シリウスS(3歳以上 GⅢ)
ジェルディサヴォアがシリウスSに登録したことが広まると、競馬界隈は一気に騒がしくなった。
たたき台だけでなく、本格的にチャンピオンズCまで目指していることを井野が公表し、他陣営、特に関東の陣営は慌ててJBCやマイルチャンピオンシップ南部杯へ舵を切った。
ジェルディサヴォアのダート適正は美浦の調教師ならよく知っている。
普段からBコースやEコースで調教をしており、小回りも問題なくタイムも当然GⅠ超級。
今まで芝を使ってくれていただけに安心しきっていたのだが、キングジョージ後のコメントでいよいよ危ないぞと危機感を抱えていたところであった。
「アキ、もういいわ。勝手に走らせてきてくれ」
井野調教師が顎をしゃくった。
井野厩舎にはダート馬がいなかったので、併走を頼もうと各調教師に電話をかけまくったのだが、見事に全員に拒否されたのである。
「Bコースで1周攻め切りますわ。本気のコーナーワークも見ておきたいですし」
井野も頷いて、調教スタンドへ向かった。
4歳の夏を超え、ようやく仕上がる気配が見えて来たジェルディサヴォアの馬体重は532kgまで上昇し、いよいよダート馬の馬体になってきている。
これでアスコットに強いのだからこれまた規格外ではある。
尤もエネイブルのように、500kgを超える馬体でも凱旋門賞連覇をするような馬もいないこともない。
Bコースで軽く半周ほど流したあと、上田騎手が気合をつけてホームストレートを通過する。
一気に上がったペースを落とさず1コーナーに突っ込むと、狭いコーナーを一気に駆け抜けていった。
Bコースは1周1600mだから、半周のウォーミングアップ分を足しても2400m。
やや足りないが、向こう正面でようやく筋肉がほぐれてきた。
アキさんが気合をつけてくるので3コーナーに突っ込みながらさらに加速。
砂を跳ね飛ばしながら4コーナーに入ったが、これはやり過ぎだった。
急カーブで馬体を傾けすぎてしまい、アキさんの右足が鐙から落ちたようだ。
背中にドスンとアキさんの尻が落ちる衝撃があり、手が首にかかった。
急いで減速し、馬体を捻るようにして顔を思いっきり右に向ける。
アキさんが右側に向けて落ちそうになっているので、首をまっすぐにすると滑り落ちて内ラチに激突しかねないし、逆に左に首を振れば遠心力で吹っ飛んでいってしまう。
今にもしがみついてる左腕が離れそうになっているアキさんの身体に首を巻きつけるような格好で少しずつ回転しながら、4コーナーを抜けた辺りで停止した。
ふう、と口から一息ついて、その場で脚を畳んでゆっくりと伏せる。
アキさんが無事に降りて手綱を握り直したので、心配をかけないようにすぐに立ち上がった。
俺がここから動かなければ放馬騒ぎにはならないので、アキさんが回復するまで待機。
程なくして井野センセイがスタンドから走ってきた。
「大丈夫か!?」
井野センセイの声に、アキさんが砂を払いながら右手を上げてOKの合図をだした。
俺も、
「ダイジョウブダイジョウブ」
と言ってみたのだが、まだ発音が覚束無い上に舌縛りをされているので、
「ヴーヴー」
といった感じの音しか出ない。
首を2回ほど縦に振ってみたが、そもそもこれは馬がよくやる動きなのでやっぱり伝わらなかった。
「とりあえず今日はここまでだ。一応検査するぞ」
井野センセイが俺の脚や首を軽く触りながらアキさんから手綱を受け取った。
落ちてはいないからアキさんも怪我はしてないと思う。
唯一心配なのが左腕の脱臼だが、グルグルと回していたから恐らく大丈夫だろう。
「あそこまで倒れるとは思わなかったわ」
アミランドの調教に出て行った進藤騎手を見送った後、一足先に厩舎に戻っていた上田が、ジェルディサヴォアを馬診から連れて帰ってきたコウヘイにボヤいた。
「アキさん乗せてBコースで攻め切ったことないですもんね。大体最終でBコース入るときはガチで体調ヤバい時ですから、流すだけだし。ダービーの時とか」
「お前あれにずっと乗ってんの?」
「追馬場で急に駆けやがったときの話します?」
追馬場は準備運動や調整用の馬場で、当然キャンター以上はご法度であるし、そもそもやらない。
準備運動を終え、馬場に向けてジェルディサヴォアを誘導しようとしたところ、急にコウヘイを無視して1周300m程度の狭い追馬場で2周かっ飛ばしやがったのである。
