キングジョージⅥ&クイーンエリザベスS(3歳以上・GⅠ)
| 馬番 | 馬名 | アルファベット | 性 | 齢 | 負担重量 | ゲート番 |
| 1 | ジェルディサヴォア | GEL DES AVOIRS | 牡 | 4 | 61kg | 5 |
| 2 | ホールドフローターロー | HOLD FLOATER LAW | 牡 | 4 | 61kg | 9 |
| 3 | インディアナセックメイク | INDIANA SEC MAKE | せん | 5 | 61kg | 1 |
| 4 | プロヴォケーション | PRO VOCATION | 牡 | 5 | 61kg | 7 |
| 5 | スーベニアトゥリッチ | SOUVENIR TO RICHE | 牡 | 4 | 61kg | 3 |
| 6 | スイザンクロス | SWISSAN CROSS | 牡 | 5 | 61kg | 12 |
| 7 | チョジュー | COCUGU | 牝 | 4 | 60kg | 4 |
| 8 | デームカルティスロット | DAME CULTUS LOT | 牝 | 4 | 60kg | 6 |
| 9 | ヒステリックコーラル | HYSTERIC CORAL | 牝 | 5 | 60kg | 10 |
| 10 | エキゾチックチャペル | EXOTIC CHAPEL | 牡 | 3 | 56kg | 11 |
| 11 | ポエトリーレター | POETRY LETTER | 牡 | 3 | 56kg | 2 |
| 12 | ブルームフロンティア | BLOOM FRONTIER | 牝 | 3 | 55kg | 8 |
高緯度のイギリスと言えど、今はいちばん暑い盛り。
俺も朝から何度も水をかけてもらい、汗を流してもらっている。
この後のパドックでベストターンドアウト賞を獲る為に、なるべく汗をかかないようにした方がいいだろう。
水を多めに飲んで、なるべく日陰を探しながら馬房を出た。
キングジョージⅥ&クイーンエリザベスSは競馬関係者の盛り上がりとは逆に、イギリスの競馬ファンからの人気はさほど高いレースではない。
馬券発売額で比べれば、最も馬券が売れるのは障害レースのグランドナショナルであり、平地競走に限ればエプソムダービーステークス、2000ギニーステークス、セントレジャーステークスのクラシック3冠が上位だが、そのうちダービーは総合でのTOP5に入っているものの、他の2冠、そしてそれ以外の平地レースは押し並べてTOP10にも入らない。
先月行われたロイヤルアスコットミーティングも、主催が王室である以上、考え方によっては「関係者が盛り上がっているだけ」である。
なにせ観客もレース観戦は二の次で、主な目的はレース前、レース後の飲み食い買い物コンサートライブなど大規模なパーティーであり、次いで王族貴族を一目見ることであるからだ。
レースはあくまで、パーティー間の余興である。
キングジョージウィークエンドもそれに違わず。
やはり観客の目的はコースの裏で行われるパーティーだ。
パドック周回も粛々、というよりどことなく興味が無さそうなムードが漂う。
主役が馬でなく馬主である以上、パドックは馬の調子を診る場ではなく、馬主が「私のコレクションです。良い品でしょう?」と自慢するための場である。
こういう事情もあるので、レースそのものではなく見栄えを競うベストターンドアウト賞連覇は栄誉だった。
実は今日の俺は2番人気である。
今年は3年ぶりにエプソムダービー1着のポエトリーレターが欧州三冠チャレンジに向けて出走しており、彼が1番人気。
それ以外にも、同じくエプソムダービー2着馬のエキゾチックチャペルも出走。
それどころか、エプソムオークス1着のブルームフロンティアまで出走しており、イギリスの威信を取り戻す為に最高の布陣を敷いてきたと言える。
俺が菊花賞からゴールドカップまでで稼いだレーティングはExtended*1での131ポンドで、部門別では歴代トップに立ったが、Long*2では昨年のパリ大賞典で獲得した123ポンドのままである。
実際あの後、キングジョージⅥ&クイーンエリザベスSでは評価は変わらなかったし、それ以降Long区分のレースはGⅡのセントライト記念と京都記念でしか走っておらず、しかも両方負けているのだから当然だ。
今年エプソムダービー1着2着馬にはそれぞれ126ポンドと123ポンド、同オークス1着馬にも119ポンドが与えられており、姓齢のアローワンス分を足したら現役トップランカーのアンベストネヴァーが持っている138ポンドとほぼ横並びなのである。
一方古馬ははっきり言ってニューフェイスがおらず、中長距離路線では最早見慣れた面子が揃った。
