よったんか?」
「あたりき車力よ。谷地オーナーと一緒の便さ。昨日の夜伊丹に着いたんだわ。
「ほなら尚更こんなとこトッちゃんに任せぇや。ヤツは府中か?」
「宝塚記念で馬券勝負ボロ負けしたからファームよ。あれほどコンティは押さえとけって言ったのにバッサリ切りやがって」
「あれ3連取れたら中部スポーツ抜いてトップやったもんな。寺さんはモチロン取ったんやろなあ?」
寺尾はハッ、と鼻で笑った。
「当たり前よ。どこに
アンタのオーロレガーメに乗らんかったらもう少し狭められたんだぞ」
ケッ、と六角は舌打ちをした。
「テメェもそれに乗っかったんやろが。なーにが呉越同舟*1や。ネヴァーのマークに夢中で4コーナー過ぎたら尽きてやがんの」
嶋田がマーク屋なのだから仕方ない。
マーク相手をキッチリ塞いで潰しきるのは上手いが、その分外々を回ったり、早仕掛けが仇となって共倒れになるパターンも多いのだ。
「で、ロクさんは幾ら取ったの。まさかバカ正直にレガーメから行ったわけないっしょ?」
「そらリヴェッテイから流したで。堤はんもホンマの本命そっち言うてたしな」
全報スポーツの記者2人がゲラゲラと笑っている中、阪神11Rの馬場入場が始まった。
「レコードのアレ、テイオーステップとは違うんか?」
「違うな。ただ遊んでるだけだってさ。蹄鉄鳴らすのが癖みたいなんだわ。
最近シングルベルもやり始めたからな。ジェルが変なこと吹き込んだんじゃねえかって井野センセイが言ってた」
実際は、シングルベルはシビアレコードの真似をしているだけであり、ジェルディサヴォアとはほとんど接点はない。
どうもシビアレコードにホレているようだ。
ファンファーレが鳴りゲート入りが始まると、15番枠のシビアレコードはさっさとゲートに誘導されたが、最後の大外16番枠のグランディグラスがなかなかゲートに収まらない。
グランディグラスがゲートに入るか入らないかで立ち止まったり暴れたりしていたので、シビアレコードの隣の枠では係員が出たり入ったりウロウロしており、また、馬の後ろでは発走委員が長ムチを振るう、ピシッという音も何度か聞こえていた。
進藤はシビアレコードがイライラしているのではと気を揉んだが、どちらかと言えば係員が出たり入ったりしているのを楽しそうに眺めており、たまに隣の枠に向けて嘶き、係員の邪魔をしていた。
進藤が慌ててレコードの口を反対側に向け事なきを得たが、このままグランディグラスの枠入りを邪魔したら制裁が科されるところであった。
他の馬はイライラと耳を絞ったり前掻きをしている中、呑気に遊んでいたシビアレコードは相対的にリラックスし過ぎたのか、ロケットスタートを決めてしまった。
ゲッ、と進藤が慌てて壁を造れる位置を探したが、他馬より3馬身抜けてしまっていれば、内の馬ははるか後方と言っても過言ではない。
とりあえず一気にインコースを取り、軽く手綱を引けばシビアレコードの耳がピョコっと立ち上がった。
ペースを十分に落として3コーナーに入ったつもりだったが、2番手とはまだ1馬身の差がある。
阪神外回りの長い右コーナーで逃げ馬が息を入れるのは難しい。
先行勢が息を入れる最適なポイントは3,4コーナー中間のやや直線になっている部分だが、緩やかではあるが下り坂が続くので、前に馬がいないとついついオーバーペースになりがちな場所でもあった。
3コーナーを回りきって、もう少し手綱を引くとシビアレコードがピョンと跳ねて左手前に変え、一気に減速した。
進藤もようやく一息ついた。
あとは4コーナーで突き放すか、直線までおっつけるかの判断だが、経済コースで4コーナーに入るとシビアレコードの馬体が大きく傾く。
普段は大外なのでそこまで急カーブは必要なかったのだが、最内となると話は別だった。
調教や放牧地で何度もジェルディサヴォアと駆け回っている影響で、シビアレコードは兄のコーナーバランスを覚えてしまっていたのである。
ほとんどペースを上げていないのに、コーナーを抜けるとまた3馬身のリードになって、すぐに手前が替わる。
一方、鞍上の進藤は想定外の事が起こりすぎて、パニックになっていた。
実際には最高の流れでレースが進んでいたのだが、その全てが想定外となると、経験が浅いルーキーでは頭の切り替えができていなかった。
