闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に……   作:時代に遅れている

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書いててよく思うこと、これ本当に恋愛小説?


死を見送って意志を強く

「…………」

海祇島の夜は、どこか厭な湿り気を帯びていた。

建付けの悪い窓の隙間から滑り込んでくる潮騒は、璃月の港で聞くそれとは明らかに周波数が違う。黒く、重く、底知れない深淵の縁を撫でるような響きがあった。

布団に潜り込んでから、どれだけの時間が経過しただろうか。

思考のカスばかりが脳髄の底に沈殿していくのに、意識の糸が切れて眠りへと落ちる気配は、一向に訪れない。

「蒼雲、まだ寝ないのか?」

不意に。

淀んだ静寂の膜を破って、声が落ちた。

虚空に浮かぶ小さな相棒―――パイモンが、毛布の隙間から顔を出し、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。

「ああ……なんだか、寝付けなくてな……」

俺は短く答えた。

余計な心配をかけまいと声帯の震えを抑え込んだつもりだったが、その声色には、隠しきれない泥のような倦怠が滲んでいたかもしれない。

「そうか……まぁ、明日もあるんだし、早く寝るんだぞ〜」

パイモンは空中で一度だけふわりと宙返りを打つと、再び自分の毛布の中へと潜り込んだ。

数秒。

それだけの時間で、規則正しく安らかな寝息が部屋に響き始める。

「全く……アイツは俺の母親役か?」

微かな苦笑が、唇から漏れた。

だが、その温かなやり取りの熱が空気に溶けて消えると、再び冷ややかな夜の圧力が俺の皮膚を包囲してくる。

俺は目を閉じ、意識を深い場所へと沈めた。

瞼の裏に焼き付いているのは、紫の雷光に切り裂かれた空。千代の血を吐くような悲痛な叫び。

そして―――俺の身体の奥深くでくすぶり続ける、古い“熱”の感覚。

―――チリン。

微かな、ガラスを弾いたような金属音が、風に乗って耳朶を打った。

俺は弾かれたように目を開け、窓の外へと視線を走らせる。

青白い月明かりを背にして、音もなく滑空してくる小さな影があった。

生き物ではない。関節部から微細な火花を散らし、極めて精巧な演算に基づいて舞い降りてくるソレは―――。

「カラクリ仕掛けの……鳥か」

窓枠に、カツンと乾いた音を立てて着地したその造形物を見て、俺は眉をひそめた。

こんな悪趣味で、無駄に手の込んだ玩具を使い、わざわざ海を越えて便りを寄越す暇人など。俺が過ごした三千七百年の時間の中でも、ただ一人しか知らない。

「留雲……。こんな夜更けに、わざわざ文をよこすとは……」

俺は同室の二人を起こさぬよう、畳の軋みすら殺して慎重に身を起こした。

鳥の細い足に結びつけられた小さな竹筒を解く。

指先から伝わってくる微かな仙力の波長が、遠い故郷への懐かしさと共に、得体の知れない不吉な予感を運んでくる。

月明かりの下。

小さく丸められた紙片を開く。

そこに墨で記されていたのは、極めて簡潔でありながら―――俺という存在の根幹を、根こそぎ揺るがす事実だった。

『―――璃月港にて、魔神オセルの封印が解かれかけた。ファデュイの暗躍によるものだが、現在は旅人たちの尽力により再封印されている。だが、深い大地の封印に不可逆の綻びが生じた。仙衆は総力を挙げて補強に当たっているが、猶予は少ない。早急な帰還を求む』

文字を一つ目で追うごとに、顔面から急激に温度が奪われていくのが分かった。

「まさか………俺がいない間に、そのような事になっていたとはな」

紙を持つ指先が、微かに痙攣した。

俺が璃月を離れたことへの咎。過去の清算から目を背け、千代という個人の救済を優先した代償。

それが今、最悪の形で牙を剥いたというのか。

―――ドクン。

心臓が、早鐘を打った。

いや。違う。

心臓のさらに奥底、霊基のコアそのもので、別の何かが不気味に脈動したのだ。

「ぐっ………ぬぅぅ!!」

突如。

灼熱の鉛を血管に直接流し込まれたような、爆発的な激痛が全身を駆け巡った。

視界の端が明滅する。血管の内壁を、ドロリとした黒い熱が這いずり回って神経を焼いていく。

それは痛みであり。

破壊への衝動であり。

そして―――激しい、怒りだった。

俺たちの故郷を、帝君の遺した平穏を、再び泥で汚そうとした者たちへの、剥き出しの殺意。

(鎮まれ……ッ! 今ここで、暴れるわけにはいかない……!)

「はぁ………はぁ………はぁ」

俺は自身の胸ぐらを鷲掴みにし、畳に額を擦り付けるようにして、気管から漏れる呻き声を噛み殺した。

内側から皮膚を突き破って漏れ出しそうになる『炎』を、必死に理性の檻へと押し戻す。額から噴き出した脂汗が頬を伝い、冷たい畳に濃い染みを作っていく。

その時、だった。

「…………!」

背筋の産毛が総毛立つような、奇妙な気配。

誰かが、見ている。

俺は荒い呼吸を無理やり押しとどめ、ゆっくりと首を捻って振り返った。

視線の先―――部屋を仕切る襖の向こう。

わずかに開いた一寸の隙間から、誰かの視線が真っ直ぐにこちらへ向けられているのを感じる。

旅人か? それとも、パイモンか。

いや、気配の質が違う。

「………………」

襖の向こうの人物は、言葉を発しない。ただ、じっとこちらの様子を窺っている。

俺が内なる熱に苦しんでいることに気づいているのか。それとも、偶然夜中に目を覚まして通りかかっただけなのか。

だが、今の俺には、その正体を確かめるために声をかける余裕すら残されていなかった。

(時間がない…………)

俺は奥歯が砕けるほど噛み締め、黒い衝動を意思の力だけで強引にねじ伏せる。

璃月での異変。自身の身体の限界。そして、稲妻という閉ざされた国で囚われたままの、千代の“心”。

(早く。早くあの将軍の目を覚まさせ……千代が生きられる居場所を取り戻さなければ)

そして―――。

(俺自身の過去にも、ケジメを着けなければ………!)