欧州では昨年俺達が荒稼ぎをしていた時期から、「今年の3歳(現4歳)世代は弱い」と評されており、その後俺がレコードを2つ叩き出して多少評価を底上げさせたものの、欧州競馬のプライドもあったのだろう、現4歳より3歳の方が「格上」のレーティングになっていたのだ。
UAEの殿下が泣くぞ。
クルーエルロードもスーベニアトゥリッチも彼らの一級馬なんだから。
谷地オーナーがサムエル・マカロフィ氏とステッキでチャンバラをしていた(パドックを眺めていたファンのおじさんが谷地の勝利に3£賭けていた)以外暇つぶしが何もなかったパドックを終え、ようやく馬場に出る。
今日の馬場発表は「Good to Firm」(良馬場をさらに4分割して最もHardから3番目)であるが、全く雨が降らず散水をした上でこの馬場発表なので、手を加えていなければ間違いなくFirmからHardまで届いていたと思う。
アキさんと井野センセイとの話を聞く限り、今日も逃げらしい。
アスコットも3回目となれば、目を瞑ってでも息を入れるタイミングは覚えている。
久々にゲートで威圧してやろうと思ったのだが、鼻につく3歳馬は俺から遠い枠に入ってしまい、それどころか両隣は
流石にセクハラ・パワハラに厳しい時代ではちょっかいはかけられんと、大人しくゲートに収まる。
アキさんの手に少し力が入り、ゲートが開いた。
完璧な反応だった一完歩目、蹴り出そうとした右後脚がズルっと滑った。
そして次の左後脚も滑る。
左右の牝馬に体当たりするわけにもいかず、かといって前脚で突っ張るとアキさんが前方に投げ出されるし、もっと悪ければ靭帯を切りかねない。
本能的に危険を回避しようと、前脚をゆっくり降ろす。
着地は上手くいったが完全な出遅れで、後方2番手のスイザンクロスから3馬身遅れて最後方になった。
その後も全くグリップが効かない。
Firmに近い硬すぎる馬場に蹄鉄がまるで食い込まず、スケートをしているような感覚だ。
悪いことに、慌てると走り方がバラバラになり、人間寄りのステップにもどってしまう。
そうなるとつい
いくらスウィンリーボトムまでの下り坂には慣れているといっても、ブレーキすら効かないんじゃどうしようもない。
アキさんは相変わらず手綱を垂らしてるし。
別に出遅れを挽回しようとペース上げてるわけじゃないんだよ。
馬群に追いつけそうなペースだからって勘違いしてやがる。
後方2番手を走っているスイザンクロスをスウィンリーボトムの手前で交わし、ターフのコブに突っ張るようにしてギリギリブレーキをかける。
オーバースピードでコーナーを曲がると、両後ろ脚がぶつかり、蹄鉄がガチンと音を立てた――。
ジェルディサヴォアが大出遅れをかました以外は、各馬予定どおりのペースで走っている。
唯一の逃げ馬であるジェルディサヴォアが最後方を走っているとはいえ、もともとあのバカペースの大逃げに付いていくだけ無駄なので、10馬身先にいようが最後方にいようが大して変わりはないのだ。
最初のコーナーを抜けてオールドマイルコースに入ると、後方に控えるスイザンクロスとチョジューの外からジェルディサヴォアが上がっていく。
チョジューの騎手は明らかに抑えが効いていない様子のジェルディサヴォアと上田騎手を横目で見て、ニヤリと口角を上げた。
オールドマイルコースでもジェルディサヴォアはまだペースが上がったまま、中段後方のエキゾチックチャペルの前に出た。
プロヴォケーションの後ろに馬体をねじ込み、ようやく落ち着くかと思われたが、そのままプロヴォケーションとポエトリーレターの隙間に首を突っ込んでいる。
ジェルディサヴォアのあまりにも乱暴なレースぶりに、ポエトリーレターの騎手が肘打ちをカモフラージュするように手綱を振るう。
前がごちゃつき始めた中、エキゾチックチャペルの騎手は下の方からガチン、という音が何度も繰り返し聞こえているのが気になっていた。
最後のコーナーの手前あたりで、ガチンという音がキーンという音に変わり、エキゾチックチャペルの目の前で土が舞った。
ジェルディサヴォアが強くターフを蹴り上げたのだ。
次の瞬間、何かがキラッと光ったと思うと、エキゾチックチャペルが大きく首を振って減速した。
エキゾチックチャペルはそのままコーナーを曲がらず、ターフを横切るように逃避していき、外ラチに激突、競走を中止した。
上田は、ジェルディサヴォアがこんなにも落ち着かないペースで走っている原因を探っていた。
馬銜や手綱の当たりを変えてみたり、鐙に乗せる足の角度まで少しずつ変えてみても好転しなかったが、オールドマイルコースの上り坂に差し掛かり、馬群の中に誘導するとようやく落ち着く。
ひと息ついたのもつかの間、上田の顔が曇った。
明らかに走りのバランスがおかしくなっている。
(止め……るか?)
