闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
「ほれ、なにをぼけっとしておるか、童よ」
再び、一心浄土。
八重神子は優雅な足取りで、地に倒れ伏す金髪の旅人の傍へと歩み寄った。
「千代のやつが、あのように立派に立ち上がったのじゃ。童もそれなりのなりで、戦いに挑まぬか?」
旅人が顔を上げると、神子は覗き込むように身をかがめた。
「もしや汝……己の願いだけで、あの影の強固な意志に勝てると思うておるのか?」
その言葉に、旅人はハッと目を見開く。八重神子の紫の瞳は、どこまでも深く、この空間の真理をすべて見透かしているようだった。
「汝はここに一人でいるが……『彼ら』の願いは、とっくに汝の内に宿っておるのじゃよ」
二人が立つ赤黒い地面に、いつの間にか巨大な雷の三つ巴の紋様が、眩い光と共に浮かび上がっていた。八重神子は少女に寄り添い、母が子を諭すように優しく語りかける。
「じゃから……目を閉じるがよい」
言われるがまま、少女はゆっくりとまぶたを閉じた。
直後、旅人の意識は深い闇へと沈んでいく。しかし、それは決して孤独な闇ではなかった。暗闇の中に、無数の白い文字が次々と浮かび上がり、乱舞し始める。
それらは、神像に塗り込められた人々の声なき声、押し殺された悲鳴、そして行き場を失った切実な願いの形だった。
『神の目が……俺のすべてが……!』
『どうして……こんな理不尽が……』
『お願いだ……誰か……!』
人々の怨嗟や悲しみの声が、奔流となって空間を埋め尽くしていく。
しかし、その絶望の淵で。暗闇の中に一つ、また一つと、温かな光が灯り始めた。黄金に輝く星のような光。それらは奪われてもなお決して消えることのない、人々の「願い」の結晶だった。
光は次第に数を増し、激流となって旅人の身体を包み込む。
彼女の金色の髪が生命を吹き込まれたかのように強く光を放ち、足元からは黄金の光の粒子が、天へ向かって舞い上がる。
そして、万の祈りが幾重にも重なり合い、一つの強烈な意志となって一心浄土の空に響き渡った。
「目狩り令を……廃止して欲しいです!」
旅人の口から放たれたその強烈な願いの叫びは、無数の光の星々となって一心浄土の赤黒い空を舞い上がった。
万の願いの光に包まれた旅人の姿を前に、雷電将軍――影の瞳が、わずかに驚愕に見開かれる。永遠の静寂にヒビが入った瞬間だった。
だが、その驚きはすぐに、この空間の主としての絶対的な闘志へと塗り替えられた。
影はふっと目を細め……その唇の端を、微かに、しかし確かな歓喜の形に吊り上げたのだ。
(あ、笑った……)
私はその僅かな表情の変化を見逃さなかった。
永遠という無の境地を求めていたはずの彼女が、万の願いをその身に宿して挑んでくる金髪の旅人と、そしてかつての親友である私の姿を見て、武人としての血を無意識に滾らせたのだ。
「……来なさい」
影は静かに、しかし空間を震わせるほどの威圧感と共に言い放った。
彼女は目を閉じ、自らの胸元へと手を差し入れる。そして、雷光と共に、その身から無双の太刀を引きずり出した。紫電が激しく迸り、周囲の空気がビリビリと焼け焦げるような匂いを放つ。
その圧倒的な神の威光を前にしても、不思議と私の心に恐怖はなかった。
かつて背中を預け合い、共に名だたる魔物たちを討ち取ってきた親友の姿。その剣筋を、呼吸を、私は誰よりも知っている。
「旅人!」
私が呼びかけると、旅人は力強く頷き、銀の剣を構えて風のように駆け出した。
私もその後を追うように、刀を抜き放つ。
「はぁっ!」
旅人の剣と、影の太刀が真正面から激突する。
硬質な金属音と共に、紫と黄金の火花が散る。影の圧倒的な力が旅人を押し返そうとした瞬間、私はその死角へと回り込み、雷の輪の隙間を縫うようにして刀を振り下ろした。
