闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
一体この作品のどこに魅力が……読んでくれている読者の皆様本当にありがとうございます。
鳴神大社の境内に戻ってすぐのことだった。
冷たい夜気が満ちる神櫻の裏手、人払いがされた静寂の中で、神子はもったいぶるように口を開いた。
「さて、ここで話すとしよう。汝らが気になっているであろう計画は、妾がずっと考え、温めてきたものなんじゃ」
彼女の紫の瞳が、月明かりの下で妖しく光る。
「計画を立てるにあたり、一番重要なことが何なのか分かるか?」
「ん、なんだ?」
パイモンが首を傾げると、神子は短く答えた。
「情勢を見極めることじゃ」
その声には、盤上を俯瞰するような冷徹な響きがあった。
「『目狩り令』の発令は、明らかに何者かによる外部からの誘導といえよう。『人形の将軍』が持つ、永遠への強烈な執着……それを利用したのじゃ」
――確かに、その通りだ。
俺は無言のまま腕を組み、内心で深く同意した。影という神は、不器用で極端ではあるが、悪意を持って民をいたずらに傷つけようとしているわけではない。
ゆえに、将軍自らがファデュイのような民に被害を及ぼす外部の組織の手を借りるとは到底思えない。誰かが将軍の目と耳を塞ぎ、都合よく操っているのだ。
「『散兵』の言ってたことが、それか……」
旅人が、暗い顔でぽつりと呟いた。ファデュイの執行官が口にした、内側からの崩壊という言葉が脳裏をよぎったのだろう。
「うむ。確かにそれが、一番の裏付けとなっておるな」
神子は静かに頷いた。
「目狩り令の発令と執行の遂行に直接関与し、強引に推し進めていたのは、常に『天領奉行』じゃった」
「あっ……!」
パイモンが何かに気づいたように声を上げた。
「たしか、綾華が言ってたぞ! 目狩り令に反対する書類を上に提出しても、天領奉行と勘定奉行がすぐに否決して、将軍に相談すら出来なかったって……!」
「ちょっ、ちょっと待ってよ……それってーー」
千代の声が、微かに震えた。彼女の言葉が、恐ろしい結論に行き着くのを拒絶している。
だが、誰かがその泥にまみれた真実を白日の下に晒さねばならない。
「……残念だが、天領奉行とファデュイは、裏で完全に手を結んでいるとみて間違いないだろうな」
俺は努めて感情を交えず、淡々と事実を口にした。
「それに、勘定奉行も同調しているとなると……おそらく奴ら、ファデュイの提示した莫大な『金』や『利権』に目が眩んだんだな。法と武力を執り仕切る天領奉行に、国庫の金を管理する勘定奉行……この二つの巨大な奉行所が手を取り合えばーー言わんとすることは分かるはずだ」
社奉行を孤立させ、将軍の耳目を完全に塞ぐことなど造作もない。国の中枢は、すでに根元から腐りきっていたのだ。
「ああ、もう明らかじゃな」
神子が、ひどく冷ややかな、侮蔑を含んだため息を吐き捨てた。
「社奉行以外の二つは、ファデュイと結託しておる。ふんっ……己の欲に目が眩み、国を売った愚かな人間どもよ」
「……本当にね」
千代の口から漏れたのは、たった一言だった。
だが、その短く、地の底から響くような声音に、俺は思わず息を呑んだ。
視線を向けると、千代は深く俯き、両手をきつく握りしめていた。爪が掌に食い込み、血が滲みそうなほどの力。周囲の空気が、彼女から放たれる凄まじい怒気によって、氷のように冷たく張り詰めている。
俺から見て――いや、誰の目から見ても、今の千代はかつてないほど激怒していた。
当然だろう。
元は彼女自身が幕府の重鎮であり、かつて数え切れないほどの友たちが血を流し、命を懸けて守り抜いた「幕府」という組織。
