「ばいばい」
最後。
彼の耳に届いた言葉は、ひどく嬉しそうに落ちていった。
三人は幼馴染だった。
小さい頃から家が近所で、朝に集まっては夕方まで帰らないことなんてしょっちゅうだったし、それは小学校に入ってからも、中学に入ってからも特別変わるわけではなかった。だが、三人ともそれぞれに部活や勉強といった学生の本分があったので、時が経てば経つほど幼い頃よりも一緒にいる時間が少なくなるのはわかっていたことだった。
それでも集まって遊ぶとなれば、ズル休みをしてでも三人は集まっていた。
それが、中学三年の夏までの彼らの日常。
女子が夏休みをはさめば見違えるようになる、などとはよく言ったもので、三人の中の一人、間部つばさも例外ではなかった。
特に見た目が劇的に変わったというわけではなかったが、すこぶる付き合いが悪くなった。二人が何かあるのかと訊いても、笑って「なんでもないよ」とごまかされるだけだった。つばさは二人よりも成績が良かったし、三人とも同じ高校に行こうなどとも思っていない。だから二人は、つばさが受験勉強に専念しているのだろうと思っていた。
そして。
それは雪の積もった、シンと音が雪に吸い込まれていくような日の朝だった。
その日、いつも通り三人で登校している途中で、珍しくつばさの方から「今日は一緒に遊ぼう」と二人を誘った。私立高校の受験は無事にみな合格、という結果を受けていたので、息抜きがてらに、と何も迷うことはなく二つ返事で二人は了承した。別々のクラスで授業を受け、バラバラに終わるHRに苛立ちながらそれぞれがそれぞれを待つ放課後のこと。
あと一人だけ、例によって一番騒がしい女子を彼とつばさが並んで待っていた時のこと。
「卒業だね」
つばさがポツリとつぶやく。
「そうだな」
「……みんな、ばらばらだね」
「あいつは俺についてくるんだってさ」
「そっか」
どこか安心したようにうなずくが、表情までが晴れ晴れとはしていなかった。
目に見えて落ち込んで見える彼女にどう声をかければいいのか、わからないながらも彼は励ますように明るめの声色で話しかけた。
「またどうせ集まって遊ぶしさ、気にしなくても家も近所じゃんか」
しかしなぜか、その言葉に彼女は何も応えなかった。
どうしたのかと思いつつ、不安なんだろうと結論づけて彼は納得しておいた。
彼自身、よくわからない不安に口が開きそうになったが、言葉よりも先に目の前のクラスのHRが終わった。我先にと生徒の波が押し寄せてくる。それに揉まれるように三人組の最後のひとりも彼とつばさに合流した。
特につばさから重大発表があったわけでもなく、集まって遊んでいた時と同じように日が落ちるまで遊び倒し、笑いながらの解散になった。
その夜。彼につばさから電話があった。ついさっき別れたばかりだというのに、いったい何の用事だと首をひねりながら彼は電話に出た。
『ね、学校行こう?』
いきなりの提案に驚きつつも、断る理由もこれといってなかった彼は、それに一言「わかった」と返し、電話を切った。
いつもの場所で、いつもの時間とは昼夜逆転の時間に集合、ということだった。待ち合わせの場所に着くと、すでにつばさが待っていた。このとき、彼は久しぶりにつばさの私服を見た。
少し茶色が目立つ黒髪に、相変わらずの三ツ編みにまとめられた髪、もこもこしたマフラーに、Yシャツに厚手のカーディガン、飾り気のないロングスカートと、彼女は見た目が派手というわけではない。しかし、全体的に茶色っぽい色合いは、物静かな彼女によく似合っていた。
彼の姿を確認すると、ふ、と微笑んで彼女が言った。
「行こっか」
「? あいつは呼んでねえのか」
「うん。今忙しいんだって」
珍しい、と彼は思った。用事なんかよりも、こちらを優先させるような奴が来ないなんて。
