『それでは、最後に生徒会からの連絡です』
体育館中に放送部の女子の声が響く。
生徒会の下っ端役員が前に出て、最近遅刻が多いだの、制服改造も見かけますと、明らかにその手の人種を挑発しているとしか思えない連絡事項を述べていく。そのあとに、いよいよ本日のメインイベント、とばかりに二年生のバッジをつけた女子生徒――生徒会長が壇上にあがり、声高らかにどこぞの公国でもいまどきもう少し言葉をひねるだろう、というような感想が出てくる過大妄想甚だしい演説が始まった。それは例によって校長のお言葉よりも長く、しかしその内容からつまらなくもないが、聞いていて恥ずかしくなるような妄想演説なのだった。
その中でも、制服をだらしなく着崩している一人の男子があくびをかみ殺しながらそれを聞いている。
四月。
彼、滝隆士が高校に入学し、丸々一年が経っていた。
始業式も、わけのわからない生徒会長様の妄想演説が終わり、本格的に終わりを告げた。よくもあんな奴が生徒会長なんぞをしているな、と彼はしみじみ思う。それが知り合いだというのだからたまったものではない。
クラス替えをしたばかりの教室へ向かう途中、後ろから声がかかった。彼が振り向いて目に入った人物は、例の生徒会長、椛路茜だった。楽しそうに手を振りながら、無邪気に隆士に近づいてくる。
地毛から完全に茶髪。肩辺りまで伸ばした髪は、本人の感情とシンクロしているかのようにぴょこぴょことハネている。隆士と並んでいてもあまり身長差を感じさせない高身長は一目にモデルを思い浮かべるが、モデルといえるほどの雰囲気を彼女からは感じられない。
「ねね、どうだった、今日の演説。新入生もいることだし、今までのおさらいとして
さらに言えば、素晴らしいことに、この世界征服を謳う少女は彼の幼馴染であった。昔からこんな感じだったわけではないのだが、高校入学とほとんど同時にこうなってしまったのだ。
その理由はよくわからないが、原因を隆士は知っている。
「知ってるかな、人ってね、最後に言われたことのほうが頭に残るんだって。だからメインイベントを最後に持ってきたんだー」
「知ってるか」口調を真似するように、彼が言う。「生徒にとって始業式やら集会やらのプログラムにはメインもサブもない。さっさと終われとしか思ってねえ。それにあんな話、誰でもおかしいの一言で済ますに決まってんだろ。一年の顔見たか、お前。ドン引きしてたぞ、あれ」
その言葉に茜はなぜか妙に納得し、うんうんとうなずいていた。
「隆士は、どうだったの?」
「はい?」
隆士は思わず顔をしかめた。
どうだった、とは一体どういうことか。訊き返そうとした隆士を、茜はもう一度質問することで黙らせた。
「だからね、隆士は私の演説どう思ったのって訊いてるんだけど」
「どうもこうもねえよ。いつも通り馬鹿やってんなー、程度だよ」
それを聞いた茜は少しムスッとして、しかしすぐに笑いなおした。
「私は本気で言ってるのになー。協力してくれない隆士のほうが馬鹿だよ」
それには答えず、隆士は自分の教室へ足を向けた。後ろについてきながら演説の続きをする茜は適度に無視して、早足に廊下を歩いていく。
自分の教室に到着し、茜とは別れた。別々のクラスなのは小学校のころからのお決まりともいえる状況だった。隆士と茜はいまだに一緒のクラスで勉学に勤しんだことはない。そもそも隆士は、勉学に勤しむ気などさらさらない。
教室の中の、自分の席に座りこむ。周囲は友人らと談笑するクラスメイトであふれていた。しかし、クラスメイトには隆士に話しかけるような
その態度は学内の先輩や教師にもおよび、さらに学外でもそんな態度でいることが多く、学内外に彼を目の敵にするどころか、ケンカをふっかける者も少なくなかった。隆士もそれから逃げずに売り言葉に買い言葉でケンカを受けるものだから高校からも問題児扱いされていた。
「おーい、席につけ。出欠取ってから俺のありがたい話して解散だぞー」
教室の扉を開け、男性教諭がずけずけと入ってくる。なんの因果か、それは去年も隆士を担任していた教師だった。もしかしなくても、押しつけられたのかもしれない。
「また
クラスメイトの一人が愚痴をこぼした。
その教師の名前を、
「文句あるか?」
「えー、だって美人な先生とか期待してたのに」
「お前に現実というものを教えてやろう。我が
ひどい話だった。
文句を垂れた男子生徒のほかにも、現実を直視させられた男子一同も机に突っ伏してしまった。隆士は思う。教師にいなくても生徒ならそれなりにいるんじゃないか、と。それをここで言うほどクラスに馴染もうとも思っていないし、言ったところで今度は清原教諭が項垂れるだけだろう。教師とは、腐っても聖職なのである。
「出欠をとる。返事しろ」
気を取りなおして、と清原教諭が五十音順に男女混ざり合った出欠簿をつけ始める。タイミングを計ったように返事をする者もいれば、一拍も二拍も遅れてやる気なさそうに返事を返す者もいる。
「滝隆士」
呼ばれて、隆士は返事せずに手だけを挙げた。出欠簿にだけ目を向けていた清原教諭がしかめ面で顔をあげ、手を挙げたままの隆士を見て苦笑した。
「滝、返事しろ」
「はい」
慣れたものなのか、よしと言うだけで特に気にした風もなく、出欠が取られていく。
出欠が取り終わり、そこから清原教諭のありがたい話が始まった。……おもに、来年から受験だだの、ブラブラ遊び回っていられるのも今のうちだの、生徒からすれば耳にタコが出来るほど聞かされてきた小うるさい説教だ。
生徒会長の妄想演説よりも短くはあったが、聞く分には退屈このうえないお話だった。
先に言った通り、清原教諭は納得するだけ話し終わると、すぐに解散を宣言した。
わっ、と教室がうるさくなり、友人同士で作ったグループそれぞれが「今からどうする?」と話し合いを始めるところだった。それを横目に、隆士はさっさと教室をあとにした。
校庭を横切るようにして校門へ向かっていると、うしろから声をかけられる。振り向くまでもない。この学校の中で彼に声をかける者と言えば、教師か茜のみだ。
「隆士ぃ、進級祝いにごはん食べに行こうよー」
「嫌だね。一人で行けよ。ていうか、生徒会はどうした」
「全部後輩に任せたよん。そのほうが早く仕事覚えるしねー。っていうか、一人で行ったら悲しいじゃん。お祝いにならないじゃーん」
むくれながら、茜は隆士に後ろから抱きついた。色っぽさのカケラもなく、彼にとっては重り以外のなにものでもなかった。
