闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
代わりに連続の投稿とします。
ここから蒼雲の過去が…璃月の危機が、そして、結末が描かれます。
お楽しみください。
漉華仙水真君
【前回のあらすじ】
五百年の長きにわたる封印と呪縛から解き放たれた鬼族の武神、千代。彼女は長野原の絢爛たる花火が打ち上がる影向山の頂で、これまで己を護り導いてくれた蒼雲へ秘め続けてきた想いを打ち明けた。
しかし、蒼雲は璃月での責務を果たすため、稲妻を後にする。
『次の海灯祭で、俺の本当の覚悟と答えを聞かせる』――その確かな約束と、
そして季節は巡り、待ちに待った約束の時が訪れようとしていた……。
「……ってことなんだけど。ずっとあんな感じかい?」
呆れ半分、感心半分の溜め息をつきながら、平蔵が視線を向けた先。
そこにあるのは、かつて稲妻の戦場を震え上がらせた『鬼の武神』の面影など微塵もない、一人の乙女の姿。
「蒼雲〜♪ ♪」
千代は、だらしなく蕩けたような笑みを顔いっぱいに張り付け、自身の身体を両腕で抱きしめながら、くねくね、うねうねと奇妙なダンスを踊っている。その周囲には、幻覚の桃色の花畑すら咲き乱れているように見えた。
「そうじゃ。ずっとあのように、くねくねうねうねしておる……。もはや骨抜きという次元を超えておるな」
八重神子が呆れたように首を振る。
「や、八重宮司様……本当に大丈夫なんですか? あのままで……」
巫女の鹿野奈々が、頭を抱えるようにして引き攣った笑いを浮かべる。今にも千代の口から魂が抜け出してしまうのではないかと、気が気でない様子だ。
「案ずるな、大丈夫じゃろ。そろそろ、あやつが待ちに待ったあの時期じゃしな……」
神子の瞳の奥で、悪戯っぽい光がチカチカと点滅する。
ーーーーーーーー
そして数日後――南十字船隊・死兆星号の甲板。
潮風が帆を力強く打ち据え、波飛沫が太陽の光を浴びて真珠のようにきらめく中、千代は船首に立ち、両手を高々と天に掲げて絶叫する。
「待ちに待った……海灯祭だァァァ!!」
【海灯祭!!】
それは、年に一度、璃月において盛大に執り行われる最も重要な祭典!
夜空を埋め尽くす無数の霄灯。行き交う人々の笑顔。そして何より、ロマンチックな雰囲気が最高潮に達する、まさに恋人たちのための聖夜とも呼べる一大イベント!
その上!
愛しの君との『再会』!
そして、約束された『告白(アンサー)』!
この三大条件が完璧に揃った今、千代の精神状態は完全に浮き足立っている!!
前日になり、遠足前の子供のごとく全く眠れなかったのか、その目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。しかし、彼女から溢れ出す尋常ではない桃色のオーラが、そんな寝不足を完全にカバーしている。
「蒼雲からの告白っ♪ 蒼雲と璃月デートっ♪ 」
千代は完全に自分の世界に入り込み、見えない蒼雲の腕に抱きつくような仕草で身悶える。
だが、しかし!
そんな千代の人生最大の重大イベントに、あの『厄介極まりない稲妻の面々』が大人しく留守番をしているなどという奇跡が、起こるはずもない!!
「…………蒼雲との甘いひととき……って、え?」
ふと我に返り、背後を振り返った千代は、パチクリと瞬きを繰り返す。
広々とした死兆星号の甲板に、なぜか見慣れた顔ぶれがズラリと揃い踏みしている。
「なんで……皆、いるの?」
千代の声が、裏返る。
「なんじゃ? 目狩り令や鎖国が明けてから初の海灯祭。八重堂の編集長たる妾が、直々に異国の文化を視察に出向いて何が悪い」
八重神子が、潮風に美しい桜色の髪を靡かせながら、これっぽっちも悪びれる様子なく言い放つ。
「神子? 五百年の間で一番面白い『見世物(話)』があると聞いてついて来ましたが、本当ですか? 団子牛乳のように甘い甘味は?」
その隣では、天下の雷神である影が、完全に神子に丸め込まれたキョトンとした顔で首を傾げている。
「す、すみません、千代さん……っ。今回は、鎖国取り止めに伴う外交の面を含めた、社奉行からの正式な使節としての乗船でして……決して、決して邪魔をするつもりは……」
綾華が、申し訳なさのあまり今にも消え入りそうな声でペコペコと頭を下げる。
「ははは……千代さん、ここはどうか、うちのお嬢の顔に免じて許してくれないか?」
その後ろで、トーマが困ったように眉を下げながら、苦笑いで両手を合わせている。
千代は絶望の表情で、その場に膝から崩れ落ちる。
「うぅ……っ。ようやく蒼雲と二人っきりで、海灯祭の甘いデートができるつもりだったのに……これじゃあ、ただの稲妻ご一行の団体旅行だよ……っ!」
頭を抱えてすすり泣く千代。
そんな彼女の背中を、ぽんぽんと優しく、力強く叩く手。
「まぁまぁ、そう気に病まん、気に病まん!」
宵宮だ。彼女は太陽のような満面の笑みを浮かべ、千代の顔を覗き込む。
