「先生、ちょっとお願いが」
ダービー翌日の月曜日、ジェルがリベを伴って部室に入ってくると、クリアファイルをスペシャルレート先輩に預けた。
「キングジョージ?」
クリアファイルの中のパンフレットを少し引っ張り出して、レート先輩が目を丸くすると、ジェルが小さく頷いた。
「ダービーのアレコレで記者がうるさいので、高飛びしようかと思いまして」
木野トレーナーが、ジェルが持ってきた冊子の中から興行ビザの取得に必要な書類を取り出した。
「案としては良いと思う。ただ俺もパスポートは持ってないんだ。それに、これを見る限り最終登録直前の追加登録になるから、いくらだ……1700万円ぐらいかかるだろう」
「皐月賞1着の賞金がありますから、私の手出しで渡航費用までは余裕で全部出せます。それから、キングジョージだけじゃなくて、パリ大賞典にも登録したいので、登録料だけで2400万ぐらいはかかるはずです」
木野トレーナーが口から魂が抜けたように息をついた。
普段レート先輩が出走している平場戦は登録料が不要で、たまに出る特別戦なら登録料は総額3万円。
かつて別の先輩が1度だけチャレンジしたGⅢレースでも総額10万円程度だ。
あたし達がホープフルSに出たときは1人当たり30万円だったが、ジェルの提案するパリ大賞典とキングジョージⅥ&クイーンエリザベスSは予備登録は締め切られていて、全て追加登録扱いになるらしい。
そうなると登録料が跳ね上がり、4桁万円となっている。
それを中学生の分際で自分の口座から一括で払うと言われ、指導者であればまず親に相談するべきだと心配するところ、あまりに次元が違う話だと、若干トリップしているようだ。
「で、どっちに出るんだ?一週差だけど」
「両方。連闘で行きます」
空気が固まった。
「……とりあえず登録しておかないと、出走証明が取れないんですよ」
「パスポートっているの?」
あたしは小声でリベに聞いてみた。
「もちろん。これから作ります。長期滞在だと興行ビザが必要ですが、1か月程度の滞在ならフランスでもイギリスでも、ビザは免除してもらえますから、パスポートと向こうからもらう招待状とかそういうのだけで」
「あたしもレースに出るなら必要?」
リベは小さく頷くと、鞄から別のクリアファイルを引っ張り出した。
「ネヴァーさんに合ったレースは既に選んでます。もし出走する方向なら、すぐにでも手続きを始めましょう」
「出てもいいよ。勝てそうなら」
リベが、まだ話し合っている木野トレーナーとジェルの間に、そのクリアファイルをパン、と置いた。
「トレーナー、こちらもお願いします。ネヴァーさんの分です。インターナショナルSに」
木野トレーナーとレート先輩の目が同時にあたしの方に向いた。
驚きというより、頼むからこれ以上余計な話を持ち込むな、という目。
月曜日の朝に洗濯物の給食着を出したときの母の目だった。
「登録料いくら?」
「今からなら430万です」
リベが木野トレーナーの質問に間髪を入れずに答えた。
「6月中であればです。7月になったら2300万ぐらいに」
「じゃあ急いでやらないと。私の方も渡航許可が間に合わなくなりますから、出走申請の記入は今日中にお願いします。
先生と先輩も、パスポート申請すぐお願いします。最悪、パリ大賞典は私1人でもいいですけど、キングジョージにはお2人とも間に合わせてください」
ジェルが木野トレーナーを急き立てるように捲し立てると、リベがフランスギャロやBUAの翻訳した申請書類の見本を横から差し出した。
「リヴェッティは行かないの?」
「もちろん連れて行ってもらいますよ。同志のおカネで」
「リベの渡航費も私が出します。どうせ夏競馬はヒマなんですから、函館でイカ食べるよりヨーロッパでパーッと使いましょうよ」
ジェルが指で輪っかを作り、金のハンドジェスチャーをした。
どう考えてもワンコインの額ではないと思うけど、フランスやイギリスには1,000万円に相当するコインでもあるのだろうか。
釈然としない表情ではあるが、木野トレーナーがそれぞれの書類に署名した。
一応木野トレーナーもあたし達の賞金の10%が入っているはずだから、ここ数ヵ月で5,000万円近くを稼いでいる。
それに祝勝会も慰労会もやってないから、レート先輩のご飯代を除けばほとんど丸々、口座に残っているはず。
それでも、3レースの登録料だけでトレーナーの口座の半分以上の金額を提示されて、それを自分の年齢の半分にも満たない中学生に出してもらうのはプライドにくるものがあるだろう。
それから約1週間、リベが自分のトレーニングそっちのけで駆け回った。
