闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に……   作:時代に遅れている

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 二ヶ月ほどお待たせしてすいません。
今回のお話はニーズに応えてないかもしれませんが、ご容赦ください。


伝説の鬼姫、戦場を駆ける

あれから、数日の空白が経過した。

俺たちは北斗の率いる南十字船隊の甲板に立ち、抵抗軍と幕府軍が血で血を洗う最前線―――神無塚へと向かっていた。

黒波を叩き割る船首の破砕音。

海から吹き上げる塩気を帯びた風が、皮膚の表面を鋭く撫でていく。

神無塚。

その名の通り、どの神の威光も届かぬ呪われた地。鳴神の雷も海祇の祈りも機能せず、ただ冷たい風と吹き荒れる血雨だけが支配する『神のいない丘』。

同族同士が互いの臓腑を抉り合う戦の舞台としては、これ以上に皮肉で、相応しい土地もないのだろう。

「おい、万葉。昨日からずっと調子が悪そうだがどうした、臆病風にでも吹かれたのか?」

波の音を叩き割るような、北斗の豪快な声が甲板に響く。

「姉君……いや………その……不穏な風に吹かれて」

問われた万葉の答えは、いつもと変わらぬ静かなものだった。だが、潮風を読もうと細められたその眼差しには、普段の透徹した光はなく、何か重く濁った澱のような影がへばりついていた。

「不穏な風? 一体なんだってんだ。アンタが恐れるほどの敵が向こうにいるのか?」

「いや、敵ではなく……むしろ味方で」

「はぁ?」

北斗が眉をひそめた、その瞬間だった。

万葉の燃えるような紅い瞳が、すうっと静かに、俺の顔へと向けられた。

ザラリ、と。

胸骨の裏側を、冷たいヤスリで擦られたような嫌な感覚。

「……万葉のやつ、一体なんだってんだ」

思わず口から零れた呟きは、誰の耳にも届くことなく、強い潮風にさらわれて虚空へ消えた。

俺の中の“何か”を危惧している。それは分かる。だが、これ以上思考の沼に足を踏み入れようとした、その時だった。

「蒼雲さん」

柔らかな、海の底の泡のような声が、背後から俺の鼓膜を叩いた。

振り返る。

そこには、潮風に薄藍の髪を揺らす珊瑚宮心海が立っていた。

「珊瑚宮」

「心海でいいです。……大丈夫ですか?」

「ああ、問題はない」

「本当に?」

彼女の瞳孔のない静かな双眸が、俺の網膜を突き抜け、頭蓋の奥底までを覗き込むように真っ直ぐに向けられている。

どう答えればいいのか分からず、俺は視線を逸らして海面へと逃げた。

「何を……アンタが頼み込んできたんだろう」

「いえ……あなたの戦場を見る目が……どうしてそんな……」

ズキン、と。

厳重に封をしていたはずの記憶の蓋が、不意に、内側から押し開けられる感覚。

炎に焼かれる民の声。

黒い泥に沈んでいく味方の断末魔。

どれだけ強大な仙力を持っていようと、すり抜けて消えていった数多の命。

そして……。

「命は儚い……消えていい命なんてない」

俺の喉から、意図せず声が漏れた。

かつてのトラウマが気管を狭め、声帯が微かに震える。だが、一度溢れ出した言葉は、もう止められなかった。

「それが……同族同士の争いでなら、尚のこと」

「蒼雲さん……?」

心海の声が、夜の帳を撫でる風のように柔らかく、俺の強張った肩に触れる。

「……話した通り、俺は俺なりに動かさせてもらう」

同情はいらない。理解も求めない。

俺はそれだけを言い残し、背を向けて、再び暗雲の立ち込めるたたら砂の方角を睨みつけた。

ーーーーーーーーーーーーー

一方、その頃―――。

私たちは今、神無塚の地を踏みしめていた。

見渡す限り、荒れ果てた赤茶色の大地と、雷に焼かれて黒く炭化した岩肌が延々と続いている。

潮の湿り気と、古い鉄錆の匂いが混ざり合った風が、鼻の奥をツンと刺した。

まるで、この土地そのものが何百年も続く戦の痛みを吸い込み、限界を超えて呻き声を上げているかのようだった。

……なぜ、私たちがこんな血なまぐさい最前線まで来ているのか。

きっかけは、あの『影』―――雷電将軍との圧倒的な死闘から、何日も経った頃のことだった。

蒼雲が……あの人が、私の前から姿を見せなくなったのだ。

音沙汰ひとつない。短い手紙の一通すら、鳴神大社には届かない。

いや、正確には―――彼が“他の女と親しげに話している”気配だけが、風の噂として私の耳にこびりついていた。

別に……別に、彼が他の女と話すくらい、構わない。

あの人はそういう人だ。誰かが傷ついていれば放っておけず、我が身を盾にしてでも助けにいく。そういう不器用な仙人だと分かっている。

でも―――。

たった一通。切れ端の紙切れ一枚でもいいから、手紙くらい残してくれてもいいと思わない?

