闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
「はぁ……」
冷たい硝子鏡の前で、ひび割れたため息を吐き出した。
鏡面に映し出されている自分の輪郭には、華やかさの欠片すら付着していない。
そう。今、私の脳髄はひとつの深刻なエラーに占拠されていた。
蒼雲を街へと誘い出すことには成功した。
だが―――おめかしをするための道具が、何一つとしてないのだ。
お出かけ用の服もない。
せっかく誘ったのに、いつもの巫女の装束や野着のまま行くのは、どうしても違う気がする。
……いや、そもそも私が身なりを気にする必要などないのかもしれない。
誘われた彼の方はというと、蒼と白を基調とした機能的な漢服に、動きやすさを重視した野良着。あるいは袴をズボンにしたような布地に、頑丈なブーツ。
そんな、日常となんら変わらない外装。商人というより、璃月を放浪する武芸者といった風情だ。
要するに彼は、今回の一件に何ら特別な意味合いなど見出していないのだ。
でも。
せっかくの機会なのだ。きれいに魅せたい。彼の脳の海馬に、私の姿を少しでも鮮明に縫い付けたい。
胸の奥で、そんな身勝手な熱がじりじりと焦げている。そして、この想いは決して変わることはないだろう。激流に耐え抜く岩のように―――しかし、時は残酷だ。
想いがいくら揺るがないとしても、空気の流れは止まってはくれない。
「うぅ……」
どうしたものかと、すり切れた思考を回していると。
スッ、と。
背後の襖が、音もなく横へとスライドした。
「ん? なんじゃ、まだ蒼雲と街に出かけておらんかったのか……」
びくりと肩を震わせて振り返る。
そこには、何か極上の愉しみを見つけた子供のような笑みを浮かべる宿主―――この大社の宮司である八重神子が、私を見下ろしていた。
「あ、神子……」
「む? 何やら浮かない顔をしておるな?」
「……だって……おめかしの道具も、お出かけ用の服も、今はないんだもん」
ぽろりと。気管から、弱音という名の粘液が自然とこぼれ落ちた。
これは自慢でも何でもないのだが。
私が将軍に仕えていた頃。誰もが夢に見る―――は言い過ぎにしても、知らない人などいないほど広大な敷地を誇る屋敷が、御輿家にはあった。
武芸に励む、厳かな板張りの稽古場。大地のありのままを人々の心情に写し取った、静謐な庭園。
そんな御輿家の屋敷は、私が暗い洞天の底で眠っていた五百年の間に、水に浮かんでは弾ける泡のように、跡形もなく無へと還ってしまった。
この国から、『お前がここに存在してはいけない』と宣告されているような気がした。
当然、私の身の回りの品も、何もかもが消滅していた。
「なんじゃ、そんなことで困っておったのか?」
神子は、何をくだらないことを、とでも言うように鼻から息を抜いた。
私がしょんぼりと首を縦に振ると、彼女は喉の奥でくすっと笑い、私の前へすっと手をかざした。
「ほれ、ここにあるぞ」
「え?」
目の前に差し出されたのは、美しく整えられた白粉や紅の入った化粧道具と、清楚でありながらも確かな品格を帯びた衣装だった。
「これは巫女たちのものじゃが……無いよりはマシじゃろ?」
「い、いいの? 勝手に使っちゃって……」
「まぁ、いいじゃろ。妾が言えば納得するじゃろうしの」
神子はこともなげに言い切る。まるで、この大社に存在するすべての事象は自分の思い通りに回っているとでも言わんばかりの、絶対的な自信。
「えぇ……」
私は戸惑いながらも、漆塗りの箱に収められた道具へとちらりと視線を落とした。
髪を整え、軽く化粧をし、普段とは違う装いで彼の前に立つ―――たしかに、それだけで今のこの胃の腑に溜まった泥のような重さは、大きく変わるかもしれない。
「まぁ、妾に任せておけば良い!」
神子は自信たっぷりに言い放つ。
今の彼女は、まるで浮世のすべてを照らさんと準備している太陽のような、圧倒的な輝きを放っていた。
太陽を阻めるモノは、雲、夜、月。私のような、つぎはぎだらけの存在ではない。
……うん、もうこうなったら、この強引な神子の言葉に甘えてしまおう。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
私が腹を括ってそう言うと、神子は心底満足そうに、三日月のように目を細めて微笑んだ。
―――こうして、私は神子の手によって、五百年ぶりの支度を整えることになったのだった。
◆
「遅いな……」
社の前。
腕を組みながら、ぼんやりと高く青い空を見上げる。
時間に厳しいつもりはない。だが、日時計の影がひと刻を跨ぐほど待たされるとは想定していなかった。
何かあったのか?
