闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
海祇島(わたつみじま)の重苦しい空気を背に、俺と千代は休む間もなく鳴神島へと舞い戻り、一直線に鳴神大社を目指した。
神櫻がそびえ立つ大社の境内。
静謐な空気が漂うその場所に足を踏み入れた俺の目に最初に飛び込んできたのは……ひどく奇妙で、目を疑うような光景だった。
「妾の後に繰り返すのじゃ。『あーん』。ほれ、はやく」
神櫻の根本。ひらひらと舞い落ちる薄紅の花びらの下で、八重神子が優雅に腰を下ろしている。そして驚くべきことに、その艶やかな膝の上には、目を覚ましたばかりらしき旅人の頭が乗せられていた。
「……あーん」
旅人が焦点の定まらない目で、言われるがままに口を開ける。
「うむ、なるほど。少なくとも脳に致命的な支障はきたしていないようじゃな」
神子は満足げに頷き、旅人の頭を撫でている。
……膝枕?
「……何をやっているんだ?」
俺は思わず、呆れを通り越した声で問いかけた。
「おや、来たか。いやなに、ちゃんと返答が出来るか確認しておっただけのこと。気にする必要などないぞ?」
神子は悪びれる様子もなく、涼しい顔でこちらに視線を向ける。
……気にするなと言われても無理がある。八重神子の膝枕。端から見ればご褒美なのかもしれないが、俺からすれば、後でどんな恐ろしい対価や裏の要求を突きつけられるか分かったものではない。絶対に遠慮したいものだ。
「おい、今何やらひどく失礼なことを考えてはおらんかったか?」
神子の紫の瞳が、スッと細められた。こちらの内心を的確に読み取るその鋭さに、俺は少しだけ視線を逸らす。
「いや、別に……」
俺が口を濁していると、傍らでふらふらと身を起こした旅人と、宙に浮くパイモンが、まるで別人のような胡散臭いものを見る目で神子を凝視していることに気づいた。
「どうした? まさか妾の美しすぎる姿に見惚れておったのか?」
いや、それは絶対に無いだろ……。俺は内心で即座にツッコミを入れた。
「うぅ……さっきから聞きたかったんだけどさ」
パイモンが、腕を組みながら戸惑い気味に口を開く。
「お前の話し方とか雰囲気とか、オイラたちが初めて出会った時と全然違うような……」
ああ、なるほど。外行きの「上品な大巫女」の仮面を被っていた時の神子しか知らなかったのか。
「そうか? いつもこんな感じだと思うがな」
俺が肩をすくめて言うと、神子は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「そうじゃろ、そうじゃろ」
「年の功で得た、あの鼻持ちならない胡散臭さとか、まさにそれだろ」
――言い終わるか、終わらないかの刹那だった。
神子の背後に、紫電を帯びた八つの妖狐の尻尾が、幻影のようにブワッと顕現した。
空気が一瞬で凍りつき、凄まじい雷元素が一点に収束する。
(しまった――)
ドォォォン!!
轟音と共に、有無を言わさぬ雷の衝撃波が俺の顔面を直撃した。
「……………」
プシューー……。
俺の頭から、微かに焦げた煙が上がる。視界がチカチカと明滅し、全身の骨が微かに軋んだ。仙人の肉体でなければ、今頃消し炭になっていただろう。
「そ、蒼雲……大丈夫?」
千代が慌てて駆け寄り、俺の顔を覗き込む。
だ、大丈夫……のはずだ。
「でも、さっきのは蒼雲も悪いよ……」
心配そうにしながらも、千代はジト目で俺をたしなめた。
は、はい。反論の余地もございません。女性の年齢と性格を弄るのは、数千年生きてもタブーだったと思い知らされた。
「と、まぁ冗談はさておき」
神子は幻影の尻尾をスッと収め、何事もなかったかのように優雅な微笑みを浮かべた。
「妾は前から何も変わっておらぬ。優しく、そして美貌を兼ね備えた神子じゃ。分かったな?」
背後に物理的な脅威をチラつかせたその「優しい」笑顔に、パイモンが引き攣った顔で何度も頷く。
「お、おう……」
場の空気がようやく落ち着きを取り戻した頃、完全に意識をはっきりさせた旅人が、真剣な眼差しで神子を見据えた。
「ところで……どうやって『散兵(スカラマシュ)』から俺たちを助けてくれたの?」
……散兵?
聞き慣れない異名に、俺は思わず隣の千代へ視線を向けた。だが、彼女も小さく眉を寄せ、不思議そうに首を傾げている。どうやら、かつての稲妻には存在しなかった名らしい。
俺たちの無言の疑問を察したのか、神子はふっと目を細め、桜色の唇を動かした。
「そうか、主らは五百年前の大戦の『その後』を知らなんだな」
「『散兵』……奴は千代、主が永い眠りについておる間にファデュイに加わり、今では執行官(ファトゥス)第六位にまで登り詰めた厄介な者じゃ」
執行官、だと?
