「とりあえず、会ったばかりの子に無理やりはよくないと思うよ、隆士」
茜がもしも男子だったら、隆士は容赦も情けも躊躇もなく殴りかかっていただろう。
相手が一応女の子という認識だけが、かろうじて隆士の理性を繋ぎ止めていた。
「こまっちゃんはなんにもされてないって言ってるけどね、そんなのはお姉さんお見通しなの。おわかりでございますか、隆士。恋人同士でやったことなんてみんなに言えないっ、いやん、恥ずかしいっ……、ってなるのはわかるよ」
隆士は、お前がそれを理解できるほどの経験があることが驚きだ、と思いつつも、話が進まなくなるだろうことが目に見えているから口には出さないでおいた。
「だからね、隆士に言っておくよ」
生徒会室の机を間にはさみながら、力強い視線で茜が隆士を射ぬく。対して隆士はやる気のかけらも見受けられない目をして、目の前の茜にただただあきれていた。
「こまっちゃんを、幸せにしておくんなせえ!」
「……それで、この茶番はいつまで続くんだ?」
茜は隆士の言葉を聞くつもりはないらしく、大仰な身振り手振りでミニ演説を始めていた。
「こっまっちゃんね、今朝から隆士のことずぅっと訊いてくるんだよ? あの人はどんな人なのかって。誰かに迷惑を掛けてばっかりだったりしないの? って」
小町の事情をある程度理解している隆士からしてみれば、なんのことはない、彼女は殺し損ねた人物の情報を集めているだけなのだろう、ということが隆士には容易に想像できた。あわよくば隆士が生き返った理由も知れて、今度こそ確実に殺すという意図があるのだろうことも、隆士には感じ取れていた。
「きっと、隆士が運命の、いわゆる白馬に乗った王子様的な存在だって、彼女は確信してるんだと思う!」
どんどん饒舌に、しかも結構な妄想を入れ始めた茜は、止まるどころかどんどんその妄想を加速させていく。出てくる言葉ひとつひとつが、隆士にとってありえない、と思うことばかりだった。
「そうだよ隆士はこまっちゃんの王子様なんだよ! きっとあの子の無表情という氷を解かせるのは隆士しかいないんだよ! お姫様の眠りを覚ますことが出来るのは王子様のキスって相場が決まってるんだから、ほらほら、さっさと昼休みの屋上のアバンチュールの続きをしてきなさいさぁさぁっ!」
加熱していく茜の誇大妄想。しかも、彼女はいつの間にか隆士の肩をがっしりと鷲掴み、前後左右にガクガクと揺すり始める始末。
「『好き』と『愛』と『恋』の違いってなんだか知ってる? それを使える言葉の数なの、わかる? こまっちゃんは隆士に恋してるんだからね? 隆士はこまっちゃんにとっても特別ってことなの、ああ隆士特別な関係だからってそんな、あハんッ、だめ、ああっ!」
アバンチュールして来いって言ったのはどこのどいつだ、とは、思っても隆士はやはり声には出さないでおく。ガクガクと揺すられて、喉あたりに嫌な気配があがってきたあたりで、隆士はやっと茜の腕を振りほどくことができた。
「おい、いい加減に話し戻すぞ。俺とあいつはなんでもない。なんでもあるのはアイツだけで、お前と同類だからせいぜい仲良く世界征服でもなんでもよろしくしといてくれ。俺はもう付き合いきれないから帰るぞ」
「こまっちゃんが世界征服……っ! いいえそうじゃないでしょう、あなたが征服したいのは隆士なんでしょうそうなんでしょう、みなまで言うな、わかってます、わかってますともこまっちゃん。ああ、そんなムチなんて隆士はノーマルだよっ!」
隆士の言葉を聞いても意味は伝わっていないらしく、茜は妄想をさらに加速させていく。
そんな茜を放置して、隆士は生徒会室から出ていった。と、廊下に出ると、二、三年の生徒会役員が部屋の前に並んで立っていた。生徒会室からは、まだ茜の発狂ともとれるような叫びが聞こえてくる。
生徒会も大変なんだな、と他人事のように考えた隆士だった。
隆士はいつもの帰路を、いつものように歩いて帰っていた。
退院してすぐということもあり、あまり寄り道することもなくすぐに家に帰るつもりだった。
「ふむ。今夜はカレーですか?」
何様だ、と隆士は後ろの少女を怒鳴りつけたかった。隆士の手に持っているスーパーの買い物袋を覗きながら、宝院小町は彼の後ろにピッタリとついて来ていた。尾行のようにこそこそと隠れているわけではなく、すぐ真後ろにピッタリとついて来ている。
「……家までついてくる気か?」
「はい」
「はいって、お前何様だよ……」
怒鳴ることはなかったが、隆士はあきれられずにはいられなかった。続いてため息を吐く。なんでもないような顔をして、小町は隆士に言った。
