結果的に上田騎手は過怠金5万円の制裁を受けたものの、騎乗停止処分には至らなかったため、有馬記念の騎乗が可能となった。
今週末の開催で騎乗停止の制裁を受ければ有馬記念の週には乗れなくなるのだが、強引に競馬をするような馬の仕事はないので回ってくるだけで終わるだろう。
逆に今週末、いよいよ本番となるのが弟分の進藤騎手と、リンガスマイセッサである。
ガス抜きとはいえ重賞レースを消化し、やや使い詰めが気になるところではあるが、兎にも角にも一番人気は確実であった。
「坂路で一発勝負するしかないか」
井野調教師がリンガスマイセッサにブラッシングを施している中村厩務員に声をかけた。
「しょうがないですよね、誰もいないんスもん」
最終追い切りは大好きなシビアレコードと併せる予定だったのだが、相手のシビアレコードがジャパンCでオーバーワークになってしまったので、有馬記念の為に強い攻めはできそうになかった。
同じ理由で、ジェルディサヴォアもチャンピオンズCの反動が厳しく、次に馬場に入れるのは1週前か、最終追い切りのみの予定となっており、リンガスマイセッサの併せ相手が見つからなかったのだ。
リンガスマイセッサの能力は贔屓目に見ても古馬重賞級であり、現状井野厩舎でそのクラスと言えばジェルディサヴォア、シビアレコード兄弟しかおらず、その2頭がお休みとなれば単走しか選択肢がない。
それでも進藤が跨ってくれたので折り合いは上々、使い詰めながらギリギリの仕上がりにはなったようである。
阪神競馬場へは単独輸送。
井野厩舎の馬はほとんど休養中な上に、ほかの馬が同乗するとイライラして怪我の恐れもあるからだ。
輸送嫌いという馬は珍しくないが、ジェルディサヴォア同様、1頭での輸送なら逆に落ち着くというのは珍しいタイプだ。
例によって谷地オーナーが所有する馬運車ではあるが、窓が大きく外がよく見え、車内で伏せられるような広さがあるジェルディサヴォア御用達の1号車とは違い、内部の構造や窓の覆いなどは一般的な馬運車と同じような造りになっており、左右の壁や、頭の動きを制限する鎖などはちゃんと付けたうえでの輸送であった。
長時間の輸送でありながら、中村厩務員が同行していたので機嫌よく阪神競馬場に入厩したリンガスマイセッサ。
輸送減りも無く、かと言って飼葉を食べ過ぎることもなく、出発時からキッチリ±0kgで到着し、カツカツといい蹄音を立てながら洗い場に向かって行った。
――いかにも気品ある雰囲気だが、まだ2歳馬である。
日曜日は進藤にもいくつか
阪神JF当日は必ず香港カップデーと被るので、ルードルフや近藤らトップジョッキーは香港に遠征しており、しかも中山、阪神、中京の3場開催ともなれば普段仕事がない若手にも仕事が回ってくる。
もし進藤が中京に行っていれば12R中6,7鞍は乗れただろうが、阪神JFが開催される阪神競馬場には上位騎手が残っており、進藤の仕事はメインを含む4鞍で、当然、1Rから3Rまで続く未勝利戦でメイン前の仕事は終了となっていた。
さて。
美浦トレセンの坂路が改修されて10年を超えても依然として西高東低の勢力図は変わっておらず、ここ1,2年はアンベストネヴァー世代の活躍によって関東旋風が起こっているとはいえ所詮は旋風。
一時の熱気は過ぎ去り、再び訪れた低気圧によって、関東勢力にはどんよりとした空が広がり始めている。
西高東低が如実に表れているのが2歳馬、とくに牝馬の活躍差だ。
やはり早熟性であれば関西に分があり、今年の阪神JFで上位人気に推されている関東馬はリンガスマイセッサ1頭。
特に2年前にヌーヴェル・グループからの信頼も厚く、牝馬の育成にも長けた敏腕調教師が定年で勇退してからは、天栄から回ってくる牝馬は総じて故障がちで扱いにくさを持っていた。
そんな中で単勝オッズ2.2倍の一番人気に支持されたリンガスマイセッサ。
臺屋系列が圧倒している阪神JFに於いて、非臺屋系の馬が一番人気となったのは26年前のサウンドオブハート以来だ。
今日は中村厩務員が同行しているとあって、リンガスマイセッサはおとなしくパドックを周回している。
特徴的な紺色のチークピーシーズもすっかり板についており、頭絡には鼻革がないので、きっちり左右対称のランスのような流星も全貌がはっきり見えている。
なお、アンテナスポーツの馬体診断ではB評価である。
馬体重は458kgと、この時期の牝馬としては丁度いいぐらいではあるが、全体的にスラリと胴や脚が長いステイヤー向けの馬体をしているからだ。
一方で胸前や肩が大きく発達しており、ややチグハグ感があるのも評価を下げる要因となっていた。
井野もそれは解っているのだが、進藤の腕を考えると、中山内回りのコーナー4つより、シンプルな阪神半周のほうがよいだろう。
特に阪神外回りはシビアレコードで2回も重賞を経験しているコースで、相性が良かった。
「マコ、任せた」
「マクって行けばいいんですよね?」
井野が小さく首を振る。
「逃げ先行差しマクリ追込、どれでもいい。リンガスを御せるのはお前しかいねえんだ。今使い詰めだからな。それも考えた上で、最適だと思うレースをやってみろ」
進藤は、
「えぇ…」と呻きながら、リンガスマイセッサに跨った。
「今日は勝ち負けに溺れるな。来年のクラシック、どこを走らせるかの