今どこへ向かっているのか。怪我の具合はどうなのか。

せめて一言、「元気だ」とだけでも……。

胸の奥に、泥のような黒い苛立ちが少しずつ溜まり始めていた、そんな時だった。

神子がふらりと私たちの前に姿を現し、いつもの人を食ったような調子で旅人に告げたのだ。

『海祇島の抵抗軍と合流し、協力せよ』

―――海祇島。

その単語が鼓膜を打った瞬間。

私の中で、ぎちぎちに張り詰めていた何かの糸が、パチンと弾け飛んだ。

蒼雲。あの人が今、身を置いている場所。

綾華もトーマも、抵抗軍への合流は幕府への明確な反逆になるからと、慎重に動くべきだと口を揃えていた。

けれど。

私にとっては、迷って足を止める理由なんて、もう一つも残っていなかった。

これは、好機だ。

彼に会える。

彼を正面から問い詰めることができる。

『どうして私に何も言わずに、いなくなったの?』って。

……そんな、身勝手で泥臭い衝動を胸の奥に隠し持ったまま。

私は旅人たちと共に、最前線であるこの神無塚へと足を踏み入れたのだ。

もちろん、周囲からは止められた。

『ここは危険な戦場だ』『まだ魂の傷が癒えきっていないのに』と。

でも、そんなこと関係ない。

蒼雲に会える。それだけで、この泥にまみれた大地を行く価値がある。

それが―――もし、私に連絡も寄越さずに親しげにしていた相手が、海祇島の“女”だというのなら。

……尚更、だ。

それに、私だって守られるだけの無力な存在じゃない。

五百年の眠りと、アビスの泥に侵食されていたせいで、肉体はまだ全盛期には程遠い。それでも、少しずつ武人としての感覚は皮膚の下に戻ってきている。

先日、影の部下たちが集団で押し寄せてきた時も、武器を持たずに素手で制圧できた。

―――だから、大丈夫。

“なんとかなる”。

夜風が火照った頬を撫でる。

神無塚の空には、重たい灰色の雲が低く垂れ込めていた。

遠くでゴロゴロと鳴る雷鳴が、私の胸の内にあるざわめきを撫でるたびに、その輪郭を大きくしていく。

まるで、ずっと心の底で眠っていた黒い不安が、一枚、また一枚と剥がれ落ちて、冷たい空気の中に溶け出していくようだった。

「おーい千代!」

暗がりの向こうから、パイモンの声が放たれた。

風に飛ばされそうな小さな声だが、確かに私の鼓膜に届いた。

振り向く。そこには、いつものように慌ただしく空を泳ぎながらも、どこか切迫した真剣さを帯びたパイモンの顔があった。

「哲平が呼んでる。なんか前線が突破されそうだって」

前線が―――。

その単語が、私の胸の中の柔らかい部分に、冷たくて硬い石を落とされたような重い響きを残した。

「とにかく早く来てくれ!!」

―――私は、走った。

着物の裾が跳ね、靴底がぬかるんだ泥と岩を蹴り飛ばす。

雨の混じった風が唇を掠め、通り抜けていく匂いは、紛れもない鉄と潮、そして生々しい血の予感を含んでいた。

暗闇の中。幕舎の灯りは少なく、空の星さえも地上の殺気に怯えたように厚い雲に隠れている。

だが、誰も立ち止まらない。

私たちの中には、同じ温度の鼓動が打っていた。

大切なものを、守るために動く鼓動だ。

ーーーーーーーーーーーー

「良かった……早めに来てくれて助かったよ」

幕舎に飛び込んだ私たちを迎え入れた哲平の声には、僅かな安堵の糸が混じっていた。

だが、その表情は極限まで引き締まっている。前線に近いこの場所の空気は、昼間ののどかな陣営とは別物だ。ひどく重い。

飛び交う人々の息遣いが短く、足元の土が、遠くの砲火で眠りなく震え続けている。

「無駄話してる場合じゃないみたい。で、前線が突破されたってどういうこと?」

私の問いは、前置きをすべて削ぎ落とし、刃先のように真っ直ぐに放たれた。

聞きたいのは事実だけ。慰めも余計な状況説明も要らない。

「それが、俺たちが帰って来た時、ゴローがいなくて。それで近くにいたこの人に話を聞いたんだ」

旅人の声は、努めて平静を保とうとしていた。だが、その金色の瞳には鋭い焦燥の影が差し、何か最悪の事態を必死に喉の奥へ飲み込んでいるのが分かる。

側に立っていた甲斐田龍馬が、重い口を開いた。

彼の口調には、軍人らしい沈着さと、隠し切れない絶望の淵が混ざり合っていた。

「知っての通り、状況が変わった。ゴロー様は今、残存の兵を連れて直接前線に出向いている」

「少し前、前線に突然幕府軍の増援が現れたんだ。それも―――九条裟羅が直々に兵を率いてな」

九条裟羅。

あの子の名が出た瞬間、幕舎にいた全員の呼吸が一度、ピタリと止まった。

天狗の末裔。あの薄い笹百合のような冷たい面影を思い浮かべると、首筋に鋭い刃を押し当てられたような悪寒が脳裏をよぎる。

「幕府軍の増援ってことは、かなりの数が来たってこと?」

「そうだ。それに引き換えてこっちは―――珊瑚宮様はもう何日も前線に顔を出していない。上に、残してくれた兵法書『虎の巻』の策も、もうすぐ底をつく」

甲斐田の言葉は重く、顎の骨を砕く石のように冷たかった。

指揮書が尽きる。

それは、劣勢の軍にとって、戦術の引き出しが完全にゼロになることを意味する。泥沼の戦場では、一冊の指示書が何百の命運を分けることだってあるのだ。

「非常に不利な状況だ……このままでは―――」

