「タイム良し、コース相性も良し、あとはヤネだけよなあ」
スプリングSでは今や当たり前となったインターネット投票ではなく、中山競馬場で久々に馬券を買ったところ5万が100万超に化け、帯一つ抱えたのである。
記者としてのキャリアは長い中年男ではあるが、いまだ独身で彼女もいない、酒も飲めない、タバコもやらない。
ここ数年金の使い道と言えばコンビニか競馬だけの彼が100万円以上の大金を一度に手にしたものだから両目が「¥」になったのは言うまでもなく、その夜は若い女の子のいる店に駆け込むと、温玉付きの特盛牛丼をお持ち帰りしたのであった。
さて、寺尾のクラシック一推しはジェルディサヴォアなのだが、やはり近年のスプリングS組の不振、そして
所属厩舎も下の上辺りで、血統も近年重視されている早熟スピードタイプとは対照的な長距離晩成型。
どのデータを切り取っても皐月賞への好材料がない。
新潟の新馬1400mで快勝、アイビーSでは直線で脚が上がって失速、前走のスプリングSではやや遅めの時計と言うこともあって、2000m超での計算が立ちづらいのも悩みどころだった。
強いてあげれば父父が中山巧者であるというところと、個人馬主の中でも実績がある谷地オーナーの馬なので、大手グループに対抗できる数少ない生産牧場産まれ、というだけである。
「寺さん、皐月賞本命どうすんの?」
同僚の佐藤記者が寺尾のPCを覗き込んだ。
「ほんとはジェルで推したいのよ。ただ納得させるデータが何一つなくてなあ。スプリングSのジェルをトップにした一面記事、ボツられたっしょ?」
「まあそれでも寺さんは儲かったんでしょ?もうダンマリでジェルにぶち込んだら?注目されなきゃもっとオッズ跳ねんで?」
それはそうなのだが、寺尾にも競馬記者としてのプライドがある。
競馬面は「未来予想」こそが命なのだ。
たとえ事実だろうが捏造だろうが過去の出来事をほじくり返して書いたゴシップ記事など一銭の価値もない。
「隅に回されたけど、俺が『ジェル1点勝負!』って書いた記事は一応載せてもらえてたから、評価は上がってると思うんよ。でもいくら何でも『根拠はないがジェルが勝つ!』なんて見出しに載せるわけにゃイカンじゃんさ」
各スポーツ紙や競馬予想サイトでの出走馬確定前オッズ予想は、GⅠ朝日杯フューチュリティSを勝ち共同通信杯を快勝して臨むドメスティックギアが1番人気で2倍台前半は堅いと見られている。
2番人気予想には同じくGⅠホープフルSを勝ち、直行で皐月賞に出走するミュージカルレース、3番人気は豪快な差し脚で新馬、リステッドクラスの若駒S、GⅡ弥生賞と3連勝して「ディープインパクトの再来か!?」と持て囃されているヴァルカリになると予想されていた。
(ジェルは外せないとして、相手はやっぱり――)
寺尾記者が何度も目を止めてしまう一頭が、ジャストフォーカスである。
ジャストフォーカスは新馬戦こそ2着に敗れたものの、未勝利は危なげなく突破し2歳時に5戦、年を越してからこれまで既に3戦と、計8戦を走りながら堅実に賞金を加算してきたダークホースであり、寺尾にとってはノーマークで超万馬券を取り逃した因縁の馬である。
(これ取りてえなあ~)
寺尾はオッズ予想のサイトをいくつか開きながらシミュレーションしてみた。
ジェルディサヴォアはおそらく5-7番人気、ジャストフォーカスはほぼブービーに近い12-15番人気予想なので、ワイドでも当たれば万馬券は堅いのだ。
「寺さん、穴党なのはよく知ってるんスけどね?いくら何でもフォーカスはないっしょ」
「いやあ、こういう経験積んできた奴が雨で化けるのよ。重賞勝ちはないけど
「で、連に絡むデータはあるんスか?」
「ねえよ。あったらもっと人気になるだろ。どうすっかなあ……ジャストフォーカスは穴だとしても、ジェルは軸間違いなしと睨んでるんだけどな。あとでデスクになんとか日曜朝の1面貰えるように頼んでみるか。明日には枠出るし、もう一回美浦行ってくる」