皆、俺を心配症だとか神経質だとか言うが、それは違う。
彼女の精神を奥深くまで蝕んでいたアビスの泥には、かつての戦場の厭な記憶しか残っていない。何千年、何万年と時間が経過しようと、脳裏にこびりついた“あの光景”が、“かつての惨劇”が色褪せることなどないのだ。
無数の可能性より剥奪された存在。選ばれなかった者たちの怨念。
そんな暗黒の質量を身に深く取り込まれていた彼女の機能不全を気にかけるのは、俺という仙人にとって呼吸をするのと同じくらい当然のことだ。
見に行った方がいいだろうか。
俺が石段に足をかけようとした、その時だった。
「お、お待たせ……」
声が、落ちた。
そう、彼女の声だ。戸惑いや不安の混じった周波数だが、不調を訴えるような緊迫したものではない。むしろ、誰かの反応を期待して震えているような―――。
俺には、それ以上の感情の機微はよくわからない。だが、彼女が自分の足で歩いてきたことだけは確かだ。
俺は、声のした方へ首を巡らせる。
「ほぉ……」
肺の底から、思わず無意識の音声が漏れた。
千代の姿に、網膜が完全に縫い付けられた。
いつもとは違う、仕立ての細やかな装い。きちんと結い上げられた髪。そして、目元や唇にうっすらと施された紅の化粧が、彼女の纏う空気を根底から書き換えていた。
ただの武人でも、泥に沈んだ亡霊でもない。
まるで、漆黒を静かに照らし出す、凛とした月のように美しい。
「そ、蒼雲。大丈夫?」
千代が、不安そうに眉を下げて俺の顔を覗き込む。
「え、いや……大丈夫だ」
喉の奥が張り付き、声が微かに裏返った。
正直に言えば、胸郭の内で心臓が、いつもより速く不規則なリズムを叩いている。俺の自律神経が、未知の入力に対してバグを起こしているのだ。
「お前にも準備があったんだろう。急かしてしまって悪かった」
「…………」
千代はなぜか黙ったまま、俺の瞳の奥をじっと見つめていた。やがて、小さく息を吐いてから、ふわりと薄い笑みを浮かべた。
「い、行こうか……」
「あ、うん……!」
千代の声は、先ほどまでの怯えが消え、どこか弾んでいるように聞こえた。
―――こうして、俺たちは二人で街へと続く石段を下り始めた。
◆
社の奥から、木々の間に消えていく二人の背中を見送る目があった。
「蒼雲さんたち、行きましたね」
巫女の鹿野奈々が、静かな声音で呟く。
「上手くいくといいのですがね……」
隣で腕を組んでいた稲城蛍美が、どこか心配そうに息をついた。
五百年の眠りから覚めたばかりの少女と、世間の機微に疎すぎる仙人の男。危うい綱渡りを見ているようなものだ。
「きっと上手く行きますよ」
奈々は、自信たっぷりに言い切った。
「だって蒼雲さん、先ほど千代さんに見惚れてましたし!」
蛍美は一瞬きょとんとした後、深く、重たい溜息を夜明け前の空気に溶かした。
「いや、そっちじゃなくて―――」
その時。
背後から、くすくすと、何か極悪な企みを孕んだ楽しげな笑い声が響いた。
「ふふふ……まずは第一関門は突破したな……」
奈々と蛍美が振り返る。
そこには、妖しい紫の双眸を細め、これ以上ないほど悪どい笑みを浮かべた八重神子が立っていた。
「では、行くとするかの!」
軽やかに宣言し、歩き出そうとする宮司に、蛍美はすかさず眉をひそめた。
「……八重様が尾行するから心配なんですよ……」