「私が何様か、ですか。そうですね、あなたの死神様、でしょうか」
「俺について来てんのは、殺す相手の居場所くらいは知っておくってことか?」
「……まぁ、そうですね。あと、おこぼれが欲しかったするのですが?」
小町は遠まわしに、「夕飯のカレー食べさせろ」と言っていた。とんでもない、と隆士は振り返り、確固たる意志を持って小町に言い放った。
「お前に食わせるものなんてねえよ」
「ダーリンのご飯食べてみたいなっ」
「や、やめろっ!」
限りなく無表情のまま、声だけは甘え声。背中に氷を流しこまれたような寒気に襲われながら、隆士は自宅へ向かって再び歩き出した。
ちょうど人通りの多い道から外れた瞬間、後ろの小町が呟いた。
「……お友達ですか?」
なにが? と訊き返そうと振り向いて隆士はやっと気がついた。ぞろぞろと四人組の他校の制服に身を包んだ、それとすぐに分かる男子たちがいた。
「よォ、タキ。入院してたんだって? 俺のパンチ効いちゃってたりしたの?」
「ダーリン、この人こわーい」
「おいやめろ、無視しろ馬鹿。ていうかダーリンってなんだよ、さっきから。茜に悪ノリしてんだったら、マジでやめてくれ。あとその声やめろ、気持ち悪い」
ここにきて悪ノリされてはたまったものじゃない。隆士は急ぎ足になって不良らとの距離を開けた。そのすぐ後ろを小町が、さらにその後ろを集団がぞろぞろと連れたって歩いている。
「ダーリン、あの人たちついてくるぅ~」
「その声やめろ。気持ち悪いっつってんだろ。あと、その無表情も気持ち悪い。声に合った顔をしろ、せめて」
隆士たちが何をしようと気にしていない様子で、不良らはニヤニヤとしながら後ろをずっとついてくる。いつになったら飽きるんだ、と隆士が迷惑していると、一人の不良が動いた。
「ほっと、捕まえた」
「きゃー、助けてつかまっちゃったー」
それを無視しつつ、隆士は自宅へ急いた。さすがにこんな状況になってまで、アイツのあのトンデモ能力――『境界の力』なんて言っていたか――を使いしぶるわけないだろう、だったら怪我するのはあの不良どもだ。隆士はそう考えて、後ろから聞こえた小町の声に思わず立ち止った。
「離してくださいませんか。痛い、です」
なんで、と隆士は口の中で呟いた。小町の声のトーンがいつもの調子に戻っていたからだ。どうしてあのトンデモ能力を使わないのか。カッターナイフなら彼女のポケットに入っているはずだし、あの能力を使わなくてもやり方によっては抜け出せることも可能なはずだ。
そこまで考えて、小町の屋上での言葉を思い出した。
――『痛いのは嫌いなんだって、昨日言いましたよね。女の子ですから』
自分が屋上でなにをしたか、隆士はそれも同時に思い出す。自称『ただの高校生』宝院小町は、どんな能力を持っていても、どんなに無表情であろうと、やはり
隆士は振り返った。一人の女の子にたかる不良どもを一瞥して、「ああ、らしくねえ」と心の中で呟いてから一歩を踏み出す。
「オイ、そろそろやめろ。ケガすんぞ」
「お前にゃ用はないんだよ、今日は。今度遊んであげるから、今日のところはそこで指でもしゃぶってろ」
「あ? どういう意味だよ。ボコリ返しに来たんじゃねえのか」
「清き僕らはそんな野蛮なことはしねーの」不良の一人は卑しい笑顔を向けて言う「お仕事なんだよ。こいつ連れてきたら一人に十万もくれるんだってよ。チョロいよなぁ、こんな女の子一人連れて行っただけで給料十万だぜ?」
ヂリ、と隆士の首筋に怒りが走った。
スーパーの買い物袋を道の真ん中に置き捨て、また一歩踏み出す。
連れて来い、と言っていることから、この不良たちの後ろには小町のことを知っている奴がいるはずだ。彼女のあの性格から、敵を作っていないとも言い切れないが、小町がそんな『頭の悪い』ことをするとは、隆士には思えなかった。
と、すれば。
「オイ、お前なんか心当たりとかあんのか」
「……それは、あります」
少しばかり言うことを戸惑った様子で、小町は言った。だが、戸惑うだけの理由を彼女が持っていることは明白だった。
なら、と隆士はまた一歩を踏み出す。自分が殺された理由も、『未来を見た』なんていう理由じゃない、もっと明確な理由がもしかしたらわかるかもしれない。
小町を連れていかれては困るワケが、隆士に出来上がった。
「ったく、面倒かけさせんじゃねえぞ、ドちび」
「人の身体的特徴をそうやって貶めるような発言はいかがなものかと思うんですけど」
「心当たりってのを後でちゃんと聞かせてもらうからな」