甲斐田の続きの言葉は、空気を震わせただけで未完成のまま空間に消えた。

私の心は、ひとつの冷徹な事実に、太い針で突かれたように疼いた。

撤退か、挽回か。

選択肢はどれも苛烈で、兵たちの士気は今、限界まで薄く引き伸ばされたガラス細工のように見える。

ほんの些細な衝撃―――ひとつの陣の崩壊で、すべてが砕け散る。

「撤退にしろ敗北にしろ、兵士たちの士気が完全に崩壊しかねないね」

「そ、そうだ」

甲斐田の声に同意しながら、私の中の揺らいでいた何かが、カチリと音を立てて定まった。

黙って指を咥えて、この崩壊を見ていることなんてできない。

あの海辺で感じていた、蒼雲の不在に対する不安と泥のような苛立ちが、すべて明確な行動への渇望へと変換されていく。

哲平が、顔を上げた。

彼の疲れ切った瞳の奥に、小さな、だが決して消えない炎が灯った。

「僕たちも前線に行こう!」

その叫びは、粉々に砕け散りそうな絶望の闇に投げ込まれた、一筋の火種のようだった。

「戦う力がある以上、ここで黙って見てるわけにはいかない!」

その言葉が、私の胸の奥深くで強く共鳴した。

五百年という長い時間、泥の中で眠り続けていた戦士の血が、ゆっくりと、しかし確実に熱い鼓動を取り戻していくのがわかる。

鈍っていた五感が研ぎ澄まされ、冷え切っていた体の隅々まで、戦の温度が戻ってくる。

「それには私も賛成。元々の予定に私たちはいなかった……防衛策に支障がないなら、遊撃として前線に加勢するのが一番いい」

私が迷いなくそう告げると、周囲の視線が一斉に私に集まった。

これは驕りでも、ただの血の気の多さでもない。

私にとって、守るべきもののために拳を握ることは、呼吸をするのと同じくらい当たり前の選択だった。生きる理由の、大切なひとつなのだ。

パイモンが、重い空気を吹き飛ばすように陽気な声を投げる。

「決まったみたいだな」

その軽さが、緊迫で張り詰めた幕舎の空気に、小さく風穴を開けた。皆の強張っていた顔に、ほんの少しの緩みが生まれる。

「さぁ行こう! 幕府軍の思い通りになんてさせるもんか!」

パイモンの号令で、私たちは一斉に動き出した。

馬具の金属が擦れる硬い音。足元の砂礫が砕ける音。遠くで、雷がまた一鳴り、空を震わせる。

夜は深い。

だが、私たちの足取りは確かなものだった。

震える手で刀の柄に力を込めると、心の中にわだかまっていた黒い淀みが、少しだけ薄れて消えた気がした。

蒼雲―――。

あなたに会いたいという身勝手な気持ちと、今ここで人々の命を背負って立つという武人としての覚悟が、私の胸の中でひとつに混ざり合う。

冷たい風が耳元を掠めていく。

私はただ一つの誓いを立てた。

守る、と。

私は前へ進む―――その一点だけで、私の心からすべての迷いは消え去っていた。

              ◆

たたら砂。

その名が示す通り、鼻腔を焼くような鉄の匂いと、濃密な血の臭気が立ちこめる荒涼とした土地だった。

風が吹くたび、巻き上げられた砂鉄の粒が容赦なく頬を打つ。肌を刺すその物理的な痛みが、これから始まる凄惨な殺し合いの予感を告げていた。

前線の丘の上に立つと、眼下に広がる光景に思わず息を呑んだ。

無数の三つ巴の旗が風に翻り、槍の穂先が月明かりを反射して鈍く光っている。

整然と並ぶ幕府軍の兵列。

その数は、圧倒的だ。

まるで大地そのものが黒い波へと変貌し、この丘を呑み込もうと押し寄せてくるかのようだった。

「……これが、幕府の本気」

喉の奥が、カラカラに焼ける。

戦場の空気は鉄と血の匂いを混ぜてひどく重く、肺に吸い込む空気さえ錆びついてしまいそうだった。

そんな絶望的な軍勢の最前列。

そこに立つのは、九条裟羅。

紫紺の衣服に身を包み、その冷徹な瞳はまっすぐにこちらの大将を射抜くように鋭い。

その姿は、戦を支配する冷酷な女神にも、あるいは嵐を呼ぶ天狗の化身にも見えた。

「お前だけか……」

彼女の声は、冷たい刃のように戦場の空気を裂いた。

「私はてっきり、お前らの“軍師”様に会えると思ってたが」

一歩前に出たゴローの肩越しに、私は彼女の顔を見据えた。

雷光が一瞬、暗い空を裂く。

光と影が彼女の端正な顔を交互に照らし、表情の奥底に宿る、将軍への異常なまでの忠義―――狂気にも似た信仰心を浮かび上がらせる。

「彼女には、我々幕府軍もかなり手を焼かされた。烏合の衆にすぎない抵抗軍がここまで持ち堪えたのも、彼女の策のおかげだろう」

彼女は軽く顎を上げ、まるでゲームの終了を宣告するように淡々と言った。

「だがそれも終わりだ。すでに抵抗軍の底は知れた。これだけの絶望的な戦力差、いかなる策略ももはや意味を成さない」

事実だ。

だが、その言葉を叩きつけられても、ゴローは一瞬たりとも怯まなかった。

泥と仲間の血に汚れた鎧を背筋で支え、瞳に宿る決して屈しない光だけで、抗うように言い返す。

「俺は珊瑚宮様を信じてる。俺たち抵抗軍の兵士たちを信じてる」

「目狩り令は、決して正しい道なんかじゃない。俺たちは抵抗をやめない!」

その声が、風に乗って背後の兵たちの心を震わせた。

一瞬、戦場の空気が変わる。遠くで鳴る雷鳴の音よりも強く、彼の言葉が大地に響き渡った。