その言葉に、俺の胸の奥で冷たい警鐘が鳴り響いた。
稲妻の混乱――目狩り令の推進や、海祇島での邪眼の配布。その裏でファデュイが糸を引いていることはすでに看破していたが、まさか執行官という最高幹部クラスの大物までが直接乗り込んできているとは。
これは俺の想定以上に、根深いところまで奴らの毒が侵食していると見るべきだろう。
つまり、旅人は俺と別れて単独でファデュイの施設を襲撃し、そこで運悪くその『散兵』と鉢合わせてしまったということか。
「それほどの得体の知れない実力者から、お前はこいつらを助け出したのか?」
俺が半ば探るように問うと、神子は心底可笑しそうにくすりと笑った。
「妾以外に、誰がおるというんじゃ?」
……まぁ、そうだよな。
俺は小さく息を吐いた。味方にいればこれほど心強い存在もないが、敵に回せばこれほど面倒な女狐もいない。正面からの力押しだけで解決したとは到底思えない。必ず何かしらの、底意地の悪い『策』を持って対処したに違いない。
俺の怪しむような視線を受け流し、神子は口元を隠しながら妖艶に目を細めた。
「まぁ、鳴神大社の秘宝を使ってのものじゃがな。あの『散兵』とかいう者が、一瞬にして地に伏し、涙ながらに命乞いをしてきた……と妾が言ったら、主らは信じるか?」
「…………」
俺は背筋に冷たい悪寒を感じ、それ以上想像することを即座に放棄した。
大社の秘宝を使ったというのは恐らく嘘(あるいは誇張)だろう。だが、この女のことだ。相手の最も触れられたくない弱みを的確に抉り出し、物理的な暴力以上に『精神的・社会的に抹殺する』ような盤外戦術を用いたとしても、まったく違和感がない。
散兵とやらに、少しだけ同情の念すら湧いてくる。
旅人も俺と似たような光景を想像したのか、完全に言葉を失い、引き攣った顔で黙り込んでいる。
そんな俺たちの反応を上質な茶菓子のように楽しむと、神子は扇子をパチンと閉じ、旅人の鼻先へと突きつけた。
「ふふっ。そのような過去の出来事を考えるより……どうやってこの妾に『恩』を返すか考える方が、遥かに重要だと思わんか? 童よ」
逃げ場を塞ぐような、蠱惑的で絶対的な圧力。
俺はただ、旅人がこれから背負わされるであろう「対価」の重さに、ひっそりと同情を寄せることしかできなかった。
「もしそうでなければ、やはり何か頭に支障をきたしておるのかもしれんな。そこの、ひどく失礼な仙人同様にな」
神子は扇子で口元を隠しながら、流し目でこちらをチクリと刺してきた。
失礼なのはどちらだと言い返したかったが、ここで口答えすればまたあの雷の尻尾が飛んでくるのは目に見えている。俺は黙って肩をすくめるに留めた。
「誠に感謝申し上げます、八重神子さま」
旅人が居住まいを正し、ひどく畏まった様子で深々と頭を下げた。命の恩人に対する、彼なりの最大の誠意なのだろう。
だが、神子はつまらなそうに首を振った
「とは言っても、それほど畏まる必要はないぞ。妾が欲しいのは、汝の空虚な感謝ではなく『行動』じゃ。ふふ」
意味深な笑みを浮かべ、神子は旅人の顔を覗き込む。
「汝らはまだ、あの『邪眼』について考えを巡らせておるそうじゃな?」
「うん……」
旅人の顔に、再び濃い影が落ちた。哲平の最期を看取ったあいつにとって、邪眼は単なる兵器ではなく、決して許しがたい怨敵そのものだ。
「その点なら安心せい、もう手は尽くしておるわ。のう、蒼雲?」
不意に振られた話題に、俺は静かに頷いた。
「まぁな。俺はあくまで指示を出しただけで、主に心海の方が率先して軍令を敷きながら対処してくれている」
俺は海祇島での光景を思い出しながら言葉を続けた。
「あれほど優秀な軍師だ。抜け目なく、迅速に対処してくれるだろう」
私情を挟まず、純粋な実力への評価として口にした言葉だった。
しかし、神子はその言葉を拾い上げ、面白そうに目を細めた。
「あの散兵とやらも、すでに拠点が露呈している状態で、他の同僚のために無駄な抵抗をすることもないじゃろ」
神子は空を仰ぎ、わざとらしく芝居がかったため息をつく。
「はぁ……時間があれば、あの小賢しいファデュイどもの苦しむ姿を、是非この目で特等席から見てみたかったんじゃが……」
スッ、と。
紫の妖艶な瞳が、俺へと向けられた。
言葉には出さないが、その瞳は雄弁に語っていた。「主の力で痛めつけてくればよかったのに」と。
(……手は貸さないぞ)
俺は冷ややかな視線で牽制を返した。
俺の力は、相手を嗜虐的に嬲り倒すための道具ではない。そもそも、そんな悪趣味な光景など見たくもない。
俺の無言の拒絶を悟った神子は、少々俯いた後、今度は隣に立つ千代へと標的を変えた。
「珊瑚宮心海とかいうあの女、実にやりおる。この蒼雲がそれほどまでに高く評価しているのだから、さぞ愉快な会話が楽しめると思うが――」