後のことを思えば、おかしいと疑うべきだった言葉である。しかし、今の彼におかしいと疑うだけの思考が出来なかったのも事実だった。
二人は言葉を交わすことなく、淡々と雪の夜道を歩いて行った。お互いに途中の自販機であったかい缶コーヒーを買って、カイロ代わりにポケットに手と一緒に突っ込んだ。
いつもよりも時間をかけて行く通学路は、いつも以上に静かだった。彼はいつもやかましいアイツがいないしな、と何となしに考えていた。どうやら、彼のその考えは顔に出ていたらしく、つばさは苦笑いしながら肩をすくめた。
「やっぱり、静かだね」
「そうだな」
それ以降はお互いにあまり口を動かすこともなく、目的地である夜の学校に到着した。
やはり校門は施錠されており、どうしようかと考えているうちに、つばさがひょっこりと校門の向こう側から顔を出した。ぎょっと驚くと同時に、いたずらな笑顔でつばさは校門の隣から続いているフェンスを指差した。あそこを上って入った、ということらしい。
つばさにしては、積極的な行動だった。
彼もつばさに倣ってフェンスを乗り越え、校庭の片隅に立った。ふいにつばさが笑う。
「なんだか楽しいね、こういうの」
「そうかぁ?」
「うん。楽しいよ」
校庭を横切り、つばさが一本の鍵を取り出した。非常階段の鍵だそうだ。この日のためにくすねておいたのだという。曰く、「優等生だから楽勝だった」らしい。
非常階段の扉を開け、目の前の階段をひょいひょいと登っていくところをみると、どうやら暗に屋上へ行こうと言っているようだった。カツンカツン、と非常階段を上がるたびに靴底が音を立てる。つばさの三ツ編みが楽しそうに左右に揺れるのを、隆士はぼうっと眺めながら彼女に続いて階段をのぼっていく。
非常階段のてっぺん、屋上への扉を開けると視界が一気に広がった。
夜の、こと冬の屋上は寒かった。さわさわと吹く風ですらピリピリと肌を刺激し、時折吹く、びゅう、という強い風になると、頬をはたかれたように痛んだ。彼はたまらず、ポケットの中のあたたかい缶コーヒーを飲んで暖をとることにした。それに続いて、つばさも缶コーヒーのプルタブをあげ、ちびちびと飲み始めた。
「さっむいねー」
「同感」
肩を縮ませて、並びながら冬の寒さを噛みしめる。防寒もなにもあったものではない。
しばらく二人ともが沈黙を続けていたときだった。ふいに、つばさが口を開いた。
「キス、しよっか」
「え?」
「……」
彼は最初、つばさが何を言っているのか全く理解できなかった。しかし、見つめてくる彼女の表情や、あるいは幼馴染のうちのもう一人がいない意味を理解したのか。彼はガッと赤くなった。とたんに彼はおろおろとし始め、それを見た彼女は静かに体を彼に寄せた。お互いの体の熱が伝わるほどに、つばさは彼に体を寄せた。
「……キス、してよ」
「な、なんで……」
「いくじなし。ばか」
言うだけ言って、つばさは身を乗り出した。驚いた彼は身を引こうとして、出来なかった。正確には、しようとして、もう遅かった。
「ん」
気温に反して、妙な温かさを感じながら二人の唇は重なった。
反射的に彼はつばさの肩を持って彼女を引き剥がした。驚きよりも、なぜか焦りのほうが大きかった。そんな彼を気にする風でも、キスを中断されたことを気にするわけでもなく、つばさは微笑みながら自分の唇に指を這わせた。
「コーヒーの味がする」
「の、飲んでたからな」
学校の前を数台のパトカーと救急車が走り抜けていく。静かすぎる今には、ちょうどいいやかましさだった。
しばらく黙りこくったまま、お互いに目を合わせようとはしなかった。その沈黙に耐えきれずに、彼は意を決してつばさに訊いた。