足を引きずりながらだらしなく寄りかかる彼女は、こう見えて生徒会長をやるときはやっている。それもなぜか、高校一年の二学期からである。生徒会長は、二学期の始業式に生徒会長候補が名乗りをあげ、その後選挙で選ばれた人物が引き継ぐことになっている。無謀にも思えた茜の挑戦は、果たして成功。見事選挙に勝利し、生徒会長の座に居座り続けている。
『私の夢は、世界征服です!』
声高らかに謳い上げた、会長就任式での一言。気持ちのいいまでの馬鹿げた言葉に、初めは誰もが冗談だと思っていたに違いない。生徒会長のお茶目なジョークなのだろうと、疑うこともしなかったに違いない。その演説の内容がブッ飛んでいなければ。
興味のない生徒一同がしゃべっていた声も気がつけば聞こえなくなり、体育館には彼女の謳う“世界征服”の言葉が飛び交っているだけとなったのは、もはや伝説となっている。
どうして、と隆士はその時頭を抱えた。
どうして、みんなもっと早く気がつかなかったんだ……、と。
堅苦しい生徒会の連中よりも、飛び入り参加の、それも一年生という話題性を持った茜に票が集中してしまったのは、幸い中の不幸、ともいうべき出来事だったのだ。
ちなみに、生徒会長は、
その茜自身は勉強が強烈に出来るわけでもなく、運動神経もそこそこ。そこらへんに転がっている女子と比べても、かわいいかと言われればまぁ、可愛い。ただ、どこにでもいそうな、中途半端なスペックを持った少女だった。
しかし、そんな茜でもひとつだけ目を見張るような能力があった。その妄想癖が功を成したのかどうかは誰も知らないし知ろうともしないが、発想の天才といって差し支えない才能を持っていた。一学年時の二学期の文化祭で、その才能が早くも発揮されていた。例年集客率と生徒のやる気が落ちていく文化祭で、時間的にも金銭的にも無理難題が多いと思われたことを実行、そして無事成功を収めているのである。『今年の文化祭は久々に面白かった』や『やりすぎだ』という教師の賛否の声も気にすることなく、彼女は今日も我が道を往くのである。さらに生徒会長が昨年度の卒業式でも一発やらかしたことを、隆士は知らない。
ただ、そういうことをやれるのに基本やらないのが、彼女の欠点でもあった。自分が面白いと思ったこと以外にはその才能を発揮することもなく、人任せやサボりなどはいつものこと。やるときはやる、という言葉の意味は、やる時以外はやらないと同義なのであった。
その原因が滝隆士なのではないか、と彼の知らないところで教師の評判がどんどん下がっていくのを、やはり彼は知らなかった。
「ごはんー。食べに行こうよー、ねえ隆士ぃー」
「行かないって言ってんだろ。俺じゃなくて、もっとほかの誰か誘えばいいだろ」
「おーでーんー」
「なんでおでんなんだよ! じゃなくて、話聞け!」
首にかかる茜の腕を払い、隆士は逃げるように歩き始める。
茜がこうなってしまった原因。それを隆士は知っていた。
一月二十七日。つばさが、『自由』になった日。
春先にしてはずいぶんと蒸し暑い夜だった。普通に歩いているだけで汗が出てくる。まるで、「外には出るな」と隆士に警告しているような暑さだった。
それでも彼が外出したのは、ジュースを買いに行きたかったからだった。ごはんごはんとうるさい茜に結局付き合わされ、おでんを食べに行くことになってしまった隆士は、無性に甘いものが飲みたくなっていた。冷蔵庫を覗いてもお茶しかなく、仕方なく近所の自動販売機のある公園まで足を運んでいた。公園に入ってしばらくしてから、なんの問題もなく自販機を視界に収めた。それなりに広い公園の中にポツンと立っているその自販機は、街灯よろしく公園の広場を照らしている。
目的の飲み物を手に入れ、それをお手玉して遊びながら彼が振り返り――――
「お」
言葉に詰まった。
このあたりでは見たことのない女の子が後ろに立っていた。中学生くらいだろうか。
「……」
その子の横を隆士が通り抜けようとした、その時だった。
「……滝リュージ?」
「……誰だ、お前。なんで俺の名前知ってんだ?」
いきなり名前を呼ばれたことに驚きつつ、ついこの間喧嘩した他の学校の不良の妹あたりだろうか、とあたりをつける。
ぼうっとした雰囲気で隆士を見上げてくる。このまま無視すればいいものを、彼は彼女のその風貌から目を離さずにはいられなかった。
「あなたが、滝リュージ?」
「……こっちの質問にも答えろ。お前、誰だよ」
硬そうな短髪と、天然らしい白髪。肌は不健康ともとれそうなほどに青白く、その目はとても眠そうな雰囲気を漂わす半眼。瞳は燐光のような輝きで青白く見え、その光は、なぜかとても不気味に見えた。
「おい、聞いて――」
「そう。あなたが滝リュージなの」
喧嘩前の野郎の煮えたぎった目でもなく、侮蔑するような大人の冷めた目でもない。ただ不気味だと思うような、ガラス玉に映る、無機質な光が目に宿っていた。
まるで死体と向き合っているような錯覚が、隆士の中にうまれる。
「間違いないですか?」
「おい、いい加減に俺の話も聞け!」
少女の不気味さもあって、隆士は思わず彼女の胸ぐらを乱暴に掴んでしまった。人形のようにガクガクと揺れる少女の頭から、静かに声が聞こえた。
「やっぱり、あなたはそういう人なんですね」
は? と隆士が疑問を口にするよりも早く、少女が手を挙げ、次いで。
――――……どすん。
「は……ァ?」
何かに胸を叩かれたような衝撃が隆士に走った。
一歩、二歩とたたらを踏んで、それから胸に手を当てる。
隆士の手が濡れた。汗とは違う、なにかどろりとした――
「あ……」
かくん、と膝から力が抜ていく。支えも何もなく、隆士は地面に伏した。
起き上ろうにも、腕に力が入らない。それどころか全身から力が抜けていく。体が動かない。
なんだこれ、と疑うよりも早く、その答えが隆士の視界に入ってくる。すーっと広がっていくそれは、赤い色をしていた。血が流れている。
――やっとわかった、今俺は死にかけている。
それを彼が理解したところで、自分一人でどうにか出来ることではない。寒い。さっきまでの暑さが嘘のように、体から熱が抜けていく。とにかく寒い。だというのに、汗だけはどんどん出てくる。じんわりとした痺れが首周りを支配していく。痺れに、首を絞められるような感覚が、張り付いて取れようとしない。
「ご、ぶ……」
口からも血が出てきた。血だまりの上に吐いて、血がはね回った。
「ばいばい」
――何事だ、これは一体なんの冗談だ。なんだ、これは映画の撮影か? 俺が主役か、いつ決まった? ギャラはいくらだ? 主役なのにここで死ぬのか? 死体Aか?
