ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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アイビーS(2歳·L)


府中嫌いの初府中

 

「――ええ、オーナーが直々に」

 

 新潟競馬場の厩舎に戻るやいなや、コウヘイ(浩平)が井野調教師(センセイ)に電話していた。

 意外と長電話になっている。指示を受けている感じではなく、むしろアイビーSの出走についていろいろ井野調教師の方が愚痴を言っているようだ。

 まだ脚元が弱い中、府中(東京競馬場)に行くのは不安が大きい。そして不安材料は単純に硬い馬場だからというだけではない。

 

「んなこと俺らに言われてもどうしようもないよな、ジェル」

 面倒くさい電話を終えたコウヘイがニンジンを一本突き出した。

 なんとなく皮をむいていないニンジンというのは一口目を食べるのに一瞬躊躇してしまう。

 口に入れてしまえば馬の感覚に戻ってバリバリ食えるんだけどなあ。

 

「オーナー、アイビーはさすがに無理ですよ」

 数週間後、陣中見舞いに顔を出した谷地オーナーと井野調教師が、俺の馬房の前で話し込んでいた。

「王道と言えばまあそうなんですけどね……」

「フルゲート抽選になることはないと思いますし、一旦使ってくれませんか」

 

“府中千八展開不要”と言われているとおり、東京の1800mは誤魔化しがきかないコースとされ、現在の実力を知るにはちょうどいいコースであることは間違いない。

 

「馬体が全然出来上がってないんですよ。まだ踏み込みも甘いですし。賢い馬ですから、新潟は馬場を上手く使ってくれましたが、府中や阪神ではちょっと……」

「他の馬との力関係を知っておきたいんですよ。アイビーSのあと、2歳は全休でも構いません」

 

「まあオーナーの意向ですから、こっちとしちゃ意固地にはなれませんが……アイビーSを使うと朝日杯(朝日杯FS)やホープフルはまず無理だと思いますが、本当にいいんですね?」

「ええ、構いません。そもそもそこまで仕上がりが早い馬ではありませんしね。年明け2月ぐらいからでいかがですか?」

「いいでしょう。冬の間はどうします?一旦牧場に戻しますか?」

「その方がいいとセンセイ(井野調教師)が判断されれば、ですね。外厩調整にするにしてもうちのトレセンで行います」

「わかりました。ではレース終わったらすぐお返しします。その予定で進めますね」

 オーナーは去り際に飼葉桶に切った梨3切れ分を入れてくれた。

 甘味より歯ごたえと水分が多い高いやつだこれ。

 

 とりあえずアイビーS走ってみろ、というふうに目標レースが決定されたが、東京のレースに向けて坂路をメインでこなすかと言えばそうでもなく、井野調教師はウッドコース(Dコース)ポリトラックコース(Cコース)をメインに、オーバーワークにならないようにじっくり走らせた。

 たまにコーナー慣れさせるために送り込まれるダートBコースでの調教は楽しい。

 ここで本格調教する馬は滅多にいないので、狭いながらも気楽に走り込める。

 自動車教習所で急なカーブから加速していくのが楽しかったのを思い出した。

 

 久々に坂路に送り込まれたのはアイビーSの2週間前、いわゆる2週前追い切りになってからである。

 流石に10月も末になってきたので、半地下の暑さは気にはならない。

 

 

「やっぱイマイチだよなあ……」

 

 タイムの表示モニターを見上げた井野調教師が呟いた。

「井野センセイ、ジェルこれで使えるんですか?」

 井野調教師の隣には素早くメモを取っているベテランの記者が立っていた。

 

「あ、寺尾さん聞こえてた?まあ……いい兆しはないわな」

「聞こえるも何も、新馬の勝ちっぷりを見たらアイビーも軸でしょ。何人の記者が聞き耳立ててると思ってるんです。穴党の私としちゃつまらんですけど……」

「何が穴党よ、ジェルの新馬戦、2着馬ノーマークで20万馬券逃したんでしょ。ジェルはトラックだとタイム出るんだけどねえ……坂になるとこれよ。特に終いの400が遅い」

「単勝はしっかりとったって言ったじゃないすか……。で、それですよ、まだ府中は無理じゃないんですか。私は印打てませんよこんなんじゃ」

「そらあんたに印打たれるようじゃ将来は見込めんわなあ」

 

 クリップボードを持って調教スタンドを後にしようとした井野調教師を、寺尾記者が階段手前で呼び止めた。

「あ、最後に一つだけ、アイビーSの後、2歳GⅠ行くんですか?」

 井野調教師が階段の半ばで足を止めた。

 

「ダメだね。2歳は全休だよ」

 

「どうもありがとうございます」

 寺尾記者は、スタンドに戻るとジェルディサヴォアの時計表示をじっと見つめていた。

 

 

~アイビーS直前診断~

(☆は5つが最高評価)

……

………

【ジェルディサヴォア】

タイム…☆☆

馬体……☆

 前走の新馬戦では圧巻の逃げ切りを見せた同馬。

 コズミで攻めてない中あのパフォーマンスは素質の高さを見せるものだったが、2ヶ月を挟んでも馬体は整わず、追い切りのタイムも平凡。

 誤魔化しの効かない東京1800mにおいて好材料なし。

……

………

<関東・寺尾記者>

 

