闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
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南十字船隊と鬼の伝説
俺の名は蒼雲。訳あって、今は鎖国中の稲妻を目指している仙人だ。
旅人とパイモン、そして千代と共に、旅人の知り合いのもとへ向かう道中——俺たちは、旅人のこれまでの旅の話を聞いていた。
モンドでは、暴走した風龍トワリンを鎮めたこと。
璃月では、七星と仙人たちと協力し、魔神オセルを討伐したこと。
そして——片割れの妹を探すため、各地の神々を巡っていること。
話の最中、俺はある言葉に思わず足を止めた。
「何!? じゃあ魔神オセルは、ファデュイの執行官の手によって復活したというのか?」
信じがたい話だった。あの魔神が、帝君自らの手で封印されたはずの存在が——ファデュイによって蘇ったというのか。
「そ、そうだよ。」
旅人の答えを聞いた瞬間、体の奥から怒りが込み上げてくるのを感じた。
(禁忌滅却の札をそのように扱い、璃月港を危機に陥れた……?
ということは、あの封印ももしかしたらーー)
俺の手が無意識に拳を握りしめる。体内の流れが熱を帯び、まるで岩の下から煮えたぎる溶岩が噴き出すように、激しい怒気が膨れ上がっていくのが分かった。
そいつを見つけたら——俺が始末する。
怒りに任せて殺気を出した瞬間——
「ちょっ、ちょっと落ち着けよ、蒼雲!!」
パイモンの焦った声が飛んできた。
「ど、どうしたんだパイモン?」
彼女は俺の顔をじっと見つめたまま、少し怯えたように後ずさった。
「お前、今すごい殺気を放ってたぞ。千代も怯えてるし……」
——しまった。
俺は周囲を見回した。千代は、両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、小さく震えていた。その顔は青ざめ、肩は上下に揺れている。
(……俺の悪い癖だ。)
人に危害が及ぶと聞くと、つい頭に血が上ってしまう。昔からの短所だ。だが、千代はなぜか特に「殺気」に敏感だった。強い敵から放たれる敵意や、戦場の気配に過剰に反応してしまう。
……五百年前、彼女はアビスに呑まれた。
その影響なのか、それとも別の理由があるのかは分からないが——とにかく今は、彼女を落ち着かせなければ。
俺は膝を折り、ゆっくりとした口調で語りかけた。
「悪かった。俺はもう怒ってない。目を開けてくれ。」
しかし、千代の呼吸はまだ乱れたままだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
パイモンも、心配そうに千代を覗き込む。
「どうしよう。全然落ち着かないぞ。」
どうする? こういう時、俺はどうすればいい?
静まり返った道の片隅で、答えを探していると——
一匹の蝶が、ふわりと千代の手に舞い降りた。
千代は、はっと息を呑み、その小さな訪問者を見つめる。
蝶の翅は、夕日に照らされ、透き通る琥珀のように光っていた。その翅がゆっくりと上下に動くたび、儚げな命の輝きがそこに映る。
千代の瞳が揺れ、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
先ほどまで張り詰めていた空気が、静かに溶けるように和らいでいくのが分かった。
「………ありがとう。もう行っていいよ。」
千代がそう呟くと、蝶はふわりと宙に舞い上がり、風に乗って遠ざかっていった。
俺は彼女をじっと見つめた。
「千代。お前、蝶が好きなのか?」
彼女は一瞬驚いたように俺を見たが、やがて微笑んだ。
「うん。昔は、よくみんなと外で宴会を開いていて……その時、よく蝶が私の手に止まったの。」
彼女の声は、懐かしさと寂しさが入り混じったような響きを帯びていた。
「だから、蝶は私にとって、大切な思い出の一つ……。」
彼女はそっと、蝶が止まっていた手を握りしめた。
(……千代にとって、蝶は過去の象徴なのかもしれない。)
かつての稲妻、かつての宴、かつての友——。
すべては遠い昔の話だが、それでも彼女の中で確かに息づいている。
俺はそっと立ち上がり、千代の肩を軽く叩いた。
「そっか……じゃあ、また蝶が飛んできたら、それはきっと、お前の過去の仲間たちが見守っている証かもな。」
千代は目を丸くし、それから小さく笑った。
「……うん。」
夜風が吹き、遠くで鐘の音が響く。
俺たちは、再び歩き出した。
孤雲閣への道——蒼き龍の目覚め
静寂な道を歩きながら、俺はふと疑問を口にした。
「そういえば、ずっと歩いてばかりだが、アテはあるんだろうな?」
こんな広い璃月で、目的地もなくさまようほど無駄なことはない。旅人たちは何か策があるのか?