奈々も、ああと納得するように深く頷く。
「ふふっ、妾がちょっと覗きに行くだけじゃぞ? 何も問題あるまい?」
神子は微塵も悪びれることなく、むしろその状況を心底楽しむように笑う。
「“ちょっと”で済む気がしないんですが……」
「まぁまぁ、気にするでない♪」
神子はニヤニヤと口角を吊り上げたまま、千代と蒼雲の後を追うように、優雅な足取りで石段を下りていった。
残された奈々と蛍美は、自分たちの主君の災厄のような背中を見送るしかなかった。
「……本当に大丈夫でしょうか?」
二人は同時に、二度目の深いため息をついた。
◆
久しぶりに踏みしめる、稲妻の城下町。
活気のある屋台の呼び込み。行き交う人々の下駄の音。懐かしい醤油と出汁の香りが漂う通り。
すべてが、私の記憶の底に沈んでいた風景のようで、でも、ほんの少しずつピントがずれている。
五百年という時間の質量が、この街の形を確実に変容させていたのだ。
私はその変化の波に呑まれ、知らず知らずのうちに、口を閉ざしたまま歩き続けていた。
「千代?」
不意に、隣から優しい声が落ちた。
蒼雲だった。
見上げると、彼の表情はどこか気遣うように硬くなっていた。私がずっと黙っていたせいで、余計な心配をさせてしまったのだろう。
「はっ! ご、ごめん。ずっと黙ってて……」
私は慌てて謝罪を口にする。
しかし、蒼雲は静かに首を横に振った。
「いや、行きたいところがないのか聞きたくなっただけだからな。謝らなくて大丈夫だ」
「うん……」
肺の奥から、ほっと息をつく。
「それで、行きたいところはあるか?」
彼が、私の歩幅に合わせてゆっくりと問いかける。
「ここに行きたい……」
私は着物の袖の中から折りたたんだ地図を取り出し、一箇所の印を指さした。
そこは、朝の支度の際に神子から「行ってみるとよい」と勧められた仕立て屋だった。今の私は普段着しか持っていないし、新しい服を揃えるのも悪くないと思ったからだ。
蒼雲は地図を覗き込み、すぐに頷いた。
「分かった。じゃあまずはそこに行こうか」
「ありがとう」
私が小さく礼を言うと、蒼雲はふっと目元を緩めて微笑んだ。
「あと、負い目を感じなくていいぞ」
「え?」
「久しぶりの故郷で感傷に浸るなんて、普通のことなんだからな」
「だから、お前が好きなように町を歩くといい。俺はそれに付き合うからさ」
「………////」
カアッ、と。
顔面の毛細血管が一気に膨張し、熱を帯びるのを感じた。
「……あ、ありがとう」
たまらず視線をそらし、足元の石畳を見つめながら小さく呟く。
すると、蒼雲は軽く喉の奥で笑った。
「でも、よそ見をしすぎて逸れるのは無しだからな」
軽く冗談めかして言う彼に、私は思わずむっと顔を上げる。
「こ、子供扱いしないで!!」
「ハハハ、悪い悪い」
そう言いながらも、彼は私の短い歩幅に合わせて、ゆっくりと隣を歩き続けてくれた。
なんだか、すごく安心する。
五百年の空白も、記憶も。
蒼雲とこうして並んで歩く時間は、私が思っていたよりもずっと、心地よくて温かかった。
◆
「ここか? お前が行きたいと言った仕立て屋は」
俺は目的の店の前で足を止め、千代に尋ねた。
「そ、そうだよ」
千代が、少し緊張したように着物の裾を握りしめながら答える。
目の前に構えるのは『小倉屋』という看板を掲げた仕立て屋だ。