「あ、僕も行きますわ。西のロクさんには負けたくないし」
今年の皐月賞中心馬、ドメスティックギアとヴァルカリは栗東所属なので、栗東の取材班のリーダー
昨年ドラフト1位で巨人に入団した大型ルーキー投手の開幕4連勝をかけた登板が土曜にあるはずだが、全報スポーツは球団お抱えではないので裏一面に回すようにプロ野球担当には根回しをしておいた。
土曜に国民的アイドルグループが解散発表でもしたら話は別なのだが、日曜朝の1面の敵は同僚の競馬記者になるだろう。
翌朝、寺尾は井野厩舎でコーヒーをご馳走になっていた。
「井野センセイ、ほんとに春から坂路一本もやってないんですよね?」
井野も苦笑いをしながら頷いた。
「ダービー終わってからだろうなあ、本格的に坂路入るのは。逆に寺尾さん、最終ウッドでこのタイムなのにどうやって本命に推せんのよ?」
最終追い切りではアキさんを背に美浦Dコースを5F単走、67.0秒でラスト1Fは12.1秒であった。
「調教駆けしないタイプなのは分かってますからね。その辺から突きますよ。もちろんダービーも行くんでしょ?」
「勝ち負けなるかねえ……」
「番記者の目では東京だとなんか足りないんですよねえ」
「中山は間違いなく鬼なんだけどな。はっはっは」
最初見た時、ジェルディサヴォアは絶対走ると寺尾も確信したのだ。
それから井野厩舎に通い詰めでデータを集め、調教も逐一自分の目で直接見てきた。
しかし新馬戦に乗ったのは減量明けて全く仕事がなかった上田秋信。谷地オーナーが目をかけているとはいえ、お世辞にもなにか光るものを感じられるような騎手ではない。
新馬の勝ちっぷりをみても間違いないと思ったのだが、結局ここに至るまで鞍上を強化する気配はない。
リーディング争いを演じている騎手は大抵大手競馬グループに囲い込まれているが、そのワンランク下の騎手でさえ上田と比べるまでもないのだが。
案の定新馬戦の後アイビーS、スプリングSとも上田がジェルを上手く導いたかと言えばそうでもなく、むしろ足を引っ張ってるんじゃないかと言いたくなるほど騎乗ミスが目立った。
一方、寺尾のもう一頭の軸馬ジャストフォーカスの騎手は若手ながら将来は間違いなくリーディング争いをするだろうと言われている。
「おい寺尾さん、そろそろ高山センセイ帰ってくるはずよ」
高山はジャストフォーカスの管理調教師だ。
「あ、ほんとですか。じゃあまた、枠が出たらお話伺いに来ます。どうもご馳走様でした」
寺尾はスマホを片手に井野厩舎を後にした。
【全スポ 4/19(日)】
~カギは預かった!道悪の鬼⑪ジェルディサヴォア~(距離よしコースよし)
近年の皐月賞は“直行”が王道とされているが、今年は正々堂々トライアルから⑪ジェルディサヴォアに期待。
前走スプリングSではスタートで後手を踏み、向こう正面から超ロングスパートをかけ押し切ったが、1800mは明らかに短かったと井野師。
距離延長に加えて当日は雨が濃厚。先手をとれる同馬にとってはおあつらえ向きの条件がそろったと言えよう。
東京競馬場では不安が残るため陣営には勝負気配アリ。上田騎手は「腹くくって逃げるしかないから」と少々弱気だが堂々逃げ切ってもらいたい。
もう一頭、雨予報に歓迎ムードなのが③ジャストフォーカスだ。デビュー戦ではジェルディサヴォアの2着に敗れるもそれからキャリアを重ね皐月賞で早9戦目を数える。
重馬場での成績は(1-2-0-0)と間違いなし。荒れたレースになれば経験値の高いジャストフォーカスの大駆け気配は十分。
〈おすすめ買い目〉
ワイドBOX(③⑧⑪⑬)
<関東:寺尾記者>
【全報スポーツ皐月賞予想】
| 1 | 1 | チェーンサプライ | 牡3 | 先行 | ―――― | 差がある |
