クラシック期初戦です。
「届いたよー!」
スペシャルレート先輩が、段ボールを一つ抱えて部室に入ってきた。
今週末はリベが出走する桜花賞があり、その翌週はあたし達の皐月賞だ。
と、いうことは、この段ボールの中身は――当然、ジェルの勝負服だろう。
テーブルの上に置かれた段ボールに、真っ先に手を伸ばしたのはリベだった。
ガムテープを引きちぎるように剥がすと、いくつかの袋に分けられて入っている紫系の勝負服を、ほい、とジェルの方に投げた。
「おいさー」
ジェルがポン、ポン、ポンと数個の袋を全部キャッチすると、一通り抱えてロッカールームに入っていく。
「あたし達のと違って、装飾多いものね」
アイツ、本当に飾りっ気のない勝負服にしようとしていたので、あたしとリベがあれこれとオプションを付けて提出させたのだ。
リベが目をキラキラさせてロッカールームに続く扉をずっと見ている中、シュッと何かを締めるような音が聞こえ、ロッカールームの扉が開いた。
「……別に今はマウスピースしなくてよくない?」
一瞬何を言おうか考えたが、まず最初に口を突いて出てきたのはそれだった。
ジェルが後ろ手でドアを閉めて、照れくさそうに笑った口元から白いマウスピースが覗いていたからだ。
「気分です、気分」
マウスピースを舌で押し出して口端に咥えながらジェルがモゴモゴと言った。
真っ黒よりほんの少し紫がかったベストと同色のスラックス、ネクタイ。真っ白なワイシャツの袖口は水色のダイヤの刺繍で彩られている。
面白いのが真っ黒な革のブーツで、一般的につま先に打ち込まれている蹄鉄がついていない。ゴム底のまま走るんだそうだ。
「かっこいい!かっこいいですよ同志!」
しばらくフリーズしていたリベが、ジェルの腰にギュッと抱き着いた。
「おおぅ」
少しよろけた瞬間、ゴムが床を掴むキュッという音が鳴り、ジェルが左足を横に滑らせるようにして踏ん張った。
「やっぱり動きやすいですね。スラックスにしてよかったです」
そう言いながら新品の手袋を口で咥えて外そうとしたので、コラッ、と叱っておいた。
週末は晴れ。
だけど前日に少し雨が降っていたらしく、バ場コンディションは良であってもまだ乾ききっていないぐらい。
前乗りしたホテルで木野トレーナを交えて最後の作戦会議をしたが、ジェルとリベは終始渋い顔をしていた。
リベはパンパンの良の方がよかったらしく、このコンディションだと相当厳しいらしい。
「これ止まらないですよねえ」
ジェルが、数人の出走生徒のデータを見ながらボヤくと、リベも
「別に私はここは無理だと思ってますからいいですけども」
と肩をすくめて、木野トレーナーを見上げた。
木野トレーナーもこれでは対処の仕様がないとお手上げ状態で、それならまずはGⅠの雰囲気に慣れてくること、無事に帰ってくることを至上命題に挙げていた。
前回のホープフルSはリベの得意舞台ではあったものの、GⅠの緊張でギクシャクしてしまいまるで本気を出せていなかった。
ただ、かく言う木野トレーナーも、教え子をGⅠに出したのは初めてだったのでリベ以上に緊張していたのを見逃してない。
このトレーナーはGⅠの実績がなさ過ぎて、こういう大舞台ではなおさら頼りにならないから、あたしはリベとジェルの頭脳に従うしかないんだ。
当日はチーム・ピーコックが固まってスタンド観戦。
木野トレーナーはレース前にリベの楽屋に行くから、しっかり席を確保しておかなければならない。
スタンド内には「ゴルシちゃん焼きそば」の移動販売がなく、午前中に買い込んでおけばよかったと後悔した。
木野トレーナーが下に降りていくと、ジェルがレート先輩に聞こえないようにウマホのメッセージで、
『テキは行くだけムダじゃないですか?』
と、送ってきた。
テキってなに、と送り返そうとした瞬間、メッセージが削除され、
『センセイは行くだけムダじゃないですか?』
と再送されてきた。
センセイをどう打ち間違えたらテキになるのかよくわからなかったが、
『GⅠの楽屋は一人だからね。心細いんだよ』
と送り返したら、隣で小さくウンウンと頷いていた。
レート先輩が場所取りをしていてくれるというので、あたしはジェルを連れてパドックに降りて行った。
やがて奥の方から勝負服を隠すようにガウンやウインドブレーカーを着た18人が姿を現す。