神子の唇が、悪戯っぽく吊り上がる。
「千代は、そうでもなさそうじゃな?」
その瞬間、境内の空気が、ピシッと音を立てて凍りついた気がした。
「別に?」
千代の声は、一切の感情を削ぎ落とした氷の刃のようだった。
短く、冷徹で、取り付く島もない。
表情こそ普段通りを装っているが、彼女の周囲だけ明らかに温度が数度下がっている。
(……またか)
俺は内心で頭を抱えた。
心海の名前を出しただけで、これだ。海祇島でのあの悍ましい「女同士の笑顔の探り合い」がフラッシュバックする。
神子は明らかに、千代のその反応を引き出すためにわざと焚きつけている。タチの悪い女狐め。
「さて、冗談はここまでじゃ」
神子がふっと扇子を閉じると、境内に漂っていた緩い空気が一変した。
舞い散る桜の花びらさえもが、その声の重みに圧されて歩みを止めたかのように錯覚する。彼女の紫の瞳から、先ほどのからかいの色が完全に抜け落ちていた。
「汝らは、あやつに会ったな?」
静かだが、確信を持った問い。
「会ったよ」
旅人が、迷いなくはっきりと頷いた。
だが、俺の認識は少し違う。俺は首を横に振り、事実だけを淡々と告げた。
「俺は、会ってない」
「私も……」
千代も、俺に同意するように伏し目がちに呟いた。
「え!? 何言ってんだよ! 会っただろ、神像の前で!」
パイモンが空中でジタバタと手足を動かし、素っ頓狂な声を上げる。無理もない。客観的に見れば、俺たちはあそこで雷電将軍と確かに刃を交えたのだから。
「あのね、パイモン。神子が言ってる『あやつ』って言うのはーー」
千代が、かつての親友を思い出すように、ひどく苦しげな顔で言葉を紡ごうとする。
それを引き継ぐように、旅人が核心を突いた。
「あの暗い空間にいた……雷電将軍のこと?」
「そう」
神子は深く頷き、目を細めた。
「今、浮世で統治している『人形』ではなく、その本体。その名は『影(えい)』」
「影? そういえば、千代もそんなこと言ってたな」
パイモンが顎に手を当てて考え込む。
「待てよ? ってことは、儀式をやってたのは人形で、本物の雷電将軍はその後に会った奴だったってことか?」
「つまりあの時、戦場だけでなく、相手も変わっていたと?」
「どうして、そんなことを?」
旅人の問いかけに、俺も無言で耳を傾けた。
神であっても肉体を持つ以上、限界がある。だが、自らの身代わりとなる精巧な人形を創り出し、そこに国を任せるなど、常軌を逸している。
「あれこそが、奴の言う『永遠』だからじゃ」
神子の声には、かつての友への憐憫と、どうしようもない呆れが混じっていた。
「この国に永遠を求めるならば、まず己が永遠に触れねばならぬ」
「やがて肉体は土に還り、『人形』がそれに代わる。じゃが、精神は『摩耗』から逃れられぬ。ゆえに、あやつは自らの意識を刀に宿し、瞑想を用いてあらゆる障害を回避しておるんじゃ……」
「じゃあ、あの時斬り開かれた空間がーー」
「『一心浄土』。あやつの心の世界といっても良いじゃろう。基本的に自分の意識しか存在せん」
神子は自嘲気味に笑う。
「自我はその空間に引き篭もり、政務などの煩わしい責務は全て、永遠を突き進むあの人形に任せておる。それが、あやつの目指す永遠なんじゃよ」
「鍾離(しょうり)先生も、『摩耗』について話してた……」
旅人が、ぽつりとこぼした。
その名が出た瞬間、俺の肩が微かに跳ねた。璃月を統べる岩の神。俺たち仙人を束ね、誰よりも長くこの世を見つめ、そして誰よりも摩耗の残酷さを知る男。
「モラクスのことか? もう久しく会っておらぬな。やはり面白い神じゃ……」
神子は懐かしむように目を細め、そして、チラリと俺の方へと視線を流した。
「そこの仙人とやらには一度も会ったことがないがの。モラクスは、妾と会う度に彼について話していたものじゃ……」
俺は息を呑んだ。
帝君が、他国の眷属に俺の話を?あの人はどう語っていたというのか。
「……今の奴は、まさに『自らの部屋に閉じこもる子供』のようだとは思わぬか?」
神子の言葉が、刃のように真っ直ぐに飛んでくる。
それは影に向けられた言葉でありながら、同時に、過去の罪から逃れ、本性を水で覆い隠して生きている俺自身に向けられた矢のようにも聞こえた。
「……………」
俺は耐えきれず、ふいと視線を逸らした。
神櫻の根元に落ちた花びらを見つめるふりをして、心臓の奥底で渦巻く黒い焦燥を必死に押さえ込む。
図星だった。俺もまた、心を閉ざし、過去の亡霊に怯える臆病な子供にすぎないのだから。
そんな俺の逃避を見透かしたように、神子は静かに、だが残酷なほど優しい声で結論を落とした。
「まぁ、要するに……失うのが怖いんじゃ」