ぐるぐる回る隆士の思考は、関係のないことばかりを浮かべていく。一向に現実を見ようとしない。だが、彼が視線を自身の胸に下げれば、その現実は容赦なく脳に視覚情報として流れ込んできた。
なんだ、これは。同じ疑問ばかりが隆士の脳裏に浮かんでは消える。
頭の中にノイズが走る。ザリ、ザリ、ザリリ。意識と視界がどんどん暗く溶けていく。地面に縫いつけられたように指一本動かせない。地面に沈むように、意識も沈んでいく。
――まったく、とんだ人生だった。
思い返すことも出来ない。隆士は走馬灯なんて嘘だと、これほど思ったことはなかった。そして、これから思うこともないだろう。思えないだろう。怖い。それだけだった。ただそれだけが、隆士の中にあった。
それは自分自身ではなく、茜のことがなによりも怖かった。
彼女がああなったのは、明らかにつばさが死んでからだった。彼女がどこかおかしいと思えるようになったのは、つばさが死んでからだった。隆士はこれ以上、茜になにかを負わせていなくなってしまう自分自身が情けなくてしょうがなかった。
「なん……だ、これ」
歯を食いしばるような真似をしてみる。視界は暗く、命は昏く、とっぷり沈んでいく。
抗えない。隆士だけの力でどうこうできるくらいの出来事なら、とっくに何とかしているはずだった。だが、どうだ。鎖が胸から生えているという、なんともふざけた状況。隆士は沈んでいく意識の中で、怒りだけで思考を回転させた。
死んでたまるか、こんなくだらないことで、死んでたまるか。歯を、間違いなく食いしばった。力が入る。まだ生きている。暗い視界で、まだよく解らないが、確実に生きていると確信できた。それがなぜ確信だったのか、隆士自身にもわからなかった。
ただ、その体が熱かった。手を伸ばせば、この暗闇も抜けられると隆士は
やわらかな温かさが伸ばした手を包む。ああ、生きている。なら、することは一つだと、隆士は伸ばした手を握りしめ、勢いよく覚醒した。
「殴らせ――――いってッ!?」
「いだぁっ!?」
部屋中にゴチん、と痛々しい音がこだまする。隆士はベッドの上でのたうちまわり、もう一人、隆士に頭突きされた方もイスに座りながら悶絶していた。そこで、隆士はハッとした。
まだジンジンと残る痛みを我慢しながら、隆士は悶絶しているもう一人の方へ目を向けた。
「おい、茜! 俺、なんでここいるんだ? ていうか、なんでお前、いやここどこ?」
痛みに涙を浮かべながら、茜は隆士を見上げていた。隆士を見上げるその表情は、まるで死人が蘇ったものを見るようで、驚きの色に染まっていて。
「りゅ、りゅうじぃい……!」
涙目から、本気で泣きだすまでそう時間をかける必要などなかった。茜はイスから勢いよく立ち上がり、その勢いのまま隆士へ飛びついた。タックルをモロにかまされた隆士はバランスを崩し、そのままベッドに背中を強く打ちつけた。彼が「ぐえ」と苦しそうな声をもらしたのにも気づかずに、茜は彼にすがり続けた。
「怖かったよぉっ、怖かったよぉ……っ!」
嗚咽をもらしながら、茜はそれだけを言い続けていた。個人部屋ではなかったらしく、隆士のベッドの周りに、同室の入院患者やその親族らが集まってくる。それに適当な愛想笑いで答えながら、隆士は頭の上にあったナースコールのボタンを押した。
しばらくすると、医者を伴って看護師が入ってきた。隆士は彼らに一礼すると、いまだに泣いて彼にひっつく茜を無理矢理ひきはがし、彼女が落ち着くように声をかけてやった。
「大丈夫だって。ほら、先生の話聞かねえの?」
「……きく」
まだしゃっくりを出しながら茜はイスに座りなおす。隆士はそれを確認してから、医者の方へ目を向け、「どうぞ」と話を促した。
医師は簡単に、一言だけ隆士に告げた。
「重度の貧血ですね」
「は? 貧血? おい、ふざけんな!」
隆士は反射的にそう怒鳴り返してしまっていた。医師からしてみれば、なにをそんなに怒っているのかがまったくわからないこともあり、落ち着けとなだめようとしているのだが、今の隆士にとってそれは逆効果でしかない。
「落ち着けだって? ふざけんなって言ってんだ!」
「だから、なにがそんなに不満なんだ? 倒れた理由が心筋梗塞だったり、脳腫瘍だったりした方が良かったっていうのか? 死亡願望でもあるのか君はっ?」
「違う! 俺は殺されかけたんだよ!」
病室中がシン、と静まりかえる。隆士の荒い息遣いと、怒鳴った余韻だけが部屋にこだましていた。医者と看護師はお互いに微妙な顔を見合わせ、改めて隆士に向き直った。
「殺されかけた? どういうことだね、それは」
「どうもこうもねえよ! 俺は胸を刺されたんだ、血だって結構出てた! それが貧血!? ありえねえだろ!」
「それはおかしい。君の身体に外傷はひとつもなかったし、いや、服に穴が開いていたくらいだよ? 殺されたという方が信じがたい」
そうだね、と医者は茜に確認を取った。茜は隆士を見て、医者を見て、少し考えてから、小さくうなずいた。
「私、飲み物買いに行きたくなって、そしたら、公園で隆士が倒れてて……」
「血だまりがあっただろ? 俺、死にかけてただろ?」懇願するような目で茜に詰め寄りながら隆士は続けた。「そうだって言ってくれよ、なあ!」
「――――……なんにも、なかったよ。苦しそうにしてる隆士だけだったよ」
「そんな、嘘だろ……」
隆士は、違う意味でまた倒れてしまいそうだった。自分自身が体験したことと、事実が食い違っている。それだけでも認めたくないというのに、医者は倒れていた理由を『貧血』だと言ってのけたのだ。隆士がどれだけ混乱したか、想像に難くない。
「幻覚でも見たのかもしれない。まあ、今日と明日は検査入院。退院は早くて明日の午後といったところだろう。ゆっくり休みなさい」
