闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に……   作:時代に遅れている

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稲妻篇
南十字船隊と鬼の伝説


 落陽が、海を焦がしている。

空は熱を帯びた錆色に濁り、璃月港の隙間に黄昏の重力を沈殿させていた。水彩の赤絵の具に濡れたような朱色は、眼球の奥に染み込んできそうで少しだけ目に痛い。

行き交う人々の喧騒。商人の怒号。船乗りたちの乾いた哄笑。

絶え間なく続く生の営みは、潮騒と混ざり合い、穏やかな時間という名の川を流れていく。

賑やかだ。――いや、違う。

あまりに多くの人間が同じ場所で息をしているから、そう錯覚するだけなのだ。

同じ場所にこれだけ大勢の人間がいるというのに、誰しも視界は一つきりだ。自分が自分の人生(ものがたり)の主役であるように、彼らは彼らが主役の一日を消費している。

どれほど他人の声が満ちていようと、永劫を生きる者の内側には、いつも冷たい風の通り道がぽっかりと空いていた。

俺たち――旅人とパイモン、千代、そして俺は、その喧騒を背にしながら石畳を踏んでいた。

道中、旅人の口から語られたのは、これまでの狂気の顛末だ。

モンドにおける、暴走した風龍の鎮魂。

璃月における、魔神オセルとの死闘。

そして、失われた片割れを探して七国を巡るという、途方もない巡礼の旅。

だが。その言葉の中に混じったひとつの事実が、俺の歩行の機能を奪った。

「何!? じゃあ魔神オセルは、スネージナヤの執行官の手によって復活したというのか?」

魔神オセル。帝君自らが岩の槍で海底へ縫い留めた、忌まわしき水禍の概念。

それが、外つ国の愚か者の手によって、再び現世へ引き摺り出されたという。

「そ、そうだよ」

旅人の肯定を脳髄が理解した、その瞬間。

ドくん、と。心臓が跳ね上がる。

メーターが振り切れる。臓腑の奥底で重く濁った泥濘が沸騰し、静脈と動脈が活性化する。神経は次々と炸裂し、脊髄が加熱する夢を見る。

禁忌滅却の札を弄び、この璃月港を壊滅の危機に陥れた。

ならば。あの海底の封印にすら手を掛けた連中が、俺たちが守ってきた他の楔に手を出さない保証がどこにある。

ギリ、と奥歯が鳴る。

意識の制御を離れ、両手の指先が掌の肉を食い破るほどに握り込まれていた。

視界の四隅が赤黒く変色していく。全身の血管が、内側から爆ぜる寸前の圧力で激しく脈を打つ。

殺す。

禁忌を冒した愚者どもを、この手で見つけ出し、一秒の時間さえかけず塵芥へと解体する。

仙人としての理性ではない。ただの純粋な暴力。

剥き出しの殺意の塊が、俺という容器の縁からドロリと溢れ出した。

「ちょっ、ちょっと落ち着けよ、蒼雲!!」

空気を切り裂く、甲高い声。

ハッと我に返り、俺は喉元までせり上がっていた黒い熱を、強引に胃の腑へと押し戻した。

「……どうしたんだ」

務めて平静を装って問い返す。だが、パイモンはひきつった表情で俺の顔を見つめ、宙を滑るように後ずさっていた。

「お前、今すごい殺気を放ってたぞ。千代も怯えてるし……」

――しまった。

体内の熱を引き抜かれて、代わりに氷の柱を差し込まれたみたいに血の気が引く。弾かれたように視線を落とした。

足元で、千代が両腕で己の細い肩を抱きしめ、小さく丸まって蹲っていた。

カタカタ、と。その小さな背中が、糸の切れた人形、あるいは壊れたゼンマイ仕掛けのように激しく震えている。見開かれた瞳から光が消え、顔面は青を通り越して土気色に染まっていた。

五百年前。アビスの暗黒に沈んだ彼女の精神は、継ぎ接ぎだらけだ。

俺が五百年かけて、ようやく縫い合わせただけの脆い結合なのだ。

すぐ隣で、俺のような存在が『殺意』という名の重たい質量を撒き散らせばどうなるか。ただ睨まれただけで世界が無音の荒野へと変貌するような捕食者の気配を前にして、せっかく繋ぎ止めたその縫い目は、いともたやすく悲鳴を上げて裂けてしまう。