「あと、金髪の旅人と鬼族の娘を差し出せという提案は、断固お断りする!」

雷が落ちたような、完全な沈黙が戦場に満ちた。

九条裟羅の薄い唇が、ゆっくりと歪む。

「ほう」

その目は、獲物の喉笛を狙う鷹のように冷酷だった。

だが、私の胸に広がるのは恐怖ではなく、誇りだった。

ゴローはこの絶望的な状況下で、一人の大将として立派に立っている。

彼の背に並ぶようにして、私は低く、しかしはっきりと周囲に響くように口を開いた。

「抵抗軍は決して仲間を売らない。それが、珊瑚宮様が遥か前に決めた規則だ」

私はさらに一歩、前へ出た。

「よく言ったね。それでこそ、大将だよ」

ゴローがハッと振り返る。驚きがその顔をよぎった。

「お前たち……どうして来たんだ?」

「加勢に来ました!」

哲平の声が、張り詰めた空気を打ち破る。

「俺たちも、抵抗軍の一員だ」と旅人が続く。

私は微笑み、肩をすくめながら言った。

「うん、それに―――幕府軍は私たちを捕まえるために、これだけの兵を呼んだんだろうしね」

ゴローが驚愕に目を見開く。

その背後で、九条裟羅の笑みがさらに深くなるのが分かった。

「ふっ、流石だな」

「お前たちが抵抗軍に入ったのは、彼らを強大な後ろ盾とするつもりだと思っていたが……」

その声音は冷たい。だが、どこか血湧き肉躍る闘争を楽しんでいるようにも聞こえた。

「まぁいい。将軍様に逆らう者には、それ相応の罰を受けてもらおう。今すぐ降伏するなら、罰を軽くしてやれるかも知れないぞ?」

私の中の、沈火していた炎が、音もなく燃え上がった。

あの将軍の、感情の一切抜け落ちた冷たい瞳が脳裏をよぎる。

命令と忠義、支配と恐怖―――目の前のこの女も、それに縛り付けられているだけの歯車だ。

哀れだと思った。だが同時に、激しい怒りも覚えた。

「そんなので、私たちを脅してるつもり?」

私は声を一段落とし、静かに言葉を紡ぐ。

「私たちはすでに、あなたたちが尊敬してやまない将軍の“天罰”とやらを直接受けてるの。今さらそんな安い脅し、聞くわけない」

雷光が、また空で閃いた。

その瞬間、裟羅の目がスッと細くなった。

私の声の裏にある挑発に、確実に反応しているのが分かる。

風が鳴り、砂が舞う。戦の本当の始まりを告げる合図のように。

「それに―――」

私はさらに一歩、彼女へと近づいた。

「将軍の誤った判断を止めるのも、忠臣の本当の役目だと思うけど?」

九条裟羅の整った眉が、わずかにピクリと動いた。

雷鳴が、彼女の重い沈黙を断ち切る。

「……罪人の説教など、聞く耳を持つまでもないが―――」

彼女の声が、地を這うように低く落ちる。

そして、まるで獲物の息の根を止める直前の猛禽のように、口角が鋭く吊り上がった。

「そうだな。提案がある」

その目に宿る光が、天空の雷光よりも冷たく、鋭く光った。

「今回の戦―――『陣前比武』、お前たちが抵抗軍の代表として出陣するというのはどうだ?」

九条裟羅の声が、静まり返った戦場に響き渡った。

その響きはまるで雷鳴の予兆。空気がビリビリと震え、背後の兵たちの息が詰まるのが分かる。

彼女は余裕の笑みを浮かべながらも、瞳の奥では明らかにこちらの反応を値踏みしていた。

挑発か。それとも罠か。どちらにせよ、放たれた言葉の裏には必ず致死の意図が隠されている。

「陣前比武…?」

パイモンが、空中で首をかしげる。

その無邪気な声が、張り詰めた氷のような空気を、ほんの少しだけ和らげた。

「陣前比武ってのはね、」

私は細く息を吐きながら答える。

「戦いが本格的に始まる前に、両軍の精鋭が一騎打ちをする儀式のこと。

いわば、戦の“前口上”みたいなものだよ」

言葉を重ねながら、私は九条裟羅の目から視線を外さなかった。

その視線には、ただの儀式的な形式を超えた、明確な殺意が宿っている。

―――彼女は、これを「余興」ではなく、私たちを確実に仕留めるための「狩り」として楽しんでいるのだ。

ゴローが、低い声で私の説明を引き継いだ。

「その通りだ。優勢な軍にとってはさして意味がない儀式だが、劣勢の立場であれば、勝利することで崩れかけた士気を一気に立て直す絶好の機会になる」

彼の声が微かに震えていたのは、恐怖からではなく、背負っているものの重さによる極度の緊張のせいだ。

背後に控える兵士たちは皆、顔をこわばらせながらも、今の言葉の意味を正確に理解しているようだった。

戦況はすでに、幕府軍が圧倒的。こちらには旅人や私がいて戦う力はあっても、軍全体としての勝利の兆しは絶望的に薄い。

だが―――もし、この比武で私たちが勝てば。

消えかけていたわずかな希望が、炎のように兵たちの胸に再び燃え上がるかもしれない。

私は奥歯で唇を噛んだ。

裟羅の目的は透けて見えている。

あの女は、陣前比武という大義名分のもとに私たちを戦場の中央へ誘い出し、確実に捕らえるか、あるいは殺すつもりだ。

あの冷たい目―――それが何よりの証拠。

だが。

それでも構わない。

彼女が仕掛けてくるなら、真正面から受けて立てばいい。

この場で引けば、兵士たちの心は完全に折れる。

私たちが戦う覚悟を示さなければ、誰も信じてついては来ないのだ。

