喧噪の果てに
俺は今年も年度代表馬は取れなかった。
年度代表馬は国内GⅠ3勝のリヴェッティ、最優秀4歳以上牡馬はアンベストネヴァー。最優秀三歳牡馬はシビアレコードではなく、菊花賞馬のブラッドギアが選ばれている。
最優秀4歳以上牝馬は当然リューノブレスで、最優秀ダートホースはサミットプレシャスだった。
一方で欧州のカルティエ賞最優秀ステイヤーは獲得し、2年連続となる年度代表馬と最優秀古馬を獲得したアンベストネヴァーとともに欧州で表彰台に上った。
とはいえ授賞式に出席するのは馬ではなく関係者なので、俺と
俺と弟の放牧地は同じスペースだが、リンガスマイセッサは牝馬ということもあって、柵を挟んだ隣のスペースに一頭だけで放牧されていた。
柵を隔てているとはいえ、牡と牝が隣り合わせというのも非常に危険ではあるのだが、こうしないとリンガスマイセッサが暴れるから仕方がない処置だ。
俺がいつもボーっとして栗駒山の山頂を眺めているのはその柵のすぐ近く。
なぜなら、こうすると、必ず俺の隣にシビアレコードがすり寄ってくるからだ。
今日も俺と柵の間にシビアレコードが挟まっており、その反対ではリンガスマイセッサが柵越しにシビアレコードの首を噛んだりして気を引こうとしていた。
もちろんシビアレコードが柵を壊してそちらの放牧地に行こうとすれば止めなくてはならないのだが、今のところおっ勃てる様子はないから心配はなさそうだ。
問題は、その反対側のリンガスマイセッサが柵を壊してこっちに入りたそうにしていることである。
クラシックのことを考えたらこの時期に
今のところまだ大丈夫そうだが、俺がそのままボケーっとしていると、いつの間にか右側の2頭が伏せて寝息を立てていた。
リンガスマイセッサは器用に柵の下から首をこちらに伸ばしている。
起きたときに首を挟まないか不安だったので、いくらヒマと言えど俺がここを離れるわけにはいかなかった。
しばらく温泉でゆったりした後、3
条件戦クラスの僚馬たちは1月が終わるころには帰厩していったので、温泉浸かり放題、
コーナーは逆バンクで、路面は波打っており、5mの高低差があるトラックコースや、右に左に蛇行しながらしかも角度は一定ではない、坂路というより山道そのままと言えるコースを走るには集中力を切らしてはならない。
しっかり前を見て走らないと、急に隣のシビアレコードがコーナーを曲がり切れず横っ腹に突撃してきたり、リンガスマイセッサが急ブレーキをかけ、慌ててシビアレコードを追いかけ始める羽目になる。
当然、1周でもすれば頭がパニックになるが、コースを憶えるまで何度も走らせられた。
但し、リンガスマイセッサに乗れるのは
つまり、走るのも週に1日程度で、それ以外は基本的に栗駒山を眺めながら寝ているのが日常である。
2月に入ったこの時期になれば、さすがに年末の消耗を引きずっているような状態ではなく、俺もシビアレコードも動き自体はほぼ戻っているため、外厩での時間は回復というよりも単純に余裕を持たせるためのものに近い。
だからこそ、普段はこうして何もせずに柵際で時間を潰すことが増えるわけだが、俺が柵際に位置を取り、シビアレコードがその内側に収まり、リンガスマイセッサが外から距離を詰める配置自体は外厩に来てからほとんど変わっていない。
結局のところこの形が一番動きが少なく、リンガスマイセッサも精神的に落ち着いている。
人間側から見れば管理しやすい状態ということになるが、少なくとも俺からすると、ただ待っているだけの時間が続いているだけでもある。
スタッフ達の会話を盗み聞きした感じでは栗駒山の雪解けはまだ先らしいが、西に目をやると鬼首の雪はほとんど解けている。
帰厩は近かった――。
ジェルディサヴォア、シビアレコード、リンガスマイセッサの始動戦はそれぞれ、日経賞、大阪杯、桜花賞と決められている。
シビアレコードとリンガスマイセッサは鉄砲だが、勝ちにいかなければならないリンガスマイセッサと違い、シビアレコードはまだ叩きである。