 

「すまねえアキ(秋信)、全然仕上がらんかった」

 井野調教師が飼葉桶を覗き込みながら言った。

 

「これは下手に追っても怖いですね……オーバーワークにならないように回ってくればいいですか?」

「んだなあ……オーナーも無茶しやがって」

「行くだけ行かせて着拾えれば?」

「だな。すまねえなぁ、勝ち星欲しい時に」

「いえいえ、とんでもないです。ここでジェル壊したら俺の未来も無くなってしまいますよ」

 

 

 飼い食い(食欲)は悪くなかった、糞尿も悪くない、でもどうにも馬体が戻らなかった。自分でもやつれ(ガレ)ている感覚が残っている。

 

 東京競馬場の厩舎でハミを噛ませられてもスイッチが入らない。

 うむ、ここまで来たら原因は分かる。根っからのサボり癖だ。

 どうせ勝てない東京1800mを走りたくないという意識が、やる気のなさに現れていた。

 

「最後は8枠11番、ジェルディサヴォア、478kg、マイナス4kg……」

 パドックに座ってる客のスマホから、アナウンサーの声がかすかに聞こえる。

 流石に競馬紙各社、そしてテレビ中継にも消しと評された俺は11頭中6番人気にとどまっている。

 それでも6番人気なのは本命対抗が追い差し脚質なのと、前走の勝ちっぷりを見て簡単には消せないという心理なのだろう。

 

「ジェル、今日は流してくるだけでいい。でもタイムオーバーにはならんようにしような」

 リステッドクラスとはいえタイムオーバーはきっちり適用される。

 出走停止期間は1ヶ月だから放牧に行く俺自身にはたいして影響ないが、出走手当が没収されたりと井野センセイの収入にかかわってくるからタイムオーバーなんぞになるわけにはいかない。

 

 まあでも、どうせなら着は拾いたいわなあ。

 

 

<東京競馬、第9競走はリステッドクラスの2歳戦アイビーS、芝の1800mで出走馬は11頭――偶数番号の枠入りです。ちょっと4番リリックスクワートが枠入りを渋っています。

いったん下がって、勢いをつけて――収まりました。

最後は11番ジェルディサヴォア、すんなりゲートに収まって、係員が離れます――>

 

 コウヘイがゲートを潜って外に出ていった瞬間、ガタガタッとゲートが揺れた。誰か暴れたらしい。それと同時にゲートが開いた。

 俺、アキさん、そしてゲートとの呼吸はばっちり、すんなりと先手を取ることはできた。

 しかしスタンドから観客のどよめきが聞こえる。

 ターフビジョンが見えないので内ラチに寄せるついでに左目で後ろを見てみたら、カラ馬が一頭いた。

 

<あっと一頭落馬!3番のホクエツマイルド落馬です。

スッと大外枠からハナを切った11番ジェルディサヴォア、3馬身のリードをとって2コーナーから向こう正面へ入ります――>

 

 先頭に立つと後続馬の状況がわからないので、場内の実況から隊列と距離を把握する。

 ホクエツマイルドは2番人気の中心馬だったが、ゲートで暴れたお隣4番枠のリリックスクワートの煽りを受けたようだ。

 

 バックストレッチで強引に一頭並びかけてきた奴がいると思ったら、カラ馬のホクエツマイルドが軽快に外を走っていた。

「ジェル、釣られんな。ペース速いぞ」

 アキさんの重心がやや後ろに移動した。

 慌ててペースを落としたときには3コーナー目前である。

 

「ここから溜めて叩き合いするか……?」

 アキさん、悪かった。完全に煽られた。こりゃ「最近の馬は~」とか馬鹿にできねえわ。

「3コーナー膨らまなかったのは救いだな。後々の為にも叩き合い経験させるか」

 いやもうほんとやる気がない今日でよかった。

 もし走る気マンマンの時にこれをやっていたら、大ケヤキの向こう側(3コーナー半ば)あたりにあるサグ部で踏み外してポッキリいっていたかもしれない。冷や汗ものだ。

 

 4コーナーを回ってもまだアキさんの手綱は動かない。外から先行馬が並びかけてきた。

「もう少し我慢しろ……どうせ今日は着拾えたら御の字ださ」

 叩き合いするんじゃなかったのか?直線入り口で俺を交わしていった馬はもう1馬身先に抜けている。

 

 400の標識を通過したときにはもう一頭に交わされ3番手まで下がっていた。

「よし行くぞ。ジェル、気合入れろ」

 アキさんが手綱を短く持ち、俺の首の動きに合わせて追い始めた。

 俺のエンジンがかかると同時に並びかけてきた馬がいる。

 ああ、こいつが1番人気の奴か。

 俺の外にぴったりと馬体を合わせやがった。

 あいつのヤネは俺がもうタレてくると踏んでいたのだろう。

 ここで俺の前に出られれば、先に交わしていった2頭の内を突けるわけだ。

 

 だからと言って、そうそう簡単に抜かれるのはつまらないんだよな。

 