その後輩たちが、あろうことか私利私欲のために外部の敵と結託したのだ。親友である『影』を間違った道から引き戻すどころか、彼女の心の隙を利用して国を売り渡した絶望。
武人としての誇り、かつての仲間たちへの冒涜、そして親友を騙された怒り。
彼女の小さな背中から立ち昇るその静かで熱い激怒を前に、その場にいる全員頑固ただ無言で、彼女の痛みに寄り添うことしかできなかった。
「そして残念なことに、二つの奉行と雷電将軍という絶対的な庇護により、その真の裏切り者たちの『しっぽ』は未だ掴めておらぬ状況じゃ」
乾いた音が夜の静寂に吸い込まれた、まさにその時だった。
「皆、半殺しで良いんじゃない?」
――ヒュッ、と。
境内の温度が、体感でさらに数度、一気に急降下した。
声の主は、千代だ。
だが、その声には一切の抑揚がなかった。普段の春陽のような温かさは完全に消え失せ、ひどく平坦で、底知れない絶対零度の冷たさを孕んでいる。
「あとで天領奉行の蔵を力ずくでこじ開けて、不正の書類を取り出して突きつければ良いし。空いた当代の頭首の座は、蒼雲に据えれば全部解決だよ」
俺は息を呑んで、隣に立つ彼女の顔を直視した。
……嘘だろ。
彼女の瞳から、完全に『光(ハイライト)』が消え失せている。
かつて「鬼の武者」として数多の敵を屠ってきた修羅の顔。いや、それ以上にタチが悪い。完全に理性を失い、純粋な暴力による強行突破を「最も合理的で簡単な手段」として、極めて真面目に算段し始めているのだ。
「大丈夫。こんな腐った真似、笹百合(ささゆり)が見ていたら、どうせ同じように斬り捨ててたはずだもの。彼も、きっと許してくれるよ」
今は亡き天狗の将の名を出しながら、虚無の瞳でこてんと首を傾げる千代。
五百年前の苛烈な基準で現代の腐敗を裁こうとするその姿は、美しくも恐ろしい。
「ヒェッ……」
パイモンが小さな悲鳴を上げ、弾かれたように俺の背中へと隠れた。旅人も若干引いた顔で固まっている。
「ほう……それは、実に面白く、手っ取り早い案じゃな」
神子が手で口元を隠しながら、面白半分に俺へと流し目を向けてきた。
その紫の瞳が「やってみるか?」と悪魔の囁きを投げかけてくる。
(……面白いわけないだろ!)
幕府の要人をまとめて半殺しにして、俺がそのトップに座る? クーデターどころの騒ぎではない。ただの血の雨が降る大惨事だ。唯一の救いが命をとるのではなく「半殺し」であることくらいしか見当たらない。
「頼むから、瞳の光を消したまま、そんな恐ろしいことを淡々と語らないでくれ……」
俺は痛むこめかみを押さえ、必死になだめるように千代の華奢な肩に両手を置いた。
「お前の怒りの『沸点』がとうの昔に限界を超えているのは痛いほど分かるが、今は耐えろ。俺を血塗られた奉行の頭首にする気か」
諭すように目を見つめると、千代は虚無の表情から一転、「むぅ〜」と頬をいっぱいに膨らませ、不機嫌そうに俺の方を睨み上げてきた。
瞳に光が戻っている。俺は心の底から安堵の息を吐いた。
その可愛げな表情を浮かべていてくれればそれで良いのに……全く、心臓に悪い。
「ふむ、蒼雲にその気がないのなら仕方がない。手っ取り早い武力介入は諦め、元あった計画の通り、知恵を使って進めるとするかの」
神子がわざとらしく、心底残念そうに肩をすくめた。
「ノリノリだったのかよ!!」
背後から、パイモンが空気を裂くような鋭いツッコミを入れた。
……良いツッコミだ。俺も全く同じことを思っていた。この女狐、面白がっだ上で本気で俺たちに奉行所を物理的に制圧させる気だったに違いない。
パイモンのツッコミを華麗に聞き流し、神子は空気を切り替えるように再び一歩前へ出た。
