闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
光の桜と黄金の星々が赤黒い空に溶けて消えていく中、激しい嵐が過ぎ去ったあとのような静寂が、『一心浄土』に舞い戻ってきた。
荒い息を整えながら刀を下ろした私の耳に、凛とした、けれどどこか愛おしむような神子の声が響く。
「汝の負けじゃ、影」
ふわりと舞い降りた光の中から、ゆっくりと立ち上がった影は、地に落ちた自らの薙刀を見つめた。そして、ふっと――五百年間背負い続けてきた重い甲冑を脱ぎ捨てるかのように、凭き物が落ちた息を吐いた。
「……はぁ。はい。私の負けです」
神の威厳も、絶対の永遠もそこにはない。ただ一人の不器用な少女に戻ったかのような、素直で静かな敗北宣言だった。
「どうして自らの民を、彼らの願いの力を信じてやれぬのじゃ?」
神子は優雅に歩み寄り、伏し目がちな影の顔を覗き込むようにして言葉を続けた。
「あれらの願いは、距離や空間、さらには時間をも越え、すでに何人にも止められぬものだというのに」
その言葉は、旅人を包み込んでいたあの眩い光を指していた。散っていった者たちの想いも、今を生きる者たちの祈りも、決して消えることなく束ねられ、ついに神の永遠すら打ち砕いたのだ。
「人々が全力で進む時……」
剣を収めた旅人が、静かに、しかし確かな重みを持って口を開いた。
「神の予想すら越えることができる。そして、神にとって代わることさえも」
その力強い琥珀色の瞳には、これまで彼女が歩んできた旅の軌跡と、数々の出会いが宿っていた。
「ふふ、それが汝が璃月の旅で得た収穫か?」と神子が問う。
「うん」と、旅人は静かに頷いた。
「人間が前へ進み、神が後ろに置いていかれる国か……」
神子は少しだけ遠い目をして呟き、それから再び影へと視線を戻し、諭すように言った。
「しかして、なぜ妾たちがそう自分勝手に……民が前へ進むことを、一方的に放棄させることができるというのじゃ?」
「……………」
影は答えなかった。
ただ、紫の瞳を伏せ、どこかひどく傷ついた迷子のような、寂しげな沈黙を守っている。
(ああ……そうか)
私は、その不器用すぎる親友の姿に、ぎゅっと胸を締め付けられた。
目狩り令も、鎖国令も、永遠への異常なまでの執着も。決して、彼女が冷酷で無慈悲な神だったからじゃない。
大事な姉を失い、私たち友を失い、取り残された彼女は、変化の先にある「喪失」を誰よりも恐れていたのだ。これ以上、自分の手から大切なものがこぼれ落ちていくのが耐えられなかっただけなのだ。
「……影は、守りたかったんだよね」
静かな空間に、澄んだ水滴が落ちるような優しい声が響いた。
私は刀を鞘に納め、俯く影の傍へと歩み寄る。
「稲妻の民を、みんなを」
私は、影が一人で抱え込み、誰にも見せまいと必死に隠してきた五百年の孤独と恐怖を、すべて包み込むように微笑んだ。
どんなに冷酷な雷神として振る舞おうと、その奥底で震えていたのは、大切なものを失うことを極端に恐れる、かつての泣き虫で不器用な少女のままだと知っているから。
私のその温かく、すべてを許容する言葉に、影の肩が微かに震えた。
「前へ進むことで生じた喪失を……あなたも共に見てきたはずです」と、影は痛みを堪えるような掠れた声で呟いた。
彼女はゆっくりと苦しげに目を閉じ、「永遠……そう、永遠にのみ……」と祈るように言葉を漏らす。
雷光が閃く場所には、必ず暗い影ができる。
かつての彼女は、光り輝く双子の姉である雷神・眞(まこと)の「影」として生きていた。彼女は己の「無想」の武をもって、稲妻の前に立ちふさがるすべての障害を最前線で取り除いてきたのだ。
しかし、国が一歩前へ進むたび、彼女は大切なものを次々と失っていった。
空を駆けた大天狗、武を競い合った鬼の親友、そして知恵で導いてくれた狐の斎宮。
そして最後には……彼女にとって世界のすべてであった、最愛の姉「彼女」さえも失ってしまったのである。
失った者たちの事跡は、今も雷櫻の木陰で美しく語り継がれている。だが、失ったものがこの国に残した消えない烙印は、今なお彼女の心の中で深く燃え続けていた。