それだけを言い残して、医者と看護師は病室を出ていく。にわかにざわつき始める病室の喧騒は、今の隆士には聞こえていなかった。
「…………」
本当に、幻覚だったのだろうか。そう考え始めたところで、茜がそっと隆士を抱いた。
「嫌だよ、死んじゃヤダ」泣きやみかけていた茜の声に、また嗚咽がまざる。「ヤダよ、隆士。いなくなっちゃヤダからね……?」
それで隆士は何も考えられなくなった。むしろ、そんな考えをやめようと考えていた。
目の前の少女を泣かせてまで、押し通すようなものじゃない。隆士はそう思い始めていた。
自分が殺されかけたなんてありえない。きっと悪い夢かなにかを見たに違いない。隆士はとにかく、そう思い込んだ。
「…………」
――――……
あの少女は一体なんだったのか。疑問はまたすぐにそちらへ戻っていく。隆士がいくらそうだと思い込んだからといって、あの少女のことまで幻覚だとは思いたくはなかった。
現に、服には穴が開いていたと、医者は言っていたではないか。
「……泣いたらスッキリした。んじゃあ隆士、ちゃんと寝なくちゃダメだよ?」
そう言って、茜は帰る準備をし始めた。今さらながら隆士は、彼女が制服であることに気がついた。外を見てもまだ日が暮れていないところを見ると、もしかしたらと手を振って帰ろうとする彼女を引きとめた。
「お前、学校は?」
「今から行くよ。午後の授業くらいなら受けられるかもね」
「……悪いな。ごめん」
「らしくなーい。隆士らしくないよ、そんなの。それにね、学校よりも隆士の方が大事。世界征服だって、隆士がいなくちゃ面白くないよ。これ、重要ね」
「なんだそりゃ。ま、いいか。そんじゃ、いってらっしゃい」
「うん。放課後また来るねー」
今度こそ、茜は手を振って病室を出ていった。彼女がいなくなったことで、病室が一気に静かになった。調子のいい同室の患者が隆士と彼女の関係を詮索してきたが、彼はそれを無視した。どこの誰ともわからない人物の戯れ言を聞いているような暇を、彼は持っていなかった。
やっとゆっくりと考えられる。だが、と隆士は首を振った。このことは、考えるだけの価値を持っているのだろうか。もしあの出来事が幻覚かなにかだったとしたら、考えても帰ってくる答えは『勘違い』だけだった。
もし、これが本当に貧血で倒れたのだったならば、走馬灯が見えなかったのもうなずける。
どこか的外れな思考を隆士は展開した。他人事としてでしか、彼は自分自身に起こった現象を考えられなくなっていた。彼の『勘違い』の答えには、リアリティが絶対的に足りていない。現実に起こりうるだけの実感が足りていない。ゆえに、彼にはこれが自分の事なのだと考えられずにいた。
「めんどくさ……」
茜に言われたことを思い出して、隆士はなにもかもを放って眠ることにした。
夢を見た。赤い視界。地平の果てまで広がる荒廃した大地。千切れた赤い糸。糸、糸、糸。
それが何なのか、彼にはよくわからなかったが、『糸』。ただそれだけがやけに引っ掛かっていた。それがどんな引っ掛かりなのかもよくわからない。
とにかく夢を見ていた。それだけが彼の中でしっかりとした意志を持って主張できる事柄。
糸、糸、赤い、細い、まるで、蜘蛛の糸。そう、これは夢なんだと、彼は思っていた。
千切れた糸の先には――――、
「――――は、あ!」
隆士は飛び起きるのと同時に、周りを見回した。相変わらず殺風景な病室があるだけだった。
夢なんてすぐに忘れてしまいそうなものだというのに、今見た夢が隆士の頭から離れない。気持ちの悪い感覚がべっとりと脳裏に焼き付いている。
隆士がとりあえず落ち着こうと何もない部屋を見渡していると、茜のものらしきカバンが視界に入った。とたんに気持ち悪かった感覚が消えていくのを、彼は苦笑いで受け入れた。
そのまま数分もしないうちに、茜は部屋に戻ってきた。いつも以上にテンションが高めなのは、介抱という理由で隆士に世話を焼けるからなのかもしれない。
「今日ね、ウチのクラスに転校生来たんだよー」
「転校生?」
「うん。昨日は引越しの片付けとかで来れなかったから、今日から来てたんだって」
どうせ関係のないことだ、と隆士の方から話題を切り上げた。それに少し不満そうな顔をして、茜は拗ねてしまった。
そのあとは世間話が続いた。茜が清原先生にどういう事情で隆士が休んでいるかを伝えただとか、体育の授業でいきなりマラソンさせられたとか、どれをとっても一昨日の夜とはまったく違う、日常そのものの光景だった。
夕食が終わる頃に隆士の両親も顔を出し、医者から彼の様子を聞いていた。隆士としては、今すぐにでも家に帰りたい気分だったのだが、やはり明日までは入院というカタチに落ち着いてしまった。医者が帰った後両親から話を聞けば、昼前に顔を見せていなかったのは昨日の内に貧血だと茜から聞かされていたかららしい。「隆士が死んじゃう!」と茜から連絡があった時には血相を変えて病院に走ってきたらしいのだが、貧血だった、と聞かされて安心すると、あとは茜に任せて、今日も普通に仕事に行っていたとのことだった。
「それじゃあ、隆士。また明日来るから。よかったら転校生もつれてきちゃうよ~?」
「いいよ、別に。めんどくさいし。どうせ向こうも俺のことなんて知らねえし、空気悪くなるだけだからホントやめろよ?」
隆士の言葉を理解したのか、理解していないのか、理解しながらもやろうとしているのかはわからないが、茜は笑顔で帰っていった。
その日の夜、隆士は夢を見なかった。朝起きて、ああ、やっぱりあれは夢だったんだな、と思えたことに、なぜか茜にありがとうを言いたくてしかたがなかった。
その日の午前中に診察や検査は終わり、あとは退院を待つだけ。
午後はナースステーション前のフリースペースで過ごしながら、そこに据え置いてある雑誌を読み漁ることで暇を潰した。フリースペースに置いてある雑誌をほとんど読み終えたのが、ちょうど午後四時を回ったときだった。