上田が悩んでいるうちに最後のコーナーに差し掛かると、脚の運びがもとに戻った。
蹄鉄を脱いだらだいぶ走りやすくなった。
釘で打ち付けられている蹄鉄を外すには、蹄同士をぶつけて抜き取るしかない。
靴のカカトを踏んで脱ぐようなものだろうか。
しかも走りながらであるので余計に苦労した。
左後ろ脚の蹄鉄を脱ぐときに後ろの馬の方に飛ばしてしまったけど不可抗力だろう。
蹄鉄を脱ぐと、スパイクのようにターフに突き刺さるグリップ力はなくなったが、逆に柔らかい蹄でターフを掴む事が出来るようになる。
両後ろ脚の蹄鉄を落として準備は整ったが、今まで無駄に体力を浪費した分、脚が溜まっていなかった。
馬群の中からなのでちょっと見づらいが、先頭はまだホールドフローターロー。
あいつも昨年のダービー3着馬の意地もあるのだろうか、スーベニアトゥリッチと並ぶようにしてポエトリーレターの前をきっちり塞いでいる。
じゃあ俺も協力してやるか。
ちょうど俺のすぐ隣、内側にポエトリーレターがいる。
やや不安が残るが、俺もペースを上げていく。
後ろの
プロヴォケーションを壁にして外に弾かれないようにしながら、ポエトリーレターを少しずつ内ラチに押し付けた。
斤量差でブルームフロンティアが来るのも面倒だが、外はお姉様軍団に任せよう。
デームカルティスロットとチョジューがきっちりマークしているはずだ。
残り1.5ハロン、大混戦になっており、俺達3頭の圧に負けた1番人気のポエトリーレターは脱落。
俺の外にはまたプロヴォケーションがいるので、スーベニアトゥリッチかホールドフローターロー、脱落しない方の後ろで待つしかなくなった。
まあ、実力差で間違いなくスーベニアトゥリッチだろうな。
程なくしてホールドフローターローが脱落。
スーベニアトゥリッチの後ろから車線変更、ホールドフローターローの前に出て、ようやく脚を伸ばせる。
ギリギリまで動けなかった分、脚の体力は復活した。
スーベニアトゥリッチには適当に何回か馬体をぶつけてればトラウマ発症するって、アンベストネヴァーが自慢気に語っていたので俺もそれに倣う。
向こうが左手前で寄ってくるので、こっちはアキさんの左ムチに合わせて寄っていく。
スーベニアトゥリッチの脚が急に止まり、俺が前に出た。
残り100ヤード、問題は。
大外で完全で抜け出しているお姉様方2頭。
――届くわけがなかった。
<今年もここ、イギリスを始めとするヨーロッパ競馬も最盛期を迎えようとしております。夏から秋にかけての古馬GⅠ戦線。
欧州三冠へのセカンドステージは、キングジョージ
昨年このレースを制した日本のジェルディサヴォアが連覇を目指して、枠入りを待っている状態です。
今年は欧州三冠への挑戦権を持つイギリスダービー馬、ポエトリーレターが出走。
さらには同じくダービー2着馬のエキゾチックチャペル、オークス1着のブルームフロンティアまでが出走しており、世界を代表する3歳勢の挑戦を受ける古馬たちという構図。
枠入りが始まっております。
1番ゼッケンのジェルディサヴォア、例によって最初にゲートに誘導を受けております。5番ゲートからの発走。
続いて内ではダービー馬ポエトリーレターもゲートに収まります。