大阪杯となればリヴェッティがいるのだから仕方がない。
3月27日(土)の日経賞を皮切りに、翌週は大阪杯、そしてさらに翌週が桜花賞ということで、3頭ともまとめて帰厩ということになった。
例によってジェルディサヴォアは特注の1号車。
1号車はすのこが敷かれているだけで馬の左右を固定する壁が取り外されている上に、大きな窓に付いている遮光シェードもほぼ全開なので、ジェルディサヴォアしかのれない。
一応シビアレコードもジェルディサヴォアと一緒に乗ったことはあるが、リンガスマイセッサではだめだ。
流石に馬運車の中で行為に及ぶ危険性がある以上、繋ぎもせず牡馬と牝馬を同時に乗せられるわけがない。
2号車にはシビアレコードとリンガスマイセッサが並んで乗り込んだ。
今日は中村学厩務員がこちらに来れず、外厩のスタッフが同乗しての輸送となっているため、シビアレコードと隣に乗せた方がリンガスマイセッサの機嫌がよいのである。
函館から輸送するよりははるかに近いが、山元から輸送するよりは時間がかかる場所であり、休みなしで走ったとして5、6時間かかる。
ジェルディサヴォアは外を見たり、眠くなったらさっさと床に伏せていびきをかいていたが、2号車の方は非常に熱がこもっているようだった。
案の定美浦に到着するころにはリンガスマイセッサはすっかり
外厩から戻ってきた初日の美浦トレーニングセンターは、例によって朝から騒がしかった。
まだ三月にも入っていないとはいえ、春の番組はすでに動き出しており、クラシックを控えた3歳馬や古馬戦線に向かう主力馬が次々と帰厩してくるこの時期は厩舎全体の密度が一段上がる。
井野厩舎も例外ではなく、これまで外厩で分散していた戦力が一気に戻ってきたことで、馬房の並びや調教時間の調整に追われていた。
ジェルディサヴォアは一番端の馬房に入れられ、隣にシビアレコード、そしてなんとリンガスマイセッサがその隣に入れられた。
牡牝、しかも非きょうだいが隣同士という異例の配置になったが、これが一番メンタル的に安定するのだから適切な配置と言えよう。
但しリンガスマイセッサの反対側の隣には谷地の馬ではない騙馬が2頭挟まれ、他の馬からは実質的に隔離されていた。
ジェルディサヴォアと通路を挟んで反対側には今のところ誰も入っていないが、シビアレコードの向かいにはジングルベルが収められ、そちら側の列は5歳以上の古馬勢が並んでいる。
あたかも厩舎内の派閥を表すがごとく、厩舎の長シビアレコードのさらに奥に単独でジェルディサヴォア、下にはシングルベルとリンガスマイセッサお互いを牽制しあい、リンガスマイセッサ側の列には緩衝の
「やっぱりこっち戻ると一気に密度上がりますね」
厩舎所属騎手の進藤が馬房の前で様子を見ながら言うと、井野はバインダーを片手に軽く頷いた。
「まあ仕方ない、この時期はどこも同じだ」
「リンガスはまだフケてます?」
「まだ収まりきってはいねえな。まあどうせアイツがフケっても近づいた牡がすっかり萎んでしまうんだから影響はほとんど
シビアレコードが近くにいることによって、並の馬より早く
リンガスマイセッサの隣に緩衝帯として入れられた騙馬ですらどことなく反応してしまうような、牝のフェロモンが非常に濃密な空間がこの一角に出来上がっていた。
ジェルディサヴォアに限っては馬のフェロモンより隣の厩舎で働いている女性厩務員を目で追っているときの方が反応が強いのだが、シビアレコードはさすがにこの濃密な空間に耐えられず、馬っ気を出してはジェルディサヴォアのほうに首を向けることで落ち着くという状態を繰り返している。
当然、他の牡馬も調教から戻ってくる時は馬っ気を出したり暴れたりするのだが、リンガスマイセッサのほうに寄っていくのはほとんどおらず、皆シングルベルのほうにフラフラと寄っていくのである。
一般的に馬の3歳は人間にして16~19歳ごろ、5歳は人間にして23~28ごろと言われており、高飛車な女子高生と20代の新卒OL。
「こいつらは楽ですね」