敵を殺す前に、俺自身が、一番守らなければならないものを壊してどうする。

ヒュー、ヒュー、と。千代の喉から、擦り切れた音が漏れる。

肺胞が、酸素の供給を拒絶している。壊れたふいごのような浅く速い呼吸音だけが、暮れなずむ冷たい路地に、ひどく痛々しく響いていた。

どうすればいい。

胸に染みる、血のような後悔。己の愚かさに死にたくなる。自分の失態を心の内で呪いながら、俺は膝を折り、彼女と視線の高さを合わせた。

「悪かった。俺はもう怒ってない。目を開けてくれ」

届かない。恐怖に凍りついた彼女の神経は、俺の声という外部からの音波を拒絶している。

――その時だった。

夕闇の境界線をすり抜けて、音もなく。

一匹の蝶が、千代の震える手甲に舞い降りた。

ガラス細工のように透き通った、琥珀色の翅。夕陽の残照を吸い込んだその微小な命の明滅が、一点に向けてめくれ、ねじれ、畳まれかけていた彼女の視野を、無理やり現実に繋ぎ止める。

激しく揺れ動いていた瞳孔が、ピタリと定まった。

強張っていた気管の筋肉が、嘘のように弛緩していくのが分かった。

「………ありがとう。もう行っていいよ」

少女の吐息とともに、蝶はふわりと風の底へと溶けていく。

「千代。お前、蝶が好きなのか?」

問いに、彼女は驚いたように瞬きをし、やがて懐かしさと、ひどく冷たい寂しさが混濁したような、薄い笑みを浮かべた。

「うん。昔は、よくみんなと外で宴会を開いていて……その時、よく蝶が私の手に止まったの」

かつての稲妻。失われた友の記憶。

人間にとって時間は不可逆だ、非対称だ。もう二度と、右から左には戻れない、手の届かない時間。

俺はそっと立ち上がり、彼女の華奢な肩を叩いた。

「そうか……じゃあ、また蝶が飛んできたら、それはきっと、お前の過去の仲間たちが見守っている証かもな」

千代の双眸がわずかに見開かれ、やがて、ちいさな肯定の光が灯る。

ゴーン、と。遠くで鳴った鐘の音が、停止していた時間を再び前へと押し出した。

◆

「そういえば、ずっと歩いてばかりだが、アテはあるんだろうな?」

途方に暮れるほどに広い璃月の大地。目的地もなしに彷徨うのは、それこそ非効率の極みだ。

「おう! 北斗の船に乗せてもらうんだ!」

浮遊生物が、得意げに胸を張る。

南十字船団の頭領、北斗。海山を討ち取った猛女の船ならば、あの雷鳴の壁を越える機能を持っているかもしれない。

だが、その船が停泊している場所を聞いて、俺の思考が停止した。

「……孤雲閣、だと?」

岩王帝君の槍が海を貫き、魔神どもを封じた怨嗟の墓標。

問題はそこではない。あそこは、天を突く石柱が乱立し、海を隔てて断絶している極めて劣悪な地形だ。五百年の眠りで衰弱しきった千代の脚力では、到底踏破できる道程ではない。

「仕方ない」

溜め息をひとつ。周囲の気配を探り、人間の目がないことを確認する。

「フン!」

短く呼気を吐き出し、俺を縛り付けていた『人間』という窮屈な擬態の枷を強引に引き剥がす。

骨格が、ドロリと融解する。

細胞が瞬時に再構築され、次なる形態へと変生(シフト)していく。

全身を覆い尽くす青い鱗。頭蓋を割って伸びる双角。ゴムのようにしなやかな、しかし鉄骨のような筋肉を宿した大地を粉砕する四肢と、大気を叩く長大な尾。人間とは大きくかけ離れた、神代の威容だけを追求したそのフォルム。