すると、パイモンが胸を張りながら答えた。
「おう! 北斗の船に乗せてもらうんだ!」
「北斗?」
俺が眉をひそめると、旅人が説明を加えた。
「腕試しの大会で勝って、乗せてもらえることになった。」
「……へぇー。」
北斗——南十字船団と呼ばれる武装船団の頭領。
旅人によると、彼女は「嵐すら言うことを聞く」と称される航海の達人であり、かつて冥海巨獣「海山」を討ち滅ぼしたことで「龍王」との異名を持つとか。
にわかには信じがたい話だが、帝君が「今は人の世」と言っていた以上、そのような人物がいても不思議ではないのかもしれない。
確かに、そんな彼女の船ならば、今の稲妻へ渡る術を持っていてもおかしくはない。
しかし——
「腕試し大会とは……随分と戦闘狂なようだな。」
少し不安を覚えるが、旅人がそこまで信頼を寄せているならば問題はないだろう。
「まぁ、その話が本当ならば信頼できるな。しかし、彼女たちの船は今、どこに?」
「孤雲閣に停泊してる。」
その答えを聞いた瞬間、俺は思わず声を漏らした。
「……孤雲閣…だと?」
孤雲閣——璃月北東部に位置する、天を突くような大岩が乱立する孤島。
その聳え立つ岩々は、かつて岩王帝君が投げた槍によって貫かれ、多くの魔神が封印されている。帝君の力が形として残る地であり、璃月でも特異な風景を持つ場所だ。
しかし、俺が驚いたのはそこではない。
——孤雲閣は、移動がとにかく面倒なのだ。
島々は岩の柱によって構成されているため、地形の高低差が激しい。さらに、互いに繋がっているわけでもないため、海を渡らなければ移動すらままならない。
俺や旅人、そして空を飛べるパイモンならば問題はない。
だが——問題は千代だ。
彼女はかつて武芸者として名を馳せたと言うが、今の彼女は違う。
五百年の眠りは、肉体の力を大きく削ぎ落とした。そんな状態で、この険しい地形を移動させるわけにはいかない。
俺は静かに息を吐き、決断した。
「仕方ない。」
旅人に視線を向ける。
「おい、旅人。周りに人はいるか?」
旅人は少し驚いた様子で辺りを見回し、首を横に振った。
「いや、いないと思うけど……どうしてそんなことを聞くの?」
俺は旅人の答えを聞き、微かに笑みを浮かべた。
「なら、問題はないだろう。」
足を止め、深く息を吸い込む。
そして——
「フン!」
俺の体が一瞬にして変化する。
俺は青き鱗を纏い、本来の姿へと戻った。
四肢はしなやかに伸び、長い尾が大気を滑る。角は天を仰ぎ、鋭い爪が大地を掴む感触を確かめる。俺の体を流れる聖水の気が周囲に満ち、霧のように広がりながら、夜の帳に溶け込んでいった。
「何をしている。早く乗れ。」
俺がそう促すと、旅人が驚きつつも背に手をかける。
「わ、分かった。」
千代は、まじまじと俺の姿を見つめたまま、微かに震える指で俺の鱗に触れた。
「……本当に龍の姿になれるんだ。」
「蒼雲に乗って空をーー」
その声には驚きと、僅かな不安が滲んでいる。五百年の眠りの後、再び空を翔けるなど想像もしていなかったのだろう。
そんな感傷をよそに、パイモンが飛び跳ねながら叫ぶ。
「じゃあオイラもーー!」
「お前は空を飛べるだろ。」
俺が呆れたように言うと、パイモンはぷくっと頬を膨らませる。
「むぅー! オイラも龍に乗ってみたいぞ!!」
俺はため息をつきながら、背中を軽く叩いた。
「……分かった、分かった。乗れ。」
嬉々として飛び乗るパイモン。旅人と千代も慎重に俺の背に座ると、俺はゆっくりと地を蹴った。
空へ——
俺の四肢が地を離れた瞬間、体が宙に持ち上がる。
翼はないが、俺の体を包む聖水が、流れるように俺の動きに沿って浮力を生み出し、龍の体を支えていく。長い尾をしならせ、空気を切り裂くように進むたびに、俺たちは静かに高度を上げていった。