と、そこまで隆士が小町としゃべって、周りの不良がイライラしてきているのが彼に伝わってきた。当の捕まっている小町はというと、いつも通りの無表情。我関せず、とさっそく傍観を決め込んでいる様子だった。それを隆士は「お前も当事者だろ」というツッコミを飲み込みつつ、不良たちを一瞥した。
それに反応して、不良のうち二人が小町を見張り、残った二人が隆士にジリジリと迫ってくる。
隆士をのしてから、小町を依頼主まで届けようという算段らしいことは、彼にもすぐにわかった。邪魔をするなら邪魔なヤツから排除する。なんとも判りやすくてありがたい、そう思って隆士はほくそ笑んだ。邪魔だというのなら、隆士から見てこの不良たちも邪魔者であることに違いはないのだから。
「おラあ!」
二人が一斉に隆士に飛びかかって来る。
隆士は向かって来るうちの一人の股間あたりに足を向けた。勢いまかせに突っ込んで来た一人の股間に足がめり込み、「おフゥ!」と情けない声を出して轟沈。それを確認したのとほぼ同時、隆士の顔面にもう一人の拳が綺麗に入った。一歩二歩とたたらを踏んで、追撃をかける不良を視界に収めなおす。乱暴な拳がもう一発隆士に入る。態勢を整えさせまいと不良が殴ることを繰り返した。一方的にも見える暴力だが、隆士は待っていた。隙が出来る瞬間だとか、相手が疲れるのをだとかそういうのではなく、痛みに慣れるのを彼は待っていた。ありがたいことに、それは相手の疲労とほとんど同時にやってきた。隆士が動いた。隆士が動いたことに驚いて、相手はまた必死に拳を繰りだすが、もはや遅い。
不良に殴られようと蹴られようと関係ないとばかりに、必死に浴びせてくる暴力を一切無視して、ただひたすらに、隆士は自分の暴力に集中した。
「――――しゃァッ!」
ぐしゃん! と、得体のしれない音が殴った不良の顔面から鳴る。自分で殴っておきながら、驚きが一番大きかったのは隆士だった。
「ハ?」
今殴ったばかりの不良はまだ倒れない。というよりも、
重力から解放されたようにも見える速さで不良が放物線を描いて、軽く五メートルの距離を吹き飛んだ。小町を抑え込んでいる残り二人の不良の目の前にまで吹き飛ばされた相手は、その二人を震え上がらせるのに十分なほどの顔をしていた。
鼻がつぶれ、前歯も四本ばかり折れてなくなっている。だくだくととめどない鼻血が流れ、顔を赤色に染めていく。
「……な、んだこれ?」
つぶやいたのは隆士だった。彼は、自分の力は自分が一番よくわかっていると思っていた。自分には人一人を殴り倒す力があっても、
「おい、ふざけんなよテメエ!」
小町を抑えていたうちの一人が、なにを思ったのか懐からナイフを取り出して、隆士に向かって突進してきた。が、走り出す前に不良は思い切りつんのめり、アスファルトの地面に顔面を強く叩きつけて悶絶した。
「…………」
小町だった。彼女は無表情のまま、転げ回り悶絶する不良を見下ろしていた。
「なにしやがんだ、おま――ぇぷっ!」
残ったもう一人が抗議の声をあげ終わるよりも早く、パぢん、と軽い音をたてながら小町が裏拳で最後の不良の鼻っ面を叩いた。隆士から見ればドアをノックするような軽さで出された裏拳だった。不良自身もそれほどダメージがないのか、なめやがって、とさらにいきり立ち、小町を捕まえ直そうと身を乗り出したときだった。
「は、れ?」
どろ、と不良の鼻から大量の鼻血が流れ出した。慌てて鼻を押さえてうずくまる不良を小町は冷ややかに一瞥して、迷うことなくその不良の股間を蹴りあげた。「おぅっ!」と情けない声を出しながら不良が沈黙した。
そして――――
「きゃーん、ダーリン怖かったァー!」
「……もうどうにでもなれ」
あくまで無表情のまま、小町は甘えた声を出し、一目散に隆士の元へ走り寄ってきた。なにが怖かっただ、と隆士は声には出さず、目の前の少女を心の中で非難した。隆士は、自分よりもスマートに不良二人を片付けた彼女のどこに「怖い」という感情があったのかを詳しく説明してほしいと願うばかりだった。その鮮やかさといったら、自分の力がおかしいという感想を抱いていたことを忘れるほどに強烈だった。
一応、最低限の後始末として救急車だけは呼び、道のど真ん中に伏せる四人の不良のことは何も知らないということにしておき、隆士と小町の二人は救急車が来て面倒に巻き込まれる前に再び帰路に着いた。
「で、心当たりってのは?」
しばらく歩いたところで、隆士は隣を歩く小町に話しかけた。
「
「さかきまさよし?」
「…………」