「ヒマだ……」
自分がどれだけ学校の喧騒を暇潰しに使っているのかを、隆士が初めて認識した瞬間でもある。その場にいればうるさいとしか感じられないものでも、いざ離れてみると物足りないと感じてしまうのは、そこにすでに彼自身の日常が出来上がってしまったことを意味している。その日常を形作っている中心にいるのは、やはりいつも茜で――――、
「りゅーうじっ、約束どおり今日も来てあげたよー」
「うあっ!」
隆士の肩を茜が勢いよくバシン! と叩いた。ぼうっとしていたこともあって、隆士はイスから飛び上がって驚き、肘をイスの手すりで思い切り打ってしまった。いらぬ痛みに隆士が悶えていると、後ろから茜がキャッキャと笑う声が聞こえた。
「何が面白いんだよ、お前」
「別に? 元気そうでよかったって思っただけ」
「おかげさまでヒマだって思うくらいには元気だよ。ったく、いてーなオイ」
ぶつくさと文句を言いながら隆士はイスに座りなおす。テーブルをはさんだ向かい側に茜も腰をおろし、なにがそんなに楽しいのか、ニコニコと笑顔でいる。
「用事、ないんなら帰れ」
「冷たいんだー。イイじゃん別に。私がいたらダメ?」
「返しづらいこというなよ」
茜は、にっと笑って言う。それ以上はなにも言わずに、今まで隆士が読んでいた雑誌に手を伸ばし、パラパラと読み始めた。なにか用事があるわけでも特別話したいこともないらしく、彼女は雑誌に集中し始めてしまった。
付き合うのも面倒くさいが、付き合わなければもっと面倒くさい。自分の病室に戻るよりも、ここで一緒に雑誌を読んで暇を潰そうと隆士は考えた。立ち上がり、本棚に足を運ぼうとして、それが、出来なかった。
「……茜、俺、昨日なんっつったっけ?」
「冗談半分で『転校生はつれてくるなよ』って言っていたであります」
「……ハ、転校生ね。こいつが?」
隆士の口から、突然笑い声が漏れた。茜は雑誌の陰から目を覗かせてニヤけている。おそらく、転校生のことは隆士をビックリさせるために黙っていたのだろう。が、隆士は、彼女のそれとは違う理由で笑っていた。
「
「……
それは、邂逅。
「一昨日も、私が誰かを訊きましたよね。
「あれ、二人はお知り合いだったの?」
隆士は、知り合いなんてもんじゃないと大声で否定してやりたかった。硬そうな白髪に、不健康そうな青白い肌。眠たそうな半眼に、ゆらりと不気味な光が灯っている。なによりもその眼を、隆士は忘れられそうにはなかった。
「こうやって挨拶するのは、初めてですよね」無表情のまま、だけど声だけはいやにイキイキとして少女は言った。「はじめまして、
隆士は笑いが止まらなかった。止められなかった。声に出して笑うようなことはなかったが、肩を小刻みに揺らしながら、ひきつった笑顔をして、目の前の現実を嘲笑った。
こわいほどに、受け入れられない。目の前に現実はあるのに、どこか何かがズレている。
「……隆士、どうしたの?」
隆士の笑いがあまりにも不可解だったのか、茜は心配そうに隆士に問いかけた。それに何でもない、と返すものの、隆士の笑いは止まらない。
「茜。私、ちょっと彼と話がしたいから席を外してもらえませんか?」
「……うん。じゃあ、隆士のこと、まかせるね」
少し戸惑いながらも茜はフリースペースから離れ、隆士の病室へ足を向けた。彼女が病室に入ったことを確認してから、少女――宝院小町は口を開いた。
「――単刀直入に訊きます。なぜ生きてるんですか」
「さあ、なんでだろうな。俺が教えてほしいよ。で、誰だお前」
「頭悪いですね。宝院小町だって自己紹介したじゃないですか」
眉ひとつ動かさず、小町は小馬鹿にしたような口調で言う。無表情、という彼女の表情が、隆士をより刺激した。
「そんなことは訊いてないんだよ。お前の名前なんざ別にどうでもいいんだ。
「面白い質問ですね。私がどこの誰か、ですか。あなたが訊いているのははたして、私個人の住所を指しているのか、はたまた――――」
そこで一呼吸を置いて、隆士はガラス玉のような小町の瞳で見据えられた。無機的なまでの瞳は不気味な光を湛えながら、隆士だけを映し出す。それだけで、今まで笑っていた隆士が黙りこんだ。
「
「――――っ、あ、ああそうだよ。なんで俺を殺したんだ。……じゃなくて、俺は本当に、死んだのか?」
今さらになって、隆士はここにいること自体が夢なんじゃないのかと思い始めた。目の前には自分を殺したという殺人者。病院という場所。それらすべてが夢のような気がして。
「私はあなたを絶対に殺した。万が一起き上がってこないかも、しばらく見ていた。ピクリとも動かなくなったあなたを見て、確実に絶命したあなたを見て、私は引き揚げた。なのにあなたはここにいる。心臓を貫かれて生き返るなんて、人間がしていいものじゃあないんですよ。でも、あなたはそれをした。今度は私が訊きたい。あなたは一体、何者なんですか?」
怖い。隆士はただそれだけしか思えなかった。立っていられなくなって、彼は頭を抱えてイスに座り込んだ。自分がしっかりと保てない。
自称、『ただの高校生』宝院小町を前にして、隆士の目の前にやっと『自分は殺された』という現実が追いついた。冷や汗がにじむ。自分はどうして生きているのか。隆士自身が生きていることは別に悪いことじゃないのだろう。では何が彼をここまで追い詰めるのか。
「俺が何者か、だって?」低く唸るような声で隆士は続けた。「それこそ、普通の高校生だよ。こんなオカルトみたいなこと、今までに興味持ったことも、手ェ出したこともねえ。俺は、俺はお前みたいな人殺しじゃねえんだよ……!」
ふむ、とあごに手を当てながら、小町が隆士から視線を外した。
「話を戻しましょうか。これ以上はナンセンスです。私がなぜ、あなたを殺したかですよね?」
