今日の馬運車は空いていて、俺を含め2頭しか乗せていなかった。
しかし隣の奴はどうにも輸送慣れしていないようで、たまに後ろ足で戸口を蹴り上げるのにはこっちがイライラしてしまう。
そんな騒ぐなって、郷に帰るだけだろうが……。
ちょっとイライラが限界だったので、俺もついボヤいてしまった。
まだ隣の奴は興奮がおさまらないようで、首を振っては鎖をジャラジャラ言わせている。
こいつが放牧なのか、引退して余生を過ごすのか――あるいは
2頭しか乗せてないから、対角線や前後に乗せたらバランスが崩れて危険なのでしょうがないことではあるが。
俺はため息をついた。
馬運車の採光窓は背中のあたりに取り付けられていて、馬運車の中で回ったりはできないからどう頑張っても外は見えない。
走行場所の目安は山手トンネルと、各ジャンクションの減速、そして常磐道に入ってからの爆走車に追い抜かれる音。それが無くなったら広野を通過、という具合で現在地を無理矢理割り出す。
但し、馬の脳みそになってから計算がクソ遅くなってしまった。
輸送で一番しんどいのは糞だ。
馬の糞尿は基本的に立ったままそこにするので、脱糞した後下手に後ろ足を動かすと踏んでしまう。
馬より人間の意識に寄せてボロを出すのを我慢することもできなくはないが、やりすぎると
人と違って馬は何か食ってから消化し、糞として出すまで大体24時間から30時間はかかるので、車中で催さないように馬運車の中では食わない、なんてことをしたところで何の効果もないのだ。
明日明後日の移動には効果あるかもしれんが。
しかし、暇だ。
貨物列車で輸送してくれたら暇な時間も短くなるのに。
出発前にきっちり掃除された馬運車には新聞の切れ端ひとつ落ちていない。
隣の奴はどこかのパーキングに停まった時スタッフに宥められ少し静かになったが、相変わらず耳を絞っているからいずれまた騒ぎ出すだろう。
山元で一休みしたら日が昇る前の早朝から北に向かう。
府中から一緒だった奴は乗らず、代わりに3頭の馬が一緒に乗せられた。
どうやら輸送の予定が少し狂ったみたいで、後列に乗せられた俺の隣は牝馬だった。
季節柄
それ以上に問題なのが、こいつもこいつで輸送嫌いのタイプらしい。
紅一点がいちばん馬運車の中で暴れまわっているのはいかがなものか。
途中運転手の交代や休憩を挟みながらに昼前には青森、午後には函館競馬場に着く。
ここからは谷地オーナーが所有する馬運車で牧場まで向かう。
他方、大手の牧場に送られる馬の方は頭数が多いので、そのまま輸送専門の業者の馬運車が運んでいくことが多い。
今までの競走馬輸送業者のバス型馬運車と違い、オーナー所有の馬運車は改造されたコンテナトラックである。
設備はほぼ変わらないが、一度に乗せられる馬は最大でも2頭だ。
そして俺にとっては何よりありがたいことに、分厚いカーテンを開ければ外が見える場所に窓がついてある。
日が直接差し込まない側のカーテンを開けてくれているので、函館競馬場から牧場までの輸送はそれなりに暇つぶしもできた。
この景色も3回ぐらい往復すれば飽きることだろうが。
牧場に到着し、体を洗ってもらったあと、半年ぶりに懐かしの馬房に帰宅する。初勝利の時の口取り写真が飾られてあった。
それから暫く、放牧場や裏の森の中を散歩させられたりしながら冬を迎えた。
この牧場は温泉設備などもしっかり整っているので、雪を眺めながらの温泉はなんともオツなものである。
しかし残念ながらここはただ温かいだけのお湯であり、天然温泉ではない。
オーナーが新しく造っている外厩には本当の天然温泉が造られるらしいが。
冬も本番になってくると、年明け初戦に向けて調教のペースが上がる。
年が明けたらすぐ美浦に戻ることになっているから、正月太りなどしていられないのだ。
やはり雪はいいものだ。
雪合戦でもやりたいところなのだが、当然馬に雪玉をぶつけてくるようなスタッフや観光客はいないので、仕方なく鼻先や尻などを使って大きな雪だるまをこしらえた。
文字通り1馬力なので人間の時よりはるかに重く大きな雪だるまになった。
雪遊びの様子を見にきた若いスタッフが驚きつつも意図を汲んで何とか2段重ねにしてくれた。
そのスタッフは写真撮影でもするつもりなのかスマホを取りにロッカーに戻っていったので、昨日差し入れで貰って隠しておいたニンジンを上の玉のど真ん中に苦労しつつ差し込んだ。
あとは石っころを目に埋め込んでくれたら完成なのだが、きっちり整備された放牧場ではいくら掘り返しても芝生と柔らかい土があるだけで、
スマホを持ってきたスタッフが、雪だるまの鼻が出来ているのを見て「はあ?!」と大声をあげてしまって、慌てて口を押えていた。
年が明ければ俺も晴れてクラシック世代だ。
とはいえ俺の収得賞金は新馬戦勝利の400万円のみ。
単純に皐月賞に出るだけなら1勝クラスで1着、もしくは重賞で2着程度の賞金加算が必要だが、2月いっぱいの関東は東京開催なので3月の中山から始動になると牧場のスタッフが話しているのを聞いた。
京都に遠征するのも悪くはないのだが、わざわざ3歳馬をこの時期から遠征させようとする陣営は滅多にないだろう。
馬にスケジュールを律儀に報告するスタッフはいないが、大体馬房の前で話してることと言えばその馬の状態やら予定などだ。
世間話から情報を集めたところ俺の帰厩は2月上旬で、GⅡスプリングSに直行する予定らしい。
皐月賞トライアルレースだが、近年は阪神や東京開催で賞金を加算するいわゆる「直行組」が王道となってしまっているので、前哨戦、ましてや重賞となっても抽選や賞金除外となる恐れはない。
1800mのマイル距離には不安が残るが、NHKマイルCを狙うマイラーなら阪神のチャーチルダウンズC*1を目指すし、トライアルを叩いて
スプリングSは賞金狙いの中級馬が集まる穴場となっており、俺もクラシック本命は菊花賞らしいのでとりあえず賞金をかき集めに行くつもりらしい。
――だからと言ってここで二桁着順なんてなったら本格的に命が危なくなるのだが。
俺は輸送慣れしていると評判ではあるが、おとなしいのは馬運車に乗ってしまってからの話であり、移動直前と到着直後はナーバスになっている。
根っからのコミュ障が原因だ。
牧場から函館競馬場への移動はさすがに窓のカーテンは閉められた。客は俺1頭なのだが、雪が残っており反射光が眩しいのだ。
函館競馬場で入厩検疫を終えた後、本土への輸送は「アタリ」だった。
同じ馬運車に乗った3頭は比較的おとなしい年上馬だ。春の古馬戦線に行くのだろうか。
だが今どきの超一流馬はだいたい設備が整っている天栄に放牧されるので、山元を経由する馬はそこまで期待できる馬ではないのかもしれない。
美浦に着くとコウヘイが出迎えてくれた。井野調教師はタワーの方に行っているらしい。
「よーしよし、洗い場いこか」
コウヘイが早速洗い場に連れていき、車内の臭いを落とすようにシャンプーをしてくれた。