リベもウインドブレーカーを着ていたが、もともとの勝負服がパーカータイプのため、白いフードは外に出ていた。
自信たっぷりの生徒は中央のステージでガウンを投げるように脱ぎ捨てるのがお約束だが、リベはあらかじめウインドブレーカーを木野トレーナーに預けてから壇上に登っている。
こういう仕草の一つ一つもやる気や調子を測るパドック診断では重要な要素だと、ジェルが言っていた。
リベはあたし達の姿を見つけるとホッとしたようだが、それでも木野トレーナーと最後の打ち合わせをしている間はフードをすっぽり被っていた。
パドックセレモニーが終わり、あたし達もスタンドに戻ると、レースが始まる直前に木野トレーナーが息を切らしながら階段を上ってきた。
ジェルとレート先輩の間の席に座ると、ちょうどファンファーレが流れた。
ゲートが開くと同時にダイワスカーレット先輩が好ダッシュを決める。
グランアレグリア先輩もペースについていき、リベも前目でスペースを確保していた。
後ろの方ではウオッカ先輩がとにかくダスカ先輩を追い抜くべく歯をむき出しにしながら足を溜めている。
「先に抜け出したらワンチャンあるかなあ……」
「いや、厳しいね」
となりでジェルが呟いたが、木野トレーナーがすぐさま首を振った。
「リヴェッティが抜け出せるようならダスカが止まらない。抜け出せなかったらグランアレグリアが勝つ」
ですよねえ、とジェルはつまらなさそうに頭を抱えた。
案の定、グランアレグリア先輩が直線で一気に先頭を奪うと、そのまま先頭でゴールした。
リベは4着。
そのあと記者からのインタビューには、
「オークスの出走権が取れただけでも良かった」
と、短く答えていた。
リベの慰労会は、来週あたし達が走るということでコンディション調整もあって先送りになった。
美浦寮に戻るとすぐパソコンを引っ張り出して何やら打ち込みだした感じを見ると、そこまで精神的なダメージを受けた様子はない。
こそっと、
「オークスは逆転できそう?」
と聞いてみたところ、あっさり
「無理です」
と回答が飛んできた。
「私は2400m走れませんので。とりあえず優先出走権を取った手前走りますけど、勝負は秋です」
そういって、肩越しにあたしの顔を見上げて、にひひ、と笑った。
月曜日は一旦休みを挟んで、火曜日からはあたしたちの最終調整が始まる。
といっても木野トレーナーは体重のデータは取らないので、ジェルはリベのデータ分析を聞きながらキャラメルを1箱空けていた。
「ネヴァーさん、今週末は残念ながら雨です。計算上同志を逆転するのは難しそうですが、どうします?」
「どうするって?」
ジェルから放り投げられた最後のキャラメルを口を開けて直接キャッチしたリベが、モゴモゴしながら天気予報のサイトを開いた。
「一か八かの逆転を狙いに行くか、それとも、ダービーまで待つか、です」
「待つ」
あたしも即座に返した。
「2人の計算を信じる。皐月はジェルが獲ればいい」
「無事取れればいいですけどねえ」
ジェルは若干ナーバス気味だ。
「タキオン先輩とか、キタちゃんさんとかいますけど、重馬場ではそこまでなので、大丈夫でしょう」
ジェルは小さく頷いて、親指を立てた。
天気予報の通り金曜日から天気が崩れ始め、土曜日の夜からは本降りが続いている。
当然バ場発表は不良となり、さらに雨が強くなる中、パドックの観客も先週の桜花賞よりまばらだった。
あたしの家族は見に来ていない。
先週のうちに、天気は雨らしいし勝負はダービーだから、むしろそっちの方を見に来てほしい、と伝えているからだ。
「パドック出たくないんだけど」
「ですよね。合羽にして正解でしたよ」
天気が雨ということで、ウインドブレーカーではなく合羽を着てパドックに立つ。
「合羽脱がなくていいの?」
木野トレーナーが袋を持って待機していたが、あたしもジェルも首を横に振った。
「ここから濡れた服で走るのもいやですし」
ジェルが白い手袋の上に防水性の透明なゴム手袋をつけてパドックステージに立つと、家族を見つけたのか、小さく会釈をしてすぐステージから降りていった。
まだまだ雨が弱まる気配がない中、あたし達は合羽を着たままバ場に入っていく。
ゲート裏で係員に脱いで渡せば大丈夫だと思うが、もし誰もいなかったらラチの内側にでも投げ込んでおけばいい。
雨の音が強く、スタンドの前だというのに観客の声も聞こえない。
