闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に……   作:時代に遅れている

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  崩れ去る信仰、固まる革命の意志

 木漏茶屋で背後の気配を察知した俺は、追跡してきた忍びの気配を逆手に取り、社奉行の本拠地である神里屋敷へと踏み込んだ。

 そこで待ち構えていたあの食えない社奉行当主――神里綾人は、優雅にお茶を啜りながら、俺が持ちかけたある「取り引き」に対して涼しい顔で頷いたのだ。

『なるほど。密かにあなた方のお話を盗み聞いていた我々にも非がある。……分かりました。蒼雲さん、この一件が終わり次第、あなたの提案を受け入れましょう』

 彼は意外にも快く俺の提案を受け入れてくれた。……が、あの男がただで頷くはずがない。案の定、その後にとんでもない条件を持ちかけてきたのだ。

『しかし、ただでとは言えません。今回の潜入調査については終末番を使い、陰ながら妹の綾華を手助けします。……あなたには、その”お手伝い”をしてもらいたいのです。良いですね?』

 要するに、見つかった時の責任とヘイトをすべて俺たち「お尋ね者」に擦り付けつつ、自分たちの忍びを安全圏から便乗させようという腹黒い算段だ。

 抵抗軍と幕府軍の衝突を隠蔽する証拠を手に入れるためとはいえ、完全に相手の土俵でいいように使われるのは、"腹立たしいことこの上ない"