周囲には、璃月の美しい夜景が広がっている。
港の灯火が星のように輝き、海面に映る光が揺らめく。遠くに見える天衡山の影、層岩巨淵の黒い輪郭——璃月の壮麗な風景が、一望できた。
「うおぉぉ!! すごい、すごいぞ!!」
パイモンが大はしゃぎしながら、俺の背の上で飛び跳ねそうになった。
「おい、暴れるな! 落ちるぞ!」
「は、はは……本当に飛んでる……!」
旅人は感嘆の息を漏らしながら、しっかりと俺の鱗に手を添えていた。
千代は最初、体を強張らせていたが、やがて恐る恐る目を開けた。
目の前に広がるのは、紺碧の夜空。
雲の切れ間からは、満天の星々が瞬いている。まるで無数の宝石を散りばめたかのような光景だった。
千代が、信じられないものを見るように息を呑んだ。
「……綺麗……」
俺はゆっくりと高度を上げ、雲の上へと抜けた。
ここまで来ると、風は穏やかで、世界が静寂に包まれている。
「ははっ! すごいすごい! こんな景色、オイラ初めて見たぞ!」
パイモンが楽しそうに空を指さす。
「夜空の上を飛ぶって、こんな感じなんだな……。」
旅人も、感慨深げに遠くを見つめている。
そして、千代は、空を見上げながらそっと呟いた。
「……雷のない空って、こんなに静かなんだ……。」
俺はちらりと彼女の横顔を見た。
五百年もの間、戦乱と闇の中にいた彼女にとって、稲妻の荒れ狂う雷雲の下でしか生きられなかった彼女にとって——この静かな夜空は、どんなふうに映っているのだろうか。
「……ふっ、まだ驚くのは早いぞ。」
俺は少し身体を動かし、前方を見据える。
孤雲閣の姿が、遠くの霧の向こうに浮かび上がってきた。
天を貫くように聳え立つ岩の柱——それらがいくつも重なり合い、孤雲閣という名の孤島を形作っている。
まるで、神が大地を削り、天へと繋がる橋を築いたかのような光景だ。
「うわぁ……! あれが孤雲閣……!」
パイモンが目を輝かせる。
「……帝君の槍が作り上げた場所、か……。」
旅人が低く呟いた。
千代は、その威容を見上げながら静かに言葉を漏らした。
「……これが璃月の神が大地に刻んだ証……。」
俺は軽く尾を振り、降下を始める。
海風が吹き抜け、旅人の服が揺れる。
「到着するぞ。しっかり掴まっていろ。」
孤雲閣の岩の頂上——北斗の船が停泊している場所の近くへ、俺は音もなく降り立った。
旅人がそっと俺の背から降り、千代も慎重に地に足をつける。
そして、みな、言葉を失ったまま俺を見つめていた。
「……すごいな。」
旅人が静かに呟く。
千代は夜風を浴びながら、手を胸に当てた。
「まるで、夢のようだった……。」
パイモンは目を輝かせ、飛び跳ねる。
「最高だったぞ!! さすが龍の仙人!」
俺は静かに笑い、長い体を人の姿へと戻していく。
「さて、ここからが本番だな。」
孤雲閣に降り立った俺たちは、これから北斗のもとへ向かう——。
孤雲閣を越えて、死兆星号へ——波間に浮かぶ龍の巣
青き龍の姿のまま、俺は夜空を翔けた。
霧がたなびく璃月の海。孤雲閣のそびえ立つ岩々の上を飛び越えながら、俺たちは目的地へと向かう。
下を見下ろせば、黒曜石の刃のように鋭く切り立つ岩礁が、まるで神の手によって並べられたかのように連なっている。静かな波音が岩壁に反響し、かつてここに封じられた魔神たちの怨嗟が、今も囁いているかのようだった。
だが、俺たちが向かう先にあるのは、そんな過去の亡霊ではない。
旅人の目的地——死兆星号だ。
海の彼方、闇に包まれた水平線の向こうに、巨大な影がゆっくりと浮かび上がる。
竜の頭を模した堂々たる船首。
その牙は鋭く、まるで今にも波を噛み砕こうとしているかのようだ。無数の縄が帆を支え、夜風を受けて大きく膨らんでいる。甲板の上には無数の影が行き交い、灯火に照らされるたびに、働く船乗りたちの逞しい姿が浮かび上がる。