かすかにファンファーレの音色が断続的に聞こえてきた気がしたので、慌てて合羽を脱いで後ろのスタッフに渡した。
あたしやサトノクラウン先輩のようにノースリーブならまだマシかもしれないが、ジェルやタキオン先輩のように長袖で重ね着をしているような勝負服はこの天候では重そうだ。
キタちゃん先輩に至っては法被も綱も水を吸っているから、余計に動きづらそうにしている。
もう外したらいいのに、と思いながら、あたしは自分の腰巻も外してゲートに向かった。
何となくゲート内も重苦しい雰囲気の中、スタートするとすぐにジェルが飛び出していった。
あたしも最後のターゲットはジェルになるのは分かっているから、やや出遅れて慌てて前に行ったキタちゃん先輩のペースは無視する。
とはいえ、ジェルの後ろを走るキタちゃん先輩の法被や綱がゆらゆらと揺れてジェルの姿は見えにくい。
これだけ芝がぬかるんでいるのに、ジェルのペースが落ちない。
足下は意に介せずとばかりに、思いっきり身体を傾けながらコーナーに突っ込んでいった。
あたしの前を走る生徒が跳ね上げた泥が飛んでくるが、それぐらいは想定内。
ジェルが1人だけ5バ身以上のリードで逃げているが、3コーナーを過ぎたあたりでクラウン先輩が少しずつ差を詰めようとしている。
そしてあたしを追い抜いて、タキオン先輩も外から上がって行くのが分かった。
本気になった時のタキオン先輩の圧はホープフルSですでに感じているが、雨でやる気がないのか、あの日よりは恐怖心を感じない。
直線に出るとクラウン先輩が捕まえに行ったにもかかわらず、ジェルのリードがさらに開いていた。
「ほんと強いよ、アイツ」
既に限界を迎えたキタちゃん先輩を交わし、一つ息をつくと、あたしは前を走るクラウン先輩とタキオン先輩めがけてスパートをかけた。
最後の坂に挑もうとした瞬間、早めにスパートをかけたことでスタミナも切れかかっていたクラウン先輩が、上り坂と不良バ場で足を取られ、ガクッと内側にヨレた。
運悪くあたしの目の前に出られてしまい、あたしは体当たりをしないように左に飛びながら、身体を折って何とか避ける。
ちょうど坂の中間で、そこから再加速するのは難しく、クラウン先輩の後ろ、4着でゴールすることになった。
「ごめんなさい!」
クラウン先輩が振り返って頭を下げてきた。
見上げると、着順掲示板には青い審議の文字。
「変わればいいんだから、気にしないで」
それだけ言って、内ラチに寄りかかってマウスピースを咥えて遊んでいるジェルのもとへ歩いて行く。
「おめでとう」
「ネヴァーさんも、ナイスランでした。繰上げでしょう?」
「多分ね」
ジェルが握手を求めてきたので、あたしは差し出された手から逃げるように飛びのいた。
「マウスピース持ってた手で握手すんな!」
ジェルは、あっ、と言ってマウスピースを口端に戻すと、右手を後ろに隠した。
「ダービーは、よろしくお願いしますね」
「ん」
短く返事をして、あたしはジェルを肩で小突き、勝者を祝福しているスタンドを顎でしゃくった。
降着の審判が下るのは早かった。
クラウン先輩が全てミスを認めたからだ。
この後はシャワーを浴びて、勝負服を着替えてからウイニングライブが始まるわけだが、出番は夜になってからなので、ジャージに着替えてからジェルの楽屋に遊びに行った。
「どうもー、いらっしゃい」
さぞかし浮かれているだろうと思いきや、出走新聞をテーブルに広げ、濡れたワイシャツのまま腕まくりをして、ネクタイをくつろげてテレビから流れる福島12レースの出走生徒紹介に見入っていた。
まだネクタイを頭に巻いていなかっただけマシだとまで思った。
「向こうは晴れてるからな……スイートタイム先輩が番手から行けるはず……」
「なにそれ、データ収集?」
「いえ、単なる勝ちウマ予想です。11軸は堅いと思うんだけどなあ」
「トレーナー顔出した?」
ジェルは、あっ、と言ってウマホを取り出した。
「着替えとか終わったら呼ぶって言ったの忘れてました。呼んでいいですか?」
「いいよ。あたしも終わってるし」
ジェルがウマホをポチポチと操作していると、福島12レースのスタートとなり、ジェルの手が止まった。
「抑えるな!行くなら交わし切っちまえ!」
「うるせえ!サッサと呼べ!」
ジェルがウマホを放り出してテレビに向かって叫びだしたので、思いっきり頭をひっぱたいてやった。