闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
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いよいよ、決戦の朝がやってきた。
澄み切った空気が肺を満たす鳴神大社の境内には、これから始まる途方もない戦いを前にした静かな緊張感が漂っていた。
「いよいよだな……」
宙に浮かぶパイモンが、眼下に広がる稲妻城を見下ろしながら小さく呟いた。その小さな背中には、確かな覚悟が宿っている。
「ああ。九条家とファデュイの裏の繋がりを裟羅と共に暴き、将軍に謁見する」
旅人が力強く頷いた。
「よし、そうと決まれば出発しようぜ! 裟羅のやつが下で待ってるはずだ」
パイモンが気合を入れて飛び出そうとした、その時だった。
「待て童。まだ話したいことがある」
本殿の階段に腰掛けていた八重神子が、ゆっくりと立ち上がりながら二人を呼び止めた。
「ん?」
旅人とパイモンが振り返る。
「汝が初めてあの『一心浄土』へと引きずり込まれたのは、千手百目神像の前じゃったな?」
神子は桜色の髪を揺らし、普段の悪戯っぽい笑みを消して真剣な眼差しを向けた。
「あの日の情景を、もう一度再現するんじゃ。千手百目神像の前で、雷電将軍の『心を開かせれば』……勝機は必ずやってくる。こっちのことは気にするな。この仙人が命を懸けてでも、時間を稼いでくれるはずじゃからな」
「…………」
俺は深くため息をつき、呆れ顔で女狐を睨み返した。勝手に人の命をチップにして盤面に並べるんじゃない。
「やれるだけやってみるだけだ。……だが、そう長くはもたない。手短に頼むぞ」
俺が釘を刺すと、旅人は短く、しかし頼もしく「最善を尽くす」と頷いてみせた。
「これを持っていけ。妾からの餞別じゃ」
神子が袂から取り出したのは、小さな布袋だった。
「これは?」
「鳴神大社の特別な御守りじゃ。御利益のあるものでな、汝のために特別に残しておいたんじゃよ」
「ありがとう……大事にする」
旅人が両手で恭しく受け取る。
それを見て、俺は内心でそっと首を傾げた。
(……で? 俺には?)
これだけ汚れ役を押し付けられているのだ、俺にも何かあってもバチは当たらないだろう。
「ふふ、絶体絶命の状態でそれを取り出せば、危機から抜け出せるやもしれぬぞ?」
神子が得意げに笑う。
なるほど、それはすごいな。……で、俺には?
「もちろん、妾に会いたいと思った時に取り出してくれても構わぬ。ひょっこり出てくるやもしれぬな?」
神子が流し目で色っぽく微笑んだ。
「………………」
俺はスッと視線を明後日の方向へと逸らした。
(……すまん。やっぱり、いい)
ろくなものではないと本能が告げている。
「おい、そこの。なぜ急に目を逸らす?」
俺の微妙な反応を見逃さなかった神子が、ジロリとこちらを睨んできた。
「気のせいだ」
俺はあくまで無表情を貫き、知らぬ存ぜぬの態度を取った。
「こんな大事な時に冗談はよしてくれよ、狐お姉さん」
パイモンが空中でジタバタと抗議する。本当にこの大巫女は、空気を読むという概念が欠如しているのか、あえて壊しているのか。
「ふふふ……悪いな」
神子はくすくすと笑い、やがて、その瞳に巫女としての底知れぬ深みを宿した。
「では、妾の愚鈍な友は……汝らに任せるぞ」
「ああ」と旅人が力強く頷くのを見届け、俺は腕を組んで神子に視線を戻した。
「だが、相変わらず食えないな。将軍との謁見は、どう転んでもほぼ無理やりになる。それも、頑固で生真面目な裟羅が裏切りに憤り、天守閣に突っ込んでいくのを見越しての盤面だろう?」
「ふふっ。そこに『因縁の相手である淑女(シニョーラ)との対決を促した策士』という設定も、是非付け加えてほしいものじゃな」