「……着いたよ。」
旅人が先頭に立って死兆星号に乗り込む。
船の側面には縄梯子が垂れ下がっており、それを伝って船員たちが忙しく昇り降りしている。
「さて、行くか。」
縄梯子を掴み、俺たちは一歩ずつ甲板へと上がっていく。
足を踏み入れた瞬間、活気に満ちた声と響き渡る号令が耳を打つ。
甲板の上は、まるで戦場のような喧騒だった。
右へ左へと船員たちが駆け回り、大きな樽を運ぶ者、ロープを締める者、帆を調整する者——誰もがそれぞれの役割を果たし、出航の準備を進めている。
そんな喧騒の中心で、指揮を執る一人の女がいた。
「…………お、やっと来たね、旅人。」
その声は、海風のように心地よく、それでいて鋼の刃のような鋭さを持っていた。
振り向いた彼女の右目は、黄金を溶かしたような深紅の輝きを宿している。左目は赤いアイパッチで覆われ、その表情には堂々たる自信と風格が滲んでいた。
腰まで流れるダークブラウンの髪が、潮風に揺れている。
——北斗。南十字船団を率いる「龍王」。
彼女の視線が俺たちを捉え、一瞬だけ鋭く細められる。
「それと……ん? アンタは……?」
俺は一歩前に出て名乗った。
「俺は蒼雲。こっちは、千代。稲妻人だ。」
そして、旅人たちを見やりながら続ける。
「俺はこいつを稲妻に帰すために同行している。」
パイモンが勢いよく前に飛び出し、俺の肩を叩く。
「安心してくれ! コイツはすんごい強いし、すでにオイラたちの仲間だ!!」
旅人も微笑みながら頷く。
「うん。信頼してくれていい。」
北斗は俺をじっと見つめ、一瞬だけ思案するように唇を噛んだ。
そして——
「そうか! そうか!」
突然、大きな声で笑い出した。
彼女の豪快な笑い声が甲板に響き渡る。
「旅人が知り合いを連れてくるって言うからさ、ナヨナヨした奴だったら追い返すつもりだったんだが……」
俺を見上げ、満足げに頷く。
「いいじゃないか! そんなに評価されてる奴なら、大歓迎だよ!」
そう言って、俺の肩を力強く叩いた。
その笑いは、どこまでも屈託がなく、しかし確かな威厳を感じさせるものだった。
——なるほど。これが「龍王」と呼ばれる女か。
確かに、海を制する者にふさわしい器を持っている。
俺は微かに笑い、静かに息を吐いた。
「……これは、面白くなりそうだな。」
死兆星号、稲妻へ向けての船出
「おい野郎ども、とっとと動きな! さっさとしないと、船に乗ってる酒、全部アタイのになるからね!」
北斗船長の号令が響き渡る。
その声が届いた瞬間、船員たちは一斉に動き出した。
ロープを引く者、帆を張る者、錨を上げる者——甲板の上は、一瞬にして戦場のような活気に包まれた。まるでこの船が生き物であるかのように、音を立てて目覚める。
彼らの動きは迷いがなく、一糸乱れぬ連携を見せていた。さすがは海の猛者たちだ。
俺はその様子を眺めながら、微かに笑う。
(さすが船長、よく分かっているな……。)
酒という名の報酬が彼らの士気を一気に高めている。
ほどなくして、錨が完全に引き上げられ、帆が張られる。
そして——
死兆星号は、璃月の海を滑るように動き出した。
ゆっくりと、だが確実に加速していく感覚。
船体が波を切り裂き、白い飛沫を上げながら前へと進む。遠くに広がる夜の海が、漆黒の絨毯のようにどこまでも続いていた。
「……ふむ。」
俺は船縁に手をつき、遠ざかる孤雲閣を見つめた。
高くそびえ立つ岩々が、海の彼方へと小さくなっていく。その岩の上に刻まれた帝君の力の痕跡も、やがて夜霧の向こうへと消えていった。
(璃月を離れるのは……初めてだな。)
ワクワクする気持ちと共に、少しの寂しさを覚える。
隣を見ると、千代もまた、海の向こうを静かに見つめていた。
(……遥か遠い故郷に、思いを馳せているのか。)