「さて、計画を進めるにあたり、汝らがまずすべきことは……この事態の『切り口』を、今の稲妻を生きる者へと変えるところからじゃ」
神子の紫の瞳が、月光を反射して鋭く光る。
「妾は……『天領奉行』が謀反をするよう仕掛ける」
「はぁ? 天領奉行が謀反するよう?」
パイモンが眉をひそめ、空中で小さな腕を組む。
「何言ってんだよ。天領奉行は、もうすでに将軍を裏切ってファデュイと手を結んでるんじゃないのか?」
「ふふ、言葉の綾じゃよ。妾が言ったのは、天領奉行という『組織』が幕府を裏切ることではない……ある者に、天領奉行を『裏切ってもらう』のじゃ」
神子の桜色の唇が、蠱惑的な弧を描いた。
「『彼女』を利用すれば、汝らをきっと、雷電将軍の元――天守閣の奥底へと導くことができるじゃろう。今日の『客人』でもある彼女がな」
「その人は……誰?」
旅人が、真剣な眼差しで真っ直ぐに問いかけた。
「彼女は、雷電将軍を盲目的なまでに崇拝しておる。毎月、今日という日になると必ずこの大社へお参りに来るほどにな」
神子は扇子を優雅に揺らしながら、特徴を並べ立てる。
「それどころか、自費で祠を建て、そこに将軍を模った像を祀り、毎日参拝するほどの強烈な思いを持った者じゃ」
……ん? 待てよ。
将軍を狂信的に崇拝し、その熱意に溢れた幕府の人間。
「おまけに奴はーー融通の利かない、とびきりの頑固者じゃ」
頑固者。
その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に、数日前の神無塚での戦場が鮮明にフラッシュバックした。
紫電を纏った矢を放ち、「気高き将軍様に無礼を働いた罪、断じて許しはない」と激昂していた、あの天狗の女将。
あの条件に当てはまる人間など、今の稲妻に一人しかいないじゃないか。
「蒼雲、誰か分かった?」
旅人が俺の顔を見て、期待するように問いかけてきた。
「ああ……大体見当はついた」
俺は重々しく息を吐き、静かに頷いた。
あの融通の利かない堅物を説得して組織を裏切らせるなど、千代の暴走をなだめるよりも遥かに骨が折れそうだ。頭痛の種がまた一つ増えた感覚に陥る。
「その者はもう――汝らのすぐ『背後』におるぞ?」
ゾクッ、と。
神子の言葉が落ちた瞬間、俺の首筋を、冷たく研ぎ澄まされた氷の刃のような殺気が撫でた。
「九条裟羅!」
暗がりから姿を現したその影を見て、パイモンが空気を切り裂くような悲鳴を上げた。
……やはりか。
砂利を踏みしめる特有の高下駄の音。周囲の空気をピリピリと刺すような、研ぎ澄まされた雷の気配。俺たちの背後に立っていたのは、他でもない幕府軍の大将――九条裟羅だ。
「動くな! お尋ね者が、堂々と神社に現れるとはな!」
彼女の凛とした声が、夜の境内に鋭く響き渡る。
その双眸は獲物を狙う鷹のように俺たちを射抜き、一切の容赦がない。
「抵抗はするなよ。大人しく奉行所に来てもらおう。……奴らを捕らえろ!」
「はっ!」
彼女の背後に控えていた二人の兵士が、鋭い呼応と共に長槍を構え、こちらへと歩み寄ってくる。
その瞬間だった。
――ギリッ。
隣で、ひどく不穏な音がした。
視線をやると、千代の右手が腰の刀の柄をきつく握りしめている。抜刀する寸前の姿勢。だが、彼女はその右手を、自らの左手で強引に押さえつけていた。
手の甲には青筋が浮かび、全身が小刻みに震えている。幕府を、そして親友を裏切った天領奉行の人間が、あろうことか「正義」を振りかざして自分たちを捕らえに来たのだ。
己の怒りを、理性の鎖で必死に押さえ込んでいるのだろう。
裏切りの件がよほど頭にきたんだな……
「おっと、忘れたとは言わせぬぞ?」
一触即発の空気を断ち切ったのは、神子の底知れぬほど穏やかな声だった。