――失うのが、怖い。
その一言が、俺の背を強張らせた。
影が永遠を求めた理由。それは、神という絶対的な力を持っていながら、愛する者たちが手のひらからこぼれ落ちていくのを防げなかった、途方もない絶望と恐怖から来ているのだ。
俺の拳が、自然と強く握り込まれた。
他人のことなど言えない。俺だって、大事なものを失いたくないという恐怖に、今もずっと縛られ続けているのだから。
「神子、あなたは……一体どうするつもりなの?」
千代の声が、静まり返った境内に小さく、だが確かな芯を持って響いた。
かつての友を救いたいという切実な願いと、現状の途方もない壁の高さに挟まれ、彼女の瞳は揺れている。
神子はふっと息を吐き、悪戯めいた笑みを引っ込めて、底知れない深さを湛えた大巫女の顔になった。
「汝らと同じじゃ。童は目狩り令から稲妻の人々を救いたい」
神子の視線が旅人を捉え、次いで、スッと俺へと向けられた。
「蒼雲。主は、この国を救うと同時に……千代の『居場所』を作り出したい」
――その通りだ。
俺は反論も肯定もせず、ただ無言で神子の紫の瞳を見返した。
稲妻の民がどうなろうと、極論を言えば俺の知ったことではない。だが、千代がこの国で再び胸を張って生きるためには、彼女を「逆賊」たらしめた根源――狂った将軍の治世を正さなければならない。俺の目的は、最初から一貫してそれだけだ。
「そして、妾と千代は――この国と、影を救いたい」
神子は桜の枝を見上げながら、ポツリとこぼした。
「見よ、目的は見事に一致しておる」
それぞれの動機は違えど、行き着く先は一つ。
「そして、ここからが重要なんじゃが……『一心浄土』があやつの心を表しているとするならば、そこで影を打ち負かせば、あやつの意思を変えることができるやもしれぬ」
「それが……お前の考えた、目狩り令を廃止するための方法か?」
パイモンが目を丸くして身を乗り出した。
「言葉で説得したり、外で改革を起こすんじゃなくて……直接、雷電将軍の『心の世界』に踏み込んで変えるってことか?」
「そうする他ないだろうな」
俺は腕を組み、冷徹な事実を口にした。
「外にいるのは、プログラムされた通りに『永遠』を執行するだけの、心を持たない人形だ。情に訴えかけようが、論を説こうが、刃で傷をつけようが、決して揺らぐことはない。……元栓を閉めない限り、水は止まらん」
「でも……なんで俺に?」
旅人が、戸惑うように自身の手のひらを見つめた。
「ほう。まだ自分が特別な存在であることに気付かぬとはな」
神子はあきれたように肩をすくめる。
「主は、あやつの一心浄土に『入れた』のじゃぞ? 自我しか受け付けぬ絶対の閉鎖空間に、じゃ。つまり、奴は汝に強い関心を抱いておる。それも、『永遠』に影響を及ぼすほどの脅威としてな」
例外。永遠の敵。
それは紛れもなく、影の心に生じた「綻び」だ。
「一度も……」
千代が、信じられないものを見るような目で神子を見つめた。
「一度も、入ったことがないの? 神子でさえ……?」
「残念じゃが、ない。どのような空間かさえ知らないと言うのが、実のところじゃ」
神子の声には、ほんのわずかな――本当に微かな、寂寥が混じっていた。
五百年。どれほど扉を叩いても、友は決して内側から鍵を開けなかったのだ。その孤独と無力感は、どれほどのものだっただろうか。
「まぁ、主も入ろうと思えば入れると思うがな……」
「え?」
不意に投げかけられた言葉に、千代が顔を上げる。
神子はそれ以上語ろうとせず、くるりと背を向けると、紅白の巫女装束を翻して大社の表参道へと歩き出した。
その足取りは、先ほどまでの湿っぽい空気を蹴散らすように、ひどく軽快だ。
「おい、もう行くのか?」
俺は呆気にとられ、その背中に声をかけた。
「決まっておるじゃろう?」
神子は振り返り、陽の光の下で最高に底意地の悪い、笑みを浮かべた。
「特訓じゃ……」
――背筋に、悪寒が走った。
あの女狐がわざわざ用意する「特訓」だ。ただの素振りや瞑想で終わるはずがない。
俺は隣に立つ旅人と無言で顔を見合わせ、これから訪れるであろう理不尽な疲労を予感し、深く、深くため息をついた。
神子の背中を追い、鳴神大社の長い石段を下りきった先。
風が吹き抜ける静かな野原の中央に、それはぽつんと置かれていた。
周囲ののどかな自然とは明らかに不釣り合いな、石と金属で造形された奇妙な人工物。その表面には禍々しい紫電が這い、チカチカと不穏な瞬きを繰り返している。近付くだけで、空気が焦げるような匂いが鼻を突いた。
「なぁ、神子。もしかして……あれが特訓の道具なのか?」
俺が嫌な予感を隠しきれないまま問いかけると、神子は腕を組み、さも名案だと言わんばかりに得意げに胸を張った。