出走馬は12頭、全馬収まって、スタートしました。
おーっと、ジェルディサヴォア大きく立ち遅れました。
先行争いは、じわっと外からホールドフローターローが行くでしょうか、1馬身から2馬身のリードを取って先頭。
2番手スーベニアトゥリッチ、そして、欧州3冠に挑んでいくポエトリーレターが3番手。
その後ろは2馬身差があって、プロヴォケーション、外に並んでインディアナセックメイク。
1馬身差があってデームカルティスロット。その内、エキゾチックチャペル追走です。
外にいるブルームフロンティアと見るようにしてヒステリックコーラルが内から。
2馬身差があってチョジュー、さらにはスイザンクロス、出遅れたジェルディサヴォア2馬身差で最後方です。
長い下り坂、スウィンリーボトムに向かって、ようやく後方集団に追いついたジェルディサヴォア。脚を残せるかどうか、今後方3番手を走っています。
最初のコーナーに差し掛かりますが、ホールドフローターローが逃げて1馬身から2馬身のリード、その後ろ並んで行きます、内からポエトリーレターと、スーベニアトゥリッチ。このあたり先団3頭。
少し空いてデームカルティスロット、内に上がってきたジェルデイサヴォア、ここで好位置に付けました。
半馬身外からブルームフロンティア、あとはエキゾチックチャペルがインコース外目。1馬身差でヒステリックコーラル。
そして2馬身離れて後方は2頭、チョジューとスイザンクロス、2頭ピッタリ馬体を合わせて進んでいます。
ここからまた直線、長い上り坂が続くところ。ホールドフローターローのペース、リードは2馬身。
スーベニアトゥリッチが2番手、そしてポエトリーレター2冠なるか3番手。
そして、そこに並びかけていったジェルディサヴォア、ここまで上がってまいりました。
プロヴォケーションがその外追走、インディアナセックメイクと、このあたりだいぶ混戦状態となって、少し後ろの外目にデームカルティスロットがいます。
その後ろヒステリックコーラルが少し順位を押し上げて、さらにはブルームフロンティアとチョジュー。
最後方は1頭スイザンクロスとなって、まだ馬群はやや縦長でしょうか。
おっと、後方で……1頭外に逸走していきます。
これは……10番のエキゾチックチャペル。大きく馬群から外に離れていきました。競走中止です。
さあ最後のコーナーを曲がって、長い直線の攻防に入ります。
先頭まだホールドフローターロー、並びかけて行ったスーベニアトゥリッチ。ジェルディサヴォア内から3番手の一線。前が開くかどうかプロヴォケーションと並んで前を伺う。
ポエトリーレターは内で藻掻いている、ちょっと伸びがないか。
残り400m、外から足を伸ばすデームカルティスロット、大外から急襲7番のチョジューが一気の追い脚。
内からスーベニアトゥリッチが抜けてくる。ジェルディサヴォアも前に迫ってくるが、先頭デームカルティスロット、外からチョジューが追い込む。
牝馬2頭の叩きあいになった、あと200m。
チョジューが抜け出した。
デームカルティスロット2番手。内からジェルディサヴォアこれは3番手まで。
チョジューが先頭。チョジューが先頭。
チョジューが先頭でゴールイン!牝馬のチョジューがやりました!