俺の体内から溢れ出した水元素力が、濃密な霧の質量となって周囲の大気を侵食し、夜の帳を塗り潰していく。

「何をしている。早く乗れ」

愕然と立ち尽くす旅人たちを促す。千代は震える指先で、俺の硬質な鱗をそっとなぞった。

「……本当に、龍の姿になれるんだ」

「オイラも龍に乗ってみたいぞ!!」と騒ぐ非常食(ペット)を背に乗せ、俺は大地を蹴り飛ばした。

重力の鎖は解かれ、引力の錨は巻き上げられる。

落下するはずの巨躯が、聖水の浮力を推進力へと変換し、風を受ける帆船のように夜空へと舞い上がった。

眼下に広がるのは、光の泥をぶちまけたように瞬く璃月港の灯火。天衡山の黒々としたシルエットが、人知の及ばぬ霊峰のように月明かりを吸い込んでそびえ立っている。

「……綺麗……」

千代の唇から、熱を帯びた感嘆が漏れた。

「……空って、こんなに静かなんだ……」

彼女にとっての空とは、五百年前の血みどろの戦場であり、常に紫電が荒れ狂う閉ざされた天蓋だったはずだ。この冷たく澄んだ静寂は、彼女のすり切れた魂の縫い目を、どれほど優しく撫でただろうか。

やがて、前方の海上に、雲を突き破る巨大な岩の杭群が姿を現した。

孤雲閣。神が刻んだ力の残滓。

俺は空に咲いた花が落下する星になるように尾をしならせ、その岩山の一つ、巨大な帆船が停泊する断崖へと音もなく降下した。

◆

 黒曜石のように硬い岩肌を降り、海に浮かぶ威容へと近づく。

竜の頭を模した船首。夜風を食らって膨らむ無数の帆。

死兆星号。ここは船というより、海上に築かれた巨大な砦だ。

縄梯子を伝って甲板に降り立った瞬間、熱気と喧噪の坩堝が俺たちを飲み込んだ。

潮の匂い。汗の匂い。木材が軋む重い音。

その混沌のへそに、一人の女が立っていた。

「……お、やっと来たね、旅人」

吹き抜ける海風のように爽快で、抜き身の鋼のように鋭利な声音。

右目に黄金の光を宿し、左目を赤い眼帯で覆った女。ダークブラウンの髪が、夜の風に荒々しく波打っている。

南十字船団の頭領、北斗。海山という怪物を人の身で討ち取った、怪物にとっての怪物だ。

彼女の視線が、俺と千代を捉え、すっと細められた。

「俺は蒼雲。こっちは、千代。稲妻人だ」

旅人とパイモンの口添えを聞き、北斗は一瞬だけ唇を噛み――。

「そうか! そうか!」

腹の底から、海面を震わせるような豪快な笑い声を弾けさせた。太陽みたいにカラッとした、陰りのない哄笑だ。

「いいじゃないか! そんなに評価されてる奴なら、大歓迎だよ!」

分厚い掌が、俺の肩を力任せに叩きつける。ボールでも弾き飛ばすような無造作な怪力だ。

海を制する女の、飾らない覇気。悪くない。

「……これは、面白くなりそうだな」

俺の口角も、自然と吊り上がっていた。

「おい野郎ども、とっとと動きな! さっさとしないと、船に乗ってる酒、全部アタイのになるからね!」

号令一過。

弛緩していた甲板の空気が、一瞬にして引き締まり、戦闘状態へと切り替わった。

死兆星号が巨大な質量を以て、白い飛沫を蹴立てながら夜の暗海へと滑り出していく。

遠ざかっていく孤雲閣の黒い影を網膜に映しながら、俺は甲板の片隅に佇んでいた。

千代もまた、木製の手すりに寄りかかり、海の向こう――まだ見えぬ故郷の方角を静かに見つめている。

「隣、座っても大丈夫でござるか?」

背後から、風に揺れるような声が落ちた。

振り返る。そこには、白銀の髪にひと筋の赤い傷跡のような染めを引いた、侍風の青年が立っていた。

右寄りに結ばれた髪。灰色の着物と、朱を沈ませたような赤い袴。その腰には、風の神の目と、そして――光を失い、強制的に電源を落とされた機械のように冷たく灰化した『抜け殻の神の目』が提げられている。

「拙者の名は楓原万葉(かえではらかずは)。よろしく頼むでござる」

古風で、波紋ひとつない水面を連想させる、緩やかながら隙を感じさせない所作。彼もまた、あの国を狂わせている『目狩り令』から逃れ、この船に身を寄せた余所者(おうわれもの)なのだ。