神子は悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに微笑んだ。
「嬉しいのか? それは……」
俺は呆れ果てて肩をすくめた。人の心を操り、運命の糸を引く手腕は、恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。
「それこそ、主はゴローたちと共に向かわなくて良かったのか?」
ふと、神子が俺の行動の矛盾を突いてきた。
「俺にも考えがあるんだよ……」
俺は眼下の稲妻城を見つめながら、静かに答えた。
「万葉の腰に結ばれていた、あの光を失った神の目。あれにはまだ、成し遂げねばならない『定め』が残っている。奴と、奴の友の願いが極致に達し、すべてを成し遂げたその時……その後からが、俺の仕事だ」
あの絶対的な雷霆を凌ぐための一筋の光。それが瞬いた後にこそ、俺がこの命を懸けて泥を被る意味がある。
「ふん。主も人のことを言えた口か? 立派な盤面を描いておるではないか」
神子が皮肉げに鼻を鳴らす。
「元々、俺は外道だ」
俺は自嘲気味に笑った。目的のためなら、自分も含めたすべてを駒として使う。それが俺のやり方だ。
「それより……千代はどうした?」
今朝から姿が見えない、最も気がかりな女性の名を口にする。
「奴なら、社の中で精神を統一しておるよ。これからの、やつ自身の戦いのためにな」
神子の言葉に、少しだけホッと胸を撫で下ろした。
あの真っ直ぐな武者は、誰の庇護も借りず、自らの足で過去の因縁と向き合おうとしているのだ。
「そうか」
俺が頷くと、神子が「あ、そうそう」と思い出したようにポンと手を打った。
「千代からの伝言じゃ……」
ーーーーーーーーー
天守閣の重い扉を背に、旅人とパイモンは果てしない疲労感と共に石段へと歩みを進めた。
重苦しい空気が漂う稲妻城。しかし、石段の下を見下ろした二人の目に、微かな希望の光が映る。楓原万葉、ゴロー、そして海祇島から駆けつけた抵抗軍の兵士たちが、武器を手にそこに陣取っていたのだ。
合流しようと旅人が歩みを早めた――その直後だった。
紫電が天守閣の夜空を切り裂き、空間そのものが砕け散った。
次元の狭間から静かに降臨したのは、絶対的な武と永遠の象徴——雷電将軍。彼女が抜き放つ刀から溢れ出す圧倒的な威圧感の前に、旅人とパイモンは息を呑み、抗いがたい死の気配に金縛りにあったように動くことができなかった。
無慈悲な神の刃が、まさに旅人へ振り下ろされようとしたその瞬間。
「いつの日か…」
楓原万葉の脳裏に、かつてこの御前試合で散った友の言葉が蘇る。同時に、彼の胸元で冷たく眠っていた「主のいない神の目」が、紫色の雷光を帯びて激しく脈打ち始めた。友が残した強烈な願いが、万葉の持つ風の力と共鳴したのだ。
「『雷霆に相対する者が、この地上に現れる』」
風と雷、二つの力をその身に宿した万葉は、一筋の閃光となって弾き出された。
神が放つ必殺の剣戟、「無想の一太刀」。決して人間が抗えるはずのないその凶刃を、友の願いを継いだ一振りの刀が、真正面から受け止める。
甲高い金属音と共に、激しい衝撃波が周囲の空気を薙ぎ払い、紫と翡翠の光が夜の闇を激しく焦がした。
神の力を押し返すその小さな背中に将軍だけでなく、絶望に沈んでいた者たちの心に、決して消えない炎を灯した。
役目を終えた神の目は、地につき再び眠りをついた。深い眠りに
「かかれぇっ!!」
その奇跡の光景に士気を爆発させたゴローが号令をかける。抵抗軍の兵士たちが雄叫びを上げ、将軍を討つべく一斉に石段を駆け上がり始めた。
広場に聳え立つ千手百目神像に埋め込まれた無数の神の目もまた、人々の「願い」に呼応するように、次々と本来の眩い光を取り戻していく。