「どうしたんだよ。夏からのことと、なんか関係あんのか……?」
そう質問した彼につばさは驚き、同時に笑っていた。
本当にうれしそうに、つばさは笑った。
「気にしてくれてたんだ」
「俺だけじゃねえよ。アイツだって――」
ひやり。
つめたくなったつばさの指が、彼の唇に当てられた。見ると、彼女は苦笑していた。複雑な心境を表しているかのように、その笑顔は弱々しい。
「今は、あの子のことでも他の子のこと、言わないで。お願い。私の最後のわがままだから」
懇願するつばさ。瞳は潤んでいて、ここで目をそらせば凍ってしまいそうなほど鈍く光っていた。彼はどうしようもなくその瞳を覗きこんでいた。覗きこむことしか、できなかった。
たまらなくなって、口に当てられた手を握り、彼は自分のもとにつばさを引き寄せた。彼女は思っていた以上に細くて、軽くて、力一杯に抱きしめでもすれば折れてしまいそうで。
「ヤケじゃないよ。本当だよ」
「……ごめん」
「……なんで謝るの?」クスリ、とつばさが笑いながら言った。「鈍いのは昔からだし、それに、私も気づかれないようにしてたから」
それに、と彼女は言う。
「私たちの関係、壊したくなかったから。だからかな、ちょっとだけ疲れちゃったや」
折れてもいい、と彼はつばさを強く抱きしめた。込められるだけの力を込めて、込められるだけの気持ちを込めて、彼は彼女を抱きしめた。
彼の中に、どうしてだろうと漠然と疑問が浮かぶ。どうして俺はこんなに焦ってるんだ、と。
ここで彼女を抱きしめておかないと、つばさがつばさでなくなってしまうような、つばさがどこか、もう届くことのないところへ行ってしまうのではないだろうかと、恐怖にも似た焦燥感を彼は抱いていた。
どれくらいの時間そうしていただろうか。つばさが彼の腕の中でもぞりと動いた。
「自由ってなんだと思う?」
「なんだよ、突然……。そんなの、わかるわけないだろ」
「じゃあさ、見ててよ」
にっと笑って、つばさは彼にもう一度キスした。
とんとん、と踊るように彼から離れ、彼に背を向けるように校庭のほうを向いた。
「私が自由になれたかどうか」
言葉の意味はわかりかねたが、あ、と彼は情けない声を出した。
なぜ彼女が突然そんなことを言い出したのか、彼には理解できなかった。
なぜ彼女が突然そんなことを彼に訊いたのか、彼自身わからなかった。
そのすべての答えがつばさの言う『自由』にあるような気がして――――、
「ねえ、大好きだよ」
「……俺も、たぶん」
「……やさしいね、いつも」
彼の顔を見ないまま、くす、と彼女は笑った。
――――……あるような気がして、そして。
「ばいばい」
このとき、確実に彼の心臓は一瞬止まった。
つばさが走り出す。何を『自由』と言って、彼女が何をするつもりかに気がつき、追った。一歩追っては、彼女は一歩『自由』に近づいていく。やけにゆっくりとした感覚があった。もっと速くと彼が願えば、それはより遠く遅くなっていくような錯覚。
もう、なにもかもが遅かった。
かつん、と手すりを蹴る音がした。手すりを踏み台にして、彼女は『自由』になった。
彼女の顔が見えた。笑っていた。ありがとう、と口が動いた。ふっと、彼女が手を自分の口に当てた。何かを投げるような仕草のあと、その手は振られていた。
――……ばいばい。
瞬間、感覚が元に戻った。すとん、と彼女の体が彼の視界から消える。
秒の長さが永遠に思えた。やけに静かな夜なので、下からの音はよく聞こえた。
ひどく落ち着いたまま、彼は携帯を取り出した。1・1・0、とボタンを押す。
相手が応答する前に、彼は静かに告げる。
「もしもし、警察ですか? 人が、飛び降りました」
二月十七日。
やけに静かで、心まで凍ってしまいそうな寒い夜だった。