ジェルディサヴォアとシビアレコードを2頭とも外に適当に繋いで、中村とともに2頭の馬房を掃除しながらコウヘイが呑気に言った。
「レコードはいつも通りよ。むしろ少し
中村は逆に、ジェルディサヴォアにピッタリくっついているシビアレコードの様子を見ながら苦笑いをした。
昼過ぎ、他の厩舎の取材を終えた全スポの寺尾記者が顔を出した。
「お疲れ様です、戻ってきましたねえ」
「おう、寺尾さん。ジャストフォーカス動いてんの?」
ちょうどコーヒーを淹れようとしていた井野が、カップをもう一つ出しながら軽く聞いた。
「イマイチっスね。次はレグルスSで」
「雨の夏と雪の冬で稼げなかったらダメだろアイツ」
「高山センセイも若干諦めてる感じスよ。次の結果次第で夏の芝まで待つか、障害ってのも考えてるって」
ジャストフォーカスはジェルディサヴォア以上に、雨が降らないと勝負にならない。
「日経賞からですよね、ジェルは」
いざ本題、とばかりに寺尾が手帳を開きながらジェルディサヴォアの方を顎でしゃくると、井野はコーヒーの粉を落としながら「ああ」と短く返した。
「叩きですよね」
「叩きだな。掲示板入れば十分、三着まで来たら上出来だ」
「さすがにそこは控えめなんスね」
「一応春天見てるからな。あそこで仕上げ切る意味が
寺尾は「ですよねえ」と笑いながらメモを取り、今度はシビアレコードの方へ視線を移した。
「レコードは大阪杯でしょ。こっちも叩き?」
「叩き」
「GⅠっスよ?」
「中距離はあいつがいるだろ」
「リヴェッティですね?リッチセレクションも2000mは勝負だし、ミュージカルレースの金杯、見ました?」
久々に重賞戦線に戻ってきたミュージカルレースは、基本的に前残りと言われている中山金杯で上がり34秒を切る末脚を見せ、後方から撫で斬っていた。
井野はそこでようやく湯を注ぎ始めたが、その手つきは淡々としていて、寺尾の方がむしろ遠慮がちに続きを待っているような格好になった。
「古馬は本腰入れて関東が攻め込んでるけど、もともと叩き型のレコードをわざわざ大阪杯で目一杯にする理由も
「じゃあ谷地さんはその先見てる?」
「見てるだろ。ほれ、もう呑気に遊びに来たわ」
井野が寺尾の後ろを顎でしゃくった。
噂をすれば何とやらで、寺尾が振り返るとちょうど谷地が厩舎の入口から入ってきたところだった。黒いコートの襟を立てたまま、一通り馬房の並びを見渡してから井野の方へ歩いてくる。
「ずいぶん落ち着いた配置になりましたね」
「落ち着いてるかどうかは知りませんが、これが一番揉めません」
「揉めないなら十分でしょう」
谷地はそう言ってまずジェルディサヴォアの馬房を覗き込み、次にシビアレコード、最後にリンガスマイセッサの順で視線を流す。
ジェルディサヴォアは谷地が目の前に来ると、直立でまっすぐ正対し、首を下げた。
「リンガスはもう(フケは)抜けますか」
「輸送で一回きっちり来てるんで、むしろちょうどよかったですよ。桜花賞までまだひと月半ありますし」
「そうですか」
谷地はそれだけ確認すると、今度は寺尾の存在に気づいたらしく、
「寺さん、ご無沙汰です」と軽く会釈した。
「今日は何を聞きに?」
「いや、まあ、いつもの春の見通しっスね。ジェルは日経賞、シビアは大阪杯、リンガスは桜花賞で固いんですか」
「固いです」
間髪を入れず答えたのは井野ではなく谷地だった。
「ジェルは日経賞から。あれはまだ叩きです。無理に駆けさせることもないですし、また滑るようだったら春天回避してヨーロッパです。レコードはまだ未定ですが、大阪杯は調整段階です」
「じゃあ本当に勝負はリンガスから」
「ええ、桜花賞は取りに行きます」
そこははっきりしていた。寺尾もそこだけは聞き返さず、そのまま手帳に書き込む。
「私見ですが、マイルは短くありませんか?今からの攻めで間に合います?」
そのままでいい、と井野が横から口を挟んだ。
「後々考えたら、今からマイル向きに作る馬じゃねえからな。マイル戦を勝たせるためにマイラーみてえな調教してどうすんだって話よ」