月光が厚い雲に遮られ、部屋が深い闇の底へと沈み込む。

襖の奥の気配は、まだそこにあった。

              ◆

海祇島を撫でる風は、どこか肌に纏わりつくような嫌な湿り気を帯びている。

鼻腔をくすぐるのは、慣れ親しんだ潮の香りだけではない。

錆びた鉄のような血の匂い。すり潰した薬草の青臭さ。そして、死の淵をさまよう者たちの汗の臭気。

それらが混然一体となって、戦場特有の淀んだ空気を形成していた。

あれから、数日が過ぎた。

俺たちは抵抗軍の一員として、それぞれの役割という名の歯車になり、戦場という巨大で血生臭い機構を回していた。

旅人はその卓越した武勇を買われ、『メカジキ二番隊』の隊長に任命されたらしい。

海祇島の周辺海域を荒らし回る幕府の浪人たちを次々と討伐し、その勇名は日に日に高まっていると聞く。風の噂では、隊員たちからの信頼も厚く、まさに破竹の勢いだとか。

光の中を駆け抜ける英雄―――それが、今のあいつに最も相応しい姿だろう。

対して。

俺と千代が配属されたのは『サワラ四番隊』。

名目は特殊遊撃隊だが、実態は後方支援―――言うなれば、救護班だ。

俺の使う水元素の力が「癒やし」に特化していること、そして千代の精神がまだ凄惨な前線に出るには本調子ではないことを考慮した、心海の采配だろう。

適材適所。的確すぎて、憎らしいほどだ。

「……うぐっ……!」

天幕の下。

簡易ベッドに横たわった若い兵士が、苦悶の声を漏らす。

その肩は刀傷で深く裂け、巻かれた包帯にはどす黒い赤が幾重にも滲んでいた。傷口の周囲の肉が焼け、脂が焦げたような惨たらしい傷跡だ。雷元素を帯びた刃の仕業だろう。

「動くな。傷が開く」

俺は感情を排して静かに告げると、右の掌に意識を集中させる。

体内の仙力を練り上げ、清浄な水へと変換する。指先から溢れ出した淡い蒼光は、柔らかな膜となって兵士の傷口を覆い隠した。

じゅう、と。傷口から熱が引いていく音が、鼓膜の奥で鳴るような錯覚を覚える。

痛みに強張っていた兵士の眉間の皺が、波が引くように次第に和らいでいく。

「す、すげぇ……痛みが、引いていく……」

「完全に治ったわけではない。切断された組織が辛うじて繋がっただけだ。無理はするなよ」

俺は手早く新しい包帯を巻き直しながら、ふと、重い息を吐き出した。

(……懐かしいな)

かつて璃月でも、こうして傷ついた仙衆や千岩軍の兵たちを癒やしていた。

数千年の時を経ても、戦場に流れる血の匂いと、すり切れた命を繋ぎ止めるこの泥臭い作業だけは変わらない。

ただ一つ、あの頃と違うのは―――。

俺自身の身体が、悲鳴を上げていることだけだ。

ズキン、と。胸の奥で、黒い熱が疼く。

あの夜、留雲からの文を受け取って以来、体内の仙力の均衡が音を立てて崩れかけているのを感じる。

他者を癒やす水を生み出すたびに、俺自身の生命力がカンナで削り取られるように磨耗し、代わりに泥のような疲労が霊基の底に沈殿していく感覚。

視界の端が、時折チカチカと明滅する。

だが。今はまだ、誰にも悟らせるわけにはいかない。

「蒼雲、水桶を変えてきたよ」

天幕の入り口から、明るい声と共に千代が入ってきた。

その両手には、縁まで水の張られた重そうな木桶が二つ。並の男ならひとつ運ぶだけで難儀する重量だが、鬼族の怪力を持つ彼女にとっては、道端の小枝を拾って歩くようなものだろう。

額に玉のような汗を浮かべ、甲斐甲斐しく兵たちの世話をして回るその姿は、かつて『鬼の武者』として戦場を朱に染めた面影とは違い、どこか温かい母性すら感じさせる。

彼女は苦しむ兵士たちに優しく微笑みかけ、手際よく布で汗を拭ってやっている。

その横顔を見ていると、俺の胸を焼く痛みも、幾分か和らぐ気がした。

「ああ、ありがとう……」

俺が立ち上がり、桶を受け取ろうとした、その時だった。

俺の右手が、ふと微かに震えた。

水面に落ちたさざ波のような、ほんの一瞬の痙攣。だが、千代の鋭い瞳は、その僅かな不調を見逃さなかった。

「ねぇ、蒼雲……無理してない? 大丈夫?」

千代がぐっと顔を近づけ、俺の顔を下から覗き込む。

その瞳には、隠しきれない不安の色が揺れていた。

「蒼雲……さっきからずっと、息が荒いし、顔色なんてすごく悪いよ。汗だって、尋常じゃない」

彼女の手がスッと伸びてきて、俺の額に触れる。

ひんやりとしたその指先の感触に、俺は自分が灼けるような異常な熱を帯びていることを、嫌でも自覚させられた。

「……将軍との傷が痛むんだ。大したことはない」

俺は彼女の手をそっと外し、努めて平静な声を作った。

嘘ではない。だが、真実の全てでもない。

これ以上、あの娘の心に、余計な心配の重りを乗せるわけにはいかないのだ。

「それより……おかしくないか?」

俺は話題を強引に逸らすように、天幕の外で並んで休んでいる兵士たちへと視線を向けた。

「ここ最近、この救護班を訪れる兵士の多くが、異常な倦怠感や疲労を訴えてきている。それも、ただの戦の過労ではない」

千代も釣られて、兵士たちの方へ視線を向ける。

「……言われてみれば。みんな、妙に老け込んだような……?」

そう、それだ。

搬送されてくる兵士たち。その多くは、まだ十代後半から二十代前後の若者のはずだ。

だが、彼らの肌は老婆のように乾燥して土気色に変わり、髪には不自然に白いものが混じり始めている者さえいる。

瞳の奥から生きる精気が抜け落ち、まるで蝋燭の火が燃え尽きる寸前のような、枯れた気配を漂わせているのだ。

(生命力が……吸い取られている?)