外観からしてすでに、大衆向けの安店とは空気が違う。のれんの向こうには美しく染め上げられた絹の反物が整然と並び、店先には桜や梅の繊細な紋様が刺繍された着物が飾られている。見るだけで、その織りと染めが極めて高度な技術によるものだと分かる。
そんなことを考えながら店構えを観察していると、のれんをくぐってひとりの女性が姿を現した。
「おや、小倉屋に何かご用ですか?」
すらりとした立ち振る舞い。客を値踏みしない、落ち着いた物腰。おそらくこの店の主人か、少なくともそれなりの裁量を持った人物なのだろう。
千代が何か言おうとして言葉に詰まっていたため、俺が代わりに口を開いた。
「彼女の着物を買いに来たのだ」
それを聞いた瞬間、女性は軽く目を見開き、ふっと興味深そうに微笑んだ。
「そうですか。……おや?」
彼女の視線が、俺の顔の輪郭をなぞるようにじっと固定される。
「あなたは……蒼雲さんではないですか?」
「そうだが……俺のことを知っているのか?」
俺が警戒の波長を強めて尋ねると、女性は袖で口元を隠し、クスクスと笑った。
「知っているも何も、あの天領奉行のお侍様を懲らしめた方ですよね? ここらの商人や町の人の間では有名人ですよ」
「そ、そうか……」
マズい。
あの裏路地での乱闘。手加減して隠蔽したつもりだったが、目狩り令の役人を撃退したという噂にはどうしても尾ひれがつく。まさかこれほどの速度で顔と名前が知れ渡っているとは。
なんとなく背中に視線を感じて通りを見渡すと、行き交う町人たちの中にも、ヒソヒソとこちらを指差して囁き合っている者が何人かいる。
……確実に、面が割れている。
「それに、先ほど神里家のお嬢さんと旅人さんからもあなたの話は聞きましたし」
「何?」
俺は思わず聞き返した。
「綾華や旅人もここに訪れたのか?」
「はい、一応。八重宮司様や、お偉い方々もこちらで着物を仕立てになられますので……」
へぇ。やはり権力者御用達の高級店だったか。
それにしても、綾華たちが俺の話をしたということは……まさか、変な噂まで広められていたりしないだろうな?
一抹の重い不安を覚えながら、俺は再び店の中へと視線を向けた。
ま、まあいい。まずは千代の着物選びを手伝うのが先決だ。
「では、奥へどうぞ」
店主―――小倉が、優雅な所作で店内の奥へと手を差し出す。
「分かった」
俺は頷き、千代へと視線を戻した。
「千代はどうする? 共に奥へ行くか?」
千代は少しの間考え込み、やがて店先に飾られた反物の方へと顔を向けた。
「いや、私は……もう少しここで着物とか見ていたい」
「そうか。じゃあ、ここからあまり動くなよ」
俺が釘を刺すと、千代は素直にこくりと頷いた。
それを確認してから、俺は小倉の後を追って店の奥の間へと足を踏み入れた。
部屋に入ると、柔らかな和紙越しの光が室内を淡く照らし出していた。壁際を埋め尽くすように並べられた色とりどりの反物が、空間全体に繊細な美意識の圧力を放っている。
そんな静謐な空間の中で、小倉がふと、口元を綻ばせた。
「ふふふ」
「……何を笑っているのだ?」
俺が眉根を寄せて問うと、小倉は微笑みをさらに深めた。
「いえ、旅人さんたちから聞いていた蒼雲さんの印象と、少し違っていたものですから」
「俺の印象?」
