前書きから釈明で失礼します。
この話はツッコミどころしかないのは理解していますが、作者の力量と知識量ではこれが限界でした。
ですが、この話を書きたいがために、人間から転生した競走馬の物語を始めたといっても過言ではない場面ですので、
読者の皆様におかれましては生暖かい目で呼んでいただければ幸いでございます。
週末に天皇賞春を控えた水曜。
美浦トレセンはゴールデンウィーク前の追い込みが始まっていた。
今夜は大井競馬場でダート三冠の1戦目、羽田盃が行われる。
これをもって、3歳三冠全路線の1戦目が終了することになり、いよいよダービーに向けて調教にも熱を帯びてくる。
しかもそれに古馬戦線もGⅠが連続して行われるとなれば、調教コース、特に坂路は大混雑であった。
という事情もあって、ジェルディサヴォアの最終追い切りはBコース、狭いダートで行われることとなった。
例によって一度上田騎手が落馬したが、大事に至ることもなく単走で流しきった。
調教後の馬体重は軽く絞って540kg。
ここから輸送などを挟んで、538kgほどで出走出来たら完璧な状態だ。
ジェルディサヴォアは意外と輸送減りをするタイプであり、それは狭い空間に入れられるストレスではなく、ゲームもテレビも新聞もない、ヒマな環境によるストレスであった。
「またこれですかセンセイ」
調教スタンドで、全報スポーツの寺尾記者が呆れたようにタイムモニターを振り返った。
一応記者として、タイムは記録して新聞に載せるつもりではあるが、このタイムから良し悪しを見分けるのはまず無理である。
誰に見せても調教評価は最低ランクになるような追い切りだった。
「ウッドがバカみたいに混んでてな。もう少し朝早くからやればよかったわ」
井野調教師が肩をすくめた。
前述したように、この時期は連続するGⅠ戦線に向けて、香港遠征中の馬を除いてほとんどの有力馬が帰厩している。
しかし東京優駿が近いということは、3歳未勝利戦の終わりも近いということなのである。
一般的に攻め役の都合上、有力馬から順に攻めていくので、厩舎の中でも優先順位が一番下になる未勝利馬たちの追い切りは閉門間近のタイミングになる。
それに近い時間帯に、いつもスタートが遅いジェルディサヴォアがぶち込まれた。
未勝利であろうと、この馬たちにとってはGⅠと変わらない重みをもっているので、当然、皆が
「お疲れ。遅かったじゃないか」
追い切りを終えたジェルディサヴォアが上田騎手を乗せて厩舎に戻ってきた。
井野も調教スタンドからまっすぐ戻ってきたのだが、ジェルディサヴォアがなかなか戻ってこなかったのだ。
「ちょっと帰り道で立ち止まりまして。故障とかではないので大丈夫っス。馬運車とかトラックが出ていくのをじっと見てましたよ」
「身ィ入ってないんじゃないのか」
井野が冗談っぽく言うと、上田もククク、と笑った。
「大井あたりに連れて行ったら、ずっと飛行機見て動かないんじゃないスか」
誰一人として知る由もないが、ジェルディサヴォアが人間モードになれば、ただ走って草を食べて、寝ての生活はあまりに退屈すぎるので、こうやってトレセンに出入りする自動車などに興味津々になるのは珍しいことではない。
馬運車が一台出ていき、少し間を置いて別のトラックが入ってくる。
ジェルディサヴォアはそれをじっと眺めているのだ。
特に何かに反応した様子もなく、物見というよりは、ただ立ち止まっていたという表現のほうが近い。
やがて何事もなかったかのように歩き出し、そのまま厩舎へ戻っていくのである。
【全スポ】2038年4月28日 13:20
~(天皇賞・春) ジェルディサヴォアはダートで軽快「今週はこれでいい」井野師 GⅠ追い切り情報~
連覇を狙うジェルディサヴォア(牡5・井野)は美浦ダート(Bコース)で軽い調整。狭い方のダートコースでの追い切りとあって時計は参考外とみていい内容だが、軽快な足さばきを見せた。
実質的な負荷は1週前の追い切りで、美浦ウッド単走5F66秒0-10秒9としっかり追われている。軽く気合を付けただけで鋭い反応を見せており、終いの伸びも上々だった。