「そうじゃ。あやつの振るう技をそっくりそのまま出せるよう、妾が特別に雷の元素力を込めておいたからな。この装置から放たれる攻撃を、全て避けるか相殺せよ」
「おい、本当に言ってるのか!?」
パイモンが空中で仰け反って叫んだ。無理もない。雷電将軍の無慈悲な一撃を自動で放つ機械など、もはや特訓道具ではなく処刑装置だ。
「何、案ずることはない。一度はあの死地を潜り抜けた汝らじゃ……何も難しいことはないじゃろ? それに――」
神子は意地悪な笑みを浮かべながら隣の千代へと視線を流した。
「千代。主はかつて、アビスの汚染で暴走していたとはいえ、あの影の薙刀の刃をその牙で噛み砕いておるのだ。今回もリハビリも兼ねて、軽くやってみよ」
「っ……! もう、それは言わなくていいでしょ!」
千代は顔を真っ赤にして叫び、両手で顔を覆った。
五百年前、彼女が雷電将軍に牙を剥き、名刀の刃を噛み砕いたという伝説。それは彼女の武勇の証であると同時に、決して触れられたくない暗い過去でもある。
だが、今の彼女の慌てふためく様子は、かつての罪への悲壮感というよりも、「人前で、野蛮な武勇伝を暴露された」という乙女の恥じらいの方が遥かに勝っているように見えた。
「えぇ………俺、薙刀を持った将軍にボロ負けしたのに……それを噛み砕いたって……」
旅人が、千代の華奢な姿と恐ろしい逸話のギャップに愕然とし、遠い目をしている。
「流石、鬼族………格が違うぜ」
パイモンも少し引いたような、しかし妙に納得したような声で呟いた。
そんなやり取りを眺めながら、俺は小さく息を吐いた。
確かに、彼女の腕力は凄まじい。先日、海祇島で俺の腕にしがみついて離れなかった時も、仙人の力を使わなければ振り解けないほどの万力だったのを思い出す。
「ふふふ……蒼雲。主も、後々色々と苦労することになるじゃろうな……」
不意に、神子が俺の顔を見て、意味深にクスクスと笑い出した。
その紫の瞳には、底意地の悪い愉悦がたっぷりと浮かんでいる。
(……なんの話をしているんだ、この女狐は)
俺は怪訝に眉をひそめた。タチの悪い未来を暗示しているような気がしてならない。
「さぁ、無駄話はここまでじゃ! やってみるが良い!」
俺の疑問などお構いなしに、神子が優雅に扇子を振り下ろす。
それを合図に、野原の中央に置かれた不格好な装置が、けたたましい駆動音と共に強烈な紫電を放ち始めた。
大気がビリビリと震え、鼓膜を打つ重低音が響く。肌の表面を微弱な電流が走り、全身の産毛が総毛立った。
それからと言うもの、文字通りの「死の特訓」が幕を開けたのだが――。
遠巻きに腕を組んで観察していた俺は、少しばかり感心させられていた。
旅人は、降り注ぐ雷の豪雨を見事に避けきっている。
紫電の蛇が地を這い、空間を切り裂くような斬撃が幾重にも飛来する中を、あいつはまるで風そのものになったかのようにすり抜けていく。
一度、あの一心浄土で将軍と刃を交えた経験が生きているのか……それとも、絶対的な力の恐怖が身体の髄にまで染み込み、本能として危険を回避させているのか。理由は分からないが、あれほど高頻度で不規則に放たれる技の数々を完璧に見切っているのだから、大したものだ。
そして、問題は千代の方だった。
「エイッ!」
可愛らしい掛け声とは裏腹に、彼女のやっていることは正気の沙汰ではなかった。
広範囲に降り注ぐ雷の落雷攻撃は、鬼族特有の力強さを使いバネを活かした軽やかな跳躍でひらりと躱す。だが、回避不能な速度で飛来する「斬撃系」の雷波に対しては、逃げるどころか真正面から刀を振るい、物理的な膂力と技量のみでことごとく相殺してのけているのだ。
雷と刃が衝突するたびに、鼓膜を劈(つんざ)くような爆音と眩い火花が散る。
……あれで、長い眠りから覚めたばかりの「全盛期ではない」状態だというのだから、信じられない。
もし全盛期の彼女が本気で暴れたら、山の一つや二つは軽く消し飛ぶのではないか。
俺は背筋に一筋の冷や汗が伝うのを感じながら、今後いかなる事情があろうとも、決して千代を本気で怒らせるような真似はすまいと、心の底で固く誓った。
「で……なんで俺には、あの悪趣味な特訓を用意していないんだ?」
俺は視線を野原から手元へと戻し、隣で涼しい顔をして特訓を眺めている女狐に問いかけた。
「主に特訓など不要じゃろ?」
神子は流し目で俺を見る。
「アビスの侵食から千代を浄化し、旅人たちを逃がすためにあの『夢想の一太刀』を真正面から受け止めてみせた。あれだけ戦えれば、大したものじゃ……」
そこで神子は言葉を区切り、意地悪く目を細めた。
「『本気』を出せば、なおのことな」
「俺はーー」
「本気を出さないんじゃろ? いや……『出したくない』。『出すのが怖い』と言うのが本音かな?」