「……というわけだ。この霧は俺の術で発生させている」

 俺は深い溜息をつきながら、ムジナの姿から人に戻った早柚を見下ろした。

「お前の同僚たちが周囲の警備を撹乱し、道を作っている。その間に、手っ取り早くその『上奏』とやらを頂いてずらかるぞ」

「……主の術、すごい。これなら見つからずに済むし、なんならここで少し寝てもバレないのでは……」

 早柚がとろんとした目で、足元に漂う分厚い霧の絨毯を見つめる。今にもその場に丸くなりそうな気配だ。

「寝るな。背が伸びないぞ?」

「!」

 俺の短い警告に、早柚の肩がビクッと跳ねた。千代の「骨が脆くなって背が伸びなくなる」という独自の脅し文句が、よほど脳裏に焼き付いているらしい。

 早柚は眠気を無理やり振り払うようにパチンと自分の両頬を叩き、身を屈めて霧の中を素早く駆け出した。

 俺も気配を完全に絶ち、その小さな背中を追う。

 外では宵宮の特大花火の騒ぎで警備の大部分が出払っており、屋敷の内部に残った兵士たちも、突如として発生したこの濃霧に完全にパニックに陥っていた。

「おい! なんだこの霧は!」

「前が見えんぞ! 曲者が入り込んだかもしれない、警戒しろ!」

 右往左往する兵士たちの怒号と槍の穂先を鼻先で躱しながら、俺たちは天領奉行の奥の院――当主・九条孝行の執務室へと音もなく滑り込んだ。

 執務室の中は、墨と古い紙の匂いが立ち込めていた。

「……これ、かな?」

「むぎゅう……どれが、どれだか…分からない………」

 早柚が素早い手つきで机の上の書類の山を漁るも、あまりの数の多さに目を回しかけている。無理もない、ただの密偵に複雑な政務書類の判別は酷だ。

「ひとまず、怪しい書類は俺が見つける。お前はそれを持っていけ」

「ん、分かった……」

 俺は思考を研ぎ澄まし、膨大な書類の山から目当てのものを的確に選び出していった。

将軍宛ての上奏:厳重に封がされ、将軍へと宛てたことを示す正式な印が押された書状。

ファデュイとの密書:奴らとの黒い繋がりを示す、不自然な資金の流れが記された書類。

「よし、これで全てだ」

「じゃあ、これで任務完了……?」

「ああ。長居は無用だ、引き上げるぞ」

 早柚が書類の束を器用に懐へしまい込んだのを確認すると、俺は再び濃い水元素の霧を練り上げ、自分たちの逃走経路を分厚く覆い隠した。

 天領奉行の連中が異常事態に気づき、本格的な結界や封印を張る前に抜け出さなければならない。俺たちは一切の痕跡を残さず、闇夜へと溶け込んだ。

 数十分後。

 俺たちは無事に天領奉行の敷地を脱出し、待ち合わせ場所である木漏茶屋へと帰り着いた。

「い、今帰った……」

「おおっ! さすが早柚! やったな!」

「二人とも、お疲れ様!」

 暖簾をくぐった途端、パイモンと旅人が安堵と喜びの声を上げる。部屋の奥では、綾華がホッと胸を撫で下ろし、トーマが親指を立てて笑っていた。

「蒼雲!早柚ちゃん!」

 誰よりも早く動いたのは、千代だった。

 彼女は弾かれたように飛びついてくると、俺の無事を確認するよりも早く、隣にいた早柚をぎゅっと抱きしめた。

「無事でよかった……! どこか怪我はない? 怖い思いしなかった?」

「むぎゅぅ……拙は、平気……上奏も、ちゃんと取ってきた……から、もう寝る……」

 早柚は完全に安心しきったのか、千代の温かい胸の中で急速に電源が落ちたように目を閉じ、そのまま「すぅ、すぅ」と平和な寝息を立て始めた。

「蒼雲も、なかなか来ないから心配してたんだよ」

 早柚の頭を撫でながら、千代がふんわりと微笑んで俺を見上げる。

「あ、ああ。ちょっと色々あってな……」

 神里綾人との化かし合いで神経をすり減らしたとは言えず、俺は誤魔化すように頭を掻いた。

「でも、早柚ちゃんのこと助けてくれてーーありがと」

 千代は上目遣いで、心からの感謝を込めてそう言った。その声の甘さと真っ直ぐな瞳に、俺は思わず言葉に詰まる。

 ふと視線を感じて横を見ると、トーマ、パイモン、そして旅人が、三人揃ってニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべてこちらを見ていた。

(……なんか、無性に腹立たしいな)

俺は照れ隠しと、ドッと押し寄せる疲労を誤魔化すように、畳の上にどっかと腰を下ろした。

「……まぁ、色々あったが。これでようやく『神の目を覚まさせる』ための、第一関門突破だ」

 机の上に、早柚と共に盗み出した天領奉行の裏切りの証拠――偽りの上奏と密書が、ドサリと重い音を立てて置かれた。

 インクと古い和紙の匂いが漂うその紙の束こそが、稲妻を覆う厚い雷雲を切り裂く、唯一にして最強の刃だ。

「はい。これだけの確たる証拠が揃っていれば、万全の体制で交渉に臨めるでしょう」

 綾華が真剣な眼差しで書類を見つめ、静かに頷いた。

「どうやら、八重宮司様の推測は正しかったようです。今の稲妻を二分するこの悲惨な紛争は……彼ら天領奉行が、自らの保身と利益のために意図して助長したものだったのですね」

 白鷺の姫君の瞳に、静かな、しかし確かな怒りの炎が揺らめく。

「後はこの書状を八重宮司様にお渡しすれば、あのお方が次の計画を立ててくださるはずです。私も直ちに社奉行の人手を召集し、稲妻に潜伏しているファデュイの輩を、できる限り探し出します」

 迷いのない、凛とした宣言。

 ……流石の行動力だ。彼女が『白鷺の姫君』として民に深く慕われ、社奉行の表の顔として立派に立ち回っている理由がよく分かる。

(だが、その件についてはもうーーあの食えない『当主様』が、裏でとっくに手を回してそうなんだよな……)

 俺は、先ほど神里屋敷で暗躍していたあの腹黒い兄の顔を思い浮かべながら、内心でひっそりと苦笑した。この真面目で気高い妹の目の届かないところで、すでに終末番がファデュイの拠点を潰して回っている図が容易に想像できる。