井野師は「先週は想定以上にいい反応を見せていた。今週はこれで十分」と高評価。仕上がりは順調そのもので、連覇に向けて態勢は整った。
____
輸送当日の朝は、いつもより早い。
しかも今日は土曜日だ。
東京競馬場ではGⅡの京王杯スプリングカップが行われ、西の京都競馬場ではGⅢユニコーンSがある。
今日の東京開催に出走する馬たちも出発の準備を整えており、普段より慌ただしいはずなのだが、今日は人が動き回る気配が少なかった。
俺も出発時刻が迫っているのに、誰も俺の馬房を開けに来ない。
隣のシビアレコードとリンガスマイセッサは中村と進藤が先に外に連れて行った。
そして中村だけが戻り、2つの馬房の掃除を始めている。
その向かいにいるシングルベルは、なんと井野センセイ自らが外に連れだした。
しばらく経ってようやく俺の馬房が開き、中村が曳き綱の準備を始めた。
「スケジュールだいぶ押してるな。やっぱジェルから始めた方がよかったんじゃねえか?」
中村が隣で寝藁を鋤いている進藤にボヤいた。
「しょうがないっスよ。リンガスは真っ先に終わらせてやらないと機嫌悪くなるんですもん。コウヘイさんやっぱ来ない感じスか?」
「昨日の夜から東京競馬場に行ってるよ。一日ビラ配りだってさ」
中村が俺に無口を掛けると、曳き綱をつけてようやく外に出してくれた。
いつもはコウヘイが曳き運動をしてくれるのだが、今日は中村だ。
とはいえ曳き運動程度、毎回コウヘイがやっていたわけでもないので、俺がいつものように後ろ脚で立って背伸びをしても中村は慌てることなく、曳き綱を長めに持ってくれていた。
俺はいつも通り立ち上がったように見せながら、首を高く上げて厩舎群の陰からわずかに見える通用門を見た。
そこでは数人の厩務員がゲート前に並んで、入ってくる人たちにビラを渡している。
しかしそのあと、車やトラックは普通に通していることから、バリケードを設置しているわけではなさそうだった。
昔のストライキでは通用門にトラックを留め置いたりしてバリケード設置まで行っていたようだが、近年のストライキでは威力業務妨害として逆に調教師、JRA側から訴えられることを危惧し、通行を完全に止めることはできなくなっている。
俺はゆっくりと前脚を下ろし、中村が「いいか」といって曳き綱を持ち替えようとした瞬間、首を大きく振って走り出した。
「ほ、放馬ぁー!!」
早朝のトレセンに、中村の声が木霊した。
厩舎群から一斉に厩務員たちが飛び出してくる。
取材に来ていた記者連中も、朝調教に来ていた騎手も、俺の方を見ているのが分かる。
もともと引き運動だけの予定だったので調教用ゼッケンは付けられていない。
放馬したのが俺ことジェルディサヴォアだと人づてに広まるまではしばらくかかるだろう。
俺は厩舎群を抜けて厚生会館の方に走っていく。
その先には警備室が併設された一番大きな通用門があり、その前では関東労、あるいは美駒労の組合員たちが赤い誘導棒を持って整列している。
ちょうどビラを受け取り、警備員の許可を受けて入場しようとしたトラックが急ブレーキをかけ、門の中で立ち往生した。
理由は当然、進行方向から俺が走ってきたからである。
美浦に限ったことではないが、どこのトレセン、調教場においても馬が優先で、ましてGⅠ7勝馬を轢いたとなれば運転手のクビが飛ぶだけでは済まされない。
トラックの横をすり抜けてもよかったのだが、万が一ぶつかってしまうと運転手がかわいそうだったので、俺はトラックが止まっている入場レーンを避け、退場レーンの方から門の外に出た。
「やばい、捕まえろ!」
ストライキ中とはいえ、彼らも根っからのホースマンである。
俺が外に逃げようとしているのを何とか宥めようとしてくれている。
大丈夫、俺の目的地はここだから。
俺が門の外で立ち止まりゆっくりと振り返ると、一番近くにいた組合員が、ずっと引きずってきた曳き綱を握った。
「運転手さん、大丈夫だ。当たってないよ。そのまま入って」
一人の組合員が入り口で固まっているトラックの運転手に声をかける。
運転手はほっとした様子で乗り込むと、ゆっくりと発進させていった。