神子の声は、ひどく甘く、そして残酷なまでに的を射ていた。
水という穏やかな元素の奥底に隠し持っている、すべてを灰燼に帰す烈火。かつて暴龍と呼ばれた己の業を、この目敏い女狐は完全に見透かしている。
「……過去について、無闇に詮索を入れるものではない」
俺は声音から一切の感情を削ぎ落とし、絶対の拒絶を込めて冷ややかに遮った。
これ以上踏み込めば、容赦はしないという威嚇を込めて。
「ふふ……それもそうじゃな」
神子はそれ以上追及することはなく、あっさりと引き下がった。だが、その瞳の奥には「いつでも剥がせる」という愉悦の色が残ったままだ。
張り詰めた空気が、俺と神子の間にだけ重く沈殿する。
その息苦しい静寂を破ったのは、能天気な幼い声だった。
「おーい、八重神子ぉ! 特訓、終わったぞ〜!」
野原の向こうから、パイモンが大きく手を振っている。
俺は小さく安堵の息を吐き、水面のような平静を取り繕って、汗だくになった旅人たちの元へと歩き出した。
「はぁ……はぁ……結構、練習したな……」
紫電の嵐がようやく鳴りを潜め、特訓装置の駆動音が完全に停止した。
宙に浮かぶパイモンが、見えない壁にでも凭れかかるようにぐったりと項垂れている。
「きつかった……」
旅人も膝に手をつき、肩で荒い息をしていた。その服は汗で重く肌に張り付き、全身から湯気が上がりそうなほどの熱気を帯びている。ただの素振りではない、一歩間違えれば炭になる死の舞踏を踊り抜いたのだ。無理もない。
「お前は飛んで逃げていただけだろ」
俺は疲労困憊の旅人を労いつつも、横で一番疲れたような顔をしている小さな相棒に呆れ声で突っ込んだ。
「飛んで移動するだけでも、結構きついんだぞ! オイラだって必死だったんだからな!」
パイモンが空中でジタバタと手足を動かし、抗議の声を上げる。
「それにしても……」
息を整えながら、パイモンが不思議そうに野原の端に立つ神子へと視線を向けた。
「どうして神子は、こんなに雷電将軍について詳しいんだ? あの一心浄土のことだって、まるで見てきたみたいに話すし……」
「それはね、パイモン」
隣で涼しい顔をしていた千代が、くすりと笑って種明かしをした。
「神子が、『影』の眷属だからだよ」
「えぇ!?」
パイモンの小さな目が、限界まで見開かれた。
「眷属って……モンドにいた、バルバトスとトワリンみたいな関係なのか!?」
「あはは、全然見えないよね?」
千代が神子を指差し、からかうように肩をすくめる。
確かに、風の神と寄り添う気高き東風の龍という神秘的な構図に比べると、この底意地の悪い女狐が神に仕える姿というのは、どうにも胡散臭さが先行してしまう。
「何言うかと思えば」
神子は呆れたように手を置いた後ジト目で千代を睨み返した。
「千代、汝も立派な雷神の眷属じゃろうが」
「いや……私は……」
神子のその一言で、千代の顔からふっと笑みが消えた。
彼女の視線が足元の草むらへと落ちる。
『逆賊』。五百年前、愛する主君に刃を向けたという消えない疵。彼女の心の中では、自分はすでに眷属の資格を失った裏切り者に過ぎないのだ。
その痛々しいほどの自責の念が、痛いほど伝わってくる。
「……千代」
俺は一歩前へ出て、俯く彼女の肩にポンと手を置いた。
「主のことをこれほどまでに大事に考え、その心を救おうと奔走している。その時点で、お前が彼女の眷属であることに変わりはない。もっと自信を持っていいんじゃないか」
過ぎた過去など関係ない。今、誰のために戦おうとしているか。それこそが絆の証明だ。
俺の言葉に、千代が弾かれたように顔を上げる。その瞳が、微かに潤みを帯びて揺れていた。
「そこの朴念仁(ぼくねんじん)の言う通りじゃな」
神子が、どこか呆れたような、それでいて愉快そうな声で同意した。
「……朴念仁?」
俺は眉をひそめた。誰が朴念仁だと言うのだ。俺は至極真っ当な事実を述べただけだぞ。
だが神子は俺の疑問を華麗にスルーし、千代に向かって力強く頷いた。
「主は立派な、雷神の眷属じゃ。胸を張れ」
「……うん!」
千代の顔に、ようやくいつものパッと花が咲いたような明るい笑顔が戻った。
「今のでようやく、お前たちが眷属に見えた気がするぞ……」
パイモンがうんうんと腕を組んで頷く。しかし、すぐにまた別の疑問が湧いたようだ。
「でも、眷属ってことは……お前も、トワリンみたいに何かの姿になれたりするのか?」
その言葉に、神子の紫の瞳が妖しく光った。
彼女は口元を扇子で隠し、艶やかな流し目を旅人へと送る。
「なんじゃ? 妾の『狐お姉さん』の姿を見てみたいのか?」
「見たい!」
旅人が、食い気味に即答した。
……おい、こいつ。さっきまでの死闘の疲労はどこへ行った。煩悩の塊か。
