ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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2歳新馬(2歳 平場)


まだまだ若手騎手・アキさん

 俺の馬房の前に、一人の男が突っ立っている。

 

 貫禄はまったくないのだが、身なりで現役の騎手だということはわかる。

 まだまだ若手騎手、減量明けて数年、ってとこだ。

 

「あ、アキさん、いらしてたんですか」

「ようコウヘイ。センセイから聞いたんだけど、8月4週目の土曜日でいいんだよな?」

「です。ジェル、新馬戦はアキさんにお願いしたからな」

 さっきからずっとにらめっこしてたんだが、自己紹介すらしてくれないんだよなこの人。

 まあ普通は馬に名乗ったところで全く意味がないのだが。

 

上田秋信(うえだ あきのぶ)ってんだ。お前のおふくろさんにも乗らせてもらってたんで、その縁でなあ」

 さっきまでのにらめっこの雰囲気はどこへやら、俺の額を撫でるアキさんの手に少し力がこもっているのを感じた。

 

 アキさんは減量明け、となればこれからが騎手として進退懸かる時期になる。

 ここで実績を積めれば大手クラブからの騎乗依頼も増えるだろうが、逆にコケてしまった場合はローカル平場に閉じ込められ、数年後には調教助手に転身する羽目になる。

 特に近年は話題性に加えて、平場では年齢実績問わず最低でも2kg減の恩恵を受けられる女性騎手の台頭により、ローカル競馬でも若い男性騎手の立場が無くなってしまっているのだ。

 実態は女性騎手がその恩恵に乗っかれているかと言うとそういうわけでもなく、勝ち星自体はローカルに遠征してきたトップジョッキークラスが占めるのだが、どうせ勝てないのならせめて話題性だけでも、という理由で大したことがない馬に女性騎手が選ばれるのはクスブってる若手、中堅騎手からしたらやるせない話である。

 

 2週間後、俺は馬運車に揺られて磐越道を北上していた。

 結局初出走になる今日まで踏み込みの違和感は改善されなかった。

 そして脚元への負担も考慮してあまりコースでは乗れていないのが不安材料であるが、5時間以上の暇つぶしにひたすら脳内シミュレーションを繰り返していた。

 

 土曜日の新潟4R、新馬戦は14頭が出走する。

 まだコズミの影響を気にしていたのか、井野調教師は追い切りでもそこまでのタイムを出させなかった。

 もうひと絞り欲しいところだったが、輸送減りを考慮したら馬体重的にはそこそこ収まった感じはある。

 金曜から続く雨の影響があり、馬場は不良に近い重の発表だった。

 

「ジェルは泥被るの嫌いなんだよな」

 パドックを周回しながら浩平が呟いた。

 

 調教の中で泥や砂を被る訓練も行ってきた。

 砂被りは気にならないのだが、泥被りとなるとつい顔をそむけてしまう。

 やっぱりまだ人間の感覚が抜けていない。

 本来は泥を蹴り上げられてもウマヅラの鼻先から額にかかるだけなのだが、目は前についているものだと思ってしまうから、ふと顔をそむけては片方の目に余計に泥を被っていた。

 どういう競馬をするのか、ってのは聞いていないが、アキさんには申し訳ないが泥被るような場所を走っていくのはまだ無理かもしれない。

 

 俺は周回しながらパドックビジョンを見上げた。

 4枠6番、ジェルディサヴォア。

 コズんでからロクに攻め馬もこなせず、ましてやヤネがアキさんということで予想紙が上手いこと評価を差し引いており、単勝は16.3倍の7番人気。

 1番人気が3.5倍からのスタートなのでなかなか割れている。

 

 パドックの周回が止められ、騎手が一斉に馬の方に駆け出してきた。

 アキさんこと上田騎手は今日2回目の騎乗で、先に乗った2Rの3歳未勝利戦では13頭中12番人気の馬で見せ場もなく終わっていた。

 

 地下馬道を歩きながら、俺はコウヘイとアキさんの会話に耳を傾けていた。

「センセイ、あれから何か言ってた?」

「特に指示しとけ、ってことはなかったですよ。作戦とかこだわる必要ないって」

「んじゃあ、任せてもらっていいのか……」

 井野調教師、諦めているのだろうか。ここを勝っとけば秋までお休みできるのに。

 

(ん?)