生前、姉は彼女にこう語りかけていた。
「探しましょう、たとえそれが須臾(しゅゆ)の光だとしても。少なくとも私たちには、今があるのですから」と。
しかし、影はその「前へ進む」という希望がもたらした、あまりにも惨い結末を見てしまった。必死に前へ進もうとした国が、天理を前にしてすべてを失い、崩壊していくあの漆黒の厄災を。
稲妻の雷光を保つためには、時を止めるしかないのかもしれない。
姉が愛した「今」とは儚い妄想であり、「永遠」のみが天理に最も近づき、国を守る唯一の道なのだと、彼女は深い絶望の中で結論づけた。
私はもう……ただの「影」ではない。
この身こそがいと尊き存在であり、天下を大平せしむ者。
そう己の心に固く言い聞かせ、彼女は臣民に夢を与えると誓ったのだ。未来永劫、「不変の『永遠』を」と。
彼女がどれほどの絶望の中でその結論に至ったのか、痛いほどに伝わってくる。
天理という絶対的な恐怖を前にして、残されたこの国と民を守り抜くため、己の心を殺してまで『永遠』の装置として生きることを選んだ不器用な親友。
「天理……妾にとっては皆目見当もつかぬものじゃ」
神子が退屈そうに扇子を扇ぎ、赤黒い虚無の空を見上げた。その声音には、神の概念をも超越した彼女なりの冷徹な現実感が宿っている。
「でも、影は私が言ったようにみんなを永遠に守りたいだけなんでしょ?」
「その言い方は、あまりにも軽薄と……私は言いたいんです」
影がわずかに眉を寄せ、私と神子を交互に見る。その瞳には、五百年の間、一秒も休むことなく抱え続けてきた「神としての責任」という名の枷が、まだ重くのしかかっていた。
「しかしこの国は、果たして永遠に存在する価値のあるものなんじゃろうか?」
神子の容赦のない問いが、一心浄土の静寂を切り裂く。
「願いを失い、変化を失い、ただ存在するだけの国。そんなものは抜け殻にすぎぬ」
「ふっ、であれば、滅んでも問題はないじゃろう?」
その言葉に、影だけでなく私も心臓が跳ね上がった。神子、それはいくらなんでも言い過ぎじゃないか……!
影の纏う空気が、一瞬にして冷気から殺気へと変貌する。
「神子、その妄言を撤回してください」
影が静かに、しかし雷光を孕んだ声で告げる。
「未来永劫変わることのない永遠、私が臣民に誓った約束です」
影、あなたがどれだけ真面目に民のことを考えて、どれだけ民のことを思っているかは、神子も私も知っている。でもね……。
「みんなが求めているのは、影の誓った『約束』じゃない。あなたの眼差しを、求めているんだよ」
「……神の目ですか」
影は視線を彷徨わせ、どこか遠くを見るような瞳で呟いた。
「人の寿命は百年のみ。彼らに、過ぎ去りゆく過去を背負えるほどの力はありません。私はすべてを経験したからこそ、彼らを永遠へと導くことを選んだのです」
……すべてを経験したからこそ、か。
それはかつての私たち、共に戦い、共に笑い合った仲間たちとの思い出さえも、彼女にとっては「耐え難い喪失」として記憶の檻に閉じ込めるしかなかったのだ。
「はぁ……じゃが『永遠』は汝にとって、あまりに残酷すぎるぞ、影」
神子が珍しく、心底悲しそうな声音で吐き捨てた。
「……私に?」
「汝は俗世の者どもに目を向けぬようになっただけでなく、己すら見つめることをやめた。何百年もの間、ここで一人……寂しかったじゃろう」
影がその言葉に、初めて言葉を失って立ち尽くす。彼女の背中は、神というにはあまりにも小さく、痛々しいほどに震えていた。
「しかし、これは必要なことで……」
「影。私もね……五百年ずっと暗闇の中を彷徨っていたんだ」
私は自分の手を見つめた。あの漆黒の深淵で、私の意識を蝕み続けた無数の感情の残滓。
「あらゆる未来、いろんな過去、選ばれなかった結果たちの亡霊……。その怨みに耐える日々は、本当に孤独で寂しかった」
私は影の前に立ち、五百年の断絶を埋めるように、私は声を絞り出した。
「……本当、もう心も体もボロボロで……何度も自分を見失いそうになった。永遠に続くかと思えるような漆黒の中で、ずっと、ずっと一人ぼっちで……怖かった」
私はゆっくりと歩み寄り、彼女の冷え切った両手を、私の両手でそっと包み込んだ。