「宮司様や将軍様たちの牽制は、ウチらでなんとかするさかい! 璃月に着いたら、千代ちゃんは誰の目も気にせんと、思う存分デートを楽しんでき!」
「宵宮……!」
千代は、後光が差して見える親友の姿に、感動の涙を浮かべる。
「それに、待ちに待った『告白』のイベントもあるんやろ? ここはバシッとキメてきい!」
宵宮がウインクと共にサムズアップを送る。千代の表情に、再びパッと明るい希望の火が灯る。
「まぁ、その結果がハッピーエンドになるか、それともバッドエンドのドカーンになるかは――」
平蔵が顎に手を当て、意地悪な探偵の笑みを浮かべて茶茶を入れようと口を開きかけた、矢先。
「……平蔵殿。それ以上はよすでござる」
いつの間にか平蔵の背後に立っていた楓原万葉が、静かに、しかし有無を言わせぬ凄みを込めた声でその肩をぽんと叩く。平蔵は「おっと」と肩をすくめ、降参するように両手を挙げる。
賑やかな仲間たちの笑い声と、それぞれの思惑を乗せて。
死兆星号は波を切り裂き、黄金に輝く約束の地――璃月港へと、力強く進んでいった。
死兆星号の巨大な帆が畳まれ、船体がゆっくりと璃月港の桟橋へと滑り込んでいく。
千代が甲板から身を乗り出して見下ろした先には、稲妻の風景とは全く異なる、雄大で活気に満ちた大商業港が広がっている。
巨大な岩山を背に、それらを縫うようにして立ち並ぶ豪奢な建築物。海風に乗って運ばれてくるのは、八角や桂皮といった異国情緒あふれる香辛料の甘く刺激的な匂いと、行き交う商人たちの威勢の良い掛け声。
街の至る所には鮮やかな朱色の布や提灯が飾り付けられ、港全体がまるで一つの巨大な宝石箱のようにきらびやかな熱気を放ち始めている。
だが、見上げた空には、まだ一つも『霄灯』は浮かんでいない。
海灯祭の本番までは、まだ数日の猶予があるためだ。
空を埋め尽くす万の祈りの光はまだお預けだが、街中に満ちる「祭りの前夜」特有のそわそわとした高揚感が、千代の胸の奥で早鐘を打つ心臓の音をさらに加速させていく。
「よっしゃーっ! 無事に到着や!」
隣で大きく伸びをした宵宮が、港の熱気に負けないほどの明るい声を上げる。
彼女がこの船に同乗しているのは、決して千代の恋路を冷やかすためだけではない。この海灯祭に合わせて璃月七星側から直々に依頼された、『長野原特製の花火』を大量に運搬するという、花火職人としての立派な大役を担っているのだ。
「千代ちゃん、ウチはこれから荷下ろしと納品の確認があるさかい、一旦ここでお別れや! デート、気合い入れてきぃや!」
「う、うんっ! 宵宮も花火の準備、頑張ってね!」
大きく手を振って駆けていく宵宮の背中を見送りながら、千代はふぅっと深く息を吐き出す。
タラップを降り、璃月の硬い石畳に足を踏み下ろす。
ふと背後を振り返ると、稲妻からやってきた『厄介な保護者たち』も次々と上陸を開始している。
「ほぅ……これが"人の治める国"か。なかなかどうして、活気があって良いではないか」
神子が興味深そうに周囲の屋台を見回し、
「神子、あそこで売られている団子……あの丸くて黒い玉は何ですか? 非常に気になります」
影はすでに、異国の珍しい食べ物の匂いに完全に心を奪われていた。
「お二方とも、まずは璃月七星へのご挨拶が先でございますよ……っ! トーマ、急いでお供を!」
「は、はいっ! お嬢、今すぐ!」
綾華とトーマが、自由すぎる神たちを必死に誘導しながら港の奥へと消えていく。その後ろを、万葉が「やれやれ」といった様子で船の上から港を見下ろす。
嵐のような一行が去り、港の喧騒の中に一人残された千代は、改めてきゅっと着物の袖を握りしめる。
(蒼雲……どこにいるのかな)
背伸びをして、行き交う人々の波に視線を巡らせる。
稲妻を出る時、「璃月でやることがある」と言って先立った彼。今日、この死兆星号で私が到着することは、事前に手紙で伝えてあるはずだ。
――ふと、視界の端に見慣れた色がよぎる。
色鮮やかな提灯が並ぶ大通りの入り口。
ひっきりなしに人が行き交う雑踏の中で、まるでそこだけ時間が止まっているかのように静かに佇む、見慣れた青と白の衣の青年の姿。
周囲の熱気とは対照的な、どこか涼やかで凛とした佇まい。だが、その視線は落ち着きなく港の方を彷徨っており、彼らしからぬ微かな「焦り」や「緊張」が、その横顔から滲み出ているのが痛いほどよく分かる。
「……蒼雲っ!!」
千代は抑えきれない衝動のまま、人混みを縫うようにして駆け出す。
自分の名前を呼ぶ声に気づいた蒼雲が、ハッと顔を上げる。
その黄金色の瞳が人波の中から千代の姿を捉えると、彼の表情に浮かんでいた微かな緊張がふっと解け、見ているこちらまで泣きたくなるくらいに優しくて、不器用な微笑みが広がる。
「……千代。無事に着いたようだな」
「うん」
私は、駆け寄った勢いのまま、彼を見上げる。
久しぶりに見る蒼雲の顔は相変わらず端正で、けれど少しだけ疲労の色が滲んでいるように見えた。よく見れば、その青と白の衣の裾や袖口には、泥や煤のような汚れがかすかに付着している。