彼女は一歩前に出ると、槍を構えた兵士たちを冷ややかな目で見下ろした。
「ここは鳴神大社……ここで武力を行使すれば、将軍への『不敬』となろう。汝らの中で、その大罪に贖える覚悟のある者は……おるのか?」
その言葉は、刃よりも鋭く兵士たちの急所を突いた。
将軍への絶対的な信仰。それを盾に取られ、兵士たちは顔を青ざめさせてピタリと足を止める。
「チッ……」
裟羅が忌々しげに舌打ちをした。
「八重宮司様。もしや……そのお尋ね者たちを庇っているので?」
「友と語らっていたに過ぎぬ。庇うも何もないわ」
神子は扇子で口元を隠し、涼しい顔でうそぶいた。
「まずはその手下を引かせたらどうじゃ。話し合いは、それからじゃろう?」
裟羅は奥歯を噛み締め、悔しげに目を伏せた後、鋭く命じた。
「……お前たち、下がれ」
「御意」
兵士たちが後退し、物理的な衝突の危機は去った。だが、言葉による探り合いはここからが本番だ。
「では、八重宮司様。神聖な神社でお尋ね者を匿うことも、将軍様への不敬となるのではないでしょうか?」
裟羅が一歩も退かずに正論を突きつける。
「ふふふ……相変わらずじゃのう、九条裟羅殿」
神子はまるで出来の悪い生徒をたしなめるように笑った。
「将軍への忠誠において、汝に敵う者はいないじゃろうな」
「臣下として、将軍様に忠誠を誓うのは当然のこと。そして武人として、将軍様の境地は私のずっと追い求めていたものでもあります」
裟羅の声には、一点の曇りもなかった。
それは見事なまでの純粋さであり、同時に、折れやすいガラスのような危うさを孕んでいる。
「たとえ雷電将軍が……いつか汝の『神の目』を奪うことになってもか?」
神子が意地悪く核心を突く。
だが、裟羅は瞬き一つしなかった。
「目狩り令は将軍様の御決断。私に不服はありません」
……頑固だな。良くも悪くも。
俺は小さく息を吐いた。彼女の忠誠は、もはや信仰を超えて呪いのようなものだ。自分が信じたもののためなら、己が空っぽになっても構わないという自己犠牲の極致。
「はぁ……」
神子が、今度ばかりは本気で呆れたようなため息を吐いた。
「ただ、忠誠も情勢によって打ち砕かれる。汝が何も分かっていないと言うべきか、唯一目が覚めている者と言うべきか……どっちじゃろうな?」
「その言葉がどういった意味で仰られたのか……直接教えていただけますか、宮司様」
裟羅の眉間に、深い皺が刻まれる。
神子は夜の静寂を切り裂くように、冷酷な真実を口にした。
「目狩り令はファデュイに惑わされたものに過ぎぬ。稲妻を陥れる悪政じゃ」
「そして、その悪政に『盲目的に従っている者』は他でもない。汝らの当主、天領奉行ーー九条家の者じゃ」
風が止んだ。
境内に、耳鳴りがするほどの沈黙が落ちる。
「それは……」
裟羅の唇が、信じられないものを見るように微かに震えた。
「九条家が……幕府を裏切ったと、そう仰るのですか?」
彼女の拠り所である絶対の忠誠と誇りが、根本から揺さぶられた瞬間だった。
「そうじゃ。理解が早くて助かるのう」
神子は一切の悪びれる様子もなく、ひどくあっさりと肯定した。
「八重宮司様、その言葉は危険であるだけでなく……馬鹿げています」
九条裟羅の声が、夜気を震わせて鋭く弾けた。
彼女の全身は、怒りと、自らの信じる『正義』を侮辱されたことへの強い憤りで微かに震えている。
「三奉行は古来より将軍様に仕え、忠誠を誓ってきました。私は九条家へと養子に来て以来、この目でずっと見てきたのです。天領奉行の者は皆、将軍様に忠実な者ばかり。特に当代の孝行(たかゆき)様は……」
裟羅はそこで一度言葉を切り、深い尊敬と畏怖を込めて続けた。