仙人としての直感が、頭蓋の奥でけたたましい警鐘を鳴らす。

これは病ではない。呪いか、あるいは―――何か禁忌の力を使った代償か。

等価交換の理すら無視した、命の底引き網のような一方的な搾取の匂いがする。

その時だった。

「おーい! 蒼雲、千代! 見てくれよ!」

天幕の外から、旅人の切迫した声が響いた。

だが、その声色にはいつもの静かな冷静さがない。焦燥と、恐怖にも似た得体の知れない何かが混じっている。

「どうした?」

俺と千代は顔を見合わせ、急いで天幕の外へ出た。

そこにいたのは、旅人とパイモン。

そして―――旅人に肩を貸され、足を引きずるようにして歩く、一人の兵士。

「哲平が……!」

旅人の悲痛な叫びと共に、その兵士がゆっくりと顔を上げた。

俺は、息を呑んだ。

そこにいたのは、数日前に「手柄を立てた」と意気揚々と語っていた、あの快活な若者ではなかった。

頬はこけ、目は落ち窪み、髪は老婆のように真っ白に染まりきっている。

まるで、数十年もの時間を一瞬で奪い取られたかのような、枯れ木のような姿。

それが、哲平だった。

              ◆

天幕の入り口から漏れる光が、逆光となってその男の姿を浮かび上がらせていた。

だが、その輪郭はあまりにも頼りなく、ひどく薄い。

「ああ、君たちか……来たんだね?」

その声は、擦れた障子紙を擦り合わせたように乾いていた。

かつての前線で響かせていた、あの若々しい張りなど微塵もない。

俺の足元で、千代が息を呑む気配がした。

「哲平! どうしたの……その姿」

千代の声が震えている。無理もない。

数日前まで、彼は未来への希望に満ちた若者だった。

功名を立て、隊長になり、この戦を終わらせると語っていた、ただの真っ直ぐな青年だったはずだ。

だが今、俺たちの目の前にいるのは―――。

白髪に覆われ、深く刻まれた皺に埋もれた、死期の迫った老人だった。

「……………」

俺は、言葉を発することができなかった。

いや、喉元まで出かかった言葉を、理性で無理やり押し留めていた。

仙人の目で見れば、嫌でも分かってしまう。

彼の内側にあるはずの『生命の灯火』が、油を使い果たし、芯までもが燃え尽きようとしていることが。

これは怪我ではない。病でもない。

―――寿命の、搾取だ。

その時、慌ただしい足音が近づいてきた。

「珊瑚宮さま!」

ゴローの切迫した声と共に、天幕の布が大きく跳ね上げられる。

現人神の巫女―――珊瑚宮心海が、息を切らして飛び込んできた。

「皆さん! ………ッ!」

聡明な彼女の動きが、凍りついたように止まる。

その薄藍色の瞳が見開かれ、目の前の信じがたい光景を映し出した。

彼女の唇がわななき、言葉にならない嗚咽を漏らす。

沈黙が、重く、冷たく、その場を支配した。

誰もが理解していた。理解したくなかったが、圧倒的な現実として突きつけられてしまった。

彼が誇らしげに語っていた『秘密兵器』。

神の目を持たぬ凡人が、無理やりに力を得るための代償が、これだったのだと。

その静寂を破ったのは、パイモンの悲痛な叫びだった。

「心海! 良いところに、哲平のやつの様子が変なんだ!!」

パイモンは心海にすがりついた後、再び哲平の方へと向き直り、空中で身を乗り出して必死に呼びかける。

まるで、大声で呼べば、彼が元の姿に戻ると信じているかのように。

「おい! しっかりしろよ! 哲平!」

だが、哲平の瞳は虚ろで、焦点が定まっていない。

呼吸は浅く、胸の上下動は今にも止まりそうだ。

俺は、拳を強く握りしめた。

爪が掌に食い込み、血が滲む。

この感覚。

かつて、幾度となく味わってきた無力感。

神の力を行使しても、仙術を極めても、どうにもならない領域。

『不可逆』という、絶対の絶望。

俺は一歩、前に出た。

そして、冷徹な事実を告げるために口を開く。

「無駄だ……彼はもう―――」

その場の全員の視線が、一斉に俺に集まる。

期待。すがりつくような願い。

だが、俺はそれを裏切らなければならない。

嘘をついて希望を持たせることこそが、死にゆく者への最大の冒涜だと知っているからだ。

「助からん」

俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。

「蒼雲………?」

千代が、信じられないものを見るような目で俺を見上げた。

その瞳が激しく揺れている。

『どうしてそんな酷いことを言うの』『あなたなら治せるんでしょう』という無言の訴えが、痛いほど突き刺さる。

だが、俺は視線を逸らさなかった。

逸らせなかった。

目の前の枯れ木のような青年から立ち昇る死の匂いが、俺の鼻腔を焼き尽くしていたからだ。

蝋燭の火は、風で消えればまた点けられる。

だが、蝋そのものがなくなれば、火は二度と灯らない。