「ええ。あまり感情を表に出す方ではなく、女性にもあまり興味がないと伺っていましたが……あのような美人さんを連れているのですから、少し意外で」
……あいつら、他人の背後で俺のことをそんな枯木のように言いふらしていたのか。
「別に、あなたが思っているような仲では―――」
「恥ずかしがらなくてもいいんですよ」
俺の否定を、小倉はくすりと笑って軽やかに遮った。
「誰にだって、そういう時は訪れるものですから」
まあ、人間の尺度で測ればそういう結論に行き着くのだろうが。
俺はふと、昨日の夜、鹿野奈々から聞かされた言葉を思い出した。
〈回想〉
『蒼雲さん』
鹿野奈々が、廊下で少し困ったような顔をして俺を呼び止めた。
『どうした?』
『実は今日、千代さんが御輿家のあった場所を訪れたのですが……』
『もう何も残っていなかったらしくて』
『千代さんは大丈夫だと言っていましたが、どこか寂しそうな様子で……』
『せめて着物やおめかし用の道具だけでも残っていれば、少しは悲しみも和らぐと思ったのですが……』
五百年という容赦のない歳月の質量。
御輿家の屋敷は土に還り、千代の生きた痕跡も、思い出の品も、何ひとつとして残されてはいない。
特に服や化粧品は、女性にとって己の存在証明の一部だ。それが完全に剥奪されていた喪失感は、俺の想像を超える空洞を彼女の胸に穿っていただろう。
「蒼雲さん?」
小倉の声に、俺の意識が現実に浮上する。
「……すまん。千代にはどんな着物が合うだろうか?」
俺が単刀直入に尋ねると、小倉は顎に指を当て、プロの目で少し考え込んだ。
「そうですね……」
やがて彼女は、優雅に微笑んで答えた。
「白に、桜色などの淡い色合いのものが、あの方にはきっとよくお似合いになるかと」
「そうか……」
俺の視線が、店内に飾られた数多の着物の上を滑っていく。
そして、その中でひと際俺の網膜を捉えたのは、裾に鮮やかな桜の絵柄が乱れ咲く、美しい一着だった。
「あの桜の絵柄の入った着物を、彼女の寸法で仕立ててもらうことはできるか?」
俺はそれを指差して尋ねた。
「ええ、もちろん」
小倉は頷いたが、すぐに表情を少しだけ曇らせた。
「しかし、今は仕立てに必要な特殊な染料や糸が不足しておりまして……受け取りまで、かなりお時間がかかってしまいますが」
鎖国の影響か。
だが、あれは千代の白い肌と髪に、絶対によく似合うはずだ。
俺の思考に迷いはなかった。
「時間がかかってもいい。あれを頼む」
「かしこまりました」
小倉は、商人の確かな顔つきに戻り、深く頷いた。
要件を終え、ふと店先の千代の方へ視線を向ける。
彼女は、棚の一角に飾られた小さな装飾品の前に立ち止まり、食い入るように何かを見つめていた。
何か、気になるものでもあるのか?
「すまない。少しいいか?」
俺は再び小倉に声をかけた。
「はい。なんでしょうか?」
「あいつが今見ている、あれは何だ?」
俺の視線の先を追い、小倉が説明をする。
なるほど。
「じゃあ、あれは持ち帰る。贈り物にするから、箱に入れてもらえると助かる」
「え?」
小倉は、一瞬だけぽかんと驚いたような顔をした。
「あれを、あの方に渡すんですか?」
「そうだが? 何か問題でもあるのか?」
俺が怪訝な顔をすると、小倉は呆れたような、それでいてひどく面白がるような笑みを漏らした。
「いえ……」
「蒼雲さんは、本当にその手に関しては鈍いのですね」
は?