「蒼雲こそ……ところどころ服、汚れてるけど大丈夫?」
私が心配して尋ねると、彼はバツが悪そうに視線を逸らし、自分の衣の袖を軽く払う。
「………悪い。お前たちが璃月に到着するのは、海灯祭の当日くらいになるかと思ってな。それまでに片付けておきたくて、少しばかり璃月中を駆け回っていたんだ」
その言葉の裏にある意味を察し、私は胸がギュッと締め付けられるのを感じる。
『聞いたか? 最近、アビスの魔物の大量発生が収まってきたらしいぞ』
『へぇ、そりゃあいい。奴らのせいで、まともに海灯祭の物流が回ってなかったからな』
すれ違う商人たちの話し声が、耳に届く。
稲妻を出る時、「先に行ってやることがある」と言っていたのは、これのことだったのだ。迫る海灯祭の平和を守るため、そして何より、私たちが安全にこの璃月を楽しめるように、一人で前線を駆けずり回ってくれていたのだ。
「また、頑張ってたの?」
責めるような、でも、呆れるような響きにならないように。できるだけ優しい声で問いかける。
「あー、えっと。これが俺の契約だからな……」
蒼雲は少しだけむすっとした顔で、でもどこか言い訳がましく答える。
「これだけは譲れない」
……本当に、この人は変わらない。
自分を犠牲にしてまで誰かのために戦うことを、息を吐くように自然にやってのける。その不器用で、頑固で、でもどうしようもなく過保護なところが、私は――。
「いいの。そうやって他人のために働きかける優しいところが、蒼雲の良いところだから」
私は自然と、心からの微笑みをこぼす。
私の言葉に、蒼雲はハッとしたように目を見開く。そして、耳の端をほんの少しだけ赤く染めて、口をパクパクと動かしたまま固まってしまう。
「「……………」」
まただ。
二人っきりの、このむず痒くて、でも心地よい沈黙。稲妻のお祭りの時と同じ空気が、異国の街角で私たちを包み込む。
でも、あの時とは少し違う。私の想いはもう伝わっているし、彼もそれから逃げないと約束してくれた。だから、この沈黙は決して不安なものではなくて、互いの気持ちの距離をゆっくりと測り合うような、甘くて大切な時間。
「そ、そうだ」
耐えきれなくなったのか、蒼雲が小さく咳払いを一つして、慌てたように口を開く。
「せっかく来たんだし、回るか。海灯祭」
「そ、そうだね」
私も、少しだけ早くなった鼓動を悟られないように、コクっと小さく頷く。
海灯祭の本番はまだ先だけれど、お祭りの準備で活気づく璃月の街は、今の私たちには十分すぎるほどまぶしくて、楽しそうな場所に思える。
(あ……)
歩き出そうとした蒼雲の手が、ほんの少しだけ、ためらうように私の手の横を掠める。
繋ぎたい。でも、まだその勇気が出ない。そんな不器用な彼の気持ちが伝わってくるようで、私の胸の奥がまたキュンと鳴る。
私は、彼の少しだけ汚れた袖の端を、親指と人差し指でそっと摘む。
「案内、お願いしてもいいかな? 私、璃月は初めてだから」
振り返った蒼雲は、私の手と、私の顔を交互に見て、それから今度こそ、本当に優しく、ふわりと微笑む。
「ああ。任せておけ」
繋いだ袖越しに、彼の温もりが伝わってくる。
活気あふれる璃月の街並みへと、私たちはゆっくりと歩みを進め始める。
璃月港の大通りに面した名店『万民堂』は、お昼時ということもあって凄まじい活気に満ちていた。
鍋を振るう小気味良い金属音、食欲をそそる香ばしい煙、そして客たちの賑やかな笑い声。静かでロマンチックなムードとは無縁だけれど、私はこういう活気のある場所で、彼と一緒にご飯を食べてみたかったのだ。
「意外。蒼雲が辛いものが好きなんて」
私が頼んだのは、優しくて甘みのある『米まんじゅう』と、見た目も美しい『璃月三糸』。ハム、鳥肉、タケノコが同じ長さに綺麗に千切りされ、旨味たっぷりのスープがかけられた、くっきりとした味わいの一品だ。
対して、向かいに座る蒼雲の前に置かれているのは、真っ赤な唐辛子がこれでもかと乗った水煮魚。彼は涼しい顔で、その激辛料理を口に運んでいる。
「そうか?」
「うん。蒼雲はてっきり、甘いものが好きなんだと思ってた」
稲妻にいた頃は、私が甘いお菓子を食べているのを、いつも優しげな顔で見守ってくれていたから。一緒に甘いものを楽しむ人なのだと、勝手に想像していたのだ。
「元々は水元素の使い手じゃないからな」
蒼雲は箸を止め、ぽつりと呟く。
「そう、なんだ……」
(元々は、水の使い手じゃない……)
その言葉に、私の脳裏をあの一瞬の記憶がよぎる。天守閣前で、彼が将軍の人形と一人で戦っていた時。彼の身体を包み込んでいた、あの禍々しくて、命を削るような赤黒い『炎』の姿。
あの痛々しい姿は、彼が本来持っていた元素力と関係しているのだろうか。
(私……蒼雲について、まだあまり知らないんだな)
五百年前に命を救ってもらい、目覚めてからもずっと傍にいてくれた。でも、彼自身の過去や、背負っている因縁について、私はほとんど何も聞かされていないことに気がつく。彼はずっと私の不安や過去を取り払うために動いてくれていたけれど、私は彼の心の中に、まだ触れられていない。