影の手は、驚くほど冷たくて、そして小さく震えていた。五百年間、たった一人でこの国を背負い、天理という見えない恐怖と戦い続けてきたのだ。その重圧と孤独は、私がアビスの底で味わった闇と同じくらい、いや、それ以上に深く、息の詰まるものだったはずだ。
「だからこそ、痛いほどに分かるの」
私は、影の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「この一心浄土という殻に閉じこもって、外の世界を拒絶して……そうやって自分自身の心すら殺し続けることが、どれだけ苦しくて、残酷なことか」
「影、千代ももう汝の知らない新たな一面が生まれておる」
不意に、神子が口元を隠してクスクスと笑い出した。その紫の瞳には、明らかに獲物を弄ぶような悪戯な光が宿っている。
「……神子?」
私が怪訝に問いかける間もなく、神子はさらに踏み込んだ。
「例えば、外で汝の作った人形と、命懸けでやり合っている……あの男についてにな!!」
(突然何を言うつもりでありますか!? このバカ神子……!!)
私は反射的に神子の口を必死に押さえようとしたが、影の戸惑いに満ちた視線が私を射抜いた。
「ち、千代?」
「ち、違うの! 影! これは違くて……っ!」
顔から火が出るほど熱い。蒼雲のことなんて、影に話すつもりはなかったのに! 神子は楽しげに、私を追い詰めるように続ける。
「気になるじゃろう? 前に進まなければ、失うものも多い。ここで永遠に留まる汝も、結局は本当の自分を失い続けていると言えるのではないか? そんな孤独に耐えながら、その時間軸を永遠のために無限にまで伸ばすなんぞ……」
神子は影のすぐ近くまで歩み寄ると、有無を言わせぬ巫女の威厳を纏って告げた。
「妾に話せ。なぜここの空が、かつてあれほどまでに黒く淀み……そしてなぜ、今は再び光を放っているのか。ここは汝の一心浄土、汝の内なる世界。であれば……もうとっくにここの孤独には耐えられず、本心では妾たちに会えて嬉しく思っておるのではないか?」
影は唇を噛み締め、俯いた。
「私は……なにも言うことはありません……」
「妾にはあるぞ。数えきれぬほどの面白い話が……そうじゃ、せっかくじゃからここ数百年の出来事を汝に話そう」
(やめてぇぇぇ!! 私の話、私の話だけは絶対やめて!!)
「のう、千代。汝は影に謝りたかったのじゃろう。恥じらうことなく、近々あった汝の身の変化について語ったらどうじゃ?」
私の心臓は早鐘のように打っていた。ここで蒼雲のこと、私たちが交わした約束のこと、そして私が「鬼」としてではなく、ただの一人の女として彼に抱いている想いまで語らされるのだけは、絶対に嫌だ!
影が不思議そうに顔を上げる。
「謝る? 何を……?」
神子の悪戯な視線と、影の純粋な問い。
私は大きく息を吸い込み、握りしめていた影の手からゆっくりと指を解いた。今こそ、五百年の澱を流す時だ。
「…………影」
私は真っ直ぐに、五百年前と変わらない私の大切な親友の目を見た。
「ごめんなさい」
その言葉は、影への謝罪であると同時に、これまでの自分の弱さ、そして、五百年間あなたを一人にしてしまったことへの、心からの決別だった。
「あの時私は、あなたに刃を向けてしまった……そして今回も」
私の言葉は、五百年の時を経てようやく紡がれた、あまりにも遅い告白だった。
かつてアビスの狂気に染まり、親友である影に刃を向けたあの日。そして、彼女を止めるために再び刀を交えたこの一心浄土での戦い。
私は影の凍りついた瞳を真っ直ぐに見据え、震える声を絞り出した。
「でも、信じて。私は影を助けたかった。暗闇の中、誰が敵かも分からない中で……あなたを獣から助け出したかった。そして今回は、この暗闇の中で孤独の道へと突き進んでいく影を止めたかった。だから……っ」
影は静かに、その瞳から力強さを失い、穏やかな光を湛えて私を見つめ返した。
「わかっています。……あなたが、あの戦いで悪夢に取り憑かれてしまったこと」
影は少しだけ視線を落とし、追憶の中にある痛みを掘り起こすように続けた。
「私は、あの時……夢喰い獏たちに、あなたの悪夢を取り払ってもらおうと試みたんですよ?」
(え……?)