1ハロン11秒ぐらいで駆け回った。
急コーナーの福島レース場すら最短距離で回れるぐらい駆け回った。
あたしもリベに付いて行って手続きのアレコレや窓口を教えてもらった。
リベ曰く、府中市の役所に行くよりURAを通して申請をした方がはるかに早くビザやパスポートが発行されるという。
URAのコネと権力をもってすれば、自治体の手続きなんて飛び越えて国の外務省に直接届くのだから。
一般的に出走登録は間に合ったとしても諸々の手続きを完了してビザが発行されるまで1か月以上はかかるらしいが、ビザが免除ということもあって、あたしたち全員の渡航許可が出たのは6月末だった。
「凄いな……全員分揃っちまった」
木野トレーナーがピカピカのパスポートを5人分、机の上に並べた。
「ジェル、記者の都合はついたのか?」
「はい。航空券は渡しています。あとは会社の方でホテルを取るから十分だと」
ジェルは例のうるさい記者を出禁にしており、代わりにあの中年記者を窓口とするようURAを通じて通告している。
ウマ娘新聞としては最大手の月刊トゥインクルの記者をフランスやイギリスに帯同させないと言われてURAも難色を示したらしいが、本人が取材を拒否している以上付いて行っても仕方がない。
一応男性記者である以上、部室には入らず取材はプレスエリアかレース場内に限り、あたし達には許可なく直接取材をしないよう約束している。
なぜジェルがあの男性記者を指名しているのかはよくわからないし、なんならあの記者が所属しているスポーツ新聞社もそこまでトゥインクル・シリーズへ熱を入れているわけでもないのだ。
どちらかと言えば野球やサッカーなどを大きく取り上げ、エッチな記事もないお堅い新聞なので、あたしも子供の頃からお父さんに買ってもらえている。
流石にダービーの直前に、“ジェル体調不良”と言うだけでなく、はっきりと“下痢”とまで書いていたのは引いたが、ジェルはそれを読んで若干恥ずかしそうに頷いただけだった。
「ここまではっきり書いてくれるならちょうどいいです。ネヴァーさん本命らしいですよ」
ジェルから回ってきた新聞には、週末のレースの出走欄に赤ペンで二重丸や三角などがゴチャゴチャと書き込まれていた。
丸2日かかった荷造りを終えたところで、ジェルが腕を組みながら口を開けたままのトランクを睨んでいた。
「どうかした?」
横から声をかけると、ジェルが壁にかけられた制服をあたしの体の前に当てた。
「うーん……ネヴァーさん、私服、どういうのをお持ちです?」
「Tシャツとかジーンズとか、そういうのしかないけど」
「ちょっとフリフリしたやつとかは?」
「ない」
ジェルが、よし、と頷くと、レート先輩を呼んだ。
「先輩、ちょっと買い物に付き合っていただけませんか。学園の制服は流石にキツいですよ」
「いいわね。2着ぐらいでいい?」
「今回は観光だけですし、向こうでも買えますから、とりあえずそれくらいで」
「おっけー。今からなら新宿でも間に合うわね。トレーナー、3人連れていくわよ」
女子の買い物につき合わされなくてホッとした表情の木野トレーナーを残して、遅れてきたリベともども、気が付いたら京王線に揺られていた。
金曜の早朝、買ってもらった少し上等なジャケットを着てハイヤーに乗せられ、羽田空港のエントランスに着いた。
「中にラウンジがありますけど、一度保安検査を通ったらこっちのホールには出られません。ラウンジでは軽食も食べられます。外、見て回ります?」
「荷物も増やしたくないし、中に入っていいんじゃないかな」
トランクを預けた後、木野トレーナーの先導で保安検査と出国審査。
「ウマ娘レーンは空いていていいね」
あたしが一般レーンを横目に見ながら言うと、ジェルが、うーん、と首をかしげた。
「国際線はこんなもんですが、今日は金曜でしょう?国内線の方は土日の阪神競馬に出走する人たちで混むんですよ。ウマ娘レーンは1本しかありませんし」
「向こうのレーンじゃダメなの?」
あたしが、ガラガラの優先保安検査場を指さした。
「全員ビジネスクラスを取ってますから、一般の人ならそっちでもいいんですが……。
向こう側のスタッフは皆ヒトミミですから、ウマ娘が強行突破したら取り押さえられなくて」
納得した。
タダ飯だとばかりに、バカみたいに軽食を食べ尽くすウマ娘が多いということで、ラウンジに入る際にウマ娘一人あたり5,000円を徴収されたが、それにしたってこのラウンジに入れるなら安いものだと思う。
「ファーストクラスならまた別のラウンジを使えるんですが」