「あの方の『夢想の一太刀』に対する崇拝は、いかなる者にも勝ります。私の将軍様への敬意など、孝行様の万分の一にも満たないでしょう」
彼女の瞳には、一切の疑いがない。
だが、その言葉を聞いた俺は内心で冷たく息を吐いた。
(……それは将軍自身への忠誠じゃない。将軍が振るう『絶対的な力』への盲信だ)
力に魅入られた者は、いずれ力に溺れる。その程度の道理も、まっすぐすぎるこの天狗の女将には見えていないのだ。
「そんな当主が、将軍様の不利になるようなことをするとでもいうのでしょうか?」
すがるように、あるいは威嚇するように睨みつける裟羅に対し、神子は静かに
「三日後じゃ」
「三日後、またここに来ると良い。汝が望む『証拠』を渡してやろう」
神子の声は、波一つ立たない静かな湖面のように落ち着き払っていた。
「宮司である妾は、人々が『自分の信じたいことのみを信じる』生き物だとよく知っておる。じゃから、汝らの目に映らない部分は、ただ意図的に目を逸らしているだけかも知れぬぞ?」
神子の紫の瞳が、裟羅の心の奥底に潜む『恐れ』を見透かすように細められる。
「であれば……妾が悪役を演じ、その綺麗に飾られた皮を剥ぎ取り、腐りきった中身を汝に見せてやるしかなかろう?」
その言葉は、呪いのように重く、裟羅の心を縛り付けたはずだ。
彼女は奥歯を強く噛み締め、忌々しげに神子を睨み返した。
「ふん……三日ですね。分かりました」
裟羅は踵を返し、俺たちへと冷ややかな視線を向ける。
「しかし、もし証拠がなければ……九条家に対する憶測について、きっちり謝罪していただきましょう。それと……その時は彼らを、必ず奉行所へ連行します」
「ああ、良いぞ。三日後、汝のお越しをお待ちしておるぞ、お客人よ」
神子の余裕の笑みを背に受けながら、裟羅は砂利を踏み鳴らして足早に境内の石段を降りていった。
その足音が完全に聞こえなくなった瞬間。
「はぁぁぁぁ……っ、びっくりした……」
パイモンが空中で完全に脱力し、スライムのようにでろんと垂れ下がった。
「あんな殺気立った九条裟羅が、こんなところに直接来るなんて……寿命が縮んだぞ……」
俺は小さく息を吐き、隣でずっと俯いていた千代へと向き直った。
彼女の左手は、刀の柄を握る右手を未だに白くなるほど強く押さえつけている。
「よく耐えたな」
俺が静かにそう声をかけ、彼女の強張った両手をそっと解くように自分の手を重ねると、千代は少し頭を下げた。
「頑張った……」
その声は、かつての猛将の面影など微塵もない、ひどく甘えた、疲れ切った響きだった。
怒りで煮え滾っていた彼女の心が、少しずつ元の温かさを取り戻していくのが、重なった手から伝わってくる。俺は安心させるように、彼女の頭を撫でた。
「バカップルめが……」
背後から、神子の心底呆れたような、しかしどこか楽しげな毒舌が飛んできた。
バカップル……いや、まだ俺たちは付き合ってすらないんだがーー
「ところで、神子……」
パイモンが、空中で姿勢を立て直しながら恐る恐る尋ねた。
「さっき言ってた、天領奉行が裏切った証拠って……もう何か見つけてるのか?」
その問いに、神子は視線をスッと斜め上に逸らした。
「それはーー」
「どうせ、見つけてないんだろ?」
俺は、彼女が言い訳を紡ぐより早く、冷徹な事実を突きつけた。
ピタリ、と神子の動きが止まり。
そして次の瞬間、彼女はこれ以上ないほど晴れやかな、そして図々しい笑みを浮かべた。
「よく分かっておるではないか」
「さっきはあの頭の固い九条裟羅を説得するために、その場の思いつきでハッタリを申したまでじゃ」
「うぅ……やっぱり……」
パイモンが両手で頭を抱え、絶望の声を上げる。旅人も「嘘だろ」と言わんばかりの顔で天を仰いだ。