「ど、どうしたんだ? 浮かない顔だが……」
私が考え込んで箸を止めていたせいか、蒼雲が心配そうに覗き込んでくる。
「もしかして、何か不満だったか? もっと――」
「ううん、こっちの問題!」
私は慌てて首を振る。
「むしろ、違う視点からも蒼雲のことを見ることができるようになってて……嬉しくもあり、悲しくもある、みたいな……」
「ど、どっちなんだ?」
蒼雲が本気で困惑したように眉を寄せる。その不器用な反応が可笑しくて、私はつい小さく笑みをこぼしてしまう。
「おやおや、あの時の依頼人じゃないか」
ふいに、横から快活な声が響く。
振り返ると、赤い帽子に軽快な服装の少女が、腰に手を当てて立っている。
「ああ、久しぶりだな。璃月の法律家」
「私のことは煙緋で構わないよ」
少女――煙緋は、ウ笑う。
彼女は、蒼雲が私の社奉行での身元引受人などの手続きをする際、法律の専門家として裏で色々と動いてくれていた恩人だ。
「煙緋、あの時はありがとうございました」
私が頭を下げるど、彼女はひらひらと手を振る。
「お礼はいいよ。それが私の仕事だからね。それより――」
煙緋の翡翠色の瞳が、面白そうに私と蒼雲を交互に見つめる。
「見かけない間に、二人とも随分と仲良くなって……さては、デートかな?」
その直球すぎる言葉に、私は顔から火が出そうになる。
「デッ、デートだなんて!///」
慌てて否定しようとする私の横で、蒼雲は――。
「デート、まぁそうだな」
煙緋の直球な問いかけに、蒼雲は顔色一つ変えずに、あっさりと肯定する。
水煮魚の赤いスープに箸を伸ばしたまま、まるで『今日の天気は晴れだな』とでも言うかのような、ごく自然な、それでいてどこか堂々としたトーンだ。
「えっ……!?」
私は完全に虚を突かれて、パチクリと目を瞬かせる。
あ、あの朴念仁で、こういう話を振られたら一番困惑しそうな蒼雲が、私の前でハッキリと『デート』だと認めた……!?
耳の先端から一気に熱が駆け上がり、顔が火照るのを感じる。心臓が、先ほどまでの倍の速さでドクドクと脈打ち始める。
「へぇ?」
煙緋が、興味津々といった様子でニヤリと笑う。
「ピン婆やに聞いた話より随分と素直じゃないか。以前、手続きの件で話した時も『これはただの契約であり、俺の義務だ』なんて、やたらと堅苦しいことばかり言っていたし、稲妻で何か心境の変化でもあったのかな?」
「事実を隠す必要はないと思うのだが?」
蒼雲は真顔のまま、心底不思議そうに煙緋へと問い返す。
彼の中では、「私と二人で海灯祭を回ること=デート」という方程式が、すでに隠すまでもない『確定事項』として処理されているらしい。
(かぁぁぁーーっ///)
私はもう、恥ずかしさで爆発しそうだった。
顔から火が出るどころじゃない。全身の血が沸騰しているんじゃないかと思うくらい熱い。この朴念仁は、自分がどれだけ破壊力のある言葉を平然と放っているのか、相変わらず一ミリも自覚していないのだ。稲妻の時よりも、ある意味でタチが悪くなっている気がする。
「あちゃ〜」
煙緋は、大真面目な蒼雲と、茹でダコのように真っ赤になって固まっている私を交互に見て、ポンッと手を打つ。
「これは……まだまだ先かな。オタクも大変だね」
煙緋のその言葉には、同情と、呆れと、そして面白がるような響きがたっぷりと含まれている。彼女の言う「先」が何を指しているのか、私には痛いほどよく分かる。蒼雲はデートだと認識はしていても、それが『世間一般の男女の甘い空気』を伴うものだとは、おそらくこれっぽっちも理解していないのだ。
「は、はいぃ……」
私は蚊の鳴くような声で、情けなく同意するしかなかった。
「そ、そういえば!」
私はこの耐えがたい羞恥と空気を誤魔化すように、バンッとテーブルに手をついて身を乗り出す。
「なんで煙緋はここに? ご飯?」
「私かい?」
煙緋は、見事に話題を逸らされたことを察してニヤリと笑いつつも、気前よく答えてくれる。
「私は、海灯祭に出店する屋台の、商品の値段選定の相談に乗ってたところさ。大変なんだよ? 色んな法律や物価統制の基準を確認しないといけないし、ボッタクリ商人が出ないように監視の目も光らせないといけないわけだからね」
「そうだ、丁度これからピン婆やのところに戻るところなんだけど……どう? 挨拶代わりに」
煙緋はそこまで言ってから、ふとわざとらしく片目を瞑る。
「いや、やっぱりやめておこうか。せっかくのデートの邪魔になる」
「い、行こう! 挨拶に行こう!」
私は食い気味に、バンッとテーブルに手をついて立ち上がる。
「え? 良いのか?」
蒼雲が、箸を止めて本気で不思議そうな顔をして私を見上げる。
「お前、海灯祭を回るのを楽しみにしてたんじゃ――」
「い、いいの!」
私は顔を真っ赤にしたまま、蒼雲の言葉を強引に遮る。
(もちろん、楽しみにしてたよ! 楽しみにしてたけど!)