まだリードは十分あるのに、進藤が慌てたように追い始める。
ムチはまだ打たない、いや、そもそも抜くのを忘れているほどバラバラなフォームで手綱を動かしていた。
進藤がこれほど慌てているのは意外な逃げを打つ羽目になったからというだけではない。
直線に入って必死に手綱を動かしているのに、シビアレコードが全く反応しないからだ。
まさに暖簾に腕押し。
進藤の腕が激しく動いても、手綱が揺れるだけでシビアレコードの首は全く下がらない。
「動け!動けよ!」
進藤が顔をグシャグシャにしながら後ろを振り返ったり、膝でシビアレコードの肩を押し出したりと藻掻いていると、最後の坂の直前、2番手の馬に並びかけられそうになったタイミングでシビアレコードの耳が倒れた。
ヒョイと手前を替えると、ダン!と強くターフを叩き、普段の優雅なスタイルとは真逆の、荒々しいフットワークで急坂を駆け登っていった。
馬主席では谷地が顔を覆っており、検量室前では井野が奥歯を噛み締めている。
ドヤ顔で蹄音高らかに1着枠に入っていったシビアレコードとは逆に、汗と涙と鼻水で汚れた顔の進藤に、井野は小さく、
「勉強してこい」
とだけ言って、タオルを投げつけた。
シビアレコードは褒めてもらえると思ってルンルン気分だったのだが、ゴールをしても進藤は吐きそうな顔をして震えており、検量室に帰ってきても井野は機嫌が悪かったので、異様な雰囲気に困惑し、上機嫌で降りてきた谷地に鼻を擦り付けて甘えたのだった。
【全スポ】
〜お兄ちゃんそっくりレコード逃げ切り 進藤16勝目〜
古馬相手も関係なし。
春の阪神開催の締めとなるGⅢしらさぎSで、3番人気に推されたシビアレコード(牡3)が好スタートから鮮やかな逃げ切り勝ちを収めた。これで同馬は昨年の朝日杯から数えて重賞4連勝。
騎乗したルーキー進藤誠紅騎手は16勝目を挙げ、GⅠ騎乗が可能となる31勝へ折り返しに入った。
好スタートを切ったシビアレコードが3馬身差を付けて先頭を走り、直線で一旦迫られるも残り200mの上り坂でもう一度突き放し2馬身差で振り切った。
管理する井野師は「中5週あったから十分調整ができた。ロクに追われてないから余力あったし、まだ仕上げ途上だから次も戦える」とポテンシャルの高さを示唆。
次走は札幌記念を予定しているが、あくまで夏は体調次第とのこと。
〜記者・六角〜
しらさぎSが終わった翌週、進藤が井野に電話をかけた。
「センセイ、取れました」
「よし。後で厩舎の事務所に来てくれや。手続きは俺も手伝うから」
井野がパソコンを立ち上げた。
「短期ならワンチャン取れるかもしれん。アキだってあの成績でフランスとイギリスのビザ取れたんだしな――」
【全スポ】
〜シビアレコード 札幌記念回避が決定。出国検疫開始、渡英へ〜
シビアレコード(牡3)が予定していた札幌記念を回避し、サセックスS(英GⅠ)に向けて出国検疫に入った。
なお、既に予備登録、初回登録料の支払いは完了している。
サセックスSはグッドウッド競馬場で5日にわたって行われる「グローリアス・グッドウッド・ミーティング」の2日目、7月29日に行われるマイル戦。
その4日前の土曜日には兄のジェルディサヴォアがキングジョージⅥ&クイーンエリザベスSに出走予定で、両馬が無事出走できれば「ブリティッシュ・ミッドサマー・ボーナス」の対象となる。
兄と同じ、ニューマーケットのヒルストン厩舎に滞在する予定。
なお、現段階で鞍上は未定だが、井野師は「ビザが取得できれば進藤に乗せる。向こう(イギリス)にはGⅠ出走に勝利数の制限はないし、JRAで重賞勝ってるからビザを取得出来る最低限の条件はクリアしている」と、まさかのルーキー継続起用に前向きな姿勢。
〜関東・寺尾〜
最悪な勘違いに今更気づきました。
武豊の最年少GⅠ勝利記録、2年目の菊花賞だった。ずっと初年度の菊花賞だと思ってた。
来年の春までに記録抜いちゃったらお許しください。
フィクションなんで…
宝塚記念を書いたせいで、
(日)宝塚記念→(木)ゴールドカップ→(土)ハードウィックS→(日)しらさぎS
になってしまって、
登場人物の移動行程や投稿順の並び替えとかで何度もセリフ書き直すハメになりました。