| 2 | ドメスティックギア | 牡3 | 差し | ◎◎◎△ | 充実一途 | |
| 2 | 3 | ジャストフォーカス | 牡3 | 差し | ―――○ | 道悪なら |
| 4 | ミタノブロッケン | 牡3 | 先行 | ―△―― | どこまで | |
| 3 | 5 | ミツバアネモア | 牡3 | 先行 | ―△△― | はまれば |
| 6 | ゲームジャッカル | 牡3 | 先行 | ▲――― | 良場待ち | |
| 4 | 7 | ヴァルカリ | 牡3 | 追込 | ○○―△ | 同条件で |
| 8 | アンベストネヴァー | 牡3 | 差し | ―△▲△ | 中山では | |
| 5 | 9 | ジョーゲンドリー | 牡3 | 差し | ―――― | 厳しいか |
| 10 | ゲンコツ | 牡3 | 追込 | ―――― | ロス無く | |
| 6 | 11 | ジェルディサヴォア | 牡3 | 逃げ | △―△◎ | 逃げ宣言 |
| 12 | リヴェッティ | 牡3 | 先行 | ――△― | ペース鍵 | |
| 7 | 13 | ミュージカルレース | 牡3 | 差し | △▲○▲ | 逆転ある |
| 14 | ピーキーシルバー | 牡3 | 追込 | ―――― | 前走程は | |
| 8 | 15 | マルスギャラクシー | 牡3 | 差し | ―――― | 精神課題 |
| 16 | ドーバーアルビオン | 牡3 | 差し | △――― | 大外厳し |
GⅠよGⅠ。
しかも俺はトライアル競走で1着をとり優先出走枠での参戦。堂々の6番人気だ。
昨日から降って止んでを繰り返していた雨が今朝になって一段と強くなった。
馬場状態も重から不良に変わり、せっかくのGⅠだというのにパドックの最前列は疎らであった。
「パドックに入ると急にだらしなく見えるのは何だろうな」
コウヘイがちょっと強めに曳き綱を引きながらパドックを周回する。
歩様がバラバラ、というのはどうすればいいのかよくわかってないが、とりあえずコウヘイにはやる気なく見えたようで成功だ。
パドックではオーロラビジョンを眺めながら歩く。暇つぶしになるし、集中力を欠いているように見えるから一石二鳥なのだ。
皐月賞はクラシック第一弾で中山開催ということもありオッズは割れやすい。
しかし今年は3強ムード。
1番人気はドメスティックギアの2.5倍。次いでヴァルカリが3.6倍、ミュージカルレースが4.5倍と続き、4番人気のアンベストネヴァー以下は10倍を超えていた。
雨空といえどやはりGⅠともなると周囲がピリピリしている感じがする。
スマホから聞こえる他のレースの実況や、ボールペンやクリップペンシルを走らせるカリカリという音。
ヨッシャ、という声とパドックの階段を駆け上がる足音。
賭博と浪漫という娯楽のすべてを濃縮した競馬場という世界。
これで賭ける金が湯水のように沸いてきたら楽園なのだが、そうなったら賭けの楽しみは失われてしまうのだろう。
号令がかかったので、コウヘイが手綱を引く前にその場で停止する。アキさんが駆け寄ってくるのが見えた。
「今日ももっさり歩いてんなあ」
「さすがにGⅠの雰囲気にアテられましたかね……」
アキさんが跨ると誘導馬を先頭に地下馬道に降りていく。
馬は乗り役の感情が分かるというのはよく言ったもので、アキさんがガチガチになってるのがよくわかる。
どういう競馬をするつもりか知らんが、落馬だけはしないで欲しいものだ。
そしてパドックでは慣れたように曳いていたコウヘイも緊張している。
手綱も曳き綱も俺が銜えているハミにつながっているので、歯の奥がガタガタいってる感覚がある。別に今さらそんなことで取り乱したりはしないけれども。