海灯祭の屋台も回りたいし、一緒に景色も見たい。でも、今のこの「蒼雲が無自覚に破壊力のある言葉を放ち続ける」状況で二人きりのまま歩き出したら、私の心臓が海灯祭の本番を迎える前にショートして爆発してしまう!
ここは一度、誰か他の人を交えてクールダウンする時間が必要だ。
「あははっ、それじゃあ、食事が終わったら一緒に玉京台まで行こう」
「私が案内するよ」
煙緋はお腹を抱えるようにしてくすくすと笑い、先にお店の外で待っていると言って手を振る。
私は急いで席に座り直し、残りの『璃月三糸』を口に運ぶ。
チラリと向かいを見ると、蒼雲はまだ「なぜいきなり予定を変更したんだ?」とでも言いたげな、全く納得のいかない顔で激辛の水煮魚を黙々と食べている。
(もう、本当にこの人は……っ!)
まったく乙女心が分かっていない。少し恨めしく思いながらも、彼のそんなマイペースな姿を見ていると、先ほどまでの異常な動悸も少しずつ落ち着きを取り戻していくのが分かる。
なんだかんだ言っても、こうして彼と一緒にご飯を食べて、他愛のないことで慌てふためいているこの時間が、やっぱりどうしようもなく愛おしい。
私たちは食事を終えて万民堂を出ると、待っていてくれた煙緋の案内で、ピン婆やがいるという玉京台へと向かって璃月の街を歩き始める。
玉京台へと続く長い石段を登りきると、港の喧騒が嘘のように静かで穏やかな空気が広がっている。 池には見慣れない美しい花――琉璃百合が咲いていて、ほのかに甘い香りが漂う。
「おや……誰かと思えば、蒼雲じゃないか」
ふと、透き通るような優しい声が響く。
声の主は、池のほとりで静かに街を見下ろしていた小柄なお婆さんだ。その穏やかな笑顔には、どこか底知れぬ深みと、すべてを包み込むような温かさがある。
「久しぶりだな、歌塵ーーいや、ピン婆や」
蒼雲は短く挨拶を交わし、私を振り返る。
「彼女は稲妻から来た千代だ。」
(ピン婆や……。この人も、蒼雲と同じ仙人なんだよね?)
私は緊張しながら、背筋を伸ばして深く頭を下げる。
「は、初めまして! 千代です。今回はその……」
「ほっほっほ、そんなに硬くならなくていいよ」
ピン婆やは目を細め、私の顔をまじまじと見つめた後、ひどく嬉しそうに微笑む。
「まさか、あの堅物の蒼雲が、こんな可愛らしいお嬢さんを連れて歩く日が来るとはねぇ。……煙緋、お前さんが気を利かせて連れてきてくれたのかい?」
「私は偶然万民堂で会っただけだよ。お二人は絶賛『デート中』らしい」
煙緋がニヤニヤしながら横から口を挟む。
「デッ!? 煙緋!?」
「へぇ、デート……」
ピン婆やの目が、三日月のように細められる。その視線が、私と蒼雲を交互に行き来する。 またしても全身から火が吹き出しそうになった私が、必死に弁解しようと口を開きかけた矢先。
「ああ。彼女が璃月の海灯祭を見たいと言うからな。こうして二人で街を回る約束をしていたんだ」
(だから! なんでそこで堂々と言うの、この朴念仁はーーっ!!)