私は驚きに目を見開いた。彼女がそんなことを考えていたなんて、想像もしていなかったからだ。
「ですが、それは叶わず……私はこの手で、あなたを悪夢から解き放つことを選んだ。むしろ、謝るべきは私の方です」
影は深く頭を下げた。その姿は傲慢な神などではなく、一人の友人として誠実なものだった。
「すみませんでした。そして……ありがとうございます、千代。まさか、助けようとして助けられなかった私を……助けられなかったあなたに、助けられる時が来るとは」
影がクク、と細く喉を鳴らして笑った。
「ふ……ふふっ……神子。実はもう……こうして会うことは、二度とないと思っていました。千代なんて、まさに奇跡としか思えない。今でも信じられません」
彼女は遠くを見つめるような瞳で、ポツリと呟く。
「二人と会えたのは、永遠の中に生じた『変数』であり……驚きでもあります」
「ふふ、ようやく素直に認めおったか。なら、引き続き友でいてやってもいいぞ?」
神子がいつものように得意げに胸を張る。
……ねぇ、どうして神子は、こんな感動的な場面でもそうやって上から目線なの?
「まったく、子供じみた会話ですね」
影は呆れたように溜息をついたが、その表情には微かな温かみが戻っていた。
「ですが、あなたたちの計画に負けたからには……あなたたちの意志に従って、目狩り令を廃止しましょう。……しかし、『永遠』について、この国が果たして前へ進むべきかどうかについては、再び考える必要があります」
影の言葉に、神子が満足げに。
「ふふ、最初から最後まで、子供じみていたのは汝のほうじゃったな」
空間を包んでいた重苦しい圧迫感が、ようやく溶けていく。
一心浄土の赤黒い空に、外の世界から届くような柔らかな陽光の気配が混ざり始めていた。影が守り抜こうとした永遠の殻はもうない。私たちは、こうしてようやく同じ時間軸を、共に歩んでいけるのだ。
まばゆい光に包まれた一心浄土から現実に引き戻されると、そこは戦火で荒れ果てた稲妻城の城門前だった。
「ようやくひと段落じゃな」
八重神子が優雅に周囲を見渡すが、その表情はすぐに険しくなった。
「皆倒れておる。はぁ、どうしたものか……」
「た、大変だ!」
空中で慌てふためくパイモンを、旅人が不安げに見上げる。
「パイモン、どうしたの?」
「蒼雲が! 蒼雲が……!」
その言葉に、私の心臓が凍りついた。そうだ、蒼雲は外で将軍の人形と一人で戦っていたんだ。
「蒼雲!」
私は夢中で駆け出した。ようやく影との対話が終わった安堵も束の間、私の視界に飛び込んできたのは、あまりにも異様な光景だった。
立ち尽くす将軍の首を、片手で空高く締め上げ、持ち上げている男の背中。その纏う衣は血のように真っ赤に染まり、纏う炎は赤黒く脈動していた。
「蒼雲! 終わったよ〜!」
私が呼びかけると、その男はゆらりと振り返った。
「蒼雲?」
彼が私を見た瞳には、いつもの穏やかさは欠片もなく、冷徹な殺意が渦巻いていた。
「蒼雲……?」
「チッ……興ざめだ」
「千代に感謝するんだな……人形」
その男は、私の知る蒼雲の声で、しかし別人のような吐き捨て方をした。彼が将軍の首を絞めていた手を緩めた瞬間、その赤黒い炎は霧のように消え去り、男の身体は急速に元の姿へと戻っていく。
「蒼雲……!」
倒れ込む彼に駆け寄り、私はその身体を支えた。
「大丈夫?」
「あ、ああ……」
蒼雲は、荒い呼吸を整えながら、私を真っ直ぐに見つめた。その瞳に、ようやく私を認識する色が戻る。
「……お前のおかげで、助かった。ありがとう」
「蒼雲こそ……ありがとう」
彼の手はまだ微かに震えていた。あの赤黒い炎が、彼にどれほどの代償を強いたのか。私には想像することしかできない。
遠くからは、戦いの余韻に呆然とする声が聞こえた。
「あの力は一体……」万葉が静かに呟く。
「すごい力だった……だが、あれは本当に……蒼雲なのか?」ゴローの言葉に、周囲の兵士たちも戦慄を隠せない様子だった。