「どうしよう……あいつらじゃ雷電将軍の相手にならない!」
「うぅ…蒼雲のやつなにをやってーー!」
パイモンが悲鳴のような声を上げる。
その言葉の通り、将軍の力は常軌を逸している。旅人は仲間たちを死なせまいと、自らも剣を手にし、将軍へと飛びかかった。
――だが。
将軍が静かに目を瞑ると、周囲の空間がぐにゃりと歪み、空中に身を躍らせていた旅人の姿がふっと掻き消えた。
将軍の精神空間「一心浄土」へと、強制的に引きずり込まれたのだ。
主無き戦場に取り残されたのは、怒号と共に突っ込んでくる抵抗軍の兵士たちと、宙を舞うパイモンだけ。
飛びかかる兵士たちに対し、将軍は感情の抜け落ちた冷ややかな一瞥を向けた。次の瞬間、彼女の手にある刀に周囲の空気を焼き焦がすほどの濃密な紫電が這う。
すべてを灰燼に帰す無慈悲な一閃が、無防備な兵士たちに向かって振り下ろされようとした――その時。
「お役目ご苦労だったな」
凛とした、しかしどこか飄々とした男の声が、戦場の喧騒を切り裂いて響き渡った。
「っ!」
将軍の刃が振り下ろされるより早く、天の彼方――鳴神大社の方角から、轟音を立てて巨大な水元素の龍が飛来した。
青白く輝く激流の牙が、紫電を纏った将軍の刃へと真っ向から突っ込む。雷と水が激しく衝突し、鼓膜を破るような爆発音と共に、濃密な水蒸気が石段一帯を真っ白に包み込んだ。
神の刃を完全に食い止めたその圧倒的な力の奔流。もうもうと立ち込める霧の中から、彼が悠然と姿を現す。
「将軍の一太刀とは、こんなに軽いものだったとは……俺の記憶違いか? それとも少し腕が落ちたか?」
挑発的で、しかし底知れぬ自信に満ちたその言葉。かつて神に刃を向けた仙人の登場に、絶望しかけていた兵士たちの顔に希望の色が灯る。
「来てくれたか!」
尻尾を逆立てて構えていたゴローが、歓喜の声を上げた。
「もう!相変わらず遅いぞ!」
パイモンが、安堵と文句の入り混じった叫びを空から投げかけた。
激しい水飛沫と紫電が交錯する石段の上で、蒼雲は静かに元素力を練り上げ、神へと真っ直ぐに視線を向けた。旅人が一心浄土で勝利の糸口を掴むための、命を懸けた時間稼ぎがいよいよ幕を開けた。
雷電将軍の無機質な紫の瞳が、立ち塞がった男――蒼雲を冷徹に射抜いた。
「またあなたですか……」
感情の抜け落ちた声。だが、蒼雲は臆することなく、静かに口角を上げてみせた。
「こちらとしても、また俺の仲間に手を出すとはなって感じだ」
「ここに来たということは……」
「そうだ。お前のその凝り固まった頭をーー冷やしにきた」
蒼雲は一切の隙を見せることなく、背後で息を呑む万葉やゴローたちへ向けて短く告げた。
「お前たち、よくやってくれた。後は俺が受け持つ。下がっていろ」
雷電将軍は何も答えない。蒼雲もまた、ただ静かに刃を構えた。
張り詰めた沈黙が場を支配した、次の瞬間。
――バッ!
空気を震わせる鋭い雷鳴と共に、将軍の姿が掻き消えた。
直後、蒼雲の目の前に迫る紫電の太刀。蒼雲は間髪入れずに下段から水の剣を振り上げ、神の凶刃を正面から迎え撃つ。
紫色の雷花が火花のように散り、高圧縮された電撃と激流が拮抗し、周囲の空間そのものをメキメキと歪ませた。
ギリギリと刃が軋む鍔迫り合い。そこから生じた一瞬の隙を突き、将軍は重力を無視したかのように天高く跳躍した。
彼女の身体全体が猛烈な雷光に包み込まれ、まるで夜空にもう一つの強烈な太陽が産み落とされたかのようだった。将軍は巨大な雷の塊そのものと化し、眼下の標的である蒼雲へ向かって一直線に急降下してくる。
轟音。
天守閣前の石畳に直撃したその一撃は、巨大な雷の爆発の檻を生み出し、周囲の構造物を跡形もなく飲み込んだ。
だが――彼は倒れてはいなかった。
> 「お前が『領域』で勝負するなら、俺も使って構わんだろう?」
>