俺はセンターラインを跨ぐように、ゆっくりと横向きになる。
暇つぶしにはちょうどいいことに、ちょうど目の前に組合員が配っているビラの束が置かれており、じっくりと読むことができた。
俺の周りに人だかりができている。
井野と中村も息を切らしながら駆け寄ってきていた。
「バリケードは作らねえって聞いたんだが」
もう一台、飼葉を積んで入ろうとしたトラックの運転手が、誘導棒を持った組合員に文句を言っているのが聞こえる。
「こっちでやったんじゃないです。あの馬が放馬して、ここに来ただけで」
「どかせられねえのか?」
「引っ張ってはみたんですけど、まるで動く気配がないです。すみませんが事務所側の門から入ってくれますか」
トラックがバックしながらなんとか切り返して出ていった。
当然、すぐ次のトラックや馬運車が入ろうとして列をなしており、完全に交通マヒに陥っている。
曳き綱を渡された中村も途方に暮れており、どうしようかと井野の方を見ながら固まっている。
俺はそのままゆっくりと前脚を折り、完全に地面に伏せた。
「ジェル、動いてくれねえか?」
どうしようもなくなった井野センセイが、俺の耳元で呟いた。
ただでさえコウヘイが出勤しておらず人手不足の状態で、中村までここに残していたらいよいよ今日の調教はできなくなる。
リンガスマイセッサの優駿牝馬に向けても影響が出かねないし、今日の東京開催に出走する予定の馬だってまだ輸送待ちで残っているのだ。
だからと言って、所属馬を他人に預けてここを立ち去るわけにもいかない。
仕方なくまだ見習い中の新人スタッフを呼び、俺の様子を見ているように指示し、2人は厩舎に戻っていった。
万が一があると困るということで、曳き綱の反対側に付けられた鎖で近くの柱に結ばれ、飼葉桶と水桶が用意されたが、俺は飼葉桶を鼻先でひっくり返す。
労組たちよ、あんたたちが出来ないバリケード、俺が代わりにやってやるよ。
この敷地内では、誰よりも偉い俺がな。
ストライキは今夜24時まで。
それまで、一台たりともこの門を通すつもりはない。
井野が来たことで、俺がジェルディサヴォアだということはここにいる皆が知ることになった。
ストライキ中といえど、明日の天皇賞春の本命馬ということは誰しもが知っていることなので、組合員も下手に触れるわけにはいかないと、チラチラこちらを見るのが精いっぱいの様子だった。
しばらくすると記者や他の組合員、JRAのスタッフなども集まり始め、俺をどうするか協議が始まった。
残念ながらこうなってしまった以上、動かす方法はただ一つ。ひたすらムチでしばいて従わせる方法である。
しかし、それは真っ先に却下された。
ここにいる全員が、それは最悪の手段だということはよくわかっている。
餌でも釣れないと分かったので、あとはただ、俺が動くまで待つしかなくなったのだった――。
谷地オーナーが井野から緊急の電話を受けたのはその日の朝早くである。
一応社長という立場なので、土曜と言えども色々予定が立て込んでいたが、ゴルフコンペの予定がなかったのは幸いであった。
谷地はすぐに車を飛ばし、美浦トレセンに着くとそのまま俺が座り込んでいる門の前に停めた。
「谷地さん、申し訳ありません」
第一声、井野が谷地に頭を下げると、谷地は何も言わず、横になっているジェルディサヴォアの前に膝をついた。
「これはジェルがやったの?」
谷地はすぐ横にひっくり返っている飼葉桶を見て、近くにいた組合員に聞いた。
「ええ。持ってきてすぐに。食べてる最中にひっくり返したんじゃなくて、外側から鼻で押してひっくり返しました」
谷地は、ほう、ともう一度ジェルディサヴォアを見下ろしながら、続けて聞いた。
「ストライキは何時まで?」
「今夜0時で解く予定です」
それを聞いた谷地はスマホを取り出すと地図を開いた。
「間に合うか……」
谷地は井野と寺尾記者を振り返った。
「センセイ、明日の天皇賞ですが、ギリギリまで出す方向でお願いします」
「えっ、でも、いつ動いてくれるかわからないですよ?」
「深夜の2時までに出発すればギリギリ間に合うかもしれません。行くだけ行かせてみて、遅刻確定になったらスクラッチの連絡をすればいい。もし、2時を過ぎてもジェルが動かなければ、その時点で取り消します」