彼女にとって、稲妻は失われた時間と共にある場所だ。
五百年前の記憶のまま眠り、目を覚ました時にはすべてが変わっていた。
それでも、帰るべき場所がある——それだけで、彼女にとっては希望なのかもしれない。
旅人と千代は、パイモンと楽しそうに話している。
最初は緊張していた千代も、次第に旅人やパイモンと打ち解けてきたようだ。
そんな彼らの様子を眺めながら、俺も会話に加わろうとしたその時——
「隣、座っても大丈夫でござるか?」
不意に、背後から声をかけられた。
俺は振り返り、その声の主を見た。
そこに立っていたのは、旅人と同じくらいの背丈の青年だった。
白銀の髪が、夜の光を受けて淡く輝く。その髪には、右側に一本のオレンジレッドの筋が入っている。
彼の瞳は、目の下が黄色がかった赤い色をしており、まるで燃え残る焔のような輝きを宿していた。
右寄りの位置で結ばれたポニーテールが、潮風に揺れている。
その身に纏うのは、侍の風格を持つ独特な装い。
グレーの半袖の着物に黒の羽織。その羽織の片袖は普通に腕を通しているが、もう半分は腰の後ろへと垂れ、帯で固定されている。
赤い袴には、カエデの葉の模様があしらわれ、まるで秋風に舞う落葉のように揺れていた。
黒と赤のスカーフが肩を覆い、斜めに締められたベルトの後ろには、光の無い神の目と風元素の「神の目」が輝いている。
その神の目は、赤い房飾りと共に侍の肩章のように固定されていた。
左腕には黒いグローブプレートが装着され、右手には包帯が巻かれている。
見た目からして、ただの船乗りではない——どこか、剣の道を極めた者の気配を感じる。
俺は少し間を置いてから、静かに頷いた。
「ああ、構わないぞ。」
彼は軽く微笑みながら、俺の隣に腰を下ろした。
死兆星号・夜風に乗る言葉
潮風が頬を撫で、甲板の灯りが静かに揺れる。
俺と彼——楓原万葉は、並んで腰を下ろした。
彼はまるで風そのもののような男だった。しなやかで軽やか、だがその奥には確かな強さがある。
「ところでお前は——」
俺が問いかけようとした瞬間、彼は軽く笑い、手を合わせた。
「あっ、申し遅れていたでござる。」
そして、静かに頭を下げる。
「拙者の名は楓原万葉。よろしく頼むでござる。」
その口調と仕草には、どこか古風な気品があった。
「ああ、こちらこそよろしく。」**
俺も軽く頷き、視線を合わせる。
改めて見ると、彼の風貌には稲妻の武士らしい佇まいがあった。
「ところでお前は稲妻人だろ? どうして璃月の船に乗っているんだ?」
それは単純な疑問だった。
今、この船は璃月のものであり、稲妻は「鎖国」中。
本来なら、稲妻の民がこうして璃月の船に身を置くことなど珍しいはずだ。
万葉は静かに俺を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。
「それは——蒼雲殿は『目狩り令』なるものを知っているでござるか?」
「ああ、神の目を奪うって話だと聞いたが……。」
俺が答えると、万葉は微かに目を細めた。
「実は拙者も、その対象で追われていて——幕府から逃げていたところを、北斗殿に助けられてここにいるのでござるよ。」
彼の言葉に、一瞬息を呑んだ。
(……そうか、万葉も「目狩り令」の犠牲者なのか。)
雷電将軍が布告した「目狩り令」。
神の目を持つ者たちから、その力を奪い、千手百目神像へと捧げる——まるで「神の力は神の手に帰すべき」と言わんばかりの強制的な支配。
そして、万葉もまた、それを逃れてこの船に身を寄せていたというわけだ。
「そうだったのか。」
俺が呟くと、万葉は微かに笑った。
「……蒼雲殿、一つ聞いてもいいでござるか?」
「ああ、俺も聞いたんだ。何でも聞いてくれ。」
すると、万葉の視線が、少しだけ遠くを見つめるように変わった。