何のことかさっぱり分からないが、これ以上女の符丁に付き合って精神を摩耗させるつもりはない。俺は特に気にせず、懐からモラを取り出して支払いを済ませた。
「この度はありがとうございました」
小倉の丁寧な見送りを受け、店を出る。
千代が、俺の気配に気づいて振り返った。
「蒼雲、何の柄を仕立ててもらったの?」
「それは、仕立て終わってからの、お楽しみだな」
俺がそう言って流すと、千代は少し不満そうに唇を尖らせたが、すぐに頬を膨らませながらもこくりと頷いた。
「それより、腹減ってないか?」
「いや、私は別に……」
―――きゅぅぅう。
「…………////」
千代の顔面が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染め上がった。
「ハハハ、もう昼時だしな。昼飯にでもするか」
「う、うん……////」
顔から火を吹きそうな千代を促し、俺たちは昼食を取るために、再び活気あふれる城下町の通りへと歩き出した。
◆
通りから少し外れた、静かな食事処。
私は蒼雲と向かい合って座り、運ばれてきた料理を平らげた。
そして今、私の目の前には、食後の甘味として頼んだ『水まんじゅう』が置かれている。
透き通った、美しい球形。
小皿の上で、まるで大気中の水分を凝縮させたかのように、静かにプルプルと震えている。澄んだ葛の皮の下には、真珠のように滑らかなこし餡が奥ゆかしく見え隠れしていた。
日差しの強い日にこの透明感を見るだけで、皮膚の表面からすっと熱が引いていくような涼を感じる。
私は箸を手に取り、そっと水まんじゅうをつまんで、口へと運んだ。
ひんやりとした感触が舌の粘膜に触れた瞬間、ほんのりとした上品な甘みがじわりと溶け出した。
瑞々しく、優しい味がゆっくりと口腔を満たし、食道を伝い落ちていく。それはまるで、私の胸の奥にこびりついていた五百年の焦燥感や、喉の渇きを、清らかな水でひとつ残らず洗い流してくれるかのようだった。
あまりの美味しさに、私は思わず目を閉じていた。
この冷たさ。この甘さ。
口の中に広がる、確かな平穏の質量。
久しぶりに、こんなにも心が、魂の底から満たされる味を口にした。
「……美味しそうで良かった」
ふと。
対面から聞こえた蒼雲の低い声に、私は弾かれたように目を開けた。
蒼雲は、箸を止めたまま、静かに口角を上げてこちらを見つめていた。
「……………」
私は一瞬、思考が停止した。
なぜ? 私はただ、目を閉じて味わっていただけなのに。どうして彼には、私が心底美味しく食べていることが分かったのだろう?
その答えは、彼自身の口からすぐに与えられた。
「あんな風に、笑みを浮かべながら食べているのを初めて見たからな……安心した」
「…………/////」
どくん、と。
心臓が大きく跳ねて、血液が一気に顔へと集中した。
そう言われて、ようやく自分の顔面筋肉の状態に気づいた。
私は―――知らず知らずのうちに、満面の笑みを浮かべていたのだ。
美味しいものを口にした瞬間、張り詰めていた心の縫い目が自然とほぐれ、その無防備な感情がそのまま表情として外に漏れ出してしまっていた。
蒼雲は、それを見て『安心した』と言った。
五百年間、暗い洞天の中で泥に苦しむ私だけを見続けてきた彼が。
まるで、私の心の傷が少しずつ塞がっていくのを、誰よりもずっと気にかけてくれていたかのように。
「そ、蒼雲」
私は、膝の上でぎゅっと拳を握り、なんとか暴走しそうな心拍数を落ち着かせながら口を開いた。
「この後、行きたい場所が……あるんだけど」
蒼雲は少しだけ目を丸くしてこちらを見た後、いつものように優しく、静かに微笑んだ。
「……ああ、いいぞ。どこに行きたい?」
「私についてきてくれたら、それでいいから……」
私は照れ隠しのように視線を逸らし、それ以上は言葉を紡がなかった。
◆
食事を終え、会計を済ませると、俺は無言のまま前を歩く千代の背中についていった。
街の喧騒から徐々に離れ、人通りの少ない坂道を登る。
しばらく歩くと、ふと、肌にまとわりつく空気の質が変わった。
風が柔らかくなり、木々の間から差し込む光の角度が優しくなる。視界が開けた瞬間、俺の目の前に広がっていたのは―――。
見渡す限り一面に咲き誇る、桜の木々の群れだった。