吹き荒れる雷の嵐の中から、蒼雲の静かな、しかし圧倒的な威圧感を伴う声が響いた。
彼が解放した「領域・洞天」。その言葉と共に、将軍の周囲の空間を埋め尽くすように、無数の半透明な水の剣の林が林立した。
「…………」
雷電将軍の目が、微かに細められる。
蒼雲は、咆哮を上げる水龍が巻きついた長剣を手に、地を蹴った。
対する将軍は稲光の如き神速で回避行動に出る。彼女は紫の軌跡を残しながら、自らを自動追尾してくる無数の水の剣を太刀の斬撃で次々と粉砕していく。蒼雲はさらに手から巨大な水の龍を顕現させ、将軍の退路を塞ぐようにけしかけた。
眼下からは、空を見上げる者たちの驚愕の声が、轟音に混じって蒼雲の耳に届いていた。
「あ、あれが……蒼雲さんの実力……ッ」
「我々なんて、足元にも及ばない……!」
「流石! 珊瑚宮様が認めたお方だ!」
ゴローや抵抗軍の兵士たちが震える声で感嘆を漏らす中、戦いの舞台は完全に空中へと移っていた。
空を引き裂くような速度で、雷電将軍の雷速の突撃と、蒼雲の水龍・剣の林の連携が激しく交差する。
将軍の描く紫の線が夜空に幾重もの幾何学模様を刻み、蒼雲は水龍を自在に操ってそれを的確に迎撃していく。無数の水の剣が宙を駆け巡り、神の動きを制限する。激しい衝突の度に、空中では超高温の蒸気と電光の爆発が連続して弾け飛んだ。
そして、決着の時が訪れる。
空中で大きく距離を取った両者は、互いの全霊を次の一撃に込めるべく、極限まで力を練り上げた。
蒼雲の剣は、龍の咆哮を宿し、まるで深淵の激流を纏うように限界まで膨張していく。対する将軍の双眸は文字通り雷光のように激しい輝きを放ち、彼女の絶対的な闘志と雷の力が頂点に達したことを示していた。
将軍が突進する。雷の化身、巨大な太刀の化身となって、空間を断ち割りながら。
蒼雲は水の龍を宿した剣を正眼に構え、その神威を真っ向から迎え撃つ。
二つの究極の力が、空中で真正面から衝突した。
直後、世界から一切の音が消え去った。
視界が残酷なほどの純白に染まる。
雷と水、相反する極限のエネルギーが一点に圧縮され、そして臨界を超えて爆発したのだ。
凄まじい衝撃波が天守閣全体を容赦なく襲い、将軍が作り出していた「一心浄土」の精神空間の境界さえも歪ませ、頑強な瓦の破片を紙切れのように虚空へと吹き飛ばした。
その圧倒的な余波は地上にも叩きつけられ、固唾を飲んで観戦していた万葉やゴロー、抵抗軍や天領奉行の兵士たちを区別なく後方へと吹き飛ばした。雷鳴の残響と分厚い水の飛沫がすべてを覆い隠し、崩落した瓦礫が遅れて鈍い音を立てて落下してくる。
やがて、もうもうと立ち込める紫の残光と、白い霧の向こう側。
「……やったのか?」
目を覆っていた腕を退け、パイモンが震える声で静寂の空気を震わせた。
「いや………」
風を読んだ万葉が、悲痛な響きを帯びた声で短く否定する。
霧が晴れた激戦の痕跡。
静寂を取り戻した天守閣前の石畳の上に残されていたのは、勝利者の姿ではなかった。
限界を超えた力を使い果たし、荒い息を吐きながら片膝をつき、今にも倒れ伏すかのように項垂れる――蒼雲の傷ついた影だけが、そこにあった。
薄暗く、重苦しい空気が支配する特異な精神空間――『一心浄土』。
巨大な鳥居や崩れかけた柱が、現実離れした赤黒い空を背景に静かに佇むその絶望の底で、金髪の旅人は力強く地を蹴った。
白と黒を基調とした装束の裾を翻し、旅人は一陣の風となって駆け出す。その手には銀色に輝く片手剣が固く握られていた。瞳は、前方で冷徹に佇む絶対的な存在――紫の衣を纏い、背に禍々しくも美しい雷の輪を背負う「雷の神」へと真っ直ぐに向けられている。
旅人が渾身の力を込めて剣を振り下ろした瞬間、紫電を纏った巨大な薙刀がそれを無造作に迎え撃った。
――ガァァンッ!