「甘いですよ、千代」
影は表情を変えず、太刀の柄で私の斬撃を軽々と弾き飛ばす。
「くっ……!」
腕が痺れるほどの重い衝撃。だが、かつてのような「絶対的な絶望」は感じない。
旅人が纏う無数の「願いの光」が、私たちを暖かく包み込み、神の雷の威力を和らげてくれているのだ。
影が薙刀を振るうたび、空間が紫の軌跡と共に裂ける。
雷の三つ巴の紋様が地に浮かび上がり、そこから雷撃の檻が私たちを囲い込もうと迫る。
「旅人、右から来る!」
「分かってる!」
旅人が風の刃で雷の檻を断ち切り、私はその隙間に飛び込んで影へと肉薄する。
彼女の刃が私を切り裂こうと迫る。私は刀の腹でそれを受け流し、力任せに弾き返す。
「相変わらず、力任せな剣ですね」
影の紫の瞳が、剣戟の最中に私を捉えた。
「あなたのその固い頭をカチ割るには、これくらいじゃないと効かないでしょ!」
私は笑い返しながら、さらに一歩踏み込む。
私たちはただ、互いの魂をぶつけ合うように、刃を交え続けた。
激しい剣戟の音が、永遠の停滞を謳っていたはずの空間に心地よいリズムを刻み始めていた。
何度目かの打ち合いの果て。
私の刀と旅人の剣を同時に受け止めた影の太刀筋から、先ほどまでの冷酷無比な『神の裁き』としての重圧が、ふっと消え去っていることに気がついた。
代わりにそこにあるのは、純粋な武の頂を極めんとする者の、淀みなく、そして恐ろしいほどに流麗な剣舞。
空間を切り裂く紫電は苛烈さを増しているはずなのに、なぜか旅人を護る色とりどりの『願いの星々』を掻き消そうとはしていない。むしろ、彼女の振るう雷光と万の祈りの光が空中で絡み合い、互いの輝きを反響させながら、この薄暗い精神空間をかつてないほどの眩さで照らし出していた。
「はぁっ!」
旅人が風を纏い、低い姿勢から影の懐へと鋭く踏み込む。
影は紫の衣を翻してそれを軽やかに躱すと、流れるような動作で私へと刃を翻した。
私は下段から刀を跳ね上げ、その一撃を弾き飛ばす。
火花が散る至近距離で、影の顔が私の目の前に迫った。
その瞳。五百年の間、ずっと冷たく凍りついていた無機質な紫の双眸に、今はパチパチと熱い火花が踊っている。息を呑むほどに美しく、生き生きとした武人の顔。
(ああ……知ってる。この顔、この太刀筋)
それはかつて、試合で私たちが時間を忘れて本気で打ち合った時の、あのどうしようもない高揚感そのものだった。
影の口元には、先ほどの微かな笑みよりもはっきりとした、柔らかで挑戦的な弧が描かれている。
「2人がかりでここまで手こずるとは500年もの間に腕が鈍ったのではないですか?千代。」
鍔迫り合いの中、鈴を転がすような声が、弾むように私を打つ。
「その500年寝てた人に二人がかりとはいえ手こずってる影も腕が鈍ったんじゃない!」
私が全力で押し返すと、影は逆らうことなくふわりと後方へ跳躍し、距離を取った。
言葉を交わし、刃を合わせるたび。私たちの間に横たわっていた五百年の暗く冷たい空白が、激しい金属音と共に少しずつ崩れ落ち、熱を帯びて埋まっていくのが分かる。
トン、と音もなく赤黒い地面に着地した影は、すっと姿勢を低くした。
彼女は胸の前で太刀を構え直し、その刀身に、これまでで最も濃密で、世界そのものを両断するかのような圧倒的な雷光を収束させ始める。
周囲の空が彼女の力に呼応して激しく渦を巻き、轟鳴が空間を震わせる。
それに応えるように、旅人の周囲を舞う万の願いの光たちもまた、彗星のごとく一層強く、黄金の輝きを増していった。
(……来る)
そこに、もう怨念や殺意はない。
だが、手加減も一切ない。互いの存在と魂のすべてを懸けた、全霊を叩きつける最後の一撃。
言葉を交わす必要はなかった。