九条裟羅の唇が、微かに上がった。

まるで愚かな獲物が自ら罠の奥深くへと足を踏み入れるのを、今か今かと待っているような笑み。

だが、罠だと分かっていても―――踏み込まなければならない時がある。

……つまり、乗らない手はないってこと。

風が頬を撫で、砂鉄を舞い上げる。空には分厚い灰色の雲。遠くでまた、雷鳴が唸った。

嵐の前の静けさ。胸の奥で、戦士の鼓動がひときわ大きく響いた。

旅人が、無言で一歩前に出た。

その金色の瞳には、迷いの欠片も存在しない。

まっすぐな光―――それは、どんな深い闇よりも強い、意志の光だ。

「分かった、やろう」

その短く力強い肯定が落ちた瞬間。

戦場の空気が、完全に切り替わった。

風がうなり、両軍の旗が激しく鳴り、絶望に沈んでいた抵抗軍の兵たちの目に、再び熱い火がともる。

雷光が走り、空が裂けた。

凄惨な戦いの幕が、静かに、そして確実に上がった。

              ◆

一戦目は、旅人と、幕府軍から進み出た藤田三四郎。

“槍の鬼藤田”と呼ばれるほどの実力者、槍の名手だと兵たちが囁いていたけれど―――結果を語るまでもない。

旅人は、風のように速く動き、岩の如く重い一撃を放ち、雷のように一瞬で敵を斬り伏せた。

観客の息が止まり、次にどよめきが上がるまで、ほんの一拍の空白の静寂があった。

勝負は一瞬。まるで始まる前から結果が確定していたかのように、圧倒的な実力差だった。

そして―――私の番が来た。

足元の砂が、かすかに風に揺れて動く。

その一粒一粒が擦れ合う音が、私の心の奥に潜む緊張をあぶり出すように、ざらりと鼓膜を撫でた。

私はゆっくりと歩を進め、両軍の視線が交差する舞台の中央へと進み出て、相手と向かい合った。

高坂和泉。

全身を重厚な甲冑で隙間なく包んだその姿は、まさに生粋の武人そのもの。

兜の奥から覗く瞳は鋭く、油断も、慢心もない。

その一歩一歩の踏み込みから伝わってくる重い殺気が、私の肌を物理的な針のようにチクチクと刺してきた。

「我が名は高坂和泉―――九条家の懐刃」

その名乗りの声が、冷たい刃のように戦場の空気を裂いた。

ならば、こちらも名乗らなければ礼を失する。

名を隠して戦うつもりはない。

五百年前の罪から逃げても隠れても、私が歩んできた道と、背負うべき因果は変わらないのだから。

私は大きく息を吸い込み、相手の目をまっすぐに一番奥まで見据えた。

「私は千代……お家断絶を受けた、御輿家の元当主」

「あなたたちに馴染みがあるのは、“虎千代”の方かな?」

その言葉を口にした瞬間。

周囲の空気が、ドッと爆発したようにどよめいた。

ざわめきは波紋のように両軍へ広がり、兵士たちの顔が、次々と驚愕の色に染まっていく。

「御輿家の千代って……あの、魔物の虎を腹から掻っ捌いて出てきたって伝説の?」

「九条家の指南役の岩蔵家って、御輿家の血筋だろ……?」

人々の声が、嵐のように交錯する。

噂と伝承。恐怖と、畏敬。

そのどれもが、今の私の背中に重い鎖となって絡みつく。

でも、構わない。

今さら誰に何を言われようと、どんな目で見られようと、私はもう二度と逃げない。

遠くから、哲平たちの驚く声が聞こえた。

「虎千代って、男じゃなかったのか?」

「何百年も経って、伝承が捻じ曲げられたんだな……」

パイモンが、慌てたように空中で手足をばたつかせて叫ぶ。

「おい千代! そんなこと名乗って大丈夫だったのか!? せっかく蒼雲たちが正体を隠してくれたのに!」

私は小さく微笑んで、少しだけ視線を落とした。

「今じゃ、ただの千代でも虎千代でも、“謀反人”であることには変わりないよ。

それに―――彼らは、そんなことで私を裏切らないんでしょ?」

パイモンがハッとして口をつぐみ、代わりにゴローが力強く、腹の底から声を張り上げた。

「もちろんだ! たとえお前が伝説の悪鬼だとしても、今のお前は俺たちの仲間だ。何も気にせず、安心して戦ってくれ!」

……良かった。これで、背中を気にせず全力で戦える。

高坂和泉が、腰の刀を軽く抜き放ち、刃が月光を弾いた。

「指南役の先祖と、このような形で手合わせできるとは……光栄だ。

お前を将軍様の前に引きずり出したあと、九条家の門にその首を飾ってやろう」

その口調は、まるで自分の勝利がすでに確定していると信じて疑わない、絶対的な自信に満ちていた。

私は小さく鼻で笑う。

「自分が倒されるとは、これっぽっちも思わないなんて……」

腰の刀に手を添え、静かに、重心を落として構える。

「結構な自信家だね」

空気が、一瞬にして氷点下まで張り詰めた。

風が止まり、無数に翻っていた旗が揺れる音すら消える。

その場に立つのは、ただ二人の武人。

互いの肺が収縮する呼吸の音が、遠くの雷鳴よりもはっきりと耳に届く。

次の瞬間、どちらが先に動くのか―――。

それを見届けるのは、たたら砂の暗い空だけだった。

              ◆

彼は、大柄だった。

重厚な鎧が太陽の残滓をばら撒くように鈍く光り、胸板は岩壁のように分厚く張り出している。腕の振りは大地を揺らすほど重く、一振りごとに風が刃の質量に押し出されて、足元の砂が放射状に舞い上がった。