静かに、小町は流すように話題を変えた。人を殺したかどうかを問い質していた隆士にすれば、彼女の変わり身の早さは信じられなかった。ただその話題から早く離れたかったとも考えられたが、隆士には小町の異常性をより強調させた言動に見えてならなかった。
そして、それに続いた言葉は、隆士にとってより理解できない意味を持って放たれる。
「
「……みえた? なにが見えたって?」
「どうせあなたは私のことを異常者として認識しているでしょうから、異常ついでに言っておきましょう。私は生まれつき、『未来視』が出来るんですよ。未来が、視えるんです」
「……はぁ? それって、予知夢みたいなもんか?」
「わかりやすければそういう解釈でも構いません。にしても意外ですね。食いついてきた」
やはり無表情のまま、小町はいたずらっぽい声音でからかうように言った。隆士はそれになにも返せずに、ただバツの悪い顔をするだけだった。
なにが本当に信じていいことなのか、なにが本当に疑うべきことなのか。
「あー、クソッ。わけわかんねえ!」
だから、隆士は考えるのをやめた。生きているのならラッキー。生きているからラッキー。生き返ったからラッキー。目の前に、自分を殺した相手がいてラッキー。
「とりあえず、一発殴らせろ」
「女子に手をあげるんですか。乱暴者ですね」
「お前、人殺しておいてそりゃねえだろ。黙って殴られろ。今なら一発で許してやる。殺されておいて一発で済ます俺って優しいよな? 優しいだろ?」
「……頭悪いです」
問答無用で隆士は拳を振りかぶった。小町は動こうとしない。隆士としては、一発で済ますつもりはなかった。あんなものは建前だ。どうせここは病院だ、ちょっとやそっと怪我をしても、すぐそこに医者がいる。
だから、隆士は加減をするつもりなんて一切なかった。とりあえずボコボコにする。気が済むまで殴る。看護師が止めに入っても、完全に止められるまで止まるつもりもなかった。
「ぉラァッ!」
小町の無表情な顔を歪ませたくて、苦悶の表情に塗り替えたくて、隆士は腹を狙った。
狙ったはずだった。振り切った拳が小町の腹に当たることはなかった。避けられた、という焦りと、殺される、という焦りが入り混じる。が。
「本当に頭悪いですね」
「なに、してんだ?」
「避けました。痛いのは嫌いなんです、女の子ですから」
しれっと、その言葉が隆士の神経を逆なですることも判り切っている様子で、小町は言い放った。隆士の頭に一気に血がのぼる。ここが病院だとか、なら少しくらい怪我しても大丈夫だだとか、そんなちゃちな考えは隆士の頭の中から消し飛んだ。
「いい加減にしろよ、お前」
「……怖いですね、そんな顔して。
我慢の限界だった。手近なイスの背もたれを引っ掴んで、隆士はそれを持ちあげようとした、そのときだった。
あまりに遅いと思ったのか、茜が病室からフリースペースへ戻ってきた。彼女の姿を見て、隆士の頭が一気に覚める。背もたれにかけた手は手持無沙汰になってどうにもできなくなる。
小町はそのまま茜に歩み寄り、隆士に聞こえるような声で、茜に耳打ちした。
「
最後に小町は隆士の方をチラリと盗み見て、最後まで無表情のまま、彼女は去っていった。
――『私は生まれつき、『未来視』が出来るんですよ。未来が、視えるんです』
そういうことか、と隆士は理解した。全部、わかっていたことなのだろう。
隆士がどういう反応をするかも、茜がどういうタイミングで戻ってくるかも、何もかも。
「……めんどくさ」
絞り出せた言葉は、そんな言葉だった。
翌朝、隆士は病院ではなく、自宅のベッドで目を覚ました。
二日ぶりの自宅だというのに、かなり長い間帰っていなかったような錯覚が隆士の中にあった。まるで、長期入院でもしていたかのような倦怠感。
「いろいろありすぎ」
結論。
学校へ向かう隆士の足は重かった。行けば、隣のクラスには宝院小町がいる。だが、普通に考えれば、学校へ行けば人、多くは学生、教師だっている。いくら隆士が問題児扱いされていようと、襲われているのを見れば止めに入るだろう。
だが、隆士にとってそんなことは懸念していることの内の一つに過ぎない。他には、例えばあの無表情をまた見るのかだとか、例えばあの不気味な目でまた見上げられるのかだとか、考えていけば限りがない。
つまり、隆士は小町に会いたくなかった。
「『未来視』ねえ。そりゃまたオカルトじみた話だなー」
それに小町はなんと言ったか。隆士は昨日の会話を改めて思い出していた。ぼやける記憶の中で、小町が言ったことをひとつひとつ思い出していく。
――「あなたが私の死ぬ原因になるので、殺しに来ました」
――「そうなんですか。大変ですね」
会話の雰囲気だけを思い出し、他人事のように考えて、隆士は違和感を覚えた。昨日の小町のセリフを一言一句、できるだけ、より正確に思い出していく。
『
この言葉の何がどうおかしいのか。隆士にはよく解らず、のどに魚の骨が引っ掛かったようなもどかしさを覚えていた。それだけじゃない。凶器だっただろう、あの鎖のこともわからない。鞭のように叩きつけるでも、縄のように首を絞めるでもなく、まるで槍のように隆士の胸を貫いたあの鎖。
小町の『未来視』なんていう力に混乱させられていたが、あの鎖だって考えてみればいろいろおかしい。どこから出して、いつ隆士の胸に刺したのか。考えれば考えるほど、宝院小町という少女の正体がわからなくなってくる。
「ちッ」
また面倒くさくなって、彼は考えるのをやめた。
その後は茜にも小町にも会わずに無事に学校へ到着。少し挙動不審になりながら、隆士は自分のクラスへ向う。クラスはいつも通りのやかましさで、隆士が入ってきても誰も気にすることなく会話を続けていた。