2着はデームカルティスロット、そしてジェルディサヴォアが3着の入線。
最後は馬場の真ん中牝馬2頭の攻防になりましたが、最後突き抜けたチョジュー1馬身差で差し切りました。
連覇を狙った日本のジェルディサヴォアは、スタートの出遅れが響いたか3着まで。
そして3冠を目指したポエトリーレターは最後の直線伸びませんでした。
アスコットより、キングジョージを実況でお送りいたしました>
引き上げてくるジェルディサヴォアと上田騎手を、谷地オーナーと井野調教師が出迎えた。
「アキ、何があった?」
上田はこの後後検量があるので、井野は手早く聞いた。
「ちょっと脚をみてやってください。オールドマイルに入ってから2つ目のコーナーまで走りがぎこちなくて。止めようかとも思ったんスけど、コーナーに入ったら普段通りに戻ったんで、そのまま行きました」
「戻った?」
「はい。で、故障とは違うなと思ったんで」
「わかった。見てみる。検量、行って来い」
上田が検量室に入っていくと、井野はコウヘイに曳き綱を付けさせ、ジェルディサヴォアの舌縛りを解いた。
顎の下の結び目を解くと、ジェルディサヴォアは勝手に口を開けるので包帯を外しやすい。
あっ、と谷地がジェルディサヴォアの後ろ脚を指差した。
「これ、後ろ両方落鉄してますねえ」
井野が横に回ると、ジェルディサヴォアは井野に蹄を見せるように器用に右後ろ脚を上げた。
「こりゃ馬房に入れる前に消毒して打ち直しですね。アキの奴は後半になって走りが戻ったって言ってたんですけどねえ……。むしろ全部落ちてるじゃないか」
手綱をコウヘイに任せ、井野は(通訳の)谷地を伴ってBHAの裁決委員の元を訪れ、レース後の薬物検査の対象になっていることを確認すると、先に蹄の消毒と蹄鉄の打ち直しを済ませてよいか尋ねた。
職員に直接ジェルディサヴォアの様子を見せると、結果はOK。
直ちに洗い場に連れていき、蹄の泥を落としたあと消毒をし、装蹄師を呼んだ。
既に蹄鉄はどこかに行ってしまったので新しい蹄鉄を作るしか無かったが、サムエル・マカロフィ氏が自分の牧場から連れてきた装蹄師に依頼する。
昨年マカロフィ・ファームで放牧していたときにもジェルディサヴォアの蹄鉄を打った職人なので、作業は手早く終わった。
例によって時間がかかる尿検査をのんびりと待ちながら、井野は上田と話していた。
「本当に走りは戻ってたんか?」
上田も思い出すように宙に目をやりながら答えた。
「ええ。おかしかったのは1つ目のコーナーを曲がってから、2つ目のコーナーの手前までッス。後ろ脚で跳び跳ねる感じで――2つ目のコーナー手前で手前が替わってからは比較的スムーズで」
「ちゅうことはちょうどチャペルがバカづいた辺りまでか」
「後ろだったんで、ジェルに影響は無かったと思いますけどね。……あと、最後手前替えるときに結構強く蹴ってましたわ」
井野はしばらく顎に手をやって考えていたが、もしかしたら、と呟いた。
「ワザと蹄鉄抜いたのかもしれねぇな。スタート前からズレていたとかそういうのかもしれん」
「今日馬場硬すぎて、(馬場)入りからだいぶイライラしてましたからね。何回か踏み込んでたし」
「アスコットで硬いってのもなあ……。秋はジャパンカップ試そうと思ってたんだけど、無理か?」
「裸足で走らせたほうがマシっすね。春天のときはゴールドカップと比べてもメッチャ酷かったですし」
井野はそうか、と呟き、イライラしている尿検査のスタッフを手招きした。
特に用事があるわけではなかったが、スタッフが戸口の方に歩きだした瞬間に排尿の音が聞こえた。
こうしないとジェルディサヴォアは尿を出さないのだが、薬物検査のスタッフは不正防止のため目を離せないから海外の尿検査は長いのである。
こと、欧州で目を疑うようなパフォーマンスを見せることもあるジェルディサヴォアはドーピング検査を毎レースのように受けさせられており、立会人がイライラするのも、それによってタイムスケジュールがおかしくなるのもいつものことであるので、井野が適当なところで立会人の目をそらさせる必要があった。
尤も、これがジェルディサヴォアのパフォーマンスへ悪影響をもたらすことは極めて少ないこともわかっているので、井野は敢えて長引かせてライバル馬を待たせ、逆に相手の馬に悪影響を与えている。
これも駆け引きの一つなのだ。
尿検査が終わるとすぐジェルディサヴォアを馬房から出し、馬運車に乗せる。
これからとんぼ返りでニューマーケットに戻り、モーリッシュとシビアレコードに帯同させなければならないからだ。
ブリティッシュ・ミッドサマー・ボーナスの100万£を逃すことは確定したので、シビアレコードには何としても3着以内に入ってもらい、25万£は手に入れなければ示しがつかない。