「そら気分はライダーだろうなあ」
「ライダーと言っても馬じゃなくてバイクの方っスよ。茂木で走ってるとかそういうやつっス」
なおコウヘイはジェルディサヴォアを止めようと上体を起こして手綱を引っ張っているので、バイクでいうリーンアウトの体勢でコーナーに突っ込む形となり、基本的にリーンインになるオートレースとは逆の体勢であった。
GⅠクラスの馬は南部杯かBC遠征に向け調整中。
そんな時期に行われるシリウスSは、GⅢ好走組やOP上位クラス程度の陣営がJBCに向けた前哨戦に選ぶレースで、面子としてはそこまで揃うことはない。
言ってしまえばGⅢ連外クラスばかりで、特に息が長いダート勢においては、2,3年前に重賞で1着を取ったものの、その後は着外を繰り返したような高齢馬の出走も多いレースである。
もちろんジェルディサヴォアも初ダートということで、何ならダートとしての実績はメンバー中最弱である。
にもかかわらずトップハンデ60.0kgという負担重量になっているので、オッズは6.2倍の割れた3番人気評価であった。
日本と比べて斤量差が大きい欧州で何戦も走っているので60kgのハンデは影響がないという声もあるが、ジェルディサヴォアが60kgを超える斤量で走ったのは前走のキングジョージⅥ&クイーンエリザベスSだけであり、しかもそのレースは負けているという不安は残っているのだ。
ジェルディサヴォアにとってはキャリア初のGⅢクラスである。
またジェルディサヴォア以外は大したお手馬がいない鞍上の上田にとっても、セーフティアイコンの引退レース、函館記念以来*1となるGⅢだった。
返し馬の塩梅も良く、軽く流しただけなのに砂が舞っている。
そして何よりジェルが舌遊びをしていないのも好感触だ。
実際は、砂を浴びるのは気にしないが口に入るのは嫌がっているジェルディサヴォアが、ガッチリと口を閉じているだけである。
残念ながらそのポジティブな面はレースが始まると同時に終わってしまった。
好スタートから2馬身のリードを取って端を切ってしまえば砂を被る不安はないので、1コーナーを回る際にはフーッと口から小さく息を吐いていた。
今回のレースはあくまで前哨戦で、井野調教師から受けた指示は
「コーナーの処理と末脚の距離を測りたい」
というものであった。
阪神競馬場のダートは芝内回りコースのさらに内側にあるので、3コーナーがほぼ直角になっている。
当然こんなところでペースを上げたら曲がりきれないので、逆に逃げ馬としては先に3コーナーを抜けて、後続がゆっくりと回ってくる半直線で息を入れるのがセオリーだ。
ところが、ワザとここで加速するバカがいたのである。
上田はガッチリ押さえているのに3コーナー手前で勝手にペースを上げ、一般的に20°ぐらいしか傾けない馬体を40°近くまで倒して、軽いダートなのをいいことに後ろ脚を外に滑らせながら3コーナーに飛び込んでいく馬鹿が。
ジェルディサヴォアはなまじ人間の知能を持っているせいで、
「これぐらいなら出来るだろう」
と、初ダートということもあり、あれこれ試しながら走っている。
人としては間違っていないが、家畜としては余計な行為であった。
3コーナー手前での急加速を感じた上田は、追い切りの時のように落ちるものかとすんでのところで身構え、身体を内に倒した。
(よし、アキさんもわかってるじゃん)
ヒャッホー!と叫びたくなる勢いで3コーナーに飛び込むと、オートレーサーのように、背中の上のバランスがさらに内側に倒れていくのを感じた。
調子に乗った俺はこのまま加速し続けて4コーナーに向かおうとさらに体を深く倒していく。
ハイベスト蹄鉄のおかげで若干蹄も傾けやすくなっていた。
しかし、調子に乗って気分良くなっていた俺も、3コーナーでバランスをとれて安心しきったアキさんも、大切なことを忘れていた。
手綱はハンドルではなかったのだ。
バイクではハンドルを握る両手とステップに乗せた両足の4点でバランスを取るのに対し、騎手は鐙に乗せている両足の2点だけで乗っているのである。
遠心力に耐えきれず、左の鐙が強く外に振られると、アキさんの左足が少しずつ離れていき、またしても落馬した。
やばい、と、今回もアキさんが投げ出されないように、何とか首を巻き付けて時計回りに回り込みながら急減速する。
アキさんは吹っ飛ばされずに済んだが、身体を支えるために右足を内ラチに乗せてしまったので、落馬扱いで失格になった。