私は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込みたくなる。 照れも衒いもなく、真っ直ぐな瞳でピン婆やに言い切る蒼雲。彼の頭の中では、「二人で街を回る=デート」という単語の意味が、どうやら「契約による護衛任務」か何かと同じ引き出しに分類されているに違いない。
「……ふふっ。あはははっ!」
ピン婆やが、堪えきれないように楽しげな笑い声を上げる。
「そうかい、そうかい。この子は昔から、自分の契約や義務のことはよく喋るくせに、自分の心のこととなるとからっきしでね。……千代さんと言ったね」
「は、はい……っ」
「この不器用な仙人を、どうかこれからもよろしく頼むよ。隣にいてくれるおかげで、この子の憑き物も、随分と落ちたように見える。」
ピン婆やの言葉に、私は覆っていた手をゆっくりと下ろす。 彼女の優しい瞳は、蒼雲が一人で抱え込んできた過去の因縁や、あの赤黒い炎の代償のすべてを知っているかのように、深く澄み渡っている。
「……はい。私の方こそ、蒼雲にはいっぱい助けてもらっているので」
私は赤くなった頬を抑えながらも、しっかりと頷く。
「それに、朴念仁なのは……もう慣れましたから」
私が少しだけ恨めしげに蒼雲を横目で睨むと、彼は「朴念仁? 俺が?」と、やはり心外そうに首を傾げている。
「…………」
ふと、ピン婆やが微かな沈黙を落とす。
先ほどまでの茶目っ気たっぷりの笑顔がスッと鳴りを潜め、その深く澄んだ瞳が、私の顔を真っ直ぐに見据える。いや、私を見ているようで、その視線の先にはもっと遠い、遥か昔の記憶の残滓を映し出しているようだ。
「なるほど……確かに、似ている」
どこか懐かしむような、それでいてひどく哀愁を帯びた呟きに、私は思わず首を傾げる。
「え?」
「二人は、今年の霄灯のデザインはもう見たかい?」
「え、いえ、まだですが……。今年は、どなたをモデルにされているんですか?」
海灯祭の夜空を彩る巨大な霄灯は、璃月の歴史に名を残す偉人や仙人をモチーフにして作られると聞いたことがある。私が純粋な好奇心から尋ねると、ピン婆やはゆっくりと瞬きをし、静かな声音でその名を口にする。
「漉華仙水真君だよ」
「――っ!」
隣に立つ蒼雲の気配が、一瞬にして硬直したのが分かる。
普段はどんな魔物を前にしても揺らぐことのない彼の呼吸が、信じられないほど浅く、鋭く乱れている。衣の袖に隠された彼の拳が、微かに震えるほど強く握りしめられているのを、私は見逃さない。
そんな蒼雲の異変に気づいているのかいないのか、ピン婆やは遠い空へ視線を投げたまま、穏やかな語り口で話を繋ぐ。
「彼女はね、影ながら澄んだ仙水を操り、人々の暮らしをそっと支えていた、本当に心優しい子でね。仙人という尊い身分でありながら、決して驕ることなく、いつも人間たちと親しみを持って接していたんじゃよ」
慈愛に満ちたその仙人の姿が、言葉の端々からふわりと浮かび上がる。
誰かのために尽くし、隣に寄り添う温かさ。ピン婆やはきっと、その真君の面影を、蒼雲の隣で笑い合う今の私に重ねているのだろう。
「じゃが……あの凄惨な大戦の折、彼女は――」
「歌塵、もういいだろ」
低く、冷たく、そして切実な痛みを孕んだ声が、ピン婆やの言葉を真っ向から切り裂く。
蒼雲だ。
その黄金色の瞳には、かつて稲妻の天守閣前で禍々しい炎を纏った時と同じ、深い絶望と怒り、そして自分自身へのやり場のない呪詛が渦巻いているように見えた。
「蒼雲……?」
私は戸惑い、彼を見上げる。
万民堂で彼がこぼした、「元々は水元素の使い手じゃない」というあの言葉。
優しい仙水を操っていたという、漉華仙水真君。
そして、蒼雲の身を焦がすあの赤黒い炎と、激しい拒絶反応。
点と点が繋がりそうで、けれどそこに触れてしまえば、彼の心が取り返しのつかないほど傷ついてしまうような気がして、私は咄嗟に伸ばしかけた手を引っ込めてしまう。
「……そうか。これは、すまなかったね」
ピン婆やは深く息を吐き、申し訳なさそうに目を伏せる。その皺枯れた横顔には、触れてはいけない古い傷痕を不用意に撫でてしまったことへの、静かな悔恨が滲んでいた。
玉京台の静寂の中に、琉璃百合の甘い香りだけが、どこか悲しげに漂い続ける。
「……そうか。これは、すまなかったね」
沈痛な面持ちで目を伏せたピン婆やに、蒼雲は小さくかぶりを振る。
「いや、俺の方こそ」
ひねり出されたその声は、ひどく掠れている。普段の彼からは想像もつかないほど、脆く、痛々しい響きだ。
彼は顔を背けたまま、くるりと踵を返す。
「悪い、千代。少し風に当たってくる」
「うん」
私は小さく頷き、遠ざかる青と白の背中をただ静かに見送る。足早に玉京台の階段を下りていくその姿は、まるで目に見えない巨大な亡霊から逃れようとしているかのようにも見えた。
蒼雲の足音が完全に消え、玉京台にふたたび静寂が降りる。
「後を追ったりはしないのかい?」
隣に立つピン婆やが、穏やかな声で問いかけてくる。
「……多分、今の蒼雲には一人で休む時間が必要なんです。私が璃月に着く前も、ずっとアビスの魔物を狩って、一人で駆け回っていたみたいですから」
身体の疲労だけではない。彼の心に渦巻く得体の知れない泥のような感情が静まるのを、今はただ待つしかない。私が焦って踏み込んでも、彼はきっとまた、強固な『契約』や『義務』という名の盾の後ろに隠れてしまうから。
私の答えを聞いたピン婆やは、深く、本当に深い溜息を落とす。
「なんだ……留雲の言う通り、まだ前に進んでないのか……」
(留雲……?)