隆士は机の中やイスの裏、自分の座席の周りに何もないかをくまなく探し、それから教室中を歩いて回ってなにかが隠れていそうな場所を全部見て回ってから、やっと自分の席に座った。彼があまりにもキョロキョロとしながら教室中を歩き回っているので、さすがのクラスメイトもしばらくは隆士の方に目を向けていたが、彼が席に座ったことで教室の空気も元通りになった。
HRは担任の清原加月が「大丈夫か」だとか、「滝のこと気にしてやってくれ」だの、クラスメイトに隆士が休んでいた事情を説明し終わった。
それで何が変わったわけではなく、午前の授業は滞りなく進んだ。彼が気にしていた小町も休み時間に顔を出したわけでもなく、いつも通り、茜が遊びに来るくらいだった。
このまま何もなく一日が終わればいい、と隆士が思い始めた昼休み。
いつものように母親が作ってくれた冷凍食品だらけの弁当箱を広げ、隆士はそれをつつき始めた。周りのクラスメイトは机を合わせたり、手近な机を借りたりして何人かで集まって弁当を食べていたが、それを気にする風でもなく、隆士は自分の弁当にだけ集中した。
――集中するつもりだった。
「なあなあ、滝くん。一緒にべんとー食おうぜ」
「あ?」
交友もないクラスメイトが、これ幸いと馴れ馴れしく机をくっつけて来た。話しかけてくる内容はやれ彼女がどうだ、やれお前は彼女がいるのか、なんていう隆士にとってどうでもいいことばかりだった。
茜で鍛えたあしらい方で適当に言葉を流しながら返事をしていると、調子づいたのか、もしくは最初からそのつもりだったのか、クラスメイトがこう言った。
「なあ、ちょっとボコってほしいヤツがいるんだけどさ」
隆士はそれがどこの誰だと聞かされる前に、目の前のクラスメイトの胸ぐらを掴み、顔面に思い切り拳を叩き込んだ。周りの机を巻き込みながら、名前も覚えていないクラスメイトの男子生徒が倒れ込むのを見て、隆士は後悔した。
すぐに教室が騒ぎ始める。教師が飛んでくる前に、隆士は教室を飛び出した。このまま帰っても良かったが、彼はそれをしなかった。
「……屋上なら誰もいねえだろ」
つい先日、気温が夏並みに高くなったとはいえ、まだ四月。屋上の風はまだ寒く、寄りついてまで昼食を食べるような生徒はいないだろう。隆士はそう考えて、誰もいないだろう屋上へ足を運んだ。
屋上への扉を開けて最初に見える真正面。物好きな生徒が一人、フェンスを背もたれに昼食をとっていた。
宝院小町。
「……こんにちは」
やはり眉ひとつ動かさずに、小町は挨拶をした。扉の前で固まっている隆士から自分の弁当箱に視線を移し、からかうような口調で、でもやはり無表情のまま彼女は言った。
「不良くんの来る場所っていったら屋上っていうのは定番だと思いません? まあ、本当に来るなんて思ってませんでしたけど」
会って間もなく、失礼極まりないことを言ってのけた自称・普通の高校生。
もくもくと弁当箱をつつく姿は愛らしくも映るというのに、隆士にはそうやって彼女のことを見れる日が永遠に来ないような気がしてならなかった。
「本当に来るなんてって、お前予知みたいなの出来るんだろ?」
「終始使ってるわけないでしょう。テストで使ったらカンニングだし、それに毎日の刺激がなくなります。何よりも、今を見ることができないじゃないですか。それくらい考えられるでしょう。ほんと、頭悪いですね」
意外に常識的な意見を言われ、隆士は面食らった。そんな彼の反応に興味を示すそぶりも見せずに、小町はもくもくと弁当をつつき続けた。
うつむいて弁当箱に向かっている小町の表情は、前髪が微妙に長いせいもあってか、この明るい屋上でさえ顔色が悪く見えていた。
「……ちょうどいいか。訊きたいこと、あるんだけど」
「頭悪いですね」
「おい、いい加減にしとけよ、お前」
「だって、自分を殺した相手にわざわざ『訊きたいことがあるんだけど』なんて訊くバカがどこにいますか。ここにしかいませんよ」
無表情で無口そうな顔をしてるのにベラベラとよく喋るな、と隆士は少し気後れした様子で、それでも言葉を続けた。
「バカでいいよ、もう。……まあ、予知のことはよくはないけど置いておくとしてだ。お前、あの鎖はなんだ?」
「鎖」
「そうだよ、鎖だ。俺のほら、胸をぐさって」
「語彙が貧困です。たとえば、あなたの胸をえぐり、赤い鮮血を飛び散らせた凶器の鎖。あれはいったい何なんだ、ぐらい言ったらどうですか。ほら、文学的でしょう?」
「いちいち小馬鹿にしやがって」
まだそれらしい表情をしていたら冗談で済みそうなものを、小町は無表情で言うものだから、かえって隆士にイライラが募る。
小町は自分の弁当箱から隆士へ視線を戻し、じぃっと彼を見つめながら口を開いた。
「……『境界の力』、などという言葉で教えられました」
「なんだ、そりゃ?」
「それを説明しようとしてるのに、いちいち質問しないで黙っていてください」
「……ちっ。わかったよ、黙ってる」
では、と小町が空っぽになった弁当箱を片付けながら話し始めた。
「あの世の力を、一時的にこの世に呼び寄せる力のことを『境界の力』と呼んでいるようです。私の場合、その呼び寄せているものが鎖だった、ということだそうです」
「…………」
「これはもちろん、誰にでも出来るというわけではなく、死を垣間見た人だけが、あの世とのリンクを結んで、この世にあの世の力を引き出してくる、らしいです」
「……………………」
「取り出す際の条件は、使用者が“死に近い状態”であること。つまり、瀕死になればなるほど力は強くなる、ということだそうです」
「………………………………」
「どうですか。私の鎖について、ご理解いただけましたか?」
「……お前の方こそ頭悪いだろ」
――ふざけるな。