哲平は―――燃え尽きたのだ。

「おい………蒼雲! お前なら治せるんだろ!!」

パイモンの悲痛な叫びが、重苦しい天幕の空気を切り裂いた。

その小さな手は空を掴むように震え、縋るような視線が俺を射抜く。隣にいる旅人も、言葉には出さないが、その瞳の奥に『奇跡』を願う光を宿していた。

俺は、視線を逸らさなかった。逸らすことは、哲平の命に対する冒涜だからだ。

だが、告げなければならない事実は、あまりにも無慈悲だった。

「無理だ……」

喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。

「この者に、生の力は殆ど残されていない。器が壊れたのではない。中身が……魂を燃やすための油が、もう一滴も残っていないんだ」

俺の水は、傷を癒やし、汚れを浄化することはできる。

だが、失われた『寿命』そのものを補填することなど、神にだって許されていない領域だ。

「じゃあ……」

旅人が、震える声で食い下がった。その金色の瞳が揺れ、禁忌の領域へと踏み込む。

「生き返らせたりは? 死んでしまう前に、蘇生させれば……!」

「そ、そうだよ! 治せないなら生き返らせればいいじゃないかーー!!」

パイモンの絶叫が鼓膜を打つ。

その言葉を聞いた瞬間。

俺の胸の奥で、古びた扉が軋み音を立てて開いた気がした。

―――生き返らせる。

かつて、俺も同じことを口にしたことがあった。

命の重さを知らず、ただ力の理屈だけで世界を見ていた、あの頃に。

「……それは、出来ない」

俺は静かに、けれど断固として首を横に振った。

「なんでだよ! お前は仙人なんだろ!? すごい力を持ってるんだろ!?」

パイモンの絶叫が、遠くに聞こえる。

俺の意識は、目の前の惨状から離れ、遥か彼方―――色彩すら色褪せた記憶の底へと引き戻されていった。

              ◆

―――それは、遥か昔の記憶。

璃月の山々がまだ若く、神々が大地を歩いていた時代の光景。

『………何をメソメソと泣いてる』

荒々しい声が響く。

それは俺の声であり、しかし今とは違う、傲慢で猛々しい響きを帯びていた。

『主のいう通り、もう暴れてはおらん。言われた通りにしたぞ』

『それなのにーー何をそんなに悲しむことがある』

俺は苛立たしげに尾を揺らし、目の前の小さな影を見下ろした。

そこにいたのは、塵のように儚く、けれど誰よりも慈愛に満ちた女性だった。彼女は崩れ落ちた人間の亡骸の前で、静かに涙を流していた。

『……また、救えなかった』

『ああ? 生きとし生けるもの全てがいつか死ぬ。岩や鉄ですら風化するのだ。それを悲しんで何になる?』

暴龍は鼻を鳴らす。俺にとって「死」とは、単なる現象に過ぎなかった。壊れれば無くなる。それだけの理屈だ。

だが、彼女はゆっくりと首を振った。

『………生きとし生けるもの、確かに全て死んでしまう。でも、だからこそーー』

彼女は涙に濡れた瞳を上げ、俺を見つめた。

『愛おしい。いい?』

『生を受けた者は皆、その一生に輝きを放つの』

『それは長い生を持つ私たちと、短い生を持つ人……生きる時間に短い長いはあれど、輝きの尊さは皆、平等にね』

俺は眉をひそめた。理解できなかった。

すぐに消える輝きに、何の意味があるのか。

『………そうか。ならば、生き返らせれば良いではないか』

俺は事も無げに言った。

壊れた玩具を直すように、消えた火を再び灯すように。仙人の力を使えば、魂を器に戻すことなど造作もないことだと思っていた。

『それはダメ……』

彼女の声が、鋭く響いた。

今まで見たこともないほど、強い拒絶の色。

『何故だ? 悲しむくらいなら、元に戻せばいい』

『生は一度きりだから価値があるの……。残された者は、人の死を受けて成長し、命の尊さを知るの』

彼女は亡骸にそっと触れ、祈るように目を閉じた。

『もし簡単に生き返らせてしまったら……それは、死を悲しみ、乗り越えようとする人々の心を冒涜することになる』

『そしてーー命は、誰も大事にしなくなってしまう』

『……』

『いつかあなたにも、それが分かる時が来るわ』

彼女は寂しげに、けれど優しく微笑んだ。

『想像もつかんな』

俺はつまらなそうに吐き捨て、視線を逸らした。

その言葉の意味を、痛いほど理解する日が来るとも知らずに。

              ◆

「…………ッ」

記憶の彼方から戻ってきた俺は、強く拳を握りしめた。

爪が皮膚を突き破りそうなほどに。

あの時の俺には分からなかった。

だが、今は分かる。

哲平は、自分の命を燃やして、その輝きを「功名」という形に変えようとした。

その選択が愚かだったとしても、彼が命懸けで駆け抜けた時間は本物だ。

もし俺が、禁術を使って無理やり彼をこの世に繋ぎ止めたら?