井野は谷地と寺尾の顔を見回した。
「間違いなくコンディション崩しますよ?無理すれば怪我のリスクも増します。それでもいいんですか」
「ええ。必ず、出してください」
谷地は力強く頷くと、もう一度ジェルディサヴォアの隣に膝をつき、鬣を撫でた。
【全スポ】2038年5月1日 04:12
~(速報) 天皇賞春に出走のジェルディサヴォアが出発直前に放馬
明日の天皇賞・春に出走予定のジェルディサヴォア(牡5・井野)が、美浦トレセンからの輸送開始直前に放馬。
通用門を抜け一時的に敷地外に出たが、通用門前で立ち止まったためその場で確保。
同馬は4時5分現在も通用門前に座り込んでいる状態で、輸送開始のめどは立たず。
____
【全スポ】 2038年5月1日 07:20
~(天皇賞春) ジェルディサヴォア座り込みが続く 現時点での出走取り消しはせず~
本日早朝に美浦トレセンから脱走し、通用門前で座り込んだジェルディサヴォア(牡5・井野)は7時現在も動く気配を見せず。
井野師は「(谷地)オーナーと協議したが現時点での取り消しは考えていない。ギリギリまで間に合うなら出走させる」と説明。今後も同馬の状態を確認しながら、出走可否を判断していく方針を示した。
美浦トレセンにおいては関東労と美駒労が本日0時より24時間のストライキに入っており、同通用門でも組合員がトレセンの入場者に協力を呼び掛けているが、車両や関係者の入場を妨害するといった行為は確認されていない。
一方、同馬が通用門前で座り込んだことで美浦トレセンの最も主要な通用門の通行が不可能となっており、別の通用門に迂回する措置が取られている。
____
ジェルディサヴォアの放馬を、井野が関係者各所に伝えるにはかなりの時間を要した。
騎乗予定の上田騎手はすでに調整ルームに入っており、電話連絡は取れない。
担当助手のコウヘイはストライキに加担している側であり、井野が何度も電話をかけたが無視されていたのだ。
組合員の立場として、争議相手である調教師からの電話を受けてはならないし、正当なストライキである以上、井野からコウヘイに執拗に電話をかければ労働三権の侵害に当たる可能性もある。
そのため、やむを得ず井野はまずJRAと谷地オーナーに連絡を入れ、昨日から泊まり込みで取材に来ていた寺尾記者に速報として記事を出すように要請した。
「宮国さん、これ見ましたか」
東京競馬場でビラ配りの準備をしていたコウヘイが、別の組合員にスマホの画面を見せられた。
そこには全スポのX記事が載っており、脱走して座り込んでいるジェルディサヴォアの姿が映っている。
「おたくの馬もストライキに協力してくれているらしいですよ」
組合員が笑いながら言った。
コウヘイは自分のスマホでもXや各新聞社のサイト情報を集め、井野からの着信履歴をしばらく見つめていたが、やがてスマホをサイレントモードに変更すると鞄に投げ込んだ。
その井野は八方塞がりだった。
谷地からは出走を強行するように言われ、コウヘイが関東労のストライキに加担している中、ジェルディサヴォアを見張るために厩務員を1人常に出しておかねばならず、進藤もレース騎乗の為に東京競馬場に行ってしまい、中村と、他のスタッフ4人で業務を回さなければならなかった。
朝調教もまだ終わっていない中、ジェルディサヴォアが一番大きな通用門を塞いでしまったことで交通渋滞が発生し、東京競馬場に出走させる予定の2頭が朝の7時をすぎてもまだ出発できず、出走回避が濃厚になっていた。
井野は調教師会の役員に対し、組合との協議の場を設けてストライキを解除してもらうように要請したが、そもそもジェルディサヴォアの脱走、座り込みがストライキと直接的な関係があるとは認められない以上、調教師会はただ1人の調教師の為に強硬な姿勢を崩すことはなかった。
その原因となっている馬が明日のGⅠにおける本命馬というのも他の陣営にとってはラッキーと言えるもので、ジェルディサヴォアが出走取り消しとなれば当然、自分たちの馬が勝つ確率も大幅に上がると、あえて知らんぷりを決め込んでいる側面もある。