硬質な金属音が空間を震わせ、紫と黄金の激しい火花が散る。しかし、神の力はあまりにも圧倒的だった。紫の瞳を細めることすらなく、雷電将軍が薙刀にふっと力を込めると、少女の体はまるで枯れ葉のように軽々と弾き飛ばされた。
「くっ……!」
暗い地面を数十メートルも滑るようにして倒れ込んだ旅人は、全身の骨が軋むような苦悶の表情を浮かべ、荒い息を吐く。なんとか立ち上がろうと剣を杖代わりにして地に突き立てるが、酷使した体はすでに限界を訴えていた。
見上げる先には、冷酷なまでに静かで、微塵の揺らぎも見せない雷神の姿がある。永遠を体現するその足取りが、ゆっくりと死を運んでくる。
――その時だった。
地面に突いた左手。土を握りしめたその掌の中で、鳴神大社で渡された小さなピンク色の『御守り』が、まるで持ち主の命の鼓動に呼応するように、淡く、しかし確かな桜色の光を放ち始めた。
「なんじゃ?」
不意に、この死と停滞の空間には到底そぐわない、鈴を転がすような艶やかで聞き覚えのある声が背後から響いた。
「今さら思い出したのか」
旅人が驚愕に目を見開き、弾かれたように振り返る。
そこには、桃色の髪を優雅に揺らす巫女――八重神子の姿があった。紅白の鮮やかな巫女装束を身に纏った彼女は、極限の緊張が支配するこの空間にあってなお、いつもと変わらぬ涼やかで悪戯っぽい微笑を浮かべている。
その不敵な乱入者に対し、雷電将軍は歩みを止め、手にしていた薙刀をスッと構え直した。その瞳の奥に、ほんの僅かな、しかし確かな感情の波紋が広がる。
「神子……これは、あなたの計算ですか」
静かな、しかし空間そのものを圧迫するような威圧感のある声。将軍の周囲を這う紫電が激しさを増し、背後の輪が不気味な光を明滅させる。
だが、八重神子は神の威圧をそよ風のように受け流し、ふふっと楽しげに袖で口元を隠した。
「意識を物体に憑依させる技……誰に教わったか、忘れたとは言わせぬ?」
それは、かつて共に過ごした遙か昔の記憶を呼び起こすような、親愛と挑発の入り混じった響き。
しかし、神子の言葉はそれだけでは終わらなかった。彼女はすっと目を細め、さらに決定的な、神の永遠を打ち砕くための「切り札」を口にする。
「それに、ここに来たのは妾だけではないぞ?」
「……?」
将軍の柳眉が、微かに動く。
神子は旅人の傍らから半歩退き、その後ろに広がる赤黒い闇へと視線を向けた。そして、五百年もの間、この空間の主が心の奥底に封じ込めてきた「名」を、愛おしむように呼んだ。
「なぁ、千代?」
「……………」
足音はなかった。
ただ、神子の背後の影がふわりと解け、桜色の光に導かれるようにして、一つの影が静かに歩み出た。
見間違えるはずもない、紅く染まった二本の角。
かつて共に刀を振り、共に笑い合い、そして――漆黒の深淵に呑まれ、自らの手で討たねばならなかったはずの、無二の親友。
雷神が五百年間、目を背け、永遠という名の殻に閉じこもる原因となった、最も凄惨で悲しい記憶の象徴。
それが今、濁り一つない澄んだ瞳で、ただ真っ直ぐに自分を見つめ返している。
「!」
雷電将軍――いや、その奥底で永遠の瞑想に耽っていた**「影(えい)」**の無機質な紫の瞳が、限界まで見開かれた。
完璧だった神の呼吸が止まり、薙刀を握る手が、信じられないものを見るように微かに、だが確かに震え始める。
五百年の時を超え、止まっていた彼女たちの時計の針が、今、激しい音を立てて再び動き出そうとしていた。
「……ち、よ?」
五百年間、決して揺らぐことのなかった神の威厳が、音を立てて崩れ去った。
雷電将軍——いや、永遠の瞑想に沈んでいた『影(えい)』の唇から、掠れた、ひどく頼りない声が漏れ落ちる。
絶対の死を宣告しようとしていた薙刀の切っ先が震え、力なく下がり、紫電の刃が赤黒い地面を空しく擦った。
「あり得ません……。あなたは、あの漆黒の深淵に呑まれ……私が、この手で……」
影は、自らの目を疑うように小さく後ずさった。
失われたはずの親友が、狂気に染まる前の、あの頃のままの澄んだ瞳で自分を見つめている。永遠を追求してきた彼女にとって、それは己の信じてきた「失うだけの世界」という理(ことわり)の、完全な崩壊を意味していた。
「幻覚……? まさか私に……摩耗が」