さらに遠く、月明かりの届かぬ木の上。
そこに静かに佇む一羽の「鳥のカラクリ」が、カチリと音を立てて、その赤い瞳で一部始終を記録していた。
「………………」
戦いは終わった。けれど、この場に漂う緊張感は、消えるどころか、より深く、重く世界を覆い始めていた。
激動の嵐が去り、鳴神の地に再び静寂が訪れる。
天守閣の重々しい空気の中に、八重神子のどこか達観した、しかし温かみを孕んだ声が静かに響き渡った。
「その後……雷電将軍は目狩り令を廃止した」
薄暗い天守閣の室内に、夕暮れのうらぶれた光が斜めに差し込んでいた。壁に掲げられた巨大な雷の三つ巴の紋様の前、紫の衣を纏った将軍が一人、静かに佇んでいる。
かつて世界を拒絶し、冷酷なまでに「不変」を貫こうとした神の器。
「人々の願いは、あやつの閉ざされた心の扉を開けたんじゃ」
将軍――いや、その奥底にいる影は、ゆっくりと振り返り、静かにその美しい双眸を閉じた。彼女の表情には、もう頑なな頑固さはなく、ただ新しく動き出した時間を静かに受け入れるような、深い平穏が満ちていた。
「一心浄土の以外に……あやつは人々の目に『永遠』を見た」
視界は、青く澄み渡った稲妻の空へと広がっていく。
城下を彩る薄紅色の桜の花びらが、朗らかな風に乗ってひらひらと舞い踊る。石段を歩く臣民たちの顔からは目狩り令の恐怖が消え去り、手を取り合い、笑顔で前を向いて歩き出していた。神の庇護の中にただ留まるだけの「抜け殻」ではない、自らの足で明日へと進む人々の力強い営み。それこそが、影が見出した新たな永遠の形だった。
「願いが一際強く輝いた時、神はその者に眼差しを送る」
大社の神櫻の下、あるいは静かな社殿の回廊で、八重神子は優雅に袂を揺らし、どこか愛おしむようにその光景を見つめていた。指先を唇に添え、ふっと悪戯っぽく、けれど慈愛に満ちた微笑を浮かべる。
「ある願いは、痛みを拭い、正気をもたらし、希望を呼び起こす」
丸窓から差し込む柔らかな光の先、家の中で穏やかに談笑する人々がいた。
抵抗軍の陣地では、ゴローが兵士たちと共に武器を収め、その凛々しい瞳に安堵の光を宿している。天領奉行との長きにわたる無意味な争いは終わり、彼らの背中には確かな「希望」の夜明けが訪れていた。
木造の町並みを歩くトーマは、ふと足を止め、優しく微笑んで前を見つめた。その視線の先には、同じく戦いを終え、手を取り合って未来を見つめる神里綾華と旅人の姿があった。
そして、神子の語り口調は、ひときわ静かに、この戦いの中心で最も激しく燃え盛った一つの『願い』へと向けられる。
「ある願いは……たとえそれを持つ者の身が滅び、魂が天に還ろうと」
深い緑に包まれた静謐な森。木漏れ日の中に一匹の白狐が佇む中、静かに草を踏み締める足音があった。
楓原万葉。彼は一人、赤く染まる夕日を望む険しい崖の上に立っていた。その横顔はどこまでも穏やかで、しかし胸の奥には決して消えない誇りを宿している。
社殿の前では、珊瑚宮心海が静かに目を閉じ、胸元で両手をそっと合わせ、この地に訪れた平和と去りゆく魂のために祈りを捧げていた。彼女の凛とした美しさは、戦火を乗り越えた海祇島の強い意志そのものだった。
「生まれた時と変わらず、真摯に……熱く燃えゆく」
万葉は崖の岩肌に突き立てられた、友の形見である刀を見つめていた。
かつて雷霆に挑み、夢想の一太刀の前に散っていった、名もなき武人の生涯。その刀の柄の端に嵌め込まれた、完全に光を失っていたはずの灰色のガラス玉――。
万葉の手がゆっくりと離れていく。
その瞬間、灰色の殻の奥底から、じわりと、神聖な紫の雷光が脈打ち始めた。
一度は死に絶えたはずの友の運命が、万葉の意志と響き合い、かつてないほどに深く、気高く燃え上がる。ガラス玉の内側から溢れ出す鮮烈な紫の光は、眩いきらめきを放ちながら、綺麗な三つ巴の紋様を美しく浮かび上がらせた。