一方で影響を受けたのは井野1人だけではないのも事実だ。
他の厩舎にしてみても、ストライキに関しては非組合のスタッフを動員し1日程度であればどうにかやりくりできる算段だったのだが、通用門の閉鎖は想定外であり、井野厩舎と同様、京都競馬場への前日輸送も含む出発の大幅な遅延により多数の出走取消が発生していたのであった。
その中には天皇賞春に出走予定のグランプリホース・サイヤーレなどもおり、故障もしていないのにGⅠの回避が確定してしまうなど、強豪陣営においても影響が出始めていた――。
通用門に張っている組合員たちもヒマそうだ。
俺が座り込んでいるのでこちらを通過する車両はほとんどいなくなっており、たまに事情を知らずこちらから入ろうとする車にビラを渡しつつ迂回の説明をさせるなど、警備員のような仕事もやっていた。
通用門はまだいくつかあるのだが、ここが一番大きく、厩舎エリアと一本道になる通用門であり、馬運車など大型車両が待機できるスペースも近くにあるゲートなので、ここが封鎖されると細い通用門に大型車両が殺到し、待機や転回をできる場所も少なくなるため、入出庫には時間がかかる。
案の定出走取消の馬が大勢出ていると、組合員たちが話しているのが聞こえた。
残念ながら、俺は20時間も横になっていられるわけではない。
たまに立って少し歩かないと、蹄による血液循環が止まってしまうので、他の車が入ってこないタイミングを見計らってたまに立ち上がり、その場で何度か回転しながら足踏みをした後、また伏せる。
回転する際にはつながれている鎖が首に絡みつかないよう、右に1回転したら今度は左に1回転、と交互にやっていかなければならなかった。
しかも人間と違って膝を付いたりできるわけでもないので、伏せた姿勢のままだと内臓がつぶれてしまう危険もある。
そうやってたまに運動をするために立ち上がると、監視していたJRAの職員や井野厩舎のスタッフからは、おっ、という声が上がるのだが、厩舎のスタッフが曳き綱を握っても従うつもりはなかった。
そもそもこいつは組合に入っていない奴なのだから、今日に関しては従ってやる義理はない。
コウヘイは俺の情報が入っても電話に出ないほど真面目にストライキを遂行しているようだし、俺もしっかり協力してやらなければならないだろう。
運動ついでに新しく持ってこられた飼葉桶と水桶を蹴り飛ばし、地面にぶちまける。
このやり取りも朝から3回目だ。
腹は減ってきていたが、食いたいという欲求と本能をぐっと堪え、暇つぶしになることを考えた。
すでに配っているビラの内容は全部読んでしまったし、ヒマになってきた組合員も話すことが無くなったのか、何人か交代で昼休憩に入ってしまっている。
俺はふと跳ね起き、グルグルと回りながら頭を巡らせ始めた。
頭を巡らせたといっても馬の脳内処理ペースなので数字と記憶が飛ばないようゆっくりと思案にふける。
大事なことを忘れていた――今日はゴールデンウィークの本番初日じゃないか!
昨日厩舎に掛けられていたラジオから、ゴールデンウィークの渋滞予測が流れてきていたのをすっかり忘れていたのだ。
トラックのエンジン音が聞こえたのでまた立ち止まって伏せる。
美浦トレセンから京都競馬場まで、一般的な輸送時間は10時間。
ただしそれは、特に何もない週末の場合だ。
俺はゆっくりと、京都競馬場へのルートを思い出す。
一昨年の菊花賞と昨年の天皇賞春では新東名自動車道経由の一般的なルートだった。
或いは深夜0過ぎに出発して午前8時頃に名古屋周辺を通過すると考えたら、中央自動車道から名神自動車道に抜けた方が早いかもしれないが、馬運車で山道のルートを通るにはリスクも大きい。
そのあたりは別に俺が口を出せる問題ではないので、プロの判断に任せよう。
いつも俺を運んでくれるのはオーナーの関連会社にあたる輸送会社なので、あのオーナーのことだから俺の身体は二の次でなんとか間に合わせろ、と命じていてもおかしくはない。
第一、この状況に至っても出走を強行するよう指示しているのだから。