最高のコンディションをつくるためにも、あまり兄から弟を離してはならないのだ。
ニューマーケットに戻った翌日、上田と井野はジョッキークラブの会議室で全報スポーツ・寺尾記者の取材を受けていた。
寺尾の取材だけならヒルストン厩舎の事務室でも構わないのだが、今日は新聞だけではなく、JRA向けのインタビュー動画も撮っているので、そこそこ上等な一室を借りたのである。
代表質問者はそのまま寺尾だ。
しかしカメラも回っているので、いつものように馴れ馴れしく話せないのは面倒であった。
「では先に、上田騎手に質問をさせていただきます」
寺尾がまるで初めて配属になった新人記者のように質問を始めた。
「ジェルディサヴォアにしては珍しく大きな出遅れとなりましたが、レース前から何か予兆はあったのでしょうか?」
「ゲートの出遅れに関しては特に予兆はなかっ……ありませんでしたね。むしろゲート内ではいつも以上にリラックスしていた感じで、パドックでもイレこんでいる様子もなく」
上田も雑に回答をしそうになったところをギリギリでこらえる。
「ドバイでは最後方からの競馬もしておりましたので、そのまま追込になるのかと思いましたが、早い段階で先団まで押し上げた意図などあれば教えていただけますか?」
「止まらなかった。それだけです。特に促しても抑えてもいませんでしたが、とにかく前に進んでしまったようで」
「折り合いがつかなかったという感じですか?」
「いや、ジェルも止まろうとしてる感じはありました。どっちかと言えばブレーキが壊れたような感じで」
レース展開に沿うように寺尾の質問は続く。
「コーナーを抜けてようやく落ち着きましたね」
「上り坂でようやくスピードが落ちたに過ぎません。まあでも、あのスピードでコーナーを回り切れたのはジェルのコーナーワークの上手さでしょう」
「そこからようやく脚を溜められた格好になりましたが?」
「むしろそこが問題というか、走り方がだいぶおかしかったんですね。止めようかと思ったぐらいで」
「故障ですか?」
「いや、どうもそこで落鉄したようで。というか、勝手に蹄鉄脱いだみたいなんですわ。両後ろ脚の鉄を外したら走りも元に戻ったので」
「勝手に脱げるものなんですか?」
「さあ……?センセイ曰く普段から厩舎でも落鉄するみたいなので、外し方憶えてるんじゃないですか?」
寺尾も菊花賞の時の落鉄を思い出して、ああ、と頷いた。
「やはり落鉄の影響は大きかったんですか?」
上田は首を横に振った。
「むしろ脱いでからの方が走りやすそうでした。相当違和感あったんでしょうね」
「最後は抜け出すのに苦労したと思いますが、落鉄がなかったら勝てそうでしたか?」
「無理ですね。前半で無駄に脚を使ったのもありますし、むしろ初めから蹄鉄なしで走った方がチャンスあったかもしれません」
「やっぱり出遅れが響きましたか」
「はっきりしているのは、今回の馬場はジェルにとって硬すぎたみたいですね。ゴールドカップの稍重がちょうどよかったぐらいで。
上田にはジョークセンスがないようで、寺尾もハハハと乾いたような笑いを浮かべただけであった。
「では続いて井野調教師に」
寺尾が井野の方に話を振ると、カメラが井野をアップに写した。
「まず、今回のレースの総括からお願いできますか?」
「一番は馬場です。ここ1ヶ月、イギリスではロクに雨が降っていなかったので、ほとんどカチカチの馬場で、水を撒いたにせよ人工的な措置ですから、深いところでは硬さが残っていたんでしょう」
「レース後の様子についてはどうでしたか?」
「いかにも不完全燃焼といった感じでした。3着がほぼ確定してからアキも大して追ってないですし、ジェルが出遅れた分全体的なペースも上がらず、中だるみでしたからね」
「この後、もう一回こっち(欧州)で走る予定はありますか?」
「いえ、検疫もありますし、一旦帰国します」
「今後の見通しに関しては?」
「もともとジャパンカップを考えていましたが、今回の敗戦で今後のプランをいったん白紙にしたところです。アスコットで硬すぎるとなれば、府中の芝は下手すれば故障しかねないですから」
「中山は得意ですが、冬の有馬記念直行なども?」
「いえ、オーナー次第ではありますが――もう一回検疫を挟んで凱旋門賞とか、最悪ダートも考えたいなと思っています。昔の名古屋グランプリ、2500m、走らせたかったですねぇ……」
井野が顔をゆがめるように笑った。
次回30日予定
昨年の凱旋門賞(26話)の馬柱を見ていただければわかる通り、チョジューとデームカルティスロットはアイルランドの馬