と、ジェルは言うが、家族旅行でも安っぽいホテルにしか泊まったことがないあたしにとっては、こんなところに入る資格が本当にあるのかとキョロキョロしっぱなしだった。
「ダービー
と、ジェルがキャロットジュースとチョコレートケーキを載せたお盆をあたしのテーブルに置いてくれた。
奥の方でワインで乾杯をしている木野トレーナーとレート先輩はすっかり大人のムードに馴染んでいる。
一方、少し離れた席で炭酸水を片手にパソコンのキーを叩いているリベは、大人びた服装も相まって、身長の低さに目を瞑れば完全なビジネスパーソンに見える。
しかし、保安検査で引っかかって、処刑台に連れて行かれるような顔色で震えていた姿を見てしまった後なので、あの姿を思い浮かべるとイメージはひっくり返る。
ジェルやレート先輩が、
「かーわいい」
と言いながらニヤニヤして眺めていた。
どうやら蹴りが強いウマ娘向けに補強プレートが入ったローファーを履いていたのを忘れていたようだった。
飛行機に乗るのはメイクデビューで小倉に行ったときが初めてで、遠征費用はURAが出してくれたとはいえ当然エコノミークラスだった。
隣に誰もいないというのは新鮮で、今回は食事やドリンクサービスも豪華。
ウマ娘専用食はないので量としては物足りないが、機内で動かないことを考えたらこれでいい。
世界的なレースにも出資していて、、ウマ娘への対応も厚いエミレーツ航空やカタール航空のファーストクラスにはトレッドミルがあるらしいが、ここにはそんなスペースはない。
あたしは興奮してほとんど一睡もできなかったが、後ろのリベの席からはキーボードを叩く音がずっと続いていた。
通路を挟んだ真ん中の列で2人並んで座っている木野トレーナーとレート先輩はオリジナルワインを空けた後2人揃って寝てしまったし、ジェルに至っては飯、寝る、トイレ、飯、寝るの繰り返しで、常にパジャマ姿だった。
宿泊場所はパリではなく、シャンティイレース場の近くにあるホテル。
フランスのトレセン学園はロンシャンではなくシャンティイにあるそうだ。
空港からの移動もハイヤーが手配されていたが、途中、ジェルが木野トレーナーとレート先輩を連れて、空港近くの大きなスーパーマーケットでジュースのボトルを箱買いしていた。
「こんなにいる?」
と聞くと、
「念のため」
とだけ返って来たが、ホテルに着いてからその理由が分かった。
ホテルに着いたのは20時を回っており、一休みしたらすぐ夕食だった。
当然トレーナーやレート先輩は本場のワインを楽しんでおり、あたし達はとりあえずキャロットジュースを3人分。
水も有料というのだから驚いた。
いい具合に酔っぱらっていた先輩達はすぐ部屋に戻って寝てしまったので、あたしとジェル、そしてリベ3人で軽く部屋を見て回った。
そこでふと喉が渇いて水を飲んだ瞬間、
「やっぱり口に合いませんか」
リベが背中を擦ってくれているところで、ジェルが水道水を手に受けて、一口飲んだ。
「苦くない?ここの水」
「フランスの水道水は硬いんで、大抵こんな感じです。無理に飲まなくても、しばらくはジュースにしておくといいでしょう」
イギリスに移れば少しはマシですよ、と、ジェルがさっき買ってきたジュースのボトルを10本ほどテーブルに並べた。
翌朝、若干酒が残っている木野トレーナーに連れられて、シャンティイトレーニング場に出た。
昨日は夜だったので木が茂っている森にしか見えなかったが、その森を切り開くように、芝のコースが現れた。
「レートとリヴェッティも少し走ってみるかい?いつも通りジェルが先頭で。ゆっくりでいい」
リベが、はい、と言って靴を履き替えるのを手伝いながら、ジェルが小さく、
「エーグルは苦手なんですけどねぇ……」
と、ため息をついたのが聞こえた。
ジェルのスローペースに合わせて走ってみると、なんとなくイライラしてくる。
レート先輩も少しペースを上げたくてウズウズしているようで、ちょっとジェルに並びかけてみた。
「飽きてない?」
ジェルの耳元で聞くと、小さく頷いた。
あたしは横に並んだまま、左から体当たりをしてみた。
ジェルが一瞬驚いたように耳を絞ったが、すぐに押し返してきた。
「抜いていい?」
「どうぞ」
ジェルの返事と同時に、あたしとレート先輩がスパートをかけた。
リベはジェルの後ろをずっとキープしている。
200mほど飛ばしたあと、あたしとレート先輩は脚を緩めた。
後ろからジェルとリベが少しずつ近づいてきて、
「先に戻っててください!」
と、追い抜きざまに声をかけられた。
その後ろからリベが、
「同志、あと200mでスパート1回目!」
と、ジェルに指示を出しているのが聞こえた。