一応後続勢が俺の横を通り過ぎるまでアキさんの横で壁になる。
すべての馬が通過したあと、救急車と馬運車が内側を回って到着した。
俺もアキさんも多分ケガはないのだが、落馬の瞬間、カメラは離れた後続に向いており、アキさんがバランスを崩したのはライブ映像ではわからず、騎手ははっきりと落ちていないのに俺が急に顔を上げて止まったので、誰もが脳内に“予後不良”の文字が浮かんだことだろう。
スタンドもまだどよめいている。
《お知らせいたします。阪神競馬第11レースで、12番ジェルディサヴォアは、4コーナー手前で他の馬に関係なく騎手が落馬、競走を中止しました》
当然失格は確定しているが、放馬ではなく落馬なので、ここからアキさんを乗せて検量室まで帰る、ということはできない。
面倒だがアキさんに曳かれて、ゴール前の地下馬道から走って出てきたコウヘイに引き継いでもらう。
4コーナーまで行っていれば楽だったのに、3コーナーからだと長かった。
「アキさん!大丈夫ですか!」
俺がアキさんに曳かれて歩いてくるのを見て大きな異常はなさそうだと判断したのか、ひとまずほっとした顔でコウヘイが手綱を受け取った。
「この前と同じやつだよ」
アキさんがため息をつきながら答えた。
「ああ……。なるほど。これ下手したら調教再審査では」
アキさんは係員が近くにいないことを確認してから、声を潜めた。
「
地下馬道に入る直前には、観客がカメラを向け、
「大丈夫かー!」
と、声を上げていた。
検量室前には井野調教師が待っており、寺尾記者もカメラマンを引き連れて近くにやってきた。
なお今日は谷地オーナーは仕事で不在である。
「アキ、何やってんだ」
「すいません。この前と同じやつです」
だよなあ、と井野が俺の口から包帯を外し、一回り様子を見ている。
「寺尾さん、
センセイとしては、正式な採決が出るまであれこれ書かれたくはないだろう。
軽度なミスであるが、俺は去年平地調教注意*2を受けているので、2度目となれば強制的に調教再審査になるかもしれない。
アキさんもさすがに騎乗停止にまではならないだろうが、戒告か過怠金の制裁は食らうだろうから、平地調教注意か調教再審査になって俺に原因があると判断されれば、アキさんへの制裁は減免されるのだ。
【全スポ 9/26 20:00】
~(シリウスS)3番人気ジェルディサヴォアは落馬中止~
初ダートに挑んだジェルディサヴォア(牡4)は3番人気に推されたものの、3コーナーを先頭で通過する際に騎手・上田秋信が落馬、競走中止となった。
出走馬14頭中唯一の60kgトップハンデを与えられたが、同馬が活躍した欧州では60kgを越える負担重量は珍しくなく、前走キングジョージでは61kgながら3着と好走していることからもハンデの影響は考えにくい。
管理する井野師は「小回りが得意だったこともあり、ダートの急なコーナーで馬の方が調子に乗った。あれは(落ちても)しょうがない。中京の3コーナーは比較的緩いから大丈夫。ダートは合っていた」と、楽観的な様子。
なおこの件で、ジェルディサヴォアは平地調教注意の制裁。
〜 〜
「Bコース2周、いってこい」
シリウスS翌週の土曜日早朝、眠い目を擦りながら厩舎に顔を出した上田を乗せて、ジェルディサヴォアが朝調教に出かけた。
調教再審査は免れたが、左回りが使える土日のうちに馴致をしておこうということで、普段は進藤に任せている朝調教に、調教料を支払ってフリーの上田を引っ張り出した。
1周目、3コーナーで落馬。
トレセンにはパトロールビデオのような全方向からのカメラはないが、30°オーバーは傾けすぎである。
例によってジェルディサヴォアが勝手に上田騎手を支えるように脚を止めたので、井野もわざわざ駆けつけなかった。
しばらくするとジェルディサヴォアが少し脚を折って背中を低くし、上田が再び跨がった。
4コーナーからリスタート。
また少しずつペースを上げて1周し、問題の3コーナー。
落馬こそしなかったが、上田が何度か鐙を踏み直してバランスを取っている。
予定は2周だが、一旦ペースを落とした後に再加速し三たび1コーナーに飛び込む。
1,2コーナーを抜けて、3コーナーへ突入。
今度はバランスを保ったまま通過できた。
上田が勝利したかのようなガッツポーズをして、早目に馬を止める。
井野も満足そうにひとつ頷いた。