「『神の意思を変える』こと自体が、途方もない大きな賭けなんじゃぞ?」
神子は悪びれるどころか、堂々と胸を張って言い放った。
「神を相手に、最初から勝算のすべてが手の中に揃っておる者など、そうおるわけがなかろう?」
「じゃあどうするんだよ! 三日しかないんだぞ!?」
パイモンが半狂乱になって叫ぶ。
「そんなものーー」
神子は最高の笑顔で、俺と旅人をビシッと指差した。
「汝らが駆けずり回って、見つけて来る以外に何があるというのじゃ?」
「………………」
俺は、今夜一番の、深くて重いため息を夜の境内に吐き出した。
こめかみがズキズキと痛む。
神という絶対的な存在を相手に大博打を打ち、最も危険な実働部隊としての役割を、平然と他人に丸投げするこの女狐。
(……この女狐は、本当に、どこまでも……)
怒る気力すら湧いてこない。
「ははは、安心せい」
頭を抱える俺たちを見て、神子は悪びれるどころか、ひどく愉快そうに笑声を上げた。
「もちろん、しっぽを掴むための『助っ人』は用意しておる。今から妾とともに、その『専門家』を起こしに行くとするか」
専門家。
その言葉に、俺は少しだけ希望を見出した。証拠隠滅が徹底された天領奉行の内部に潜入し、機密書類を盗み出す。そんな神業ができるとすれば、高度な訓練を受けた者か、あるいは幕府の中枢に通じている凄腕の密偵くらいのものだろう。
この女狐のことだ、性格は最悪だが人選の確かな目は持っているはずだ。
そうして俺たちは、神子の先導に従って夜の鳴神島を下り、鬱蒼とした木々が立ち並ぶ『鎮守の森』へと足を踏み入れた。
***
月光すら厚い葉に遮られる鎮守の森は、昼間とは違う妖しい静寂に包まれていた。
青白く発光する奇妙な植物と、小川のせせらぎ。どこからか聞こえる妖狸たちの微かな笑い声が、この場所が俗世から切り離された神域であることを示している。
「さて、着いたぞ。ここじゃ」
神子が足を止めたのは、苔生した岩と大きな木の根が入り組んだ、森の少し開けた場所だった。
俺と旅人は顔を見合わせ、周囲に気を配る。凄腕の「専門家」が、影から静かに姿を現すのを待ち構えていた。
だが、待てど暮らせど、忍びの気配はおろか、人の息遣いすら聞こえてこない。仙人としての気配探知を広げても、引っかかるのは微かな風元素の淀みくらいだ。
「おい、神子。専門家とやらはどこに――」
俺が呆れて問いかけようとした時、神子はスッと足元にある『それ』を指差した。
「狸の……置き物?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
神子が指差した先。木の根元にちょこんと置かれていたのは、丸々とした木彫りの狸(だるま)だった。頭に一枚の葉っぱを乗せ、スヤスヤと規則正しい寝息(?)を立てているように微かに上下している。
「これが助っ人……?」
旅人も、信じられないものを見るような目でその丸い物体を指差した。
天領奉行の厳重な警備を掻き潜り、国家の裏切りを暴く証拠を持ち帰る「専門家」。それが、このどう見ても間抜けな狸の置き物だと言うのか。
確かに微かな元素力と生命反応は感じる。だが、あまりにも警戒心がなく、そしてあまりにも……丸い。
「……可愛い……」
不意に、隣から吐息のような声が漏れた。
「……え?」
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
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璃月篇(海灯祭)※この話の本編
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引き続き稲妻篇