それは、彼が命を賭してまで求めた覚悟を、泥で汚すことにならないか。

死を軽んじ、命の重さを踏みにじる行為にならないか。

―――あの日、彼女が言った通りだ。

命は、戻らないからこそ尊い。

「……パイモン。旅人」

俺は顔を上げた。

その瞳に宿る光が、かつての暴龍のような傲慢なものではなく、痛みを知る者の静かな光であることを願いながら。

「俺たちがすべきことは、彼を無理やり引き戻すことじゃない」

視線を、ベッドに横たわる哲平へと移す。

彼の呼吸は、もう風前の灯火だ。

「彼の最期を……その輝きの終わりを、看取ることだ」

その言葉は、誰あろう、過去の愚かな自分自身への戒めでもあった。

              ◆

天幕の中は、ひどく淀んだ静寂に包まれていた。

死の気配が濃密に立ち込める中、ベッドに横たわる老人のような青年―――哲平だけが、無理に作ったような明るい声を響かせる。

「あれ、みんな……どうしてそんな顔をしているのかな?」

かすれ、途切れがちな声。

焦点の定まらない虚ろな瞳が、俺たちの沈痛な表情を不思議そうに見つめていた。

彼は、自分の身体が限界を迎えていることにすら、もう気づいていないのだろうか。

「それより聞いてよ。あれからたくさんの手柄をたてたんだ………」

ひび割れた唇が弧を描く。

生命の灯火を削り取って得た、かりそめの栄光。それを誇らしげに語る彼の姿は、あまりにも痛ましかった。

「船に乗って幕府軍と海戦を繰り広げ、1人で幕府武士を討ち倒して、拠点に拘束されていた仲間も助けて……夢に思わなかったことばかりさ……」

嬉しそうに語るその言葉の裏で、彼の命は砂時計のようにサラサラとこぼれ落ちている。

俺は奥歯を噛み締め、その残酷な事実から目を逸らさずに立ち尽くした。

「ハハハ、全てはこの……秘密兵器のおかげかな?」

哲平の震える手が、懐からひとつの玉を取り出した。

―――ドクン。

それを見た瞬間、俺の胸の奥で、嫌悪と怒りが混ざり合った黒い感情が跳ねた。

禍々しい邪気を放つ、まがい物の目。

「そ、それは!!」

パイモンが息を呑む。

「邪眼……人の命を削る道具」

旅人の声は、地を這うように低く、冷たかった。

その言葉に、哲平の顔から無理に作られた笑みがすっと消えた。

彼は手の中の邪眼を、まるで初めて見る恐ろしいもののように見つめ、力なく手を下ろす。

「邪眼………あまり、良いものではなさそうだね」

その諦観に満ちた声が、天幕の空気をさらに重く沈ませた。

「ようやく、君たちに追いつけたと思ったのに………」

「哲平………」

旅人が、絞り出すように彼の名を呼ぶ。

「どうしてこんなものに手を出したんだよ……」

パイモンの声は涙で震えていた。

その問いに、哲平は薄く、自嘲するような笑みを浮かべた。

「………憧れと、焦りかな」

彼が語り出したのは、強者ひしめくこの世界で、ただの人間として生まれた者の悲痛な叫びだった。

「神の眼差しを受けた人たちと違って、僕たちは浮世に生きた証を残せない……」

「少しでも、生きた証を残したいって……それが、一番かな…」

神の目を持たぬ者の、途方もない渇望。

俺のような、数千年の時を生きる仙人には、永遠に理解し得ない焦燥。

だが、あの日の記憶が―――短い命だからこそ尊く輝くのだと教えてくれた、あの人の言葉が、俺の胸を強く打った。

「だからってーー! おい、千代からもなんか言ってやれよ!!」

耐えきれなくなったパイモンが、千代へと視線を向ける。

だが―――。

「………」

千代は、声を発することができなかった。

彼女もまた、かつての戦場で多くの命が散っていくのを見てきた武人だ。

そして、この残酷なまでの「命の対価」を前に、かけるべき言葉など見つからないのだろう。彼女の握りしめた拳が、微かに震えているのだけが分かった。

俺は、一歩前へ出た。

誰かが、彼のこの命を懸けた想いに、報いてやらねばならない。

「安心しろ」

俺は、哲平の濁った瞳を真っ直ぐに見据えて、静かに、だが確かな重みを持って告げた。

「お前はこの戦で、多くの者の記憶に留まった」

「その働きは必ず書き記され、生き続けるだろう。だからーー今は休め」

それは気休めではない。俺が仙人として、彼の生きた証を記憶に刻み込むという誓いだった。

「………っ!」

俺の言葉に、哲平の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「う、うん。そうするよ」

彼は小さく頷き、そして、隣に立つ旅人へと視線を移した。

「旅人……最後に一言……いいかな?」

「何?」

旅人が、哲平の顔に身を寄せる。

「僕たちの隊服が出来たら、僕の分も持ってきてほしいんだ……それで一緒に着てさ……」

その言葉は、もう叶うことのない未来への約束。

天幕の中に、張り裂けそうな静寂が落ちる。

「なんて顔をしてるんだ、相棒。……彼のいう通り少し休むだけだから……少し休めば…きっと……」

哲平の瞳が、ゆっくりと閉じていく。

その顔は、不思議なほどに安らかだった。

「哲平……」

パイモンが、ポロポロと涙をこぼす。

そして―――俺の横で、空気が爆ぜた。

「ファデュイ」

旅人が立ち上がった。

その背中から立ち昇る怒気は、これまで見たこともないほど凄まじく、周囲の温度を一瞬で奪い去るかのようだった。

あいつの瞳に宿っているのは、純粋な殺意。

「おい、どこへ行くんだよ、おーい!」

パイモンの制止も聞かず、旅人は無言のまま飛び出していった。

「旅人さん……!」

心海が慌てて声を上げるが、もう遅い。

あいつのあの怒りは、誰にも止められない。今は、ファデュイという標的に向けて、その刃を振り下ろすしかないのだ。

俺は小さく息を吐き、すぐに戦場を見据える「指揮官」としての思考へと切り替えた。

感傷に浸っている暇はない。哲平のような犠牲者を、これ以上増やすわけにはいかないのだ。

「………心海、今すぐに邪眼の使用状況の確認と回収を」

俺は振り返り、冷徹な声で指示を出す。

「すでに行っています……ですが」

心海が苦渋に満ちた表情で唇を噛む。

「力に魅了されて、今だに使いたいという兵士もいるんだ……」

ゴローが、悔しそうに拳を壁に叩きつけた。

……そうか。