「ふふふ、調子に乗るな」
神子は冷たく言い放ち、旅人の額にデコピンを食らわした。
「うぅ……」
額を押さえて蹲る旅人を横目に、俺は内心で深々とため息をついた。
(……いつも調子に乗っている女狐に言われても、まったく説得力がないんだがな)
口に出せばまた雷の尻尾が飛んでくるので、もちろん黙っておいたが。
「さて、馬鹿なやり取りはここまでじゃ」
神子が空気を一変させるように、パンッと小さく手を叩いた。
「気にするべき点は、妾の美しい姿などではなく――なぜ妾が、あやつと会わなくなったか……その理由じゃろ?」
「”永遠に変わらない国”……それが、妾たちの夢じゃった」
神子の声には、いつもの人を食ったような響きは微塵もなかった。あるのは、取り戻せない過去への郷愁と、途方もない寂寥だけだ。
「じゃが、妾は……それが『完全なる静止』を意味するなど、思ってもみなんだ。その時から、奴は妾の手の届かぬところへ、一人で道を歩み始めた……」
神子がゆっくりと伏し目がちになる。
五百年という途方もない時間。仙人である俺にも、親しい者たちと別れ道が分たれていく孤独は痛いほどよく分かる。
「影が『一心浄土』に踏み入る時、妾に別れの言葉もなかった」
「……妾の独りよがりなのかも知れぬが、それが奴なりに考え得た、友情を永遠に保つ方法じゃったのだと思う。別れも告げず、会うこともなく、妾たちの関係は未来永劫、あの時のまま保たれる……少なくとも、あやつはそのように考えておるのじゃろう」
関係性を箱に閉じ込め、鍵をかけ、時の流れから切り離す。
それが、雷神・バアルゼブルが導き出した、あまりにも不器用で、悲しい友への愛情表現だった。
「……独りよがりなのは、将軍の方だよ」
旅人が、ポツリと、しかし強い憤りを込めて呟いた。
残された者の痛みを少しも理解していない、身勝手な永遠。その言葉に、神子はふっと口元を緩め、自嘲とも慈愛ともつかない笑みを浮かべた。
「全く異なる二つの永遠の道に分かれた今……現状を維持し続けるのか、どんな犠牲を払ってでもあやつを正しい道に戻すのか。どちらかを選択することができる」
「妾は、後者を選ぶことに決めたのじゃ。もし……『一心浄土』に閉じこもることが、あやつにとっての永遠への道というのなら……」
「あやつを、自我の世界から引き戻すことがーー」
神子の言葉を、千代が静かに引き継いだ。
「『永遠の眷属』としての役目、ってことね」
千代の顔には、かつての親友を何としてでも救い出すという、武人としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
彼女もまた、この五百年間、別の形で時を止められていた存在だ。だからこそ、神子の抱える痛みが誰よりも分かるのだろう。
「その通りじゃ。よく分かっておるではないか」
神子は嬉しそうに目を細め、千代へ頷き返した。
「二人とも……いい友達だな」
パイモンが、小さな両手を胸の前で組み、感動したように鼻をすする。
だが、その純粋な称賛を受けた途端、神子は照れ隠しのようにスッといつもの「女狐」の顔に戻った。
「ふっ……そこの朴念仁(ぼくねんじん)と千代を除いた主らにこれを聞かせたのは、妾の計画を理解させるためじゃ。あまり調子に乗るでないぞ?」
……また朴念仁呼ばわりか。
俺は小さくため息をつき、頭を掻いた。感動的な空気を自らぶち壊すあたり、やはり素直じゃない性格をしている。
しかし、空気をぶち壊す天才がもう一人、俺たちの隣にいた。
額の汗を拭った旅人が、何かに期待するような、キラキラとした眼差しで神子を見たのだ。
「ところで……あの死ぬほどキツい修行を乗り越えたってことは、今の俺たちはあの雷電将軍に勝てる……?」
ピタリ、と。
野原の空気が止まった。
「う、うーん……それは……」
千代が、ひどく気まずそうに視線を泳がせ、言葉を濁す。
「いや、おそらくーー」
「全く敵わないじゃろうな!」
神子が、腰に手を当てて信じられないほど自信満々に断言した。
あまりの堂々たる響きに、その場に気まずい静寂が落ちる。
「………………」
隣に立つ旅人とパイモンの顔から、サァッと血の気が引いていくのがはっきりと見えた。
薄々そんなことだろうなとは予想していた。神ですら容易に立ち入れない精神世界に乗り込み、数百年分の摩耗と意地を溜め込んだ雷神の本体を屈服させるなど、少し特訓した程度の人間(あるいは仙人)にどうにかなる代物ではない。
(……だが、堂々と言うな、堂々と)
俺はこめかみを揉みほぐしながら、この女狐の絶望的なまでのデリカシーの無さに内心で悪態をついた。
「おい! じゃあこの死ぬほどキツかった特訓は、ただの無駄じゃないか!!」