「そう……永遠に……」
それは他人が灯した火ではない。散っていった者の強烈な願いが、未来を生きる友の手によって、本物の『永遠』の輝きへと昇華した瞬間だった。
光を取り戻した神の目は、夕日の赤を跳ね返すほどに強く瞬き、これからの稲妻の行く末を、ただ静かに、優しく照らし続けていた。
稲妻城の天守閣から右に少し離れた、見晴らしの良い離れの御座敷。
障子を開け放ち、心地よい風が吹き抜けるその場所からは、雲一つない、抜けるような青空と輝く海が一望できた。あの重苦しかった激戦が嘘のように、穏やかな光が私たちの机を照らしている。
お茶を一口すすり、影がぽつりと、どこか感慨深そうに呟いた。
「こうして皆で集まるのは、何百年ぶりでしょうか」
「そうさな……五百年と言いたいところじゃが、それ以上に長かったとも思えるし、長くなかったともいえる」
神子は湯呑みを置き、いたずらっぽく目を細めて微笑む。
「まぁ、妾としてはそれなりに退屈はしなかったがの!」
その飄々とした態度に、私は思わずジト目を向けて突っ込んだ。
「神子、その間ほとんど寝てただけじゃなかった?」
「失礼じゃな、寝てただけにあらず! ちゃんと大好物の油揚げも美味しく食しておったわ!」
「……ねぇ、それってやってることの意味合いはあんまり変わってなくない?」
私が呆れてため息をつくと、影はフフッと小さく口元を緩めた。その穏やかな表情を見るだけで、ああ、本当に影を連れ戻せたんだなと胸の奥がじんわりと温かくなる。
しかし、影はふと何かを思い出したように、不思議そうな顔で私を見た。
「それにしても、驚きました……。まさか、あなたが社奉行で働くように、神里家が事前に諸々の手配を取り計らっていたとは」
影の純粋な紫の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「千代、あなたが自分で頼んだのですか?」
「いや、私、全然そんなこと頼んでないよ。というか、あの時は目覚めたばかりで、そんなことを考える余裕なんてどこにもなかったし……」
私は本当に首を傾げた。社奉行で働くなんて話、神里家のあの若いお嬢さん――綾華ちゃんから聞いた時は、てっきり神子あたりが裏で根回ししたのだとばかり思っていたのだ。
「そうですか。私はてっきり、あなたを再び天領奉行の与力へと就かせようと考えていたのですが……」
「うーん……。今の天領奉行は、ちょっといいかな。せっかく新しく生き直すんだし、少し変わった仕事をしてみたいっていうか……ね」
言葉を濁しながら、私は視線を泳がせた。
――本当の理由は、別にある。
現実世界に戻ってきた時、ファデュイと癒着し、己の利権のために国を裏切ってボロボロに腐りきっていた九条家の有様を見てしまったのだ。かつて誇り高く刀を振るった身としては、そんな汚職の温床に今さら身を置くなんて、真っ平ごめんだった。
「ふん、それは本心か? 話の後半、まるで借りてきた猫のように人形のようになっておったがの?」
私の内心をすべて見透かしている神子が、いじの悪い笑みを浮かべて口を挟んできた。
「まぁ、それほど細やかに先々の手配を回せるなど、奴の仕業に決まっておるじゃろうて」
「奴……?」
聞き覚えのない主語に私が目を瞬かせると、神子はにやにやしながら私のすぐ隣にまで寄ってきた。そして、ふわりと狐の香りを漂わせながら、私の耳元に唇を寄せて、小さく囁いた。
「――汝の思い人じゃよ」
「ちょっ……、な、ななな何を言ってやがりますか、このバカ女狐ーーーっっっ!!!//////」
頭が沸騰するかと思うほどの衝撃が走り、私の顔は瞬時に角の先まで真っ赤に染まった。
奴って……あの、朴念仁で過保護で、いつも一人で泥を被ろうとする、蒼雲のこと!? 彼が、私のために裏で神里家と交渉して、居場所を作ってくれていたっていうの!?