昨日1日だけ平日を挟んだが、その前日は昭和の日だったので、一昨日から大型連休に入っている人たちも多いと考えたら多少は渋滞が緩和されているかもしれない。
ましてやゴールデンウィーク中は高速道路の休日割引が適用されないのだ。
だがそれでも、基準の10時間は上回るとみていいだろう。
深夜の出発で東京近郊の渋滞は避けられるとしても、名古屋周辺を通過するのは午前7時から8時頃。
その時間帯だとほとんど渋滞に巻き込まれるのは確定で、そのあと滋賀から京都に至る時間帯が午前10時から11時過ぎ。
こちらも午後ほどではないだろうが午前中におけるピークタイムだ。
するとタイムロスは2時間前後とみるべきか。
出走馬は発走時刻の60分前に装鞍所に集合しないといけない。
馬運車から降りて装鞍所に直行するにしても、ギリギリで14時、できれば13時過ぎまでには到着しなければならないだろう。
2時間増しの12時半から13時ごろまでに到着であれば何とか出走にはこぎつけられるが、途中の渋滞で完全に止まってしまうと非常に厳しくなるのだ。
あー、考えるのめんどくさかった。
馬になってから、ここまで前世で見た記憶を引き出しから引っ張り出すことはなかったから、とんでもない時間がかかっていた。
最初に輸送時間の計算違いに気づき跳ね起きたのは組合員が昼休憩を取りに行っている時間帯だったのに、気が付いたら日が沈みかけている。
とりあえず24時に座り込みを解除してすぐ馬運車に飛び乗ればギリギリ間に合うことは分かったので、安心して固まった身体をほぐすように立ち上がり、また数回足踏みをする。
ここでは時間がわからない以上、予定されている24時ちょうどに組合員が解散を宣言してくれるのを願うばかりであった。
【全スポ】2038年5月1日 18:52
~(天皇賞・春)ジェルディサヴォア座り込み半日超 美浦発の輸送に大幅影響~
1日早朝に美浦トレセンの通用門前で座り込んだジェルディサヴォア(牡5・井野)は、午後6時現在も動く気配を見せていない。
同馬は美浦トレセンから京都競馬場への輸送直前に放馬し、主要通用門前で確保されたが、その後も同所に伏せたまま。関係者が飼葉や水を用意しているものの、ほとんど口をつけていないという。
この影響で、美浦トレセンでは大型車両の入出場に大幅な遅れが発生。別の通用門へ迂回する措置が取られているが、今週の出走状況には大きな影響が出ている。
本日の東京競馬では多数の出走取消が発生。前日輸送の遅れに伴い明日の京都競馬へ出走を予定していた一部の関東馬には既に取消が発表されており、天皇賞・春に出走予定だったサイヤーレ(牡6・張谷)も輸送遅延のため回避する見込みとなった。
ジェルディサヴォアについて、井野師は「ギリギリまで出走の可能性を探っていく」と説明。現時点で出走取消の判断は下されていない。
美浦トレセンでは関東労と美駒労による24時間ストライキが続いており、解除予定は同日24時。ジェルディサヴォアの輸送が可能となるかは、深夜まで予断を許さない状況となっている。
____
東京競馬場でのビラ配りは、最終レースが終了し客がほとんどいなくなると役割を終えた。
コウヘイは組合の片づけを手伝った後、ギリギリで土浦駅発の最終バスに乗ると美浦トレセンに着いた。
トレセン内の寮に帰ること自体は出勤ではない。
コウヘイは組合員の義務として、24時までは厩舎に顔を出すつもりはなかった。
トレセン前のバス停から寮に向かうには、事実上封鎖されている守衛室前の通用門を通るのが一番近い。
東京競馬場や新潟競馬場から帰ってきた馬運車がひとつ奥にある通用門に迂回していくのを少し眺めた後、コウヘイはまっすぐ通用門に向かった。
いまだ通用門の前に並んでいる同志たちに、東京競馬でのビラ配りを終えて帰ってきたところだ、と告げると、その頭越しに、首をやや高く上げて立ち上がり、まっすぐ自分を見つめているジェルディサヴォアと目が合った。
(あいつは賢い馬だ)
手を伸ばしかけたコウヘイはふと思った。
ニワトリじゃあるまいし、たった1日会わなかっただけで自分を忘れるわけがない。