「相棒……」

 不意に、部屋の隅にいたトーマが、自らの首元を擦りながら低く沈んだ声を出した。

「将軍様には、くれぐれも気をつけてくれよ。あのお方の無慈悲な刀を振るう姿を思い出すたび……今でも身が震え上がるんだ」

 百番目の神の目を狩られそうになった、あの絶望の儀式。

 トーマの瞳の奥には、彼自身の死の恐怖と、圧倒的な雷霆に対する本能的な畏怖が色濃く残っていた。

「……今は、八重宮司様を信じるしかありません」

 綾華が、不安げなトーマをなだめるように、そして自らに言い聞かせるように静かに言った。

「あのお方は、現在でも将軍様と最も密接な関係にある唯一の存在です。あの方の知恵ならば、きっと何か確勝の方法があるのでしょう」

「たしか、もうすぐ神子との約束の日だよな」

 パイモンが空中でカレンダーをめくるような仕草をして、旅人と顔を見合わせた。

「うん!」

 そこで、今まで大人しく早柚を抱きしめていた千代が、満面の笑みで元気よく声を上げた。

 その顔には、親友を救い出せるかもしれないという希望と、一刻も早く行動を起こしたいという武者としての熱意が満ち溢れている。

「私たちも準備が終わり次第、すぐに神子に会いに行くよ!」

「ああ、行こうぜ!」

 パイモンも小さな拳を空に突き上げ、気合十分に同調した。

 いざ決戦の地、鳴神大社へ。部屋の空気が、ひとつの大きな目的に向かって熱く結束し始めた――まさにその時だった。

 俺は、千代の姿を見て、ピタリと動きを止めた。

 彼女は、立ち上がり、出陣の準備を整えようとしている。

 ……その背中には、すっかり熟睡して「すぅ、すぅ」と平和な寝息を立てている狸(ムジナ)の忍者をおんぶしたままの状態で。

「………………」

 どう見ても、このまま鳴神大社まで連れて行く気満々だ。

「千代」

 俺は、今夜のどんな潜入任務よりも重く、疲労感に満ちた声で、彼女の名を呼んだ。

「……早柚は、置いていけ」

ーーーーーーーーーー

風に舞う神櫻の薄紅色の花びらが、静寂に包まれた境内に降り注いでいた。

 約束の三日後。鳴神大社の本殿前には、八重神子と、凛とした立ち姿で待つ天狗の女将の姿があった。

「八重宮司様。約束通り来ました」

 九条裟羅の声は努めて平坦を装っていたが、どこか限界まで張り詰めた糸のような危うさがあった。

「ご安心を。配下は連れてきていません。それに、ここへ来ることは誰にも知らせていません」

「ふふ。約束通り来ると分かっておったぞ」

 神子は桜色の髪を揺らし、余裕の笑みを浮かべた。その紫の瞳が、裟羅の目の下に浮かぶ僅かな疲労の色を容赦なく射抜く。

「それに汝……ここ数日の間、胸がざわついて夜もまともに眠れなかったのではないか?」

 図星を突かれたのか、裟羅の肩が微かに跳ねた。

「わ、私が当主様を疑うことなどありません! それは……ただの憶測です」

 彼女は必死に揺らぐ心を否定し、自らを奮い立たせるように鋭い視線で神子を睨み据えた。

「それで……証拠はどこにあるのですか?」

 その悲痛なまでの問いかけに答えたのは、神子ではなく、神櫻の影から静かに歩み出た俺だった。

「お前が求めている『答え』なら、ここにあるぞ」

 俺は懐から、天領奉行の奥の院から奪取した厳重に封がされた上奏を取り出し、裟羅の目の前へと掲げた。

「今、ここにな」

「ほぉ。もう一人、約束をしていた者たちも無事に来たようじゃな」

 神子が、さも今気づいたかのように白々しく手を打つ。

「……他人事みたいに言いやがって。全く」

 俺は呆れ果て、溜息をつきながら女狐を横目で睨んだ。自分は高みの見物を決め込んでいたくせに、どの口が言うのか。

「オイラたち、こいつを手に入れるのに死ぬほど苦労したんだぞ!」

 パイモンも空中でジタバタと暴れながら抗議の声を上げる。

「ご苦労じゃったな。さぁ、それを裟羅に渡してやるといい。自らの目で見て、自分で判断せい」

 神子の言葉に促され、俺は偽りの上奏を裟羅へと差し出した。

 裟羅は僅かに躊躇った後、まるで致死の猛毒にでも触れるかのように、震える手でその紙束を受け取った。

「これは………」

 封を切られ、広げられた和紙。

 そこに流麗な筆致で綴られていたのは、稲妻の最高権力者である将軍へ向けられた、耳障りの良い『美しい嘘』の羅列だった。

> 稲妻の空に輝く光を見上げますと、将軍様の不変の道が彼方の遠海へと轟き、威鳴が四方八方へと轟いていくのが聞こえてまいります。

> 天領奉行 九条孝行

> 「目狩り令」にはいっぺんの曇りもなく広がる様はまさに破竹の如く。将軍様の恩威の下、盲者どもは散り、落ち人は帰郷し、民も康寧たる姿を見せております。これこそ、民心を掴む壮挙でございましょう。