馬場はぬかるんでいるが、カラカラの馬場よりはるかに走りやすそうだ。
ランニングシューズを厚底シューズに変えたような感じがする。
思っていたほど滑る感覚はなく、ラチ沿いの
「クソっ、午前に何レースか乗れてれば走った感じもわかるのになあ」
アキさんがボヤいた。
最近は少しずつ乗り役も増えてきたようだが、メインの日曜中山ではまったく仕事がなく、昨日の土曜は裏開催の福島で3鞍あっただけだそうだ。
馬場入りしてすぐにゴール前の内埒沿いを流してみたが、スプリングSより踏み込みに力が入るし筋肉に響いてくる反発も少ない。
埒の向こう側に見える水たまりのダートのほうが楽しそうだ。
逆に外になるとまだまだ硬い。
芝が潰れていない分余計に踏み込みが効かず、滑って怖かった。
ゲートの裏まで行くとJRAの職員がもう一度曳き綱を着け、輪乗りのまま待機する。
アキさんはまだガチガチだ。お前いい加減にせえと言いたくなる。
もしここで俺が勝てればアキさんの騎乗依頼も一気に増えるだろうが、GⅠ乗るたびにこんなガチガチだったら馬の方が怖がって放馬するぞ。
発馬はスタンド前なので手拍子と合いの手に混じってファンファーレの音色も聞こえる。
雨中での演奏は非常に難しい。俺が聴いた記憶の中で5本の指に入る酷いファンファーレだった。
俺は11番の奇数番号枠。つまり先入れだ。
可能な限りゲート入りを遅らせ待ち時間を短くしようとしているがそんな配慮はいらない。
俺は逆に曳き手の職員さんを引きずるようにゲートにさっさと足を進めた。
「おい!ジェル待て!」
アキさんがグッと手綱を引き、曳き手も首筋を撫でて宥めようとしている。
「そこじゃない!もうひとつ内だ!」
俺が目の前のゲートを見上げると、12の文字が書いてある。
なんとも決まりが悪くちらっと後ろに目をやると、ゲート入りを待っていた12番リヴェッティ号の騎手と厩務員が、何やってんだこいつら、という目でこっちを見ていた。
<雨が降り続いております中山競馬場、本日のメインレース、GⅠ皐月賞です。
まずは奇数番号の枠入りから――7番のヴァルカリ、今ゲートに誘導を受けます。続々とゲートに収まって、続いて偶数番号の枠入り。
6番ゲームジャッカル、誘導を受けます。2番ドメスティックギアは既にゲートの中。12番のリヴェッティが収まります。
最後は16番のドーバーアルビオン、誘導を受けまして、係員が離れます――>
雨音で「出ろ」の声が聞こえづらかったが、スタートは上々だった。
今日はアキさんもタイミングをしっかり合わせてくれたのでそのまま端を奪う。
さっそく最初の中山の急坂にさしかかり、中山に不慣れな馬はそこでもうポジションを失っていく。
ゴール板付近では横目でターフビジョンを確認する。
2馬身の単騎逃げ状態だ。
最初のホームストレッチを11番ゲートのレーンのまままっすぐ走ってきたので、右手前に変えて1コーナー手前から重心を傾ける。
アウトインアウトのイメージで1,2コーナーのちょうど中間で内埒に張り付くと、ペースを落として経済コースを回っていく。
さて、ここからはアキさんの指示に従おうと思ったのだが、アキさんの緊張ぶりがとんでもない。
終始手綱に力が入っていて、GOサインなのか流せなのか全然判断が付かない。
簡単に先手をとれたのにハミを詰めたままだし、チラチラ後ろを確認するたびに重心がズレている。
〈2コーナーを曲がって、先手を取った11番ジェルディサヴォア、5馬身ぐらいのリードをつけて逃げていきます。
離れて二番手1番チェーンサプライと、その外につけたのがリヴェッティ。
1馬身後ろ赤い帽子2頭、5番ミツバアネモア、外にゲームジャッカル今日は早めの競馬5番手につけて、向こう正面に入ります。
15番のマルスギャラクシーもこの位置、更には4番ミタノブロッケン。