心臓が痛いほどに早鐘を打ち、必死に赤面を隠そうと顔を手で覆う私を見て、今度は影が怪訝そうに首を傾げた。
「そういえば、五百年の間に起きた変化の詳細を、まだ詳しく聞いていませんでしたね。特に……あの男。私の人形(将軍)を純粋な武の力で敗北にまで追い詰めた、あの赤黒い炎を纏った彼……。彼が本当にあなたを助けたのですから」
影のその一言に、私の心臓が凍りついた。
「いや、それは、ええと……ーー」
私が言い淀むのを見て、神子はこれ以上ないほどに愉しそうな、邪悪とも言える満面の笑みを浮かべた。
「ふ! ふ! ふ! 聞いて驚くなよ、影。そやつはな、千代が祭りで一緒に花火を見る約束を取り付けた――」
「ダメェェェェ言わないでぇぇぇぇ!!!(泣)」
私は恥ずかしさのあまり半泣きになりながら、立ち上がって神子の口を全力で塞ぎに飛びかかった。青空が広がる穏やかな御座敷に、私の絶叫と神子のくすくす笑う声が、賑やかに響き渡っていった。
「ハックション……っ」
すっきりと晴れ渡った稲妻の青空の下、俺は思わず小さくくしゃみをして、着物の袖で鼻を鳴らした。
将軍との死闘、そしてあの忌々しい『炎』を限界まで解放した反動だろうか。全身を苛む酷い倦怠感と、右手の奥に燻る鈍い熱をなだめるように、俺は深く息を吐き出した。
『どうした。仙人の身でありながら、風邪でも引いたか?』
すぐ傍の松の枝から、カチカチと不器用な機械音を立てて、一羽の精巧な「鳥のカラクリ」が俺の顔を覗き込んできた。
現実世界の戦場を遠くから見つめていた、あの赤い眼光。カラクリの嘴から響いてきたのは、聞き覚えのある、どこか尊大で説教くさい璃月の旧友の声だった。
「……まさか。誰かが俺の噂話でもしているんだろう」
俺は首を振って、何でもない風を装って肩をすくめた。
まさか今この瞬間、稲妻城のすぐ近くの御座敷で、千代が耳まで真っ赤にしながら俺との約束について神子に詰め寄られているなど、知る由もない。ただ、妙に背中がむず痒いような、妙な胸騒ぎがするだけだった。
「で……わざわざそんな精巧な伝令(カラクリ)を璃月から飛ばしてまで、俺を呼んだ理由はなんだ? 留雲」
俺は腕を組み、松の幹に背中を預けて尋ねた。
稲妻の危機はひとまず去った。旅人は将軍の心を動かし、千代もまた、五百年の因縁を乗り越えて自らの足で歩み始めた。俺がこの地で果たすべき『契約』は、確かに終わったはずだ。
晴天の空から降り注ぐ陽光が、俺の傷ついた身体を静かに温めていく。その心地よさに身を委ねながら、俺はカラクリの鳥の形をした、懐かしい友の視線を真っ直ぐに見返した。
次回がラスト!稲妻の花火大会に女子会!イラストのオンパレード……になるはず……
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
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璃月篇(海灯祭)※この話の本編
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引き続き稲妻篇