> 目下、稲妻全土が安寧を迎えしは、すべて将軍様の神威のお陰。「目狩り令」は必ずや、稲妻を永遠のものといたしましょう。

>

(……吐き気がするな)

 俺は横からその文面を眺め、あまりの胸糞の悪さに顔を顰めた。

 民は康寧(こうねい)たる姿を見せている? 稲妻全土が安寧を迎えている?

 神無塚やヤシオリ島で血を流し、泥に塗れて命を落としていった幕府軍と抵抗軍の兵士たち。神の目を奪われて心を失い、絶望の底に沈んだ者たちの虚ろな瞳。

 その凄惨な現実をすべて「なかったこと」にし、ただ己の保身と将軍への狂信だけを美辞麗句で飾り立てた、醜悪極まりない隠蔽工作だ。

 それも、神の目を強引に奪うという人の理から外れた行為が、万が一にもあの絶対的な”影”に目をつけられるトリガーになるかもしれないというのに……奴らは己の足元に広がる真の深淵すら見えていない。

 裟羅の視線が、震えるようにその文面をなぞっていく。

 文字を追うごとに、彼女の血の気が引き、端整な顔から一切の感情が抜け落ちていくのがはっきりと分かった。

 紙を持つ手が、小刻みに、しかし激しく震え始めている。上質な和紙が、彼女の握力に耐えきれずにクシャリと悲鳴を上げた。

「……確かに、当主様の官印だ。偽物ではない」

 裟羅の声は、地の底から響くような、空洞めいた響きを帯びていた。

 それは彼女の中で五百年の歴史を持つ『天領奉行の誇り』という絶対的な大黒柱が、メキメキと音を立てて折れた瞬間だった。

「抵抗軍、珊瑚宮、前線……どれも、一言も触れていない」

 ぽつり、ぽつりと、彼女の口から血を吐くような言葉が零れ落ちる。

「前線で命を落とした兵士、人々が受けている苦痛、どれも言うに値しないものだとでもいうのか……!」

 ギリッ、と奥歯を噛み締める音が鳴った。

 将軍への忠誠に己のすべてを捧げ、兵士たちと共に最前線で刀を振るい続けてきた彼女の目に、この紙切れはどれほどの絶望と侮辱に映っただろうか。

「命を舐めている……! どうして……どうしてこんな隠蔽を……ッ」

「もちろん、目狩り令を順調に遂行するためじゃ」

 神子が、桜の散る中で冷ややかな現実を突きつける。空いた手で艶やかに桜色の髪を払い、無慈悲なまでに淡々と告げた。

「それらの凄惨な事実を将軍が知って、目狩り令が廃止になってはならんからのう?」

「天領奉行は……わざと将軍様に、隠蔽を……?」

「うむ。目狩り令の遂行で最も得をするのが誰なのか……もう少し、頭を冷やして考えることじゃな」

 神子のその言葉が、最後の引き金となった。

 裟羅の瞳に、絶望を焼き尽くすほどの強烈な怒りの炎が灯る。

「私が……私が心血を注いで続けて来たことは……こんな……こんな薄汚い謀略のためだったというのか……!」

「くそッ!!」

 武人としての矜持をずたずたに引き裂かれた彼女は、空に向かって獣のような咆哮を上げた。そして、その怒りの矛先を真っ直ぐに定めるべく、踵を返す。

「幕府の……いや、将軍様への裏切り行為、断じて許すわけにはいきません……! 今すぐ当主に会って、直接話をつけて来ます!!」

 殺気を撒き散らし、石段を駆け下りようとするその背中へ。

「待て!」

 俺は鋭く声を張り上げ、その行く手を塞ぐように一歩前へ出た。

「どけ。私には、天領奉行の大将として自らの手で家の腐敗を断ち切る義務がある!」

 裟羅が血走った目で俺を睨みつける。今にも腰の刀を抜きかねないほどの剣幕だ。

「まだ話は終わっていない」

 俺は彼女の放つ雷のような殺気を正面から受け止め、一切引かずに言い放った。

「……なんだと?」