一度あの強大な力を手にした凡人が、それを手放すのは容易ではない。命を削ると分かっていても、神に選ばれなかった彼らにとって、それは甘すぎる毒なのだ。

俺は目を細め、遠く鳴神島の方向へと意識を向けた。

この凶悪な毒をばら撒いている根源を絶たねばならない。旅人は一人で突っ走ったが、背後にはもっと巨大な陰謀が渦巻いているはずだ。

「そうか……なら、俺は一旦鳴神島に戻る」

俺は、決意を込めてそう宣言した。

「あまりに危険だ! 俺たちもーー」

ゴローが身を乗り出した。その声には、仲間を無惨に散らされた怒りと、旅人や俺だけを死地へ向かわせることへの強い抵抗感が滲み出ている。

犬の耳と尾が、彼の隠しきれない激しい感情を代弁するように逆立っていた。

「ダメだ……」

俺は、その熱を冷水で断ち切るように、低く、絶対の拒絶を込めて言い放った。

冷酷だと思われるかもしれない。だが、今は誰かが理性の手綱を握らなければならないのだ。

「すでに海祇島にまでファデュイの手が伸びているのは、彼が……哲平の死が教えてくれた事実だ」

俺の言葉に、ゴローがハッと息を呑み、拳を強く握りしめた。

痛いほど分かる。守るべき兵たちを内部から食い物にされていたのだ、指揮官としての彼の無念は計り知れない。

「このまま奴らの好き勝手にさせるわけにはいかない。お前たちはここに残り、この島で進行している企みを根絶やしにすべきだ。本陣を空にしてどうする」

俺が言い含めると、静寂を縫うように、凛とした声が響いた。

「ゴロー、蒼雲さんの言う通りです」

心海が一歩前に出る。

悲しみに暮れる少女の顔はすでに鳴りを潜め、そこにあるのは、戦局を俯瞰する軍師としての眼差しだった。

「恐らく彼らは、我々の兵士の士気……いえ、異常な闘争心を意図的に駆り立て、幕府軍との衝突を煽っている。稲妻での内乱をさらに激化させ、疲弊させることこそが目的なのでしょう」

心海の声は静かだが、その推論は恐ろしいほどに的を射ていた。

「この連鎖を食い止めるためにも、我々は海祇島全土で邪眼の回収を急がねばなりません。そして、無謀な参戦を控えるよう、軍全体に直ちに手を打つ必要があります」

その言葉に、ゴローは目を見開き、愕然としたように呟いた。

「ということは、つまり……将軍はファデュイの操り人形となり、目狩り令も何もかもがファデュイの思惑通りに動いていると? そして、それを内側から食い止めるために、俺たちはここに残って足元を固めなければならないと……そういうことですか」

雷神すらも手玉に取る、巨大な陰謀。

その途方もないスケールに直面し、ゴローの顔に戦慄が走る。

「はい」

心海は静かに伏し目がちになり、小さく首を横に振った。

「私も海祇島から出ていない身ゆえ、鳴神島における幕府の内部事情を詳しく把握しているわけではありません。断言はできませんが……」

そこで彼女は言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた。

海の色を溶かしたような薄藍の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。

その視線は、俺が心の奥底に秘めた決意を、すべて見透かしているようだった。

「蒼雲さん。あなたはそれを確かめに……そして、止めに行くのでしょう?」

迷いのない、確信に満ちた問いかけ。

俺は小さく息を吐き、誤魔化すことなく、ただ一言だけ返した。

「ああ」

言葉はそれだけで十分だった。俺が鳴神島で元凶を断ち、彼女たちがこの海祇島を守り抜く。沈黙の中で、確かな共闘の意志が結ばれる。

「そうですか……」

心海は、張り詰めていた糸が少しだけ解けたように、微かに憂いを帯びた微笑を浮かべた。

天幕の隙間から差し込む光は、すでに赤銅色に濁り、長い一日の終わりを告げている。

「では、もう日が暮れています。夜の海を越えるのは危険が伴います。出発は明日にして……どうか今は、万全に備えてください」

その声には、単なる軍師としての指示だけでなく、俺という個人の身を案じる確かな温もりがこもっていた。

俺は無言のまま頷き、昏く沈みゆく天幕の外へと視線を向けた。

明日は、鳴神島へ戻る。

そろそろあの女狐と合流しないとな。

稲妻での政治やらに精通して裏での動きも何かしら知っているはずだ。

胸の奥で燻る黒い熱を押し殺しながら、俺は静かに決意の刃を研ぎ澄ませていた。

              ◆

その日の夜。

海祇島の空には、透き通るような星屑が散りばめられていた。

俺は一人、人気の途絶えた砂浜に腰を下ろし、静かに寄せては返す波打ち際を眺めていた。

月光が水面で砕け、銀色の鱗のように揺らめいている。潮騒の音だけが、昼間の血と鉄の匂い、そして哲平の命が燃え尽きる瞬間を、無理やりにでも洗い流そうとしているかのようだった。

「蒼雲……」

波音に紛れるほどの、小さな声。

振り返らなくとも、その気配と声色で誰かは分かる。

「ん?」

俺は視線を海に向けたまま、短く応じた。

「千代か……」

「今日も、1人?」

彼女は砂を踏む音を微かに響かせながら、俺の数歩後ろで立ち止まった。

「ああ、まぁな」

俺がそう返すと、彼女は少しだけ言い淀むように言葉を探した。

「……今日も、離れてた方が……いい感じ?」

その気遣いに、俺は内心で小さく息を吐いた。

俺の身体の奥で時折燻る黒い靄――それを気にして、彼女はここ数日、一定の距離を保とうとしている。

「いや、今日は落ち着いてるからな」

俺は横を向き、自分の隣の砂浜を軽く叩いた。

「隣に来るか? 最近は、あまり個人的に話す機会もなかったしーー」

千代は一瞬の沈黙の後、ゆっくりと近づいてきた。

だが、彼女は俺の隣に並んで座るのではなく―――俺のすぐ背後に回り込んだ。

―――トン。

背中に、小さな重みが預けられる。

千代が俺の背中に額を当て、凭れかかってきたのだ。

薄い布越しに、彼女の額の微かな体温と、震えるような吐息が伝わってくる。

「ど、どうしたんだ?」

予想外の行動に、俺は思わず戸惑いの声を漏らした。

だが、千代は俺の背中に顔を押し当てたまま、絞り出すような声で呟いた。

「ねぇ、蒼雲。私……哲平になんて声をかければ良かったのかな……」

え……?