枝いっぱいに広がる薄紅色の花弁が、風に揺れるたびに音もなく剥がれ落ち、ひらひらと視界を埋め尽くすように舞い散っている。
そのあまりの美しさに、俺は思わず足を止めた。
「……ここは?」
俺の問いに、千代は少しだけ遠くの空を見つめ、ひどく懐かしむような、それでいて壊れ物を見るような表情を浮かべて口を開いた。
「ここは、昔みんなで集まって、お酒を飲みながら……影、今の将軍と親友同士で喋っていた場所」
その言葉を聞き、俺はゆっくりと周囲の桜の古木を見渡した。
確かにここには、ただ花が咲いているだけの美しさではない、どこか温かい体温のようなものが大気に溶け込んでいる。
長い時を経て、彼女たちの笑い声はとうに風に消え去ったはずなのに、今なお、誰かの大切な思い出がこの土に息づいているような気がした。
「影と……将軍と?」
俺が確認するように問うと、千代は小さく、愛おしむように頷いた。
「うん。影も、昔はこうして普通にみんなと過ごしてた。戦や統治のことなんて忘れて、ただの一人の友人として、私たちと笑い合っていたんだ」
千代の言葉には、もう二度と戻らない遠い日の記憶を反芻する、静かな響きがあった。
それは、永遠に失われてしまった過去の残骸。
「……楽しかったんだな」
俺が短くそう言うと、千代は俺を振り返り、柔らかく微笑んだ。
「うん、すごく」
ざわ、と。
風が吹き抜け、桜の花びらが俺たちを包み込むように舞い落ちる。
その美しさとともに、千代の横顔には、どうしても拭い切れない寂しさと切なさが、薄い影となって張り付いているように見えた。
しばらくの間、俺たちは言葉を交わすことなく、桜の木の下で静かにその情景を共有していた。
千代は懐かしそうに辺りの木々を撫でていたが、やがて、心地よい春の風の温度に誘われるように、幹の根元に座り込み、隣で静かに目を閉じた。
スゥ、スゥ、と。
規則正しい呼吸音。
「……寝たのか?」
無防備に寝息を立てる彼女を見下ろし、俺は思わず苦笑を漏らした。
無理もない。五百年もの暗い眠りから目覚め、様々な情報と感情の波に連続して当てられたのだ。精神が限界に達して、自己防衛のために脳がシャットダウンしたのだろう。
俺は自分の肩に羽織っていた上着を静かに外し、冷えないようにそっと千代の肩へと掛けた。
「まったく、……」
呆れたように呟いた、その瞬間―――。
「ふふ、優しいのぉ」
背後から、大気を切り裂くような、ひどく耳慣れた妖艶な声が落ちた。
「……いつからそこにいた?」
俺は振り返ることもなく、冷めた声で問い返した。
神子は、袖で口元を隠しながらくすくすと笑った。
「さて、いつからじゃろうな? 千代が水まんじゅうを食べていた頃からかもしれんし、もしかすると、それよりも前からかもしれんぞ?」
俺は深い溜息をつき、桜の太い幹に背中を預けた。
「おまえ、はなから尾行する気だったな?」
「尾行? 人聞きが悪いのぉ。妾はただ、心配で様子を見ていただけじゃ」
「どこがだ」
「まぁまぁ、そう邪険にするな」
神子は涼しい顔で歩み寄り、舞い落ちてきた桜の花びらを手のひらに乗せると、ふっと息を吹きかけて空へ散らした。
「妾としても、千代が今どういう気持ちでおるのか、気になっての。彼女にとって五百年ぶりの故郷は、見知らぬ場所と同じだったじゃろうからな」
「……それは、そうかもしれないな」
千代はきっと、脳裏にある過去の情景と、目の前の変わり果てた現実の狭間で、激しく揺れている。
そのすべてを俺が理解することはできない。俺は彼女の過去を知らないのだから。
だが、それでも。このすり切れた魂が少しでも安らぐのなら、隣に立つくらいのことはできる。
俺は眠る千代の寝顔を見下ろし、もう一度、短く息を吐いた。
◆
鳴神大社へと続く長い石段を登り切る頃には、空はすっかり濃紺の夜の帳に覆われていた。
境内の石灯篭が淡いオレンジ色の光を等間隔に落とし、ひんやりとした夜風が、火照った頬を心地よく撫でていく。
「今日は楽しかったか?」
隣を歩く蒼雲が、前を向いたまま、不意にそう問いかけてきた。
「うん」
私が素直にそう返すと、彼は微かに口角を上げて笑った。
「それは良かった」
……この一日、本当に夢みたいだった。
五百年ぶりの、稲妻の城下町。記憶のままの懐かしい景色もあれば、すっかり別のものに塗り替えられてしまった場所もある。