彼の赤い瞳が、夜風に揺れる灯りを映しながら、俺の隣に座る千代へと向けられる。
「そこの鬼の娘は……もしかして、『虎千代』殿でござるか?」
「——虎千代?」
その名に、俺の眉が僅かに動いた。
(何だ? 虎千代とは……そんな名前、聞いたことがない。)
俺は驚くが、
千代自身は——会話が聞こえていないのか、気にせず旅人とパイモンたちと会話している。
「俺はよく分からないが……どうしてそんなことを聞く?」
俺が問うと、万葉は少し目を伏せ、潮風の音を聞くように目を閉じた。
「——蒼雲殿。少し、昔話をしてもいいでござるか?」
夜の海が、静かに揺れていた。
遠い過去の記憶が、今ここで語られようとしている——。
死兆星号・夜風に乗る伝承
万葉は、潮風に揺れる波間を眺めながら静かに口を開いた。
「蒼雲殿……拙者がこれから話すのは、稲妻に伝わる一つの伝承。」
その声音は、まるで詩を詠むかのような柔らかさを帯びていた。
「この名を聞いたことはないでござるか?——『虎千代の風』と。」
船の上を吹き抜ける潮風が、まるでその名を囁くかのように静かに流れる。
「五百年前……稲妻を震撼させた『漆黒の災厄』が起きる前のこと。」
「彼女は雷電将軍の忠実なる配下にして、御輿家の誉れ高き武者であった。見目麗しく、狐斎宮には『月のようにきれい』と讃えられ、舞の名手としても知られていた。あらゆる点において非の打ち所がなく——まさに、完璧な存在とされていたのでござる。」
万葉の語る声には、どこか哀愁が滲んでいた。
「だが——運命は、無情なる風のように彼女を翻弄した。」
「五百年前、稲妻を襲った災厄……それは彼女と御輿家の運命を、どうしようもなく捻じ曲げてしまった。」
万葉はふと、千代の方を見やった。
万葉は、再び遠くの闇を見つめながら続けた。
「雷の三つ巴の紋章を背負う鬼族の女武者——『御輿千代』。」
「彼女は『漆黒の軍勢』に立ち向かい、命を賭して戦った。」
「だが——その時、彼女は虎の体と蛇の尾を持つ、この世のものならざる魔獣に飲み込まれたのでござる。」
夜の波が静かに揺れる。
死兆星号の帆が軋み、船は確かに前へと進んでいる——まるで、過去へと遡るかのように。
「千代殿は、絶望に沈みながらも剣を離さなかった。」
「暗黒の獣の胸腔を切り裂き、その腹の中から、辛うじて生き延びたのでござる。」
「——それゆえに、彼女は『虎牙の千代』と呼ばれるようになった。」
その言葉を聞いた瞬間、俺は驚いた。まさか千代にそんな一面があるとは思っていたいなかったからだ。
「だが……彼女はその時、すでに——『罪深き黒』に染まっていた。」
万葉の瞳が、深紅の焔のように揺れる。
「獣の腹の中で、彼女はその緋色の牙が仲間を引き裂く光景を、目の当たりにしたのでござる。」
「逃れることのできない漆黒の闇……その中で彼女の心は蝕まれていった。」
万葉は、一瞬だけ言葉を切った。
甲板を踏みしめる足音だけが響き渡る。
「そして——彼女は剣を抜いた。」
「だが、向けた先は敵ではなかった。」
「彼女は……御建鳴神主尊に、刃を向けたのでござる。」
俺は、息を呑んだ。
「彼女は……雷電将軍に剣を向けたというのか?」
俺が問いかけると、万葉は静かに頷いた。
「うむ……その一振りが何を意味するか、彼女自身も分かっていたであろう。」
「しかし、その時の彼女にとって、雷電将軍は……もはや『敵』に見えていたのかもしれぬ。」
「だが、その刃は、主を斬ることはなかった。」
「彼女の剣は、そのまま振るう腕を、そして誇り高き角を、容赦なく切り落とされたのでござる。」
俺は無意識に拳を握りしめた。
「彼女は、傷ついた獣のように、荒野へと逃げ去った。」
「天狗、あるいは終末番、あるいは山で修行していた岩蔵の胤に討たれたとも……あるいは、彼女はそのまま人知れず消え去ったとも言われている。」