「私に、彼に声をかけてあげる資格……あったのかな……」

その声は、昼間の気丈な彼女とはまるで違う、ひどく脆く、水気を帯びたものだった。

「………」

俺は何も言えず、ただ彼女の言葉を待った。

「私は、鬼族の女……。ずっと前から、鬼族は血脈が細くて、子孫があまり生まれなくて……」

千代の言葉が、背中越しに俺の心臓へと直接響いてくる。

「だから、なんとか功績を作らなきゃって。後の世に『鬼族ってすごい種族がいたんだ』って、生きた証を残したくて……たくさんの戦いに出た」

それが、かつて「鬼の武者」として恐れられ、将軍の右腕として戦場を駆け抜けた彼女の、本当の原動力だったのか。

「……でも、その結果が、影に刃を向けて、不名誉な歴史を残した『これ』だよ」

千代の肩が、小さく震えているのが分かった。

「名前を残したくて足掻いた結果が、逆賊の『虎千代』……。だから私、生きた証を残したくて邪眼に手を出した哲平を……なんの否定も出来なかった!」

千代の指先が、俺の背中の服をぎゅっと握りしめる。

「『命を削ってまで残す名誉なんて無意味だ』って……そんなこと、どの口が言えるの? 私自身が、名前と名誉に囚われて、一番大切なものを失ったのに!」

嗚咽が漏れた。

「哲平の気持ちが、痛いほど分かっちゃったんだよ……! 焦って、認められたくて、何かに縋りたくなるあの気持ちが……。だから、止めることも、叱ることもできなかった……。私、何も……」

背中を濡らす熱い雫の感触が、俺の肌まで伝わってきた。

―――そうか。

彼女が昼間の天幕で、ただ一人沈黙を貫いていた理由。

冷淡だったわけでも、言葉を知らなかったわけでもない。哲平の抱えていた空虚な渇望が、かつての自分の姿とあまりにも重なりすぎて、声を出せば心が壊れてしまいそうだったのだ。

俺は、前を向いたまま、そっと自分の手を後ろへ回し、俺の背中の服を握りしめている千代の震える手に重ねた。

「……千代」

俺の声は、夜の波音に溶けるほど静かだった。

「お前は、間違えていない」

「……え?」

「哲平の決断を否定しなかったのは、お前が誰よりも『名を持たぬ者の痛み』を知っていたからだ。薄っぺらい綺麗事で彼を諭さなかったお前の沈黙は、あいつの覚悟に対する、お前なりの最大の敬意だったはずだ」

俺の手のひらの中で、千代の手がびくっと震える。

「それに、お前が不名誉な歴史を残したと言うが……それは終わったことじゃない」

俺は、彼女に伝わるように、はっきりと力強く言った。

「お前は今、生きている。500年の時を越えて、またこうして立ち上がった。お前の歴史は、将軍に刃を向けたあの瞬間で止まっているわけじゃないんだ」

「でも……私は……」

「これからの世に『鬼族の千代』がどういう存在だったかを残すのは、過去の伝承じゃない。今のお前の生き方だ」

俺は海を見つめ、かつて俺自身が囚われていた『業』を思い出しながら言葉を紡ぐ。

「名前なんてどうでもいい。俺が……俺たちが、お前の本当の姿を覚えている。だから、もう何かに怯えながら生き急ぐ必要はない」

背中の重みが、ほんの少しだけ深くなった。

嗚咽は止まらない。だが、それは悲壮感に満ちたものではなく、長年抱え込んでいた氷の塊が、少しずつ溶け出していくような泣き声だった。

「……蒼雲……ずるいよ……」

鼻声混じりの彼女の呟きが、背中に響く。

(そんなこと言われたら……もう、泣くしかないじゃない……)

千代は何も言わず、ただ俺の背中に顔を押し当てて、子供のように声を上げて泣いた。

冷たい海風が吹く夜の砂浜で、俺は動くことなく、彼女の過去と今を繋ぐその小さな体温を、いつまでも静かに感じ続けていた。

              ◆

波の音が、静かに海祇島の夜を包み込んでいた。

明日の出立に向けた軍議の最終確認を終えた珊瑚宮心海は、夜風に当たるため、そして一人の男に言葉をかけるために砂浜へと足を運んでいた。

「蒼雲さ……」

声をかけようと踏み出した心海の足が、ふと止まる。

月光に照らされた波打ち際。そこには、背中を合わせて寄り添う二つの影があった。

蒼雲の広く頼もしい背中に、千代が顔を埋めている。潮騒に混じって、微かに、しかし確かに、千代の嗚咽が風に乗って心海の耳に届いた。

「…………」

心海は息を潜め、暗がりの中へそっと身を引いた。

あの気丈な鬼の武者が、子供のように肩を震わせて泣いている。それが、今日命を散らした哲平という一人の兵士を想ってのものであることは、心海にも痛いほどに理解できた。

「どうしましたか、珊瑚宮さま?」

背後から、護衛として付き従っていたゴローが不思議そうに声をかけてきた。彼の犬耳が、砂浜の奥にいる二人の気配を察知してピクリと動く。

心海は振り返り、口元に人差し指を当てて静かに微笑んだ。

「いえ、なんでもありませんよ……。今日は、そっとしておいてあげましょう」

ゴローを連れて踵を返し、その場を立ち去りながら、心海は自らの胸の奥で、密かに複雑な「計算」を弾き出していた。

海祇島を率いる軍師として、常に戦況や兵站を数値化し、最適解を導き出す彼女の脳内で、今夜はまったく別の、極めて個人的なポイントの清算が行われていたのだ。

(千代さん……)

心海の脳裏に、先ほどの千代の涙が浮かぶ。

伝説の鬼姫でありながら、抵抗軍の一介の兵士である哲平の死を、あそこまで我が事のように嘆き、悲しんでくれている。上に立つ者として、兵士一人一人をそれほどまでに想ってくれるその深い慈愛と義理堅さ。

それは、海祇島のトップである心海にとって、この上なく尊く、尊敬に値するものだった。

(兵士たちへの深い想いに……プラス、5ポイント)

現人神の巫女として、彼女の評価は文句なしの最高点だった。

―――しかし。

心海の胸の奥、現人神の巫女という重責のベールを剥がした「一人の少女」としての部分が、チクリと、鋭い痛みを訴えかけていた。

蒼雲のあの背中。

数日間、自分が看病し、密かに心を預けかけていた彼の隣を、今は千代が完全に独占している。

彼が千代の手を重ね、その背中で彼女の涙を受け止めているという事実。二人の間にある、数千年の時を越えた者同士の、誰にも入り込めない絶対的な絆と空間。

それを見せつけられたことに対する、自分でも戸惑うほどの、明確な嫉妬。

(……ですが、蒼雲さんを独り占めしていることに……マイナス、3ポイント)