「これをよく見ろ」

 俺は懐からもう一つの書類――天領奉行の奥の院から上奏と共に持ち出した、もう一つの爆弾を取り出した。

「これは……天領奉行とファデュイとの間で交わされた『密書』だ」

 俺がその書状を差し出すと、裟羅は奪い取るようにしてそれを受け取った。視線が書類の上を滑るたび、彼女の顔に浮かぶ怒りが、より冷徹な殺意へと研ぎ澄まされていく。

「この書類を見るに、奴らが裏でファデュイの執行官と直接交渉する日付は……『二日後』だ」

 俺は努めて冷静な、軍師としての冷ややかな声で告げた。

「今お前が感情のままに乗り込んで当主を問い詰めても、奴はしらばっくれるか、あるいは残りの証拠をすべて隠滅するだろう。だが……奴らを問いただすのならーー」

 俺は真っ直ぐに、天狗の女将の揺れる瞳を射抜いた。

「機を待ってからでも、決して遅くはないんじゃないか?」

「…………ッ」

 裟羅の息が詰まった。

 怒りに任せて刀を抜くのは簡単だ。だが、それでは天領奉行の根深い腐敗を完全に根絶やしにすることはできない。幕府軍の大将として、武人として、今自分が取るべき最も冷酷で確実な戦術は何か。

 激しく葛藤する彼女の表情を、夜の静寂が包み込む。

 やがて。

 ギリギリと握りしめられていた彼女の拳から、ふっと余計な力が抜けた。

「……二日後……」

 裟羅は密書を力強く握りしめ、深く、重い息を吐き出した。その瞳からは先ほどの我を忘れたような激情は消え去り、代わりに氷のように冷たく、静かな決意が宿っていた。

「……確かにお前の言う通りかもしれない。」

 彼女は俺に鋭い視線を向け直し、武人としての礼を取るように短く顎を引いた。

「今、頭に血を昇らせて当主を討ったところで、ファデュイという真の毒蛇を逃がすことになる。……屈辱だが、二日待とう。そして、国を売った者たちを、私がこの手で一人残らず雷霆の裁きにかける!」

「ああ。それがいい」

 俺は安堵の息を吐き、静かに頷いた。

 九条裟羅が踵を返し、決意に満ちた足取りで闇へと消えていくのを見送った後。俺は張り詰めていた全身の力を抜き、その場にどっと座り込みそうになるのを堪えて、深く、ひどく重い息を吐き出した。

「はぁ……」

「ふふ、よくやったぞ、朴念仁」

 神子が口元を袖で隠し、悪戯っぽく笑う。

「妾も、最後の準備のために少し時間が欲しかったところなんじゃ……よくあの場で機転を利かせ、二日の時間を稼いでくれたな」

「お前な……」

 俺は恨めしげに女狐を睨みつけた。本当にこの女は、どこまでも人を盤上の駒のように使うのが上手い。

「……まぁ、時間が欲しかったのは俺も同じだ。そのまま当主の首を撥ねられては証拠隠滅の口実を与えかねないし、こちらも息を整えて最終決戦の備えができるからな」

 俺の言葉に満足そうに頷くと、神子は空気を切り替えるように、旅人へと真っ直ぐな視線を向けた。

「さて、童よ。少し話さぬか?」

「何?」

 旅人が真剣な顔で神子を見返す。

「汝が初めて、雷電将軍の精神空間――『一心浄土』へと引きずり込まれたのは、あの千手百目神像の前じゃったな?」

「うん」

 旅人が短く答える。あの日の圧倒的な敗北と、息もできないほどの絶望的な力の差を思い出したのか、その表情は険しい。

「あの日の情景を、もう一度『再現』するんじゃ」

 神子の紫の瞳が、明かりの下で妖しく、そして鋭く光った。

「千手百目神像の前で、再び雷電将軍の『心を開かせれば』……いや、彼女の心の隙を意図的に作り出すことができれば、勝機は必ずやってくる。汝を再び、あの一心浄土へと導くことができるはずじゃ」