遠目に見ているだけで、私の腹の底に、古い戦場の記憶がざわついた―――あのときの、絶望的な重さ。あのときの、骨が砕ける音。

今のつぎはぎの肉体では、あの剛剣を正面から受け止めるなんて無理だ。

そう、生存本能としての直感が叫んだ。ならば、速度で翻弄し、一瞬の隙を穿つしかない。

高坂は剣先を真っ直ぐに私へ向け、まるで巨大な杭を打ち込むように一直線に突進してきた。

あからさまに大ぶりな姿勢。私は薄く口角を上げた。

「簡単に避けられちゃうよ」

私の声に、彼の目がほんの僅かに怒りで揺れた。

そこに生まれた、コンマ数秒の迷いの隙。

私の足は、石畳を滑るように軽くステップを踏んだ。刃の軌道をなぞるように、私は相手とすれ違う方向へ一気に詰め寄り、抜き打つ。

刃先ではない。柄の付け根―――峰の部分で、彼の鎧の隙間へ強烈な一撃を叩き込む。

柔らかく、だけど内臓を揺らす確かな衝撃が、硬い鎧を通して私の手に伝わってきた。

「な、なんだと……私の最速の突きを―――」

高坂の驚愕の声が、風に掠れて消える。

彼は自分の剣の美学―――『速さと重さ』を過信していた。速さを誇る者は、しばしば“自分の速さだけ”に意識を取られ、相手の工夫や重心の変化を見落とす。

実力者同士の極限の戦いでは、技の“見せ方”こそが最大の戦術になるのだ。

私の一振りは、彼の速度を無力化し、感情を揺さぶるための確かなメッセージだった。

「最速だろうとなんだろうと、相手にどんな技が出されるか知られたら対策されちゃう。それが実力者同士の戦いなら尚更。……私の子孫は、そういう基本的なことも教えてくれなかったの?」

彼の顔面が、屈辱で歪む。

怒りと困惑が複雑に混ざり合っている。そう、挑発は完璧に効いた。

大振りが来るのを待っていた私の罠の糸が、あの一言で引かれたのだ。

「ほざけ!!」

高坂が顔を真っ赤にして怒声を上げ、再び刀を大きく振りかぶる。

大鎧の重量のすべてが、その刃の振り下ろしに宿っている。だが、その“重さ”を利用してこそ、彼の技は最大の長所であり、同時に致命的な欠点となる。

私は中段に刀を構え、わざと彼の大振りに合わせて、スッと膝の力を抜いた―――地面を蹴るのではなく、重力に逆らわずに身体を低く滑らせる。

轟ッ、と風を裂く刃の軌道の下をくぐり抜けながら、私は柄頭を、がら空きになった彼のお腹へ向けて全力で突き出した。

「グハッ!」

高坂の肺から空気が搾り出される音が、木霊のように響いた。

刃ではない、柄の鈍重な一撃。

私は、人を殺す気はない。蒼雲が『絶対に人は殺さない』と誓ったように、私にもこの場で他人の命を奪う理由はないからだ。

だが、相手の身体の機能を停止させ、意識を刈り取るには、これで十分だった。

巨体が、宙に舞い上がる。

重装の男が不意に無重力になったような、奇妙な時間。私はそのまま身体の勢いを殺さず、宙に浮いた高坂に追い打ちをかける。

刀を流れるように振って鞘に収め、空いた掌で相手の顔面を鷲掴みにし、そのまま地面へと強引に叩きつけた。

ズガァンッ!と。

砂が口元に舞い上がり、戦場の空気が一瞬、完全に止まった。

高坂は地面に転がり、鎧の間から血こそ流れていないものの、意識の端を刈り取られたように四肢を小刻みに痙攣させている。彼の拠り所にしていた誇りは、今はただ泥にまみれていた。