歩みを進めながら、心海は小さく、誰にも聞こえないようなため息を夜風に溶かした。

5、引く、3。

(よって……本日の千代さんの獲得ポイントは、プラス2ポイント、ですね)

軍師の頭脳が出したその結果は、どこか理不尽で、ひどく人間臭いものだった。

胸の中に渦巻くこの「マイナス3ポイント」の重さをどうやって消化すればいいのか、兵法書のどこを開いても答えは書いていない。

心海は、夜空に浮かぶ白月を見上げながら、軍師らしからぬ柔らかな苦笑をそっと零したのだった。

 

 




おまけ 
 海祇島の夜風が吹き抜ける窓辺。
「はぁ……」
 千代が夜空の月を見上げて深いため息をついた、まったく同じタイミングで。
「はぁ……」
 すぐ隣から、鈴を転がすような、しかしどこか重いため息が重なった。
 千代が驚いて視線を向けると、そこには現人神の巫女・珊瑚宮心海が、同じように窓の外を見つめて佇んでいた。
千代「奇遇だね、同時にため息をつくなんて……」
心海「そうですね……。少々、ガードの固い敵に頭を悩ませていまして……」
千代「ふぅん、そうなんだ……」
(絶対に蒼雲のことだよね?)
 千代の胸の奥で、警戒のアラームがけたたましく鳴り響いた。
(賢い顔しときながら、相手がいないと分かればすぐに手を出そうとする……。どうせ蒼雲のことなんて碌に知らないくせに……)
 千代は少しだけ先輩風を吹かせるように、ツンと顎を上げて口を開く。
「いったいどんな事に悩んでいたりするの? もし恋煩いならさ、もう少し大人になってからが良いんじゃないかな?」
「蒼雲だってほら、色々と忙しいし……子供の相手なんてーー」
 言いながら、千代は心海の方へと振り返った。
 ――そして、絶句した。
 月光に照らされた心海の姿は、透き通るような肌と、憂いを帯びた薄藍の瞳が相まって、ハッとするほど艶やかだった。
 それに引き換え、自分はどうだ。長年の武者暮らしのせいで垢抜けず、色気というよりは少女的な雰囲気しか漂っていない。おまけに散々「大人になってから」などと言っておいてアレだが、自分も大して胸がない……。
千代「せ、せめて戦が終わってからにした方が良いんじゃないのかな!?」
 圧倒的な敗北感を味わいながら、千代は声の震えを誤魔化すように急いで言い直した。
「と、というか、蒼雲のどこが良いの? 会ってそんなに経ってないよね?」
心海「まぁ、そうですね……」
 心海は顎に指を当て、真面目な顔で分析を始めた。
心海「まずはあの冷静沈着な姿勢ですかね。軍議でも極めて冷静で、強大な力を持ちながらも決して驕らず、常に全体の被害を最小限に抑えようとするあの思慮深さ。指揮官として、これほど頼もしい存在はいませんから」
千代(なるほど……蒼雲の将来性や能力に惹かれたんだ……ふぅん。所詮中身を見てない外側だけの、仮初の恋ね)
 千代は内心で鼻で笑う。
心海「あとは、顔ですかね」
千代(……顔? 顔だけ!? 本当に蒼雲のこと好きなの? 本当に外側だけで判断する典型的なーー)
心海「あの、時折見せる辛そうな顔を見てると……どこか養いたくなるんです」
千代「…………え?」
 予想外の角度からの発言に、千代は言葉を失った。
心海「多分、蒼雲さんは今まで長い時を生きてきた中で、色々なものを一人で背負ってきたんだと思います……」
「それなのに、アレだけ他人に優しく接することができて、本当に尊敬します」
千代(……っ!!)
 千代の目が見開かれる。
(よく分かってるじゃない……!)
千代「ほ、他には!?」
 先ほどの敵対心はどこへやら、千代は身を乗り出した。
心海「言った事を必ず有言実行してくれるところとか、自分がやったとアピールする事なく、さりげなく手助けしてくれたりするところとか……」
千代(よく分かってるじゃない!!)
 千代の瞳が、完全に同志を見つけたファンのように輝き始める。
千代「他には他には!?」
心海「あとはですねーー」
「アハハハ!」
「ウフフフ!」
 海祇島の夜空に、二人の少女の恐ろしくも楽しげな笑い声が響き渡った。最初は牽制し合っていたはずの二人が、いつの間にか「推しの尊いところを語り合う会」へと変貌を遂げていたのだった。
 一方、その頃。
 別の部屋で身を休めていた蒼雲は。
蒼雲「ブルブルッ……!」
 突然、背筋に氷を当てられたような悪寒が走り、身震いをした。
蒼雲「な、なんだ……この悍ましい気配は……」
 彼は毛布を引き寄せながら、得体の知れない恐怖に首を傾げることしかできなかった。
 場面は変わり。
 桜の花びらが舞う、静かな鳴神大社の境内。
 御神木の下で、八重神子は優雅に寝そべりながら、一冊の本(原稿)を読んでいた。
「…………」
 パタン、と本を閉じる。
 神子はスッと目を細め、どこか空の彼方――あるいは、この物語を紡ぐ「次元の向こう側」へと、冷ややかで鋭い視線を向けた。
八重神子「……作者。これはどういうことじゃ?」
 低く、凄みのある声が響く。
「何を勝手にライバルを増やしておる? 妾は、ヒロインは千代の『1人』という設定だと聞いておったはずじゃが?」
 妖狐の背後に、九本の尻尾の幻影が揺らめいたような気がした。

稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。

  • 璃月篇(海灯祭)※この話の本編
  • 引き続き稲妻篇
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