 隣を走る本命馬のさらに外から一頭上がってきているのが見えた。

 俺は少し残していた脚で隣の奴とスピードを合わせつつわざと少し内にヨレ、こちらに隣のヤネの意識を向けさせた。

 そんな思惑は知らないアキさんがすぐ左ムチを入れてくれたので、ラチに当たらないところで走路を修正できる。

 

 ムチってのは痛いには痛いけど、人間が叩かれるより全然大したことない。

 人間感覚でどれくらいかと言えばマッサージチェアの肩たたきモードみたいな感じだ。

 それぐらいの衝撃だとしても、たとえば横からいきなりテニスボールをぶつけられたら一瞬ビクッと反対側に逃げるだろう。ムチというのはあれと同じような効果を求めているだけなのだ。

 仕掛けの合図としてムチを使うことはままあるが、直線の競り合いでバシバシ打つのは進路矯正が主な目的で、競馬ゲームのごとくスピードが上がるわけでもなければ、「全力を絞り出せ!」という親父のゲンコツのような焼き入れの効果もないのである。

 

 先に抜け出した2頭の脚がようやく鈍り、俺は最後のひと絞りで坂を駆け上がる。

 そして一番外からはもう一頭突っ込んできて、1番人気の本命馬は完全に前詰まりになった。

 本命馬のヤネがアキさんに怒鳴っているが、それはお門違いと言うもんで。

 自分の騎乗ミスを棚に上げて喚かないで欲しいもんだね。鞭の音よりうるさい。

 

 とはいえ俺もさすがに脚があがった。

 坂を登り切って一瞬気を抜いてしまったのだ。

 ヤバい、ともう一度脚に力を込めるのと、隣の奴が馬体をねじ込むタイミングが同時だった。

 

「馬鹿野郎!」

今度はアキさんが叫び、手綱を力いっぱい引いた。

 俺は跳ねるように上を向いて無理矢理ブレーキをかけさせられた。

 

 残り150m、アイツには前に出られたが、ゴール板までこれ以上離されてなるものかと脚を動かした。

 だが一旦ブレーキをかけたアキさんは、これ以上追おうとはしなかった。

「ジェル、もういい。もういい」

 しょうがない。もう外に出すスペースもないし、これからいくら脚を伸ばしたところで前には4頭の壁があったのだ。

 

――結果、5着。調整不足の上、道中カラ馬に煽られた割には上出来だったのではないか。

 

長野(ながの)の奴、降着にならんかなあ」

 ゴール後、アキさんがボヤいた。

 ならんだろうね。俺は帰り際にターフビジョンの審議のランプを見た。

 

 昔の日本競馬では、進路を変え他馬の前に出る際には自馬の尻から後ろの馬の鼻先まで1馬身分の余裕があることがルールであり、妨害と認められた場合は必ず被害馬の後ろの順位になっていた。

 それが短期免許騎手が積極的に来日するようになると、力のある馬を何頭も送り出せる競馬グループ企業の思惑もあり海外競馬準拠の多少強引な競馬が許されるルールに変わってしまった。

 

 その結果、駆け引き無用で強い馬が順当に勝ち、強引な進路をとっても予想外の降着、失格になるリスクが軽くなったのだ。

 

 もしこれがクビ差ぐらいなら降着入れ替えもあっただろうが、さすがに1馬身半つけられたら無理だ。

 せいぜいその、ナガノ騎手だっけか、そいつが騎乗停止になるだけだろうが――多分秋天(秋の天皇賞)乗れなくなったねえ――俺はアキさんに首をポンポンと撫でられながら鼻で笑った。

 

「アキさん、お疲れ様です」

 検量室に戻った俺とアキさんを、コウヘイが真っ先に迎えた。後ろには井野調教師と谷地オーナーもいる。

 

「センセイ、すみません。最後ジェルにだいぶ無理させてしまいました」

「いや、あれでよかったんじゃないかな。追い比べではどうやった?」

「だいぶ喧嘩腰だったと思いますね。一瞬脚が上がったと思ったんですけど、もうひと伸びありましたよ」

 喧嘩腰だったとは嬉しい評価だ。

 いくら府中とはいえ、他馬に邪魔されないように馬場の真ん中から外を回してくるのはつまらないのよ。

 オーナーも上機嫌だ。

 

「アキさん、お疲れ様です。掲示板とは驚きですよ」

「いえ、今回は俺が油断しました。カラ馬に煽られなければもっと行けたはずですし……」

「いやいや、これもジェルの経験ですよ。年明け初戦からは落とせなくなるからね。今のうちに悪癖とかも知っておいてくれればそれで。んじゃ、この後の富士S、頼みましたよ」

 アキさんは今日のメイン、富士Sもうちのオーナーの馬に乗るらしく、検量室で渡された別の馬のゼッケンを抱えている。

 

「じゃあオーナー、準備が出来たらそっちに送りますから」

「ええ、よろしくお願いします」

 この後俺はオーナーの牧場で放牧。

 東京競馬場の厩舎で洗ってもらって一休みした後、馬運車にのって中継地点の山元まで直行であった。

 

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