でも、そんな時間のズレを感じる場所を、蒼雲と一緒に並んで歩けたことが、何よりも嬉しかった。
「その……今日はありがとね。私のわがままを聞いてくれて」
「………」
私がお礼を言うと、蒼雲は何か言いかけて、けれど言葉を喉の奥に飲み込んだようだった。
沈黙が落ちる。
私はなんだか急に気まずくなってしまい、鼓動を早めながら、慌ててその場を離れようと背を向けた。
「じゃあ! おやすみなさい!」
「待て!」
「え?」
呼び止められて振り返ると、蒼雲が懐から小さな木箱を取り出し、私に向かって差し出してきた。
「これ、今日買った品の一つだ」
「これを、私に……?」
私が不思議そうに箱を受け取ると、蒼雲はそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに言った。
「部屋に戻ってから開けてくれ。じゃあ、おやすみ」
「え、ちょっ……」
私が呼び止めるよりも早く、彼は足早に回廊の奥へと立ち去ってしまった。
掌に残された、小さな箱の重み。
何か、ひどく大事なものが入っているような気がする。
胸の奥で暴れる不安と期待が入り混じる中、私はそっと箱を胸に抱えながら、自分の客間へと足を踏み入れた。
―――ガラッ。
襖を開けた瞬間。
部屋の中央には、案の定というか何というか、神子と鹿野奈々の二人が、さも当然のように待ち構えていた。
「ふふふ、さて、千代よ。その箱の中身、見せてもらおうかの?」
「私も気になります!」
「ちょっ、勝手に開けないで!」
身を乗り出してくる二人を両手で制しながら、私は畳の上に座り、ゆっくりと木箱の蓋を開けた。
その瞬間。
目に飛び込んできたのは―――。
精巧な細工が施された、桜の花を基調とした美しい『簪』だった。
「……!!」
ボッ、と。
脳髄の血管が沸騰し、一瞬で顔面から耳の裏までが火を噴くように熱くなるのを感じた。
だって。稲妻の風習において、男が女に髪飾り―――簪を贈るということは。
それは明確な、『求愛』の意味を持つ行為だからだ。
「ほぉ……なんというか、垂らしじゃな、あやつ」
神子が、にやにやと妖しく笑いながら呟く。
「これは、良好なんじゃないですか?」
奈々も両手を組み合わせて微笑ましそうに言うが、私は茹で上がった顔を両手で覆い、首を横に振って必死に否定した。
「た、多分……意味知らなくて送ってると思うけど……」
「え?」
「千代がその簪を欲しそうに見ていたから送っただけじゃろうな……恋なんかにまるで無知なあやつなら、全然あり得る」
神子の冷酷な分析が、私の淡い期待を物理的に叩き割る。
「そうですか……」
奈々が少し残念そうに呟くが、私はそっと、箱の中の簪を指先で撫でた。
……うん。意味も知らずに贈ったのだと思う。あの朴念仁なら間違いなく。
でも、それでもいい。
「でも、これはこれでいい」
「蒼雲からの贈り物ってだけで、私にとっては十分いい思い出になるから」
私が照れ隠しにそう言うと、神子は目を細め、意味ありげな弧を唇に描いた。
「ふふふ……まぁ、これからじっくり仕込んでいくとするかの」
「えっ? ちょっ、何を……?」
「さぁ? おぬしの未来は、妾が楽しみにしておるぞ?」
私は神子の不敵な笑みに背筋の寒気を感じながらも、そっと簪を手に取り、自分の髪へと当ててみた。
冷たい金属の感触。
―――やっぱり、綺麗だ。
……ありがとう、蒼雲。
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一方、その頃。
別の客間で一人、床に横になっていた俺は。
「ヘッブシッ!」
唐突に、鼻腔の粘膜を刺激されて盛大なくしゃみを放っていた。
「……なんだ?」
風邪を引くような事はないはずだが。
俺は眉をひそめ、薄暗い天井を胡乱な目で見上げた。
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
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璃月篇(海灯祭)※この話の本編
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引き続き稲妻篇