 ただ歩いているのも暇なので二人の会話に耳を傾けていたところ、手綱がクイと引かれた。

 誘導馬の後ろ、実質列の先頭を歩いていた馬が、地下馬道の出口の坂で歩みが遅くなり渋滞しているようだ。

 地下馬道の出口の坂はなかなか急勾配になっていて、精神的に幼い2歳馬はここでいったん止まることが多い。

 厩務員に引っ張られるようにして馬場に出ることになるのだ。

 もちろん俺はそんなことはしない。

 さっさと馬場に出て曳き綱を外してもらい、ラチ沿いを歩いてみた。

 

「ちょっと雨が強くなってきたな。まあ俺はこのレースで今日は終わりだけどな」

 ラチ沿いは荒れてはいるが、土曜日の5Rではあえて避けていくほどではなさそうだ。

 しかも今日ここまで芝のレースは1回だけ、他の3レースはすべてダートだった。

 明日は重賞レースがあるからあまり芝を使いたくないという主催の思惑なのかもしれない。

 

 

<新潟競馬場、第4Rはメイクデビュー新馬戦、芝の1400m、出走馬は14頭。

雨が強くなってきた土曜午後最初のレース。枠入りは順調です。

……最後に14番カムユーサンセット、ゲートに収まりました。係員が離れて――>

 

 ゲートの練習はばっちりである。

 タイミングは抜群。しかしそのあとの一完歩は騎手がうまくバランスを取ってくれないと出負けしてしまう。

 アキさんもタイミングは完璧だった。

 左右の馬より2馬身は前に行けたので、後続に後ろ脚で泥をかけながら一気にラチに寄せる。

 アキさんの手綱は強く引くようなことはなく、むしろやや手綱を余しているような感じだ。

 

「お前やっぱアイコンの子だわ」

 アキさんが嬉しそうにつぶやいたのが聞こえた。

 アキさんが俺の母、セーフティアイコンに乗っていたのは4年前だ。

 まだまだあんちゃんだったころで、レースに出るたび頭の中が真っ白になっていたらしいが、俺の母は逃げも控えも自由自在で、何もしなけりゃ勝手に走るし指示を出せばすぐに従ってくれていたらしい。

 もっとも、それが美談として話題になるほど母もアキさんも勝っていなかったが。

 

 ペースは重馬場を考慮しても遅めなのだが、外から被せてくるような馬がいなかったのでアキさんがさらに手綱をよこした。

 どうも後ろは勝手にごちゃごちゃやってくれているようで、さらにペースを落として最初の3Fを35秒8で通過する。

 新潟とはいえ内回りだし、こうなったらもう勝ったようなものだと思う。

「コーナーで差をつけろ、ってやつか」

 ハミが少し詰まり、アキさんの拳に力が入った。3コーナーの半ば、経済コースを走りながら一気にペースを上げる。

 

 俺もアキさんも、最後の直線での追い比べには自信がなかった。

 どうせ直線最内は荒れ気味なので外に膨らむのも気にせず一気にリードを広げ、後続に5から6馬身の差をつけて直線を向く。

 バラバラにもほどがあるペース配分だが、あのタイミングで加速しなければ脚を余す結果となっただろう。

 

<先頭は6番のジェルディサヴォア、馬場の3分どころまだ4馬身のリードで200の標識を通過、内から追ってくるのは3番ジャストフォーカス。

大外からようやく10番ロックチェッカーが上がってくるがこれは2番手争いまで。

先頭は6番ジェルディサヴォア逃げ切りゴールイン!2番手接戦です。

内は3番ジャストフォーカス、外は10番のロックチェッカー。わずかに内、ジャストフォーカス粘ったかに見えます。

雨のメイクデビュー新潟、6番のジェルディサヴォア堂々の逃げ切り勝ちです――>

 