「でも勝ちには行くと」
「行くよ。行くが、無理には合わせねえ。坂路でしごいたらまた秋に間に合わなくなっちまう」
「なるほど」
そのとき、進藤が掃除中のリンガスの馬房から少しだけ身を乗り出した。
「結局、いつも通りに走らせるしかないっスからね」
「お前はまずオープンクラスを何とかしろ」
井野が即座に返すと、進藤は「それ言います?」と苦笑いした。
年明けからこちら、進藤は条件戦ではいくつか勝っているものの、オープンクラスでは4着が一度あるだけで、どうにも歯車が噛み合っていない。
一方の上田はもっとひどく、谷地が正月から何頭も騎乗馬を回しているのに、ここまで一勝もできていないのだから厩舎としても流れがいいとは言い難かった。
「上田騎手もまだゼロでしたっけ」
寺尾が思い出したように言うと、井野はコーヒーを一口飲んでから面倒くさそうに頷いた。
「ゼロだな」
「夏になるとノってくるんですけどねえ」
「勝ちグセってのもバカには出来なくてな。負け続けている騎手が100%の騎乗をするより、勝ってる騎手が70%ぐらいの騎乗をした方が結果は出るもんなんだ」
「で、その勝ちグセを付けられるジェルが戻ってきたということは」
「だからこっちも忙しいんだよ」
井野はそう言って笑いもしなかったが、寺尾の方はむしろ記事の見出しが一つ増えたような顔をしていた。
騎手が勝てない時期に、厩舎の主力がまとめて帰ってくる。
話としては十分分かりやすい。
「上田騎手の方は、日経賞で流れ変えたい感じスか」
「変わりゃいいが、あっちはまだそんなレースじゃ無え」
「でもジェルは走るときは走るでしょ」
「走るよ。走るが、だからってここで全部出し切らせるわけにもいかねえだろ」
谷地はそのやり取りを黙って聞いていたが、ふとシビアレコードの方を見ながら言った。
「さっきもチラッといいましたが、日経賞(ジェルディサヴォア)と大阪杯(シビアレコード)の後は状態次第で考えます。国内で行くか、外へ出すか、まだどちらも可能性は残してあります」
「もうそこまで考えてるんスか」
「考えるだけならタダですから」
まだ予備登録も始まってませんからね、と谷地が笑った。
その冗談に寺尾も笑ったが、井野は「またそうやって現場にだけ負担掛ける」と小さくぼやいた。
馬房の並びの向こうでは、シビアレコードがいつの間にか首を伸ばしてジェルディサヴォアの方を窺っており、その気配に気づいたリンガスマイセッサが耳を立てた。
外厩ほど露骨ではないが、配置の意味はそのまま残っている。
「しかし、これだけ綺麗に役割分かれてると書きやすくて助かります」
寺尾が手帳を閉じながら言った。
「ジェルは叩き、シビアも叩き、リンガスだけ勝負」
「そう見えるならそう書いとけ」
「いや、書くっスよ」
「2頭はともかく、ジェルは注目浴びるのが好きじゃないから、あんま煽らんでくれな」
「『井野厩舎、春は三段構え』ぐらいならいいですか」
「ダセぇ」
「じゃあ『主力帰還、桜へ照準』で」
「もっとダセえわ」
進藤が横で吹き出し、コウヘイと中村も掃除の手を止めて笑った。厩舎の空気としては悪くない。
少なくとも、主力不在の1月2月よりはよほどましだった。
ただ、呑気に笑っていられるのも今のうちである。
日経賞、大阪杯、桜花賞と三週続けて主力が動き、その先には天皇賞春もオークスも控えている。
ジェルディサヴォアもシビアレコードもまだ仕上げ切る段階ではないが、だからといって楽な春になるわけではない。
井野は空になった紙コップを潰しながら、最後にもう一度三頭の並びを見渡した。
「ま、とりあえずは無事に戻ってきただけで十分だな」
それは本音に近かった。まだ何も勝っていないし、何も始まってもいない。
ただ、外厩で止まっていた時間がようやく前に動き出したという意味では、それだけで十分に価値がある。
ただし、春に向けて動き出したのは厩舎内だけの話ではない。
井野のバインダーには先日コウヘイから手渡された書類が挟められていた。
次回は5/1(金)を予定