その名前に、私は微かな引っ掛かりを覚える。確か、蒼雲の口から何度か聞いたことのある名だ。璃月に住む、彼と同じ仙人の古い友人だと言っていた気がする。けれど、実際にどんな人物なのかは全く知らない。
それよりも、その後ろに続いた言葉の響きが、ひどく気になった。
「先に……進んでない?」
聞き返すと、ピン婆やは琉璃百合の揺れる水面を見つめながら、哀惜を込めてゆっくりと頷く。
「あの子の戦いは、まだ終わっていないってことだよ」
その言葉は、冷たい鉛のように私の胸の奥へと沈み込む。
――まだ終わっていない。
稲妻で、彼が一人で請け負ったあの禍々しい炎の代償。彼がかつて失ったという『漉華仙水真君』という仙人の存在。それらが未だに彼を暗い過去の淵に縛り付け、時間を止めたまま心を蝕み続けているのだとしたら。
「すまないね。彼は何もかも、自分ひとりで抱え込んでしまうから……」
ピン婆やはゆっくりと私に向き直り、皺に刻まれた瞳の奥に、切実な祈りの光を灯す。
「どうか支えてあげてくれないかい?」
それは、仙人からただの人間(鬼)である私へと託された、あまりにも重く、けれど何よりも尊い願いだ。
玉京台の風が吹き抜け、私の黒髪を小さく揺らす。
「……はい」
私は、迷うことなく力強く頷く。
彼がどれほど深い闇を抱え込んでいようと、どれほど不器用で頑固だろうと。今夜、海灯祭の夜空の下でどんな答えを私に突きつけようと。
あの五百年前、彼が暗闇から私を救い出してくれたように。今度は私が、彼の凍りついた時間を溶かしてみせる。
きつく握りしめた私の両手の中に、決して揺らぐことのない確かな覚悟が宿っている。
璃月港の喧騒から少し離れた、静かな広場。
夜空を背景にして、ひときわ巨大で精巧な霄灯が、柔らかな光を放って静かに浮かび上がっている。
ピン婆やが言っていた、今年の霄灯のモデル――『漉華仙水真君』。
澄んだ水流を模した美しい装飾が施されたその巨大な灯りの前に、青と白の衣を纏った見慣れた背中。
「……漉華」
ポツリと、夜風に溶けるような微かな声。
それは、祈りのようでもあり、深い懺悔のようでもあった。
私は足音を忍ばせることもせず、ゆっくりとその背中へと歩み寄る。
「ここに居たんだ……」
私の声に、蒼雲はハッと肩を震わせ、振り返る。
その黄金色の瞳には、いつもの泰然自若とした仙人の光はなく、隠しきれない動揺と、ひどく無防備な痛みの色が残っている。
「千代……どうして?」
「大事な人なんでしょ?」
私が彼ではなく、その巨大な霄灯を見上げて静かに問いかけると、蒼雲は息を呑み、苦しげに目を伏せる。
「ああ……」
肯定のその一言は、鉛のように重い。
彼は少しの沈黙の後、探るように、そしてどこか怯えるような視線で私を見る。
「聞かないのか? 何があったのか」
それは、私が踏み込んでくることを恐れているようで、同時に、踏み込んで暴いてほしいと縋っているような、ひどく矛盾した響き。
でも、私はゆっくりと首を横に振る。
「誰だって、語りたくない過去くらいあるでしょ?」
私は彼に向き直り、真っ直ぐにその黄金色の瞳を見つめ返す。
「知りたくても、聞かない。……自分から語り出さない限りは、ね?」
無理にこじ開けたりなんかしない。彼が自分で心の鍵を外せるようになるまで、いくらでも待つ。あの稲妻の花火の夜に約束した通り、私はずっと隣で待っていると決めているのだから。
私の言葉に、蒼雲は大きく目を見開き、やがてその目元を微かに歪ませる。
「……優しいな」
自嘲するように、ぽつりと呟いた彼に、私はふふっと笑いかける。
「蒼雲も、優しいでしょ?」
稲妻で私のために奔走してくれたこと。自分が傷つくことも厭わず、いつも過保護なまでに私を守ろうとしてくれること。彼はいつだって、不器用なくらいに優しいのだ。
――けれど。
私の言葉を聞いた蒼雲の表情から、ふっとすべての光が消え去る。
「俺は、優しくない」
彼は、自分の両手――あの禍々しい赤黒い炎を放ったその手を、すがるように、あるいは忌まわしいものを見るように見つめて、ギリッと白くなるほど強く握りしめる。
「俺は……優しくない。強くもない」
絞り出されたその声は、今にも泣き出しそうに震えている。
数え切れないほどの魔物を討ち払い、私を暗闇から救い出してくれた孤高の仙人が、今、一人の弱く脆い人間として、ぽつりとこぼした本音。
巨大な霄灯の温かく優しい光が、彼の抱える深く冷たい影を、残酷なほどに色濃く浮き彫りにする。
「俺は……優しくない。強くもない」
絞り出すようなその声は、深い自己嫌悪に満ちている。
彼は自嘲するように唇を噛み、静かに俯いてしまう。巨大な霄灯の柔らかな光が、彼の端正な横顔に濃い影を落とす。
「現に俺は、デートで暗い雰囲気を作り出してしまった。……最低だ」
その言葉を聞いて、私はふと目を瞬かせる。
(デート……)
こんなに胸が締め付けられるような痛切な吐露の最中だというのに。あんなに極度の朴念仁だった彼が、ちゃんと今の状況を『大切なデート』だと認識してくれていて、それを自分のせいで台無しにしてしまったのだと、本気で落ち込んでいる。