「彼女の行方を知る者は、誰もいない。」
俺は息を呑んだ。
夜風が甲板を吹き抜ける。
「……それから時が経つにつれ、『虎牙の千代』の名は変わり、『虎千代』と呼ばれるようになった。」
「だが、伝承は形を変えた。」
「やがて彼女は、将軍に逆らった『伝説の悪鬼』として語られるようになったのでござる。」
遠く、海鳴りが聞こえる。
「路地や峡谷を吹き抜ける風の音は、傷ついた鬼が唸る声のようだと言われた。」
「それが——『虎千代の風』。」
「稲妻に生きる者なら、誰もが耳にしたことのある季語でござるよ。」
静寂。
夜風に揺れる忠告——死兆星号の上で
潮騒が静かに響く中、俺はそっと千代の方を見やった。
今は旅人とパイモンと楽しげに会話している彼女——だが、先ほど万葉が語った伝承を思い返すと、その姿がまるで別人のように思えた。
雷電将軍の忠臣として名を馳せ、舞を愛し、月のように美しいと讃えられた鬼の娘。
しかし、五百年前の戦いで「虎牙の千代」として深淵の獣と戦い、その魔物の闇に染まり、かつての主に刃を向けた——。
(そんな過去を持つ者が、今、ここにいるのか?)
俺の脳裏には、最初に千代が目を覚ましたときの光景がよぎる。
夢と現実の境目を彷徨うように震え、何かに怯えたような瞳。
そして、時折見せる不安げな表情——まるで、何かを恐れているかのようだった。
その理由が、今ようやく分かった気がした。
俺は静かに息を吐き、万葉に視線を向ける。
「それで——もし千代が、その伝承に語られる『悪鬼』だったら……お前はどうするんだ?」
万葉は俺の問いを受け、穏やかに微笑んだ。
「そう警戒しないでほしいでござる。」
「拙者は、一応教養を備えている。」
夜風が彼の髪を揺らす。
「だから、虎千代殿のことを、幕府に歯向かった賊などとは思っていないでござるよ。」
「それに、拙者もある意味、幕府に追われる身。賊とされているのは同じことでござる。」
「攻める理由など、何もない。」
その言葉に、俺は目を細めた。
万葉の語る口調には、偽りがない。
確かに彼は、「目狩り令」によって幕府に追われている。俺のように千代を守るために動く者とは、ある意味、立場が似ているのかもしれない。
だが——
「じゃあ、どうしてこんな話を俺にした?」
俺が問いかけると、万葉は一瞬だけ夜の海を見つめ、それからゆっくりと俺を見据えた。
「これは——お願いでござる。」
お願い?
彼の言葉の意味を測りかねていると、万葉は静かに続けた。
「彼女を……いや、稲妻に渡ってから——『目狩り令』によって、雷電将軍の魔の手から人々を助けてほしいのでござる。」
「!?」
俺の目が、思わず見開かれた。
俺はただ、千代を稲妻に送り届けるつもりだった。
だが、万葉はそれ以上のことを望んでいる。
「そして——今回この話をしたのは、虎千代殿が今でも『賊』扱いをされているからでござる。」
「身元が分からないように、身を隠しておいた方が良い——その忠告をするため。」
俺は言葉を失った。
風が静かに吹き抜ける。
千代は、旅人と笑い合いながら、海を眺めていた。
……彼女が、稲妻に帰ったとき。
もし、彼女の正体が明らかになったら——
雷電将軍は、何を思うのか。幕府は、どのように反応するのか。
俺は、千代を稲妻へ送り届けるだけで、本当にいいのか?
万葉は、そんな俺の迷いを見透かしたかのように、静かに言った。
「くれぐれも、よろしく頼むでござるよ。」
「——蒼雲殿。」
その言葉は、まるで風に乗せた願いのようだった。
俺は、静かに頷いた。
次回 永遠の國 稲妻
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
-
璃月篇(海灯祭)※この話の本編
-
引き続き稲妻篇