私はゆっくりと息を整え、周囲の視線を感じた。

幕府兵たちの顔は、明確に変化していた―――先ほどまでの嘲笑は消え失せ、驚愕と、どこか遠いところで芽生えた武人としての敬意が混ざっている。

私自身も、その反応を見て、胸のつかえが少しだけ軽くなった。

戦いは、ただ刃を交えるだけの暴力ではない。心と心をぶつけ合い、動かすものでもある。

今日、この場で私が示したのは、ただの破壊の力ではない。生き残るための柔軟さと、相手を殺さずに屈服させるという、意志の強さだ。

高坂はゆっくりと呻きながら顔を上げ、私を睨むように見た。

怒りと、どうしようもない悔恨が交差するその瞳に、私は笑いかける。

「目が覚めて師範に会ったら、言っといて。もう少し丁寧に指南しなさいって」

彼は、何も答えなかった。

だが、その屈辱に震える肩が、今日の勝負の結末と意味を、無言で物語っていた。

              ◆

戦場の空気が、完全に変わった。

つい先ほどまで、風は静かに砂を撫でていたのに―――今はそれすら息を潜め、次に吹き荒れる凄惨な怒号を待っているようだった。

焦げた鉄の匂い。湿った血の匂い。そして、極度の緊張に満ちた両軍の兵たちの荒い息づかい。

神無塚の暗い空の下で、鼓動のひとつひとつが、戦の始まりを告げる太鼓のように重く響いていた。

ゴローが前を見据えながら、拳を白くなるほど強く握りしめた。

「すごい。お前たち二人が圧倒的に勝ってくれたおかげで、味方の士気がどんどん上がってる……お前たちの“戦う”意思が、兵たちに直接影響を与えたんだ」

その声には、確かな誇りと、ほんの少しの熱い希望が混じっていた。

私は、額の汗を拭いながらわずかに笑い返す。

「まだ、本調子には程遠いけどね……」

足元の土が、やけに冷たく感じた。

身体の奥に、まだあの五百年の“眠り”の名残が、鈍い痺れとなって張り付いている。

だが―――戦場のむせ返るような熱が、それを強制的に上塗りしていく。

痛みよりも、全身を巡る血の鼓動の方が、遥かに強く感じられた。

パイモンが、私の肩のあたりで飛びながら嬉しそうに声を上げた。

「それでも、すっごくかっこよかったぞ!」

その無邪気な言葉に、少しだけ胸の奥が軽くなる。

しかし、すぐに空気が裂けた。

「流石に、やるな……」

九条裟羅が、一歩前へ進み出る。

紫電を孕んだその鋭い瞳は、まるで稲妻そのもののように冷たく、一切の感情を排していた。

「どうやら、これ以上一騎打ちを続けても、意味がないみたいだ」

その静かな宣言に、周囲の幕府兵たちがざわめいた。

彼女が、ゆっくりと漆黒の弓を構える。その流れるような動作は、神聖な儀式のように静かで、同時に息を呑むほど美しく、致命的だった。

「永遠の脅威となる全ての要素を排除する―――それが、将軍様の命令だ」

そして、凛とした声が、戦場全域に突き刺さる。

「兵士たちよ、かかれ!」

一瞬の静寂―――そして、地鳴りのような轟音。

幕府兵たちが、一斉に咆哮を上げて前進を開始した。

鎧が打ち鳴らす音が黒い波のように押し寄せ、足元の砂を激しく震わせる。

雷が遠くで鳴り、まるで天そのものが、この殺し合いの始まりを告げる太鼓を打ち鳴らしているかのようだった。

九条裟羅が、高らかに叫ぶ。

「常道を恢弘せしは、永遠なる鳴神なり―――!」

その言葉に呼応するように、強烈な稲光が空を裂いた。

紫の閃光が大地を貫き、幕府兵たちの抜いた刃が、一斉に殺意の光を煌めかせた。

ゴローが、その巨大な圧力に抗うように、咆哮を上げて声を張り上げる。

「どうやら、総力戦は避けられないようだな! 迎え撃つぞ!」

彼の声はまっすぐで、恐怖の風を裂く力があった。

「皆の者、俺に続け!」

その瞬間。

抵抗軍の兵たちの足音が、地を割るように轟き出した。

私は刀の柄を固く握り直し、深く息を吸い込む。

血と鉄と、むせ返るような雷の匂いが胸いっぱいに満ちる。

この戦いは、もう逃れられない。

―――私は、ここで戦う。

胸の奥に灯った火が、さらに熱く強くなる。

私は柄を握る力を少し強め、迫り来る黒い波の中へ、迷いなく前へ踏み出した。

              ◆

戦場は、地獄そのもの。

鉄と血が泥のように混ざり合う臭気が、風に乗って容赦なく鼻の奥を突く。

死に物狂いの叫び声。金属が激しくぶつかり合い、砕ける音。矢が空気を裂く鋭い風切り音。

そのどれもが鼓膜を焼き切るようで、心の最も深い場所まで沈み込んでくる。

前線は、完全に押されていた。

無数の弓矢に貫かれて崩れ落ちる仲間。幕府軍の重い刀に押し切られて倒れる兵。槍に腹を突き刺されて血を吐く者。

そのすべてが―――抵抗軍の、私たちの仲間だった。

目の前で味方が倒れていくたび、胸の奥が焼けるように熱くなる。

怒りとも悲しみともつかぬそのどす黒い感情を、私はただ、迫り来る敵を刀で弾き飛ばすことだけで必死に押し殺していた。

ゴローが弓を引き絞り、正確無比な矢を次々と放って敵を射抜く。

その瞳は決して怯んでいない―――だが、いかんせん数が違いすぎる。

旅人も私も戦場を駆け回り、倒れかけた兵を守るように盾となって戦うが、幕府軍の黒い波は、途切れることを知らない。

「かかれ!」

九条裟羅の冷徹な声が、戦場全体に響き渡った。

その声に呼応するように、幕府軍の士気がさらに一段階跳ね上がる。

雷光を背に受け、兵たちの動きが一段と速く、重くなる。

砂が舞い、火花が散る。押し寄せる雷の奔流の中で、私は唇から血が滲むほど強く噛み締めた。

―――このままじゃ、本当に負ける。

そのとき、だった。

ボコッ、と。

地面から、泡が立ちのぼった。

ぽつり、ぽつりと。まるで水底から、誰かが静かに手を伸ばすように。

「雨……じゃない……?」

一瞬そう思ったが、空は灰色の雲に覆われているものの、まだ雨粒は落ちてきていない。

嫌な予感が、背筋を氷のように滑り落ちた―――敵の、新たな策略か?