自分のトラウマよりも、私を楽しませられなかったことを悔やむ。そのひどく不器用で、真面目すぎるほどの誠実さが、どうしようもなく愛おしい。
私はゆっくりと一歩踏み出し、白くなるほど固く握りしめられていた彼の拳を、私の両手でそっと包み込む。
「そっか……」
緊張でこわばっていた彼の指先が、私の体温に触れて、ほんの少しだけビクリと震える。
私はその強張りを解くように、両手で優しく彼の大きな手を撫でる。
「でも、完璧じゃなくていいよ」
顔を上げた蒼雲の、揺れる黄金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「それだけ、支え甲斐があるってことだし」
五百年前、私がアビスの暗闇に呑まれそうになった時、彼は決して見捨てることなく、その手を差し伸べてくれた。自分の身を削ってでも、私を現世へと繋ぎ止めてくれたのだ。
なら今度は、私が彼を深い淵から引き上げる番だ。彼が一人で背負い込んできた重荷を、半分、いやそれ以上、私が一緒に背負って歩いていきたい。
「私、どんな蒼雲でも受け止めるよ?」
私のその言葉に、蒼雲は大きく目を見開く。
張り詰めていた彼の心が、音を立てて解けていくのが分かる。霄灯の柔らかな光に照らされた彼の黄金色の瞳が、信じられないものを見るように揺れ、やがて、これまでに見たどんな顔よりも無防備で、優しい光を帯びていく。
「千代……」
彼が何かを言いかけ、その大きな手が私の手を取り返そうと微かに動いた――直後。
「!」
ふいに、蒼雲が弾かれたように顔を上げ、港の彼方へと鋭い視線を向ける。
同時に、海灯祭の華やかな熱気で満ちていたはずの璃月港の空気が、一瞬にして凍りついたような錯覚に陥る。
遠くから、けたたましい足音と怒号が響き渡る。祭りの警備に当たっていたはずの千岩軍の兵士たちが、血相を変えて一斉に同じ方向へと走り出していく。
「これは……」
蒼雲の口から、微かな、しかし確かな戦慄を伴った呟きが漏れる。
遅れて、私の肌にも『それ』がビリビリと伝わってくる。
「なんか嫌な感じ……何コレ」
背筋を這い上がるような、吐き気を催すほどの冷たい気配。
お祭りの甘い香りを塗り潰すように鼻腔を突く、血と泥が混ざったような禍々しい瘴気の匂い。それは、かつて私がアビスの底で嗅いだ、あの底知れぬ深淵の絶望そのものだった。
空に浮かぶ霄灯の温かな光さえも、そのおぞましい気配の前では急激に色褪せて見える。
「…………千代、すまない」
蒼雲は、私を包み込もうとしていた手をスッと引き戻す。
次に彼が私を見た時、その黄金色の瞳からは先ほどまでの青年としての脆さは完全に消え去り、何千年もの間、璃月の闇を切り裂いてきた『孤高の仙人』としての峻烈な光が宿っている。
「俺は、また行かなきゃならなくなった」
その横顔は、あまりにも遠かった。
彼が背負う『漉華仙水真君』の因縁、そして、彼自身の内側に封じ込めたというあの赤黒い炎。それらが今、璃月の脅威となって再び牙を剥こうとしているのだと、言葉がなくても理解できる。
「責任を取りに行ってくる」
彼が踵を返し、その青と白の衣を翻す。
その背中を見た瞬間、私の胸の奥で、かつてないほどの巨大な警鐘が鳴り響く。
「蒼雲?」
彼が、暗い淵へと自ら身を投げ出そうとしている。
ここで彼を手放してしまえば、もう二度と、私の手の届かない遠いところへ行ってしまうのではないか。私を置き去りにして、たった一人で闇に消えていこうとした時のように――。
「ちょっと待って!!」
私は、悲鳴のような声を上げて彼に手を伸ばす。
その指先が彼の衣の袖を掠めた時、蒼雲は立ち止まり、静かに振り返る。
「千代」
彼は、私の怯えた瞳を真っ直ぐに見据える。
戦地へ赴く者の凄絶な覚悟と、私へ向けた深い情愛が入り交じった、痛いほどの眼差し。
「答えは、必ず聞かせる」
それは、ただの気休めではない。
彼が自らの魂に刻み込むような、重く、強い誓いの言葉だ。
「本当……?」
私は、伸ばした手を震わせながら、すがるように問い返す。
「ああ、約束だ」
蒼雲は力強く頷くと、今度こそ迷うことなく地を蹴る。
彼の身体が一条の閃光となり、禍々しい瘴気が渦巻く夜空の彼方へと一瞬にして消え去る。
あとに残されたのは、遠くで響く千岩軍の喧騒と、私の中で激しく打ち鳴らされる心臓の音だけ。
私は彼が消えた暗い空をただ見上げ、彼が残した『約束』の言葉だけを、胸の奥で痛いほどに抱きしめていた。
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
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璃月篇(海灯祭)※この話の本編
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引き続き稲妻篇