アンベストネヴァーとジョーゲンドリー、外につけた13番ミュージカルレース。
いま最初の1000m通過、59秒2!59秒2で行きました!そして内3番のジャストフォーカス。16番ドーバーアルビオンと、外目を突いて上がっていく14番ピーキーシルバー。
ヴァルカリはまだ後方2番手で足を溜めて、2馬身後れて10番のゲンコツ最後方です――〉
1000mの通過タイムが表示されると場内が一瞬ざわつく。
確かに1000m通過1分ちょうどが基準の中、不良馬場で59秒前半は速い。
しかしGⅠとなれば俺ぐらいの人気薄の馬が飛ばしてハイペースになるのは珍しくない。
実際のところハイペースなのは単騎で逃げる俺だけで、後ろの集団はほぼ平均ペースだ。
ただ俺自身そこまで飛ばしているつもりはないので、3コーナーの入りさえ間違えなければ十分逃げ切れると思っている。
東京や阪神で良馬場ならまず無理だが、不良馬場の中山で荒れた芝も気にならない。
むしろ怖いのはオーバースピードで3コーナーに突っ込んでしまうことだ。
踏ん張りがきかないだけに、外への遠心力に負けたらバランスを崩して一巻の終わりだ。
だからさあ、アキさんさあ。いつまで頭真っ白で乗ってるつもりだい。
バックストレッチも終わりに差し掛かるというのに何の指示もないので、雨と風切り音の隙間から聞こえてくる場内実況を頼りに状況を把握する。
大して抑えていないので後続との差は8馬身ついているらしい。
ちょっとだけペースを下げ、息を入れつつ膨れないように3コーナーに入る。
ここでようやくアキさんが起きたようだ。
手綱の当たりが柔らかくなり、楽にコーナーを回れるようになった。
<ジェルディサヴォア先頭で3コーナーに入って、後続からはリヴェッティが動いて差を詰めてくる。
ヴァルカリは外目に馬体を持ち出して先頭まではまだ7馬身。ミュージカルレースムチが入って一気に進出を開始。
3,4コーナーの中間600を切ったところ、ピーキーシルバーとドーバーアルビオン、ドメスティックギアはまだ後方で4コーナーカーブから直線残り400を切りました――>
直線に入ってもまだまだ余力はある。不良馬場の柔らかさが肩に優しい。
アキさんが手綱を詰めたが、まだ追い始める様子はない。
正直言ってあれほどのテンパりようでは直線入り口でいきなりムチが入るのではないかと身構えていた。
ようやくオーロラビジョンが見えるようになって画面に目をやると、荒れた内を避けて後方の追い込み勢が一斉に外に広がるのが見えた。
カメラの追い方から察するに上位人気の奴が大外に追いやられているようだ。
「まだ待てるな」
アキさんもターフビジョンをチラッと見ながらまだリードがあることを確認したようだ。
200mの標識を通過したあたりで、スタンドからの悲鳴が大きくなってくる。
怒号と新聞を叩く音の中に紛れて、俺の馬券を買ってくれた人が「粘れ!粘れ!」と応援してくれている。
「上田ぁ!」と叫んでいる声も聞こえる。
アキさん自身今まで自分の名前をスタンドからここまで叫ばれることなどなかっただろう。
坂の半ばあたりでようやくアキさんが追い始め、左ムチを入れた。
今回もまたムチのタイミングが悪く、左手前から右手前に替える直前だった。
もう一呼吸待って右ムチを入れてくれた方が楽だったのだが。
<逃げる逃げるジェルディサヴォアまだ5馬身のリード、2番手リヴェッティ頑張っている。
その後ろ後続横いっぱいに広がって内からアンベストネヴァーとジャストフォーカスが前をうかがう。
ヴァルカリ大外届くかどうか、ドメスティックギアちょっと前が壁になっている。
200を通過、ジェルディサヴォアまだ脚はある。2番手リヴェッティ頑張った、リヴェッティ頑張った。
外からようやくミュージカルレース追い込んでくるが、これは3番手争いまで。
ジェルディサヴォア逃げ切ったゴールイン!