万葉の視線が、ふと、少し離れた場所にいる千代の背中へと向けられた。

「そこの鬼の娘は……もしかして、『虎千代』殿でござるか?」

その名を聞いた、瞬間。

ドくん、と。俺の心臓が、血液を吐き出すポンプのようにひどく不吉な音を立てた。

千代本人は、旅人たちとの会話に意識を奪われており、こちらには気づいていない。

「……なぜ、そんなことを聞く?」

俺が低く、喉の奥から押し殺した声で問うと、万葉は夜の海を見つめ、古い記録を読み上げるように静かに語り始めた。

「五百年前……あの『漆黒の災厄』が起きる前のこと。彼女は雷電将軍の忠臣であり、見目麗しく、舞の名手でもあった」

夜の潮風が、彼の声を冷たく、生々しく俺の耳元へと運んでくる。

「だが、彼女は『漆黒の軍勢』に立ち向かい……魔獣に飲み込まれた。その胸腔を内側から引き裂いて生還したが、彼女の魂はすでに、底なしの『罪深き黒』に汚染されていたのでござる」

背筋に、氷の柱を差し込まれたような悪寒が走る。

獣の腹という閉ざされた暗黒の中で、仲間が引き裂かれ、咀嚼される地獄を嫌というほど見た彼女は、自我が魔獣の毒と混濁し、侵食され――やがて、自身の主に、刃を向けた。

「雷電将軍に……?」

喉の奥の水分が、カラカラにひからびていた。

あの時、俺が洞天の底で、五百年かけて拾い集めた彼女の精神。その『継ぎ接ぎ』の理由――彼女が壊れてしまった直接の死因(トリガー)を、この青年は語っている。

「刃は主を斬ることなく、彼女は腕と角を一本ずつ切断され、荒野へと逃げ去った。その行方を知る者は、誰もいない。やがて彼女は、将軍に逆らった『伝説の悪鬼』として歴史に記録されるようになった」

峡谷を吹き抜ける風の音は、傷ついた鬼の唸り声。

それが、稲妻に残された『虎千代の風』の正体。

「これはお願いなのだが」

万葉の燃えるような紅い瞳が、俺の双眸を真っ直ぐに射抜いた。

「彼女を稲妻に渡してから……どうか、『目狩り令』から、雷電将軍の魔の手から人々を助けてほしいのでござる」

さらに青年は、千代が母国において「反逆者(バグ)」として処理されている以上、その正体は徹底して隠蔽すべきだという、重い忠告を落とした。

俺は返す言葉を失い、ただ、黒い波が船体を叩く音だけが耳朶を打つ。

五百年の封泥を破り、ようやく目覚めたばかりのあの少女を、故郷はどれほど残酷な牙を剥いて待っているというのか。

彼女が見ていた悪夢は、過去の幻ではない。海の向こうで今も現在進行形で続いている『現実』だ。

それを、俺は安全圏から傍観しているだけでいいのか。ただ彼女を故郷の土に送り届けて、役目を終えたと手を引くのか。

――いや、無理だ。そんなことは到底できない。

乗りかかった船だ。ここで知らんぷりをして引き返せば、それこそ寝覚めが悪いどころの話じゃない。

神の威光に正面から立ち向かい、その歪んだ因果に決着をつけなければ、俺が五百年かけて繋ぎ止めた彼女の魂の縫い目は、今度こそ完全にバラバラに解体されてしまう。

自分でしでかした治療(こと)の責任は、最後まで自分の手で取らなくてはならない。

「くれぐれも、よろしく頼むでござるよ。――蒼雲殿」

風に乗せられた、重い願いの質量。

俺は、静かに、だが確かな覚悟とともに首を縦に振った。

稲妻へ向かう船の切っ先が、真っ暗な海面を、そこに引かれた死の線をなぞるように無慈悲に切り裂いていく。

その先に待つのが、どれほど荒れ狂う神威の嵐であろうとも、俺たちに退くという選択肢など、初めから存在しなかったのだ。




次回 永遠の國 稲妻

稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。

  • 璃月篇(海灯祭)※この話の本編
  • 引き続き稲妻篇
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