ツーターン・スリーターン   作:ジェレミー

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日経賞(4歳以上 GⅡ)

叩きレースはサクっと行きましょう。



肥ゆるのは秋、細るのは春

 

 美浦トレーニングセンター関東労組と美駒労組名義の文書で、春季の待遇改善要求と、それに対する調教師会側の回答状況が簡潔にまとめられた新聞が張り出された。

 内容そのものは珍しいものではない。

 単純な賃金の増額、拘束時間、厩務員の補充、人員不足の解消、輸送や遠征時の手当、そして近年増え続ける外厩との連携に対する負担の整理。

 毎年のように出てくる話ではあるし、現場の人間からすれば今さらという項目ばかりでもあった。

 

 しかし今年は少し空気が違った。

 冬場から細かい不満が噴き出していたところに、有力厩舎の遠征増加と慢性的な人手不足が重なり、しかも春の大レースを前にして

「どうせこの時期に止めるわけがない」

と調教師会側が高を括っているのではないか、という見方が現場に広がっていたのである。

 

「コウヘイ、これどこまで行きそうなんだ?」

 井野がコーヒーの残りを飲みながら書類を指で叩くと、ちょうど馬房掃除を終えたコウヘイが苦笑いをした。

「今年は勝負するらしいスよ」

「古株も動く雰囲気か?」

「まあ……佐竹さんぐらいの年代でも結構言ってますね。外厩増えてるのに、結局こっちの負担だけ減ってねえじゃねえかって」

 

 それは井野にも分かっていた。

 大手クラブのように外厩を自前で整備し、そこから余裕を持って主力を戻してこられる馬主はまだいい。

 だが大半の厩舎では外厩とトレセンの使い分けがかえって現場の手間を増やしており、しかも勝てなければそのしわ寄せは全部下へ落ちる。

 ましてや外厩も造るだけ造って人手不足となれば、厩舎スタッフがわざわざ放牧先のトレセンに出向いて指導や状態確認をさせられることだってある。

 調教師も楽ではないが、厩務員や持ち乗りの負担感はもっと直接的だった。

 

「また春先に揉めるんスかね」

 寺尾が半分は興味本位、半分は本気で聞くと、井野は露骨に嫌そうな顔をした。

「揉めねえならそれが一番よ。でも今年はちょっとなあ……」

「記事になるレベルです?」

「なる前に片が付けばいいけどな。学は労組入ってないらしいけど、コウヘイはこの通りよ」

 寺尾が手帳を閉じた。

「リンガスは影響少なそうですかね」

「学とマコの2人体制で十分だからな。ま、毎年こういう時期はこの話が出るもんでな」

 井野はそう言ったが、口調ほど軽くはなかった。

 

 日経賞、大阪杯、桜花賞と三週続けて主力が動く。

 厩舎の中だけ見れば、それで十分に忙しい。

 だがトレセン全体が妙な空気を帯び始めれば、ローテーションも仕上げも、そんなに綺麗な予定表通りには進まなくなる。

 

 実際、コウヘイが持ってきた書類は一枚だけではなかった。

 要求事項の一覧の後ろには、調教師会側の回答案、妥協点の候補、そして交渉決裂時の行動予定まで簡単に整理されたメモが重ねられており、最終回答期限は4月30日と書かれていた。

 とはいえ、井野は調教師会として高い地位を持っているわけでもないので、雇用側ではあっても労使交渉に関しては蚊帳の外ではあった。

 

 トレセン内でも調教師側を始め、組合員と非組合員、そして入りびたる記者や馬主などの部外者も含めてこの争議を話題にしているが、やはり当事者とそれ以外の人たちの熱気の差がある。

 特に記者連中に関しては現状(いま)のところ完全に興味本位でしかなく、いよいよストライキに突入すれば本格的に記事を書いても売れるのだが、まだ回答待ちの段階ではどこの企業にもある話なので、Xや競馬面の隅に数行程度の記事を載せるにとどまっていた。

 誰も気づいていないが、実は井野厩舎内にはもう一頭(ひとり)、その「部外者」がいる。

 直接の当事者ではないが、両者にとって「武器」となる存在であった。

 

 もっとも、その「武器」が何であるかを、この時点で明確に意識している人間はほとんどいない。

 少なくとも井野厩舎の中では、目の前にあるのは日経賞、大阪杯、桜花賞という三つのレースであり、それぞれの仕上げと攻め役の調整で手一杯だった。

 

 いくら裏で動きがあろうが、直接の現場にいる人間にとって優先順位はいつも同じである。

 まず目の前の一戦、その次にローテーション、その先にようやく余計な話が来る。

 だからこの時期の話としては、春闘も「余計な話」の一つでしかなかった。

 実際、調教自体は何事もなく進んでいた。

 