リンガスマイセッサは5大クラシックの全てに登録をしており、パフォーマンス次第では牡馬クラシックへの殴り込みも視野に入っている。
号令がかけられ周回が再開されても、進藤は不安そうにチラチラと井野の方を振り返っていた。
「聞いたか。クラシックだってよ。ダービーだダービー」
地下馬道の道すがら、中村がニヤニヤしながらリンガスマイセッサの首にポンと手を置いた。
「気が早いっすよ学さん。……ダービー狙うならマクリより差しかなあ」
進藤は、奥歯の隙間からブツブツと呟いていたが、中村が曳き綱を離す直前に、中村の方に身を乗り出した。
「決めました。我慢させてみます」
地下馬道を出て障害コースを横切るまで、少しの間コンクリート敷きの馬道が続くが、そこでわざわざ蹄を叩きつけて大きな音を立てるのがシビアレコード。
リンガスマイセッサは3歩ほど進んで一度立ち止まり、スタンドを見上げるのがルーティーンである。
人に触れられるのは嫌がるが、群衆の注目や歓声を浴びるのは好きなお嬢様はGⅠの騒がしさにも動じない。
まるで悪役令嬢が様々なジュエリーを見せつけるがごとく、鬣や尻尾はリボンで彩られているが、言わずもがな、噛みつき、蹴り癖注意の印だ。
紺色のチークピーシーズとの色の組み合わせは良いが、紫地の勝負服との相性は最悪であった。
返し馬から輪乗り、ゲートインまではスムーズに進んだ。
鞍上が進藤、曳き手が中村であればよっぽどなことがなければお淑やかなものである。
15番枠ということで先入れだが、ゲートに入ると静かに息をつき、進藤の合図を待つ。
スタートは五分以上。
もとよりテンは弱いので、進藤は斜行にならないよう注意しながら少しずつ内に入れていき、10番手ぐらいの、ちょうど馬群の真ん中に誘導した。
単騎で走らせれば進藤の手綱には素直に従うところだが、馬群の真ん中に引き込んでも荒れることなく首を下げている。
耳はずっと、後ろを向いていた。
抽選をくぐり抜ければ、未勝利を勝ったばかりの能力の低い馬も出走できる2歳GⅠであるから、スロー展開になっていようと、3コーナーで沈み始める馬が出てくる。
進藤がほんの少し左の手綱を絞れば、リンガスマイセッサの走るレーンが一つ左にズレる。
「まーだ、まーだ」
3,4コーナーの中間で前が広く開き、マクるには絶好のポジションになった。
リンガスマイセッサはそろそろか、と耳を揺らすが、進藤が声をかけつつ手綱を押さえると、再び耳を立てて、後ろに向けた。
大外に回りつつペースは上げていないので、リンガスマイセッサの後ろを走っていた馬たちが内を掬って前に出ていく。
進藤は、シビアレコードでなんども繰り返した失敗を思い返していた。
(800mでは持たない、600mはオーバーワーク、400mなら最後方からでも届く……)
リンガスマイセッサはどちらかと言えばシビアレコードに似ている脚質であり、直線を向いてから仕掛けても届く。
しかし使い詰めなら余計な負担をかけないよう、ギリギリを見極めなければならなかった。
400mを過ぎて、進藤がハミを少し詰めると、リンガスマイセッサがスーッと脚を伸ばし始めた。
まだ追いはせず、おっつけるだけ。
残り300mを過ぎ、小刻みだったステップが伸び切った瞬間、進藤が手綱をいっぱいに詰めて押し始めると、軽い手応えで離陸していった。
「見事」
検量室前のモニターを見ながら、井野が腕を組んだまま呟いた。
全く同時に、馬主席で腕を組んだままの谷内も、口角を上げて同じ事を呟いた。
追い込んだリンガスマイセッサは、先に抜け出したオッカインパクトをアタマ差、交わした。
これ以上は脚が限界を迎えるかもしれない。
進藤は、リンガスマイセッサのさらに外から追い込んできたサミットジェダイトに跨る長野騎手がガッツポーズをしているのを見横目で見ながら、クルリと馬を返した。
「よく我慢した。あとは任せとけ」
2着の枠に収まったリンガスマイセッサから降りた進藤に、井野が声をかけた。
「これで余裕をもって桜に直行できる。じっくり仕上げるぞ」
進藤は奥歯を噛み締め、口惜しいような、ホッとしたような、なんとも言えない表情を浮かべ、何も口に出さなかった。
【全スポ】
~リンガス2着も進藤の決断光る~
GⅠ初挑戦では2着で終わったリンガスマイセッサだが、来春クラシックへ向けての評価は依然高い。
前2走で見せたまくりスタイルとは打って変わって中段待機を選び、直線に入ってから追い出したものの、さらに後方から追い込んできたサミットジェダイトに悠々と交わされた。
2頭の間には力の差が見えたかもしれないが、リプレイを見ると、オッカインパクトを交わした直後、ゴールまでまだ30mほど残っているにもかかわらず、鞍上・進藤の手が止まっているのが見て取れる。
ゴール後進藤は「使い詰めが厳しく、あれ以上スピードに乗せると故障の可能性があった。正直最後まで追えば勝てたかもしれないし、後悔しているところはある」と語っている。
また井野師は愛弟子・進藤の決断を非常に高く評価しており、「あの判断は大正解。マコ(進藤誠紅騎手)にとってはどうしても勝ちたかっただろうけど、リンガスの今後を考えたらそのリターンは非常に大きくなってくるはず」とコメントした。
なおこの件を受けてJRAは進藤、井野両者にヒアリングを実施。故障の懸念はあったものの、競走中に違和感を感じるほどではなかったとして、進藤には過怠金1万円の制裁が科されることとなった。