 

(言うほど堂々ってもんでもないんだけど)

 実況の声を聞きながらウイナーズサークルに向かう。

 今日の勝ちは天気と展開が味方したという、それだけだ。

 

「お見事でした」

 口取りには谷地オーナー自ら立ち会った。

「センセイからはまだ出来上がってないと聞いたんですが、乗った感じどうでした?」

「スムーズに先手を取れましたが、逃げていても無理やり行きたがる感じはありませんでしたね。ただ指示にはすぐ反応したので、やる気がなかった、というわけではありません」

 アキさんがめちゃくちゃな指示出さなければ別に喧嘩するつもりはないのだが、正直今日の乗り方を背中で感じたところでまだまだ信頼しきれる騎手とは言えない。

 減量明けとはいえローカルで2レースしか乗れない評価は間違ってないのだろう。

 

「次は……そうだな、アイビーS行ってみるか。アキさん、10月3週、土曜の東京空けといてください」

 口取りが終わると、オーナーがスマホでカレンダーを確認しながらアキさんに告げ、コウヘイにもセンセイに伝えておいてくれ、と言った。

「え、ええ、乗せていただけるのならいつでも空けますよ」

「とりあえず3歳いっぱいは最優先で頼みますよ。血統的には菊が一番の勝負所でしょうし」

「オーナー、ホントありがとうございます。頑張ります」

 大して仕事がなかったアキさんにとってはデビュー勝ちの馬の主戦になれるのは夢のような話だろう。

 

 あ、それから、とオーナーがスマホをいじりながら続けた。

「大きいとこ狙えるような馬じゃないけど、9月の18日の日曜中山、テンで3つ頼めます?」

「3週間後ですね。3つもですか?」

「そ。全部有田の馬なんだけど、有田は阪神のメインに頼んでてさ。回ってくるだけで終わりそうですが、どうです?」

「もちろん乗らせていただきます!」

 

 こういう会話を聞くのは楽しいものだ。

 いち競馬ファンでしかなかった前世ではこんな関係者専用の場所に入ることなんてJRAのツアーでしかできなかったろう。

 俺がさっき勝ったレースの2番人気でありながら着外に沈んだ馬の調教師が騎手と喧嘩のような怒鳴り合いをしていたり、10番人気で2着に入ったジャストフォーカスに乗っていた若い騎手は主戦の座を射止めたらしく、馬主に嬉しそうに頭を下げていた。

 

 というか、7番人気、10番人気の決着ということは馬連相当荒れただろうな。

 3着のロックチェッカーが1番人気だから3連複はド派手にはつかなかっただろうが、初時計で坂路53秒4叩きだしたのをしっかり押さえている競馬紙はそこそこの印を打ってくれていたはずだし、買ってくれていた人には感謝のボーナスだ。

 

 といっても最近の競馬紙はとにかく印が多く、◎、〇、▲、△(それぞれ本命、対抗、単穴、押さえ)の基本4つに加え、×やら「注」やら☆やら※やら、まあ広い広い。

 でもたった8つじゃないか、と思ったら大間違い。

 ◎、〇、▲は昔からそれぞれ1頭ずつだが、△は2頭か3頭、それ以外でも大体1頭か2頭ずつ印を打たれるから、10頭ぐらいは印をもらえるのだ。

 そらそんな手広く選べりゃ滅多なことでは外れることはないだろう、と。

 

 で、馬としてトレセンやら競馬場やらにいればファンや記者が持っている競馬新聞がチラチラと見えるわけで、俺につけられた薄い印をみたらニヤニヤが止まらなかった。

 ちなみにもっとすごいのが2着に入ったジャストフォーカスで、2人の記者が☆を付けていただけだったな。どこの新聞かは忘れたが。

 

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