 ジェルディサヴォアは外厩で戻してきた動きをそのまま維持する形で軽めの内容を繰り返し、時計を出す週でも終い重点で流す程度に留められている。

 無理に動かせばいくらでも時計は出るが、それをやる意味がないというのが厩舎の共通認識だった。

 シビアレコードも同様に負荷は抑えられており、ポリトラックコースを流して軽く絞る程度。

 完成度の高さゆえに大きく崩れることはないが、逆に仕上げ切るタイミングを誤ると持ち味が薄れるため、この段階では整えすぎないことの方が重要だった。

 

 一方でリンガスマイセッサだけは明らかに強度が違い、坂路とウッドを織り交ぜながら負荷を上げていく調整が続けられている。

 とはいえマイル仕様に寄せるような極端な内容にはならず、あくまで本来のリズムの中で仕上げるという方針は変わらなかった。

 たまにシビアレコードと併せてガス抜きをさせることも忘れない。

 こうして三頭とも順調に日程を消化し、やがて三月の最終週を迎えた。

 

 まずは先陣を切ってジェルディサヴォアが日経賞へ出走する。

 春の古馬戦線の入口としてはまるで見る価値もないと言わざるを得ないメンバー構成となったが、ジェルディサヴォアが出てくる以上、期待の視線は自然と一頭に集まる。

 

 一方、厩舎の人間にとってはその視線の意味は少し違っていた。

 勝つかどうかではなく、どこまで余裕を残して走れるか。

 馬体重は前走の有馬記念から+10kgにもなる542kgでの出走となり、パドック解説者からはやや緩め感は残っているというコメントが出ている。

 それでも、今後絞れても536kgが下限のラインとなるだろうと、寺尾が記事で書いていた。

 

 叩きであろうと、相手関係を考えればジェルディサヴォアの単勝1.5倍も当然と言ったところだ。

 なにせもとより人気のない日経賞において、わざわざジェルディサヴォアと直接対決を挑む重賞馬は誰もおらず、8頭立ての小頭数、しかもジェルディサヴォア以外重賞馬がいない、という銀行レースだったのだ。

 2番人気は中山金杯で3着だったパリディージャで、その馬の勝ち鞍といえば前年の本栖湖特別(2勝クラス)という、実質的に3勝クラスの馬だった。

 

 今年は検疫の都合上アンベストネヴァーが宝塚近くまで全休の予定であり、それならばと有力馬がこぞってドバイに行ってしまったのも影響している。

 特にジェリーホーネットの力の入れ具合が相当で、昨年の京都大賞典からJC、有馬と連戦したにもかかわらず、わざわざ京都記念を叩いてドバイに行った。

 ベスト・レーシングの牡馬には引退の規定はないが、種牡馬にしないのはそれはそれで惜しい能力は見せつけているので、いよいよ引退もチラついている中、GⅠの箔を付けたかったのだ。

 

 日経賞は有馬記念と同じコース、距離で、しかも第2回の中山開催から続くAコース使用の最終週となっており、条件は全く同じと言っていい。

 7番枠からすんなりとハナを切ったジェルディサヴォアは、荒れたラチ沿いにピッタリ張り付くと、有馬記念と全く同じ加減速を繰り返していく。

 小頭数なだけあって有馬記念より馬群が開いているようにも見えるが、1000m通過は1分1秒台とさらに遅い。

 しかもネベルメナースのように奇襲をかけてくる馬もいないので、後半のラップがまるで動かない。

 

 ジェルディサヴォアに完全に丸投げするような恰好で、上田は手綱のほとんど先端を持っていた。

 長手綱というのもバカらしい、超長手綱状態である。

 舌縛りをしているのでハミは固定されているが、ジェルディサヴォアも軽く口を開けた状態で、ゆっくりと口から息を吐きだした。

 

 上田はヒマであった。ジェルディサヴォアは、もっとヒマであった。

 有馬記念では2分31秒台の決着となったが、今日は間違いなく34秒台になる。

 4コーナーを過ぎて、上田がチラッと後ろを見てもまだ4馬身のリードが残っている。

 最内の最も荒れたところを走らせると、蹄穴(ディボット)の壁を蹴るようにしてスムーズに加速していく。

 ハミも詰めず、長手綱のまま上田が軽くムチを耳元で鳴らすだけで、ジェルディサヴォアはあくびをするように口を開けた後、面倒くさそうに少しだけペースを上げ、すぐに流し始めた。

 

 勝ち時計は2分34秒8。

 単騎の逃げ切りで上がり3Fが36秒2ながら、パリディージャは1馬身半まで詰めるのが精いっぱいという非常に低レベルなレースだった。

 

 





次回は5/3(日)にウマ娘版ストーリーを
AIに丸投げして主人公たち3人のウマ娘キャライメージを作ってもらいました。
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