我に返ったパイモンが、空中で地団駄を踏むように激しく抗議する。
だが神子は涼しい顔で扇子を広げ、妖しく目を細めた。
「ふふ、案ずるな。汝らはこの妾が描く計画の、極めて重要な『歯車』のひとつなんじゃ……。妾には考えがある。勝算が全くないわけないじゃろ?」
その声には、五百年分の策を練り上げてきた大巫女としての、底知れない凄みが宿っていた。
ただの無謀な特攻をさせる気はないということか。俺は少しだけ警戒を解き、彼女の次の言葉を待った。
「それはそうと、皆に問おう」
神子は話題を切り替えるように、スッと真顔に戻った。
「海祇島の『抵抗軍』のこと……主らはどう思う?」
不意を突かれた問いに、旅人が少しだけ視線を泳がせた。
「正直なところ……」
彼が言い淀んだ言葉の続きを、俺は軍師としての、そして仙人としての冷徹な視点から引き継いだ。
「将軍の敵じゃないな。純粋な『武力』という観点から言えば」
俺の脳裏に、海祇島で見た傷ついた兵士たちや、命を削ってまで力に縋った哲平の姿が過る。
幕府軍と抵抗軍の戦力差は歴然だ。神の目を奪われた者、あるいは持たざる者たちがいくら群れを成そうと、絶対的な雷霆の前にあっては、枯れ葉が嵐に立ち向かうようなものだ。
「だがーー」
俺が言葉を続けようとしたその時、隣から、春の陽だまりのように柔らかく、温かい声が響いた。
「『思い』や『意思の強さ』なら、絶対に負けないと思うよ」
千代だった。
夜風に髪を揺らす彼女の横顔には、かつて「鬼の武者」として戦場を容赦なく蹂躙した、あの鋭く厳しい刃のような気配は微塵もなかった。
今の彼女の瞳に宿っているのは、弱き者たちへの深い慈愛だ。過去の凄惨な時代を乗り越えた彼女は今、誰に対しても等しく優しく、その不器用な足掻きすらも温かく肯定しようとしている。
「ふむ……やはり主らは、見る目が良い」
千代のその優しい断言を聞いて、神子は満足そうに深く頷いた。
「どういうことだ?」
パイモンが首を傾げる。
「たとえ抵抗軍が幕府軍との正面対決まで漕ぎ着けたとて、雷電将軍を前にした時……神の目を奪われ、神像に嵌められた者たちで結成された部隊では、為す術もなく灰にされるじゃろう」
神子の言葉は残酷な事実だった。しかし、彼女の口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「じゃが、彼らが弱く、神の目を失った者たちであるからこそ……より大切にしたいと思う『強き意思』がある、と彼らは見たのじゃ」
「人の『願い』が集う時、それは神の目という形を超えた、想像を絶する力となる。それこそが、永遠の静寂を打ち破る鍵じゃ」
なるほど。
神子の狙いが見えてきた。旅人を一心浄土に送り込み、外側では抵抗軍(人々の願い)をぶつけることで、内と外から将軍の強固な殻に亀裂を入れる気なのだ。
「まぁ、正面切っての武力衝突や、将軍の凶刃からあやつらを守り抜く物理的な立ち回りについては……安心するといい」
神子はふわりとこちらを向き、これ以上ないほど邪悪で、美しい笑顔を向けた。
「それは、そこの『朴念仁(ぼくねんじん)』がなんとかするじゃろうからな」
「は?」
俺は間抜けな声を出して固まった。
なんだその、丸投げは。
要するに、「お前は最も危険で面倒な将軍の足止め(物理)と、抵抗軍の防盾役をやれ」ということではないか。
「おお〜! さすが蒼雲!! 頼りにしてるぜ!」
事情も分からず、パイモンが空中で満面の笑みを浮かべてバンザイをした。旅人までもが、「任せた」と言わんばかりのキラキラした尊敬の眼差しを俺に向けている。
(……この、悪徳女狐め)
完全に逃げ道を塞がれた。俺は深く、重く、本日何度目か分からないため息を吐き出した。
俺の盛大なため息を最高の酒の肴のように楽しんだ後、神子はポン、と軽く手を叩いた。
「おっと、そろそろ時間じゃ。皆、一度鳴神大社に戻るぞ?」
彼女の視線が、山の頂にある大社の方角へと向けられる。その瞳の奥に、再び大巫女としての鋭い光が宿った。
「『お客』を、これ以上待たせるわけには行かぬからな」
お客。
その言葉の響きに、ただならぬ気配を感じ取った。こんな深夜に鳴神大社を訪れる客など、尋常であるはずがない。
俺たちは互いに顔を見合わせ、表参道の石段を、再び登り始めた。
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
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璃月篇(海灯祭)※この話の本編
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引き続き稲妻篇