だがここで何のアクションも起こさず、ただこちらを静かに見ているということは、朝から自分を待っていてくれたというわけではなさそうだ。
(あいつは、俺が何をしてきたのかわかっているのかもしれない)
そんなわけないか、とコウヘイは伸ばしかけた手をポケットに突っ込み、ジェルディサヴォアのすぐ横を、振り向きもせず通り過ぎた。
ジェルディサヴォアも、コウヘイが横を通っていくのを追いかけようともせず、また座り込むのだった。
24時が近くなると、通用門前にまた人だかりができはじめた。
組合の重役だけでなく、解散を確認するためのJRA職員、記者やリポーターとテレビカメラなどのマスコミ。
それだけではなく谷地オーナーが車でまた様子を見に来ており、その後ろ、通用門の外の少し離れたところに、オーナーが所有する馬運車の1号車が後扉を開けて待機していた。
谷地と井野がチラチラと時計を見ている。
移動開始のリミットは深夜2時。
これを過ぎたら絶対に間に合わないので、出走取消が濃厚となってしまう。
23時59分。
組合員の執行部役員が時計を確認した。
そして――日付が変わった。
「只今の時刻をもって、関東労および美駒労はストライキを解除します」
執行部役員がそう告げると、通用門の前に立っていた組合員たちが一斉に赤い誘導棒を下ろした。
ビラの束がまとめられ、腕章を外す者もいる。
朝から門の前にあった人の壁が、そこで初めて壁ではなくなった。
その動きを見ていたジェルディサヴォアが、ゆっくりと首を上げた。
誰かが声をかけたわけではない。
曳き綱を引いた者もいない。
ただ、前脚を伸ばし、長く伏せていた身体を起こすように立ち上がった。
井野が慌ててスタッフに声をかける前に、人だかりの後ろから、作業着姿のコウヘイが歩み出て、曳き綱を掴んだ。
誰も呼んだわけではない。
だが、来るならこの時間しかなかった。
コウヘイは井野にも谷地にも頭を下げず、ジェルディサヴォアの無口から鎖を外した。
「行くぞ」
それだけだった。
朝から誰が引いても動かなかった馬が、コウヘイの横に並ぶように、馬運車に向かって歩き出した。
「コウヘイ」
井野が呼び止めると、コウヘイは曳き綱を取ったまま、振り返った。
少し間があって、井野は、いや、と表情を崩した。
「――そのまま乗ってけ」
コウヘイが帽子の庇を摘んで小さく頷いた。
午前0時20分。
ジェルディサヴォアとコウヘイを乗せた1号車は、窓を全開にして美浦トレーニングセンターを出発した。
【全スポ】2038年5月2日 00:58
~(天皇賞・春) ジェルディサヴォア異例の深夜出発 20時間座り込みから一転、京都へ~
天皇賞・春連覇を狙うジェルディサヴォア(牡5・井野)が、2日午前0時20分、美浦トレセンを出発した。
1日の輸送開始直前に放馬し、主要通用門前で座り込んでいた同馬は、約20時間にわたって同所を動かなかった。関係者が飼葉や水を用意してもほとんど口をつけず、日中は何度か立ち上がる場面こそあったものの、門の前から動くことはなかった。
事態が動いたのは、関東労と美駒労による24時間ストライキが解除された直後。午前0時に組合員が撤収を始めると、ジェルディサヴォアは自ら立ち上がり、宮国助手に引かれて待機していた馬運車へ向かった。大きく抵抗する様子はなく、スムーズに乗り込んだ。
通常、美浦所属馬が京都競馬場で出走する場合は前日朝に出発し、昼過ぎには現地へ到着する。今回はレース当日の未明出発となり、京都競馬場への到着は2日午前中となる見込み。移動時間、馬体の消耗、到着後の状態確認を含めれば、出走へ向けて極めて厳しい条件となる。
この日の美浦トレセンでは、同馬の座り込みにより大型車両の動線が大きく乱れた。土曜日の東京競馬では複数の出走取消が発生し、翌日の京都競馬へ向かう関東馬にも影響が広がった。天皇賞・春に出走予定だったサイヤーレ(牡6・張谷)も輸送遅延のため回避する見込みとなっている。
井野師は「まずは無事に京都まで運ぶこと。出走については到着後の状態を見て判断する」と話すにとどめた。連覇を狙う昨年の覇者は、異例の当日輸送で天皇賞・春へ向かう。
<関東TM 寺尾>
次回は5/20(水)頃を予定