「幻でも、摩耗でもないよ、影」
千代は、激しく動揺する雷神から決して目を逸らさず、一歩、また一歩と静かに距離を詰めた。
「私はここにいる。……ううん、帰ってきたんだ。ちょっと不器用で、ひどく意地っ張りな仙人に……救い出してもらってね」
千代の脳裏に、今この瞬間も外の世界で、己の身を削りながら神の器を足止めしてくれている蒼雲の痛々しい背中が過る。
彼が泥を被り、繋いでくれたこの奇跡の時間を、無駄にするわけにはいかない。千代は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、五百年間、ずっと伝えたかった言葉を紡ぎ出した。
「影。あなたが国を閉ざし、人々の『願い』を奪ってまで、不変の永遠に縋りたくなるくらい……一人で、寂しい思いをさせてしまったこと。本当にごめんね」
慈愛に満ちた懺悔。
だが、千代はすっと涙を拭うと、纏う空気を一変させた。
「でも、それとこれとは話が別だよ」
千代の声は優しく、それでいて、かつて彼女の隣で名だたる魔物を斬り伏せてきた武神としての、凛とした響きを持っていた。
彼女は刀を抜き放ち、その切っ先を、かつての主であり無二の親友へと真っ直ぐに突きつける。
「私は親友として――あなたを止める」
***
「なぜ……なぜあなたは、諦めずに立ち上がるのですか?」
一方、現実世界の天守閣前。
濛々と立ち込める蒸気と紫電の残滓の中、雷電将軍(人形)の冷徹な声が響いていた。
その視線の先には、満身創痍になりながらも、再びゆっくりと膝を伸ばし、立ち上がる男の姿があった。
「……生憎、俺の出身は『契約』を重んじる国でな」
蒼雲は口内に溜まった血を吐き捨て、凄惨な笑みを浮かべた。
「ある女性に、どうしても果たさなきゃならねぇ『二つの約束』をしちまった」
――一心浄土。
「なぜですか」
影が、刀を構える千代に悲痛な問いを投げかける。
「貴方も……私たちと同じく、多くのものを失ったはず」
「確かに、たくさんのものを失ったよ。でもね」
千代は、ふわりと春風のような微笑みを浮かべた。
「失う代わりに……本当に多くのものを、新しく得らことができたのも事実だよ」
――天守閣前。
「一つは……」
蒼雲は、己の内に眠る禁忌の力の封を少しずつ解きながら、静かに語る。
「ここ稲妻の地に、彼女の居場所をつくり、元に近い平穏な生活を送らせること」
「……二つ目はーー」
――一心浄土。
「新たな出会いがあったの。それでね、彼と……祭りで『でっかい花火を見る』っていう約束もしてきた。」
千代の頬が、ほんの少しだけ朱に染まる。それは、永遠の中で立ち止まった影には到底理解できない、明日へと向かう生者の輝きだった。
「……千代」
影は目を伏せ、薙刀を再び強く握り直した。
「私も誓いました。ーー」
――天守閣前。
「臣民に不変の永遠を、平穏を与えると」
将軍の無機質な瞳が、蒼雲を冷酷に射抜く。
「だろうな」
蒼雲は皮肉げに鼻を鳴らし、構えを取った。
「互いに頑固で、引くに引けねぇ誓いを立てた身同士。……どちらも、ここで負けるわけにゃいかねぇってことだ」
――回想。鳴神大社での出陣前。
『あ、そうそう。千代からの伝言じゃがーー』
八重神子が、悪戯っぽい笑みを消して紡いだ、あの少女の切実な声。
『生きて帰ってきて』
「……こっからはーー」
蒼雲の瞳の奥で、何かが弾けた。
周囲を満たしていた澄み切った水元素の気配が、一瞬にして完全に掻き消える。
直後、彼の全身から噴き上がったのは、禍々しくも圧倒的な暴力性を秘めた『赤黒い炎』だった。
それは、彼が忌み嫌い、ひた隠しにしてきた業の炎。しかし彼は今、ただ一つの約束を守り抜くためだけに、己の魂を焦がすその力を完全に解放した。
「本気で、いかせてもらうぞ?」
「さぁ、待ちまった我が本気……貴様はどれほど持ち堪えられるか見ものだな?」
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
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璃月篇(海灯祭)※この話の本編
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引き続き稲妻篇