それが隆士の感想だった。理解しようにも小町の言っている内容がそもそも不鮮明すぎる。……だそうです、だとか、……らしいです、なんて言葉を最後に付け加えて説明されては、納得しようにも理解しようにも、なにもかもが不鮮明だった。
「……冗談です」
「だ、だよな?」
「――と、言えるならばそれが一番いいんでしょうけどね」
「……本当なのか? あの世がどうとか、この世にどうするとか」
「……はい。ここで証明できることでいいのなら、私は四歳のときに、交通事故で死にかけました。目を覚ましたとき、病室中が鎖で埋め尽くされていたのを、いまだに覚えています」
そこで隆士は疑問を抱いた。証明できること、と言いながら小町は辛かっただろう過去を話しただけだ。それだけで証明になるなんてことがないのは、隆士にだって解っていた。
「それが証明だって証拠はあるんだろうな? そんときの写真とか、そういうの」
「証拠、ですか。聞き流してくれればよかったんですけど、やっぱり食いついてきた」
「あるのか、ないのか。どっちなんだよ」
「ありますよ。だから、ちょっと待ってください」
そう言って小町は、制服の上着を脱ぎ、タイをほどき始めた。
「ちゃらっちゃちゃらららっちゃら~」
あは~ん、なんて。まるでストリップでもするかのようにくねくねと、無表情のまま制服を脱ぎすてていく。隆士は最初、彼女が何をしているのか理解できなかった。
「ちょっ、おまえなにいきなりぬいでんだよ!?」
「配慮です」
は? と声を出す暇もなく、隆士の脳が目を逸らせ、と命令した。
「――――――――」
隆士からは言葉が出ない。それをどう表現すればいいのかもわからない。ブレザーを脱ぎ、タイを緩めシャツをはだけた彼女の肌は、痛々しい古傷で覆われていた。
左の肩から鎖骨を断ち切るように、縦一文字にザックリと大きな傷が走っていた。
「解説、いります?」
「い、いらねえよっ」
「今でも左腕だけ、あまり高くは上げられないんですよ。困ったものですね」
「生々しいこというな。マジでやめろ。いいから、それ服着ろ」
小町の「配慮です」という言葉の意味を、隆士はようやく理解した。この強烈な傷痕をなんの冗談もなしに重い空気のまま見せられたら、最悪トラウマになっていたかもしれない。
小町がシャツを着て、やっと目を向けられるようになった。
「血液が足りず、失血死間近だったそうですよ。……助かった理由、話します?」
「いいから。もうわかった。お前が死にかけたのはよくわかったから」
だからといって、『境界の力』なんて眉唾ものを信じろと言われても、すぐに信じる気にはなれなかった。
さて、どうしたものかと隆士が頭を抱えていると、小町がすぐ隣まで近寄ってきていた。
「確かめる方法ならありますが」カチカチ、とカッターナイフを取り出しながら、「試してみますか?」
ぎょっとした。じりじりと、すり足気味に隆士に近づいてくる小町の表情は、やはり無表情ではあったが、より一層の光を瞳に湛えていた。本気でカッターを隆士に向けて振ろうとしている。
「待て待て! なんで俺なんだ、お前がやれよ! 俺を殺そうとしたのは知ってる――――」
「
理由になってない、とはさすがに言えなかった。カッターナイフをまっすぐ首筋に向けられながら、そんなこと言う余裕なんて隆士にはなかった。
ジリジリと近づいてくる小町から逃げるように、正面に向き合ったまま、隆士はゆっくりと退いていく。立ち位置から、後ろへ行けばフェンスしかなく、袋小路だということは知っていたのだが、今は後ろへ行くしかなかった。
こっちは徒手空拳のうえに、向こうは殺人者で、しかもカッター装備。
「おい、やめろって。冗談もほどほどにしとけ、バカ」
それでも、悪口が言えるだけの余裕があるのはなぜ、と隆士は考えた。そもそも、こうやって考えていられる余裕があるのはなぜだ、と。
――『私は、
生唾を飲み込む。病院での言葉を思い出した。自称『ただの高校生』宝院小町は、
瞬間、がしゃん、とフェンスに背中がぶつかった。
迷っている暇はなくなった。ジリジリと迫ってくる小町の目は、本気だった。
「めんどくせえな、クソッ!」
「あっ」
一瞬の隙をついたわけでも、奇襲らしい奇襲を仕掛けたわけでもない。ただ、相手がただの女子高校生だというのなら、ケンカ慣れした男子高校生に抑えられないわけがない、というなんとも単純な理由で、隆士は飛びだしていた。
「――――」
「大胆なんですね、結構」
隆士は覆いかぶさるように屋上の床に小町を抑えつけた。彼女が持っていたカッターナイフは、隆士が飛びかかったときに離してしまったのか、遠くまで飛んでいってしまっていた。
ざまぁ見ろ、と隆士は笑った。形勢逆転。こうなれば自分に負けはない。隆士は確信を持った。このまま、昨日の続きをしてやる、と拳を握りしめたときだった。
「りゅう、じ?」
しかして、形勢再逆転。ぎぃ、と古ぼけた屋上の出入り口の扉が開いたかと思うと、生徒会長こと、椛路茜がそこに立っていた。
「あ、あのですね、こまっちゃんも隆士もいないな~って思って、仲良く二人でなにしてんだ、コノヤローみたいな勢いで探しに出たまではよかったんだけど、どこにもいなくて、最後は普段人気がない屋上だけが残っちゃって。あは、失礼しました~」
ぎぃい、と扉が閉まっていく。それを固まって見ていた隆士がハッと我に帰り、自分の今の状況を冷や汗を流しながら改めて眺めた。
第三者から見れば、どう見ても隆士が小町を襲っているようにしか見えない。また、小町が服を最後まで着ずに中途半端にはだけているせいもあって、隆士が無理矢理剥いだと見られなくもない。
見られたのがまだ、茜でよかったと内心ホッとした隆士だった。
さて、と視線を小町に戻し、どうしたものかと考えていると。
「いや~ん」
「てめえ……っ!」
無表情極まりない顔で、声だけは艶っぽくそんなことを小町が口にした。
最悪な昼休みだった。