「……最善を尽くす」

 旅人は自身の両手を見つめ、静かに、しかし確固たる決意を込めて言った。

「良かった〜……」

 その張り詰めた決戦前の空気の中、不意に、ふにゃりとした柔らかい声が響いた。

「どうした?」

 俺が振り返ると、千代が胸を撫で下ろし、心底安心したような、春の陽だまりのような笑みを浮かべていた。

「いやね、少しだけ安心したの」

 彼女は、先ほどまで九条裟羅が立っていた石段の方角を見つめながら、優しく目を細めた。

「天領奉行の連中はすっかり腐りきってしまったと思っていたけれど……あの天狗の子みたいに、今でも心から『影』や、この国の民を大切に思ってくれている人がちゃんと残っていたんだなって」

 かつて共に稲妻を守り抜いた親友が、狂信や利用価値としてだけでなく、純粋な忠義の対象として今も愛されていること。

 そして、己の信念の過ちに気づき、正そうとする気高い武人が現代の稲妻にも存在していること。それが、彼女にとってはたまらなく嬉しかったのだろう。

「……そうだな」

 俺は静かに頷き、彼女のその温かい感情を肯定した。

 だが、その穏やかな空気を、唐突に神子が断ち切った。

「千代。少し、こちらへ来てくれぬか?」

 神子の声は、いつものからかうような響きではなく、どこか真剣で、巫女としての底知れぬ深みを帯びていた。

「え? 私?」

 千代が不思議そうに首を傾げ、神子の方へと歩み寄る。

 俺は、神子の横顔に浮かんだ真意の読めない表情に、わずかな胸のざわめきを覚えながら、見守った。

「妾は今、水面下で『あるもの』を作っておってな。それの完成に、少しばかり汝の力が必要なんじゃ」

 神子の声は低く、普段のからかうような響きを潜め、神秘的で底知れない気配を纏っていた。

 千代は一瞬、不思議そうに目を瞬かせたが、かつて共に国を支えた旧友からの真剣な頼みとあっては無下にはできない。

「う、うん。いいけど……」

 千代が頷き、神子の方へと歩み寄る。

 そのまま社殿の奥へと向かおうとした神子だったが、不意にピタリと足を止め、振り返って俺の方へと流し目を向けた。

「……………」

 沈黙。

 だが、明かりを反射するその紫の瞳には、明らかに面白がっているような、底意地の悪い光がチカチカと点滅していた。

「……なんだよ」

 俺が怪訝な顔で睨み返すと、神子は袖で口元を隠し、蠱惑的な笑みを浮かべて言い放った。

「覗くでないぞ?」

「覗かねぇよ!」

 俺は境内に響き渡るほどの声で即座に怒鳴り返した。

 全く、この女狐は少しでも空気が真面目になると、息を吐くように人をからかってペースを乱してくる。どんな大層な秘術の仕上げをするつもりか知らないが、俺を野歯の利かない変態か何かと勘違いしているのだろうか。俺の品格を何だと思っている。

「なぁ、オイラたちは何をすればーー」

 俺と神子の漫才のようなやり取りに挟まれ、空中で所在なさげにしていたパイモンが、旅人の頭の横から身を乗り出して尋ねた。

 神子はすでに千代の背中を押し、社殿の暗がりへと消えかけていたが、背中越しにひらひらと優雅に手を振って答えた。

「そこの朴念仁と、特訓でもしておくんじゃな」

 その言葉を最後に、奥の障子がピシャリと閉ざされ、二人の気配は分厚い結界の向こう側へと完全に隔離された。

 あとに残されたのは、風の吹き抜ける冷たい境内と、俺、そして旅人とパイモンだけだ。

「……特訓、か」

 俺は小さく息を吐き、静かに旅人の方へと向き直った。

 女狐の言い草は腹立たしいが、理には適っている。二日後、九条裟羅が天領奉行の腐敗を暴き、将軍の元へと至る道が開かれたとしても、最後にはあの精神空間『一心浄土』で、神の絶対的な武と対峙しなければならない。

 影が振るう『夢想の一太刀』。それは、小手先の技や生半可な覚悟で凌げるものではない、雷霆の極致だ。

「……そういうわけだ」

 俺は己の体内で仙力を練り上げながら、静かに、しかし確かな闘気を込めて旅人を見据えた。

「神を相手に退かないため……悪いが、少し骨を折ってもらうぞ」

稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。

  • 璃月篇(海灯祭)※この話の本編
  • 引き続き稲妻篇
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