離れて2番手争い3頭横に広がって、内は12番リヴェッティ、真ん中8番アンベストネヴァー、外は3番ジャストフォーカス。
その後ろ追い込んだヴァルカリこれは5着まで。
しかしこのレースは審議の青いランプが点っております。お手持ちの投票券はお捨てにならないようお願いいたします――>
紙吹雪が舞うゴール板を通過した直後、アキさんが俺の首筋を叩いた。
そうだよ、獲ったよ。1冠だ。
どうせ次のダービーでボロクソに叩かれるんだから今のうちに喜んどけ。
<お知らせいたします。中山競馬第11レースは、決勝線手前で8番アンベストネヴァー号の進路が狭くなった件について審議をいたします。
お手持ちの勝ち馬投票券はそのままでお待ちください>
馬を返してゴール前に戻ってくると拍手と上田コールが出迎えた。
そんなことよりと着順掲示板を見ると、一番上、1着の枠にはすでに11と揚がっている。
2,3着が写真判定で、4着には8の文字、そして5着には7と揚がっていた。
審議対象の被害馬が4着なので加害馬はその前の馬、つまり俺も対象圏内にはなるのだが、外にモタれた覚えはないし、まさかまさか今どき3馬身の逃げ切りで降着処分はないだろう。
俺もアキさんもウイニングランのやり方など知らないので、また真っ白になっているアキさんを乗せて検量室前まで歩いていく。
井野センセイとコウヘイ、そして谷地オーナーらが待っている1着の枠に身体を収め、アキさんが入って行った検量室を眺めた。
検量が終わった後、裁決委員が審議結果を発表する。
「加害馬12番の斜行妨害がなければ被害馬8番の先着は可能だったと判断し、4着に降着。1着11番、2着3番、3着8番、4着12番、以下着順通り!以上、確定!」
裁決委員の確定の声が響き、俺に皐月賞の優勝レイが掛けられた。
アキさんが出てくるのを待つ間に、審議のアナウンスが流れた。
確定を待つスタンドはまだざわついている。
上位人気3頭が見事に吹っ飛び、次ぐ4番人気の馬が4着入線だが審議対象の被害馬となっている。
3着入線のジャストフォーカスが大穴なので、まだ望みがある人はみなポケットや財布から投票券を取り出してはチラチラ見ている。
<お待たせいたしました。中山競馬第11レースの審議についてお知らせ致します>
場内に厳かな声でアナウンスが流れると、一瞬おおっ、という声が上がる。
<第2位に入線した12番リヴェッティ号は、決勝線手前で急に外側に斜行し、8番アンベストネヴァー号の進路を妨害したとして審議をいたしました。
妨害がなければ被害馬は加害馬に先着できたと認めたため、12番リヴェッティ号は第4位に降着とし、着順を変更の上確定いたします>
悲鳴と歓声、怒号が入り混じってスタンドが大騒ぎになる。
繰り上がりで13番人気のジャストフォーカスが2着となったため、馬連で取った人は大喜びだろう。ワイドも大荒れだ。
もし降着が無かったら12番リヴェッティの人気はアンベストネヴァーの一つ下、5番人気だったので、3連派はもっとおいしい思いができたかもしれない。
ざわめきの中、もう一度コースに向かい口取りに出席する。
晴れ舞台といえば晴れ舞台なのだが天気は雨だし、俺にとって表彰式というのは大会の閉会式や朝礼で行われる冗長でウンザリする式典の記憶しかなく、さっさと帰りたいのが本心だ。
下手に動いて口取り式が長引かないよう、固まったようにじっとしていた。
改めて谷地オーナーは個人馬主でGⅠも何度か獲っているので、家族含め口取りは慣れている。
井上調教師も俺の父セスナでGⅠを獲った経験があるが、GⅠ初制覇のアキさんがまたガチガチになっている。
GⅠ未満の重賞クラスであれば下馬して口取り写真を撮るが、GⅠでは騎乗したままで写真撮影が行われるので、またしても背中の上でビクビクしている感情が伝わってきた。
「ジェル、よかったなあ。お前さんGⅠ馬だぞ」
表彰式やらインタビューやらを終えて、ようやく井野調教師が俺の方に歩いてきた。
声は間違いなく喜んでいるのだが、どうにも胃に来ている表情だ。
「皐月取って、菊花賞も間違いないのにダービー出ないわけにはいかないんだろうなあ……使い詰めなんだが」
うげ、ダービーか……話聞くだけで俺も気が滅入ってくる。
イギリスやアイルランドに高飛びしてそっちのダービーに出れないものかね。
この一瞬で一気に毛艶が失われていった気がした。