「これは……!」

ゴローの声が、驚きに上ずる。

彼の視線を追って後方の丘を見上げると―――そこに、いた。

蒼白い、海のような光を背に受けて、凄惨な戦場を静かに見下ろす一人の女性。

淡いサーモンピンクの髪が風に揺れ、夜明け前の海のように冷ややかで澄んだ瞳が、戦場全体を俯瞰している。

珊瑚宮心海。

彼女の姿を見た瞬間、私の胸の奥が、ひどく嫌な音を立ててざわついた。

……この人が。

蒼雲に、私への手紙を書くことすら忘れさせるほど、親密になった女。

喉まで黒い言葉がこみ上げたが、私は奥歯を噛み締めてすぐに飲み込んだ。

今は―――そんな個人的な感情の泥を抱いている場合じゃない。

だが、理性で無理やり抑え込んでも、心は波立って静まらない。何故だろう、彼女の存在そのものが、私の中の『余裕』をぐちゃぐちゃに掻き乱してくる。

そんな私の動揺など知る由もなく、彼女が静かに、しかし戦場の端まで届く透き通った声を放った。

「お待たせしました、私の伏兵たち―――今が、その時です」

その言葉が落ちた瞬間。

地面から無数の水の泡が一斉に弾け、隠れていた海祇軍の伏兵たちが、地中から湧き出すように姿を現した。

彼らは完全に幕府軍の背後へと回り込み、一気に奇襲をかけて押し返す。

一転して、膠着していた戦場の流れが激流のように変わっていく。

「よぉ、アンタやるじゃないか!」

豪快な声が響き、振り向けば、いつの間にか北斗がそこにいた。

巨大な大剣を肩に担ぎ、笑いながら敵兵の群れをなぎ倒している。

「北斗!? どうしてここに?」

「まぁ、色々あるのさ。たっぷり傭兵代を出してくれるといいんだがな!」

彼女の剣筋は、まさに稲妻そのもの。頼もしさと、理不尽なほどの荒々しさが同居している。

戦況は一気に好転した。

だが―――まだ足りない。

あの幕府軍の大将、九条裟羅の首を落とさなければ、この戦に勝ちはない。

「北斗、ここは任せるよ!」

「お、おい!?」

北斗の制止を振り切り、私は刀を強く握り直して駆け出した。

雷鳴が轟く戦場を跳び越え、一直線に九条裟羅めがけて跳躍する。

その、刹那―――。

「!」

私の視界から、彼女の姿がフッと消えた。

次の瞬間、背後から大気を焦がすような稲妻の閃光。

空中で無理やり身体を捻って振り返った時には―――彼女が、至近距離で漆黒の弓を限界まで引き絞っていた。

矢先に高濃度の雷元素が絡みつき、空気がバチバチと焼ける嫌な音がした。

「しまっ―――!」

放たれた矢は、本物の雷鳴のような速度で私の胸元へ迫る。

避けられない。刀で弾くのにも、間に合わない。

私は、ギュッと目を瞑った。

稲光が頬を照らし、焼けるような死の熱が、私の肌を撫でた―――。

 

 




おまけ 旅人視点で

俺たちが状況打開に頭を抱えていると、物陰からその姿がぬっと現れた。金色の瞳は楽しげに細まり、口元は今にも物語を書き出しそうな笑みを浮かべている。
 「「『コソコソと状況楽しんでないで助けにこいや!!』」」
 「!?」
 軽く肩をすくめて、狐らしい笑みを深めた。
「なんじゃ、将軍にやられて落ち込んでおると思っておったら……元気ではないか」
 元気? そんな悠長な話じゃない!
 しかし神子は相変わらずの調子で、扇子で口元を隠しながら言う。
「まぁ良い。妾もこの状況についてのネタはたっぷり収集できた。あとは任せるがよい」
「で、アレは一体なんなんだよ?」とトーマが顎をしゃくる。
「アレとは?」
「あそこで海を睨みながら、紫色のオーラまとってる千代のことだよ!」
 神子は軽く鼻で笑い、答えた。
「あれは――嫉妬じゃ」
 俺は目を瞬かせた。
 嫉妬? 蒼雲の居場所も分からないのに?
 神子はにやりと笑い、視線を千代へ向ける。
「そんなに疑うのなら、聞いてみようかのう……。のう、千代よ」
「……………神子、何?」
「汝は何にそんな怒っておるのじゃ?」
「蒼雲が何の連絡もよこさず、他の女と会話してたから」
「ほらな」
 合ってたァァァァァ!?
 パイモンが慌てて割って入る。
「あ、でも蒼雲と会ってないだろ? どうしてそんなこと分かるんだよ?」
「女の勘」
 お、おんなの勘!? ……もう言葉が出ない。
 神子はさらに問いかける。
「して千代。蒼雲はどこにいるか、分かるのか?」
 千代はしばし沈黙し――低く呟いた。
「多分、海祇島の方」
「海祇島となると……」と神子が意味ありげに目を細め、トーマが続ける。
「抵抗軍の本拠地か」
 パイモンが小首をかしげる。
「抵抗軍って何だ?」
 そこへ綾華が落ち着いた声で説明する。
「先ほど千代さんがおっしゃった海祇島を統治している珊瑚宮によって設立された、反目狩り令の組織です」
 トーマも頷く。
「お嬢の言うとおりだ。海祇島の“現人神の巫女”珊瑚宮心海が組織し、今は部下のゴローが率いて幕府軍と交戦している」
 その説明の最中、なぜか神子が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
 ついさっきまでの真剣さは、どこへ消えたのやら。
「つまり目狩り令に対抗していて、お尋ね者の俺たちでも受け入れてくれるかもしれないってことか?」
「そうだな」
「だが、俺とお嬢は行けない。社奉行は抵抗軍と密な関係があるわけじゃない。互いに信用していないからな」
 神子はそこで、手を軽くたたきながら口を開く。
「そこでじゃ――お主たち、三人で抵抗軍に加わり、幕府軍と戦ってみらんか?」

「行く」

「え、?」

えぇぇぇ!!!?

稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。

  • 璃月篇(海灯祭)※この話の本編
  • 引き続き稲妻篇
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