私と旅人は視線を交わし、深く、確かな覚悟と共に頷き合う。
「行くよ、旅人!」
「うん!」
私は刀の柄をきつく握り直し、旅人と共に、絶対的な雷光が待ち受ける中心へと向かって、思い切り地を蹴った。
赤黒い空間のすべてが、影の刃に吸い込まれていくようだった。
無念無想、ただ一振りの刃に神の威光のすべてを込める究極の剣技。かつて大蛇(オロバシ)を島ごと真っ二つに両断した、その絶対的な裁きの雷霆。
しかし、今の彼女が構える『無想の一太刀』には、あの時のような冷たい断絶はない。ただ純粋に、全霊をもって友と好敵手に応えようとする、どこまでも気高く美しい武の極致がそこにあった。
「――っ!」
影が踏み込む。
世界から音が消え、ただ紫電の軌跡だけが網膜に焼き付くような神速の抜刀。
対する旅人は、万の祈りが織り成す黄金の星々を剣身に集束させ、眩い彗星となって神の一撃へと真っ向から突進していく。
そして、私もまた、己の魂の奥底に眠るすべての力を解放した。
深く、息を吸い込む。
脳裏に浮かぶのは、五百年前、影や神子たちと共に桜の下で酒を酌み交わしたあの温かな夜。
私の刀から、淡く光り輝く薄紅色の桜の花びらが、吹雪のように無数に舞い散り始めた。それは、アビスの漆黒を乗り越え、蒼雲が繋いでくれた命の果てに辿り着いた、私自身の新たな武の形。
(影……これが、私の答えだよ!)
舞い散る光の桜が、刀身に螺旋を描いて集束し、感覚が共に研ぎ澄まされていく。
「『月下夢想・鬼桜(げっかむそう・おにざくら)』!!」
万の願いを宿した旅人の黄金の剣閃。
光の桜を纏い、五百年の想いを込めた私の渾身の一閃。
それらが、紫電を極限まで圧縮した影の『無想の一太刀』と、空間の中央で完全に激突した。
――ッァァァァァァンッ!!
鼓膜が破れるかと思うほどの轟音が遅れて弾け飛び、凄まじいエネルギーの奔流が赤黒い空を真っ白に塗り潰した。
紫、金、薄紅。
三色の強烈な光が絡み合い、反発し、溶け合いながら、一心浄土の果てまで爆発的な衝撃波となって吹き荒れる。
鍔迫り合いの最中、刃を交える手から伝わってくるのは、互いの意地と、信念と、どうしようもないほどの親愛の情だった。
「ああああああっ!!」
旅人が叫び、黄金の光が一層強く瞬く。
私も奥歯を噛み締め、残るすべての力を刀に込めて押し込んだ。
「く……っ!」
影の紫の瞳が見開かれ、その端麗な顔に、五百年間で初めて『全力を出し切った者』だけが浮かべる、清々しい疲労と驚きの色が走る。
そして――。
永遠の停滞を象徴していた雷の刃が、光の桜と黄金の星々の前に、ついに押し負けた。
パキン、と。
目に見えない『永遠の殻』が砕け散るような澄んだ音が響く。
無想の一太刀の軌道が逸れ、影の身体が、舞い散る光の桜の中へとふわりと吹き飛ばされていった。
そして――。
永遠の停滞を象徴していた雷の刃が、光の桜と黄金の星々の前に、ついに押し負けた。
光の桜と黄金の星々が赤黒い空に溶けて消えていく中、激しい嵐が過ぎ去ったあとのような静寂が、『一心浄土』に舞い戻ってきた。
荒い息を整えながら刀を下ろした私の耳に、凛とした、けれどどこか愛おしむような神子の声が響く。
「汝の負けじゃ、影」
ふわりと舞い降りた光の中から、ゆっくりと立ち上がった影は、地に落ちた自らの夢想の一心を見つめた。そして、ふっと――五百年間背負い続けてきた重い甲冑を脱ぎ捨てるかのように、凭き物が落ちた息を吐いた。
「……はぁ。はい。私の負けです」
神の威厳も、絶対の永遠もそこにはない。ただ一人の不器用な少女に戻ったかのような、素直で静かな敗北宣言だった。
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