小町はそれ以上なにも言おうとはしなかった。隆士は、さてどう訊いたら頭悪いって言われずに済むかな、などとズレた思考を展開した。しばらく考えても、いい訊き方が思い浮かびそうになかったので、「頭悪い」と言われることを覚悟して普通に訊いてみた。
「それ、誰?」
「父親、みたいな人かもしれません」
「かも?」隆士はスーパーの袋と鞄でふさがっていない方の手で頭をかいた。「またそんな微妙な言い方してるし。……待てよ、父親みたいな人?」
「過去の交通事故で私を残し、私の家族は全員死んでいます。私が助かった理由、あなたが聞かなかったんじゃないですか」今まで前を向いていた小町の顔が隆士に向けられた。らんらんと輝く瞳を見つめながら、隆士は息をのんだ。「まあ、それをあなたに話したところで何が変わるわけでもないので言いません。あなたももう聞かないでください」
「……お前、名前なんつったっけ」
「……宝院小町です」
「んじゃ、宝院。改めて訊くけどな、
「面白い質問です」いつもの無表情で、しかし、小町は声だけで笑っていた。「それは私がどんな人間なのかを訊いているのか――」深呼吸をはさんで、彼女は続けた。「
「それでいい」
隆士はほとんど無意識にうなずいていた。訊きたいことが漠然としすぎていて、彼自身、自分でも何を訊いているのかがわからないのに、しっかりとうなずいていた。
「榊正義という人は、偽善者です。とんでもなく」
「ふぅん?」
とんでもない偽善者などと言われても、隆士にはそれの度合いがよくわからなかった。
「私は、事故の後本当なら親戚に引き取られるはずでした。ですが『未来視』のせいで、親戚は私を引き取ることを拒みました。この眼のせいで事故が起こったんだ、だとか言ってました。頭悪いと思いません? 事故なんて、起こせるはずないのに」
その話は、どうでもよかった。だから隆士は返事なんかしなかったし、うなずきもしなかった。ただ、話の流れからだいたいのことは把握できた。
「で、路頭に迷ってるところを、その榊ってヤツに拾われたと。めでたしめでたし?」
「そうですね。実際、私が高校生になるまではそれでよかったんです」
隆士は決して質すことはせずに、小町が話すタイミングを待った。無言のまま歩き続けた。
一層深い深呼吸のあと、小町は続けた。
「……榊正義が言っていることを疑ったことなんて、一度もありませんでした。よく言われましたよ、『君の眼は未来を守るためにある』って。だから、彼の思想の船に私も乗って、ずっと人生の河を下っていたんです。ただ視てほしいと言われた未来を見て、伝えて、そればかりを繰り返していたんです」
しゃべっているうちに隆士の自宅まで帰り着き、そのまま玄関に入ることはせずに、家の前で小町の話を聞いていた。ポツリポツリと話す彼女は、今まで見たことがないほどに、隆士には小さく見えていた。身体の大きさの話ではなくて、雰囲気とか気配とか、そういう目に見えないようなところで、小さく視えていた。
「中学三年生のときでした。私たちの船に新しい人が乗り込んで来たのは。それがきっかけ」
「たち?」
言ってから、隆士は舌打ちした。聞くことに専念しようと決めていたのに、思わず訊いてしまったからだった。が、小町はそれに
「私と似たような境遇の人たちを、榊正義は世話していました。日本人だけじゃないのには、当時驚きましたけどね」なつかしむような雰囲気を、小町は言葉にのせていた。「わかりますか? 似たような境遇の人たち、すなわち『境界の力』を扱える人物です」
「ぞっとするよ、だからなんだって?」
「榊正義の乗る船の終着点、つまり彼の目的は……そうですね、あなたに伝わりやすい言葉で教えて差し上げます。ずばり『世界征服』。茜のような可愛いものではない、実行できるだけの力と、それを完遂出来る力を持った組織による、『世界征服』です」
「…………」
これだけ現実味を持った『世界征服』なんていう言葉を聞いたのは、隆士が生まれてきて初めてだった。茜はどういう意図を持って『世界征服』などと言ってるのかはわからないが、榊のモノとは違って、ただ一人が叫び散らすだけに終わる、つまりはガキの戯れ言。
「まあ、つもる話もあるでしょう。どうぞ、あなたの家で話しませんか?」
「……そりゃ別にいいけど。なんでお前が、さも自分ン家で話しましょうみたいに言ってんだ」
「自分ン家なんて、まさかプロポーズのつもりですか?」
「違え!」
隆士をからかったのは、小町なりの気遣いだったのか。それとも単純に疲れたからなのか。
答えを出せるだけの思考を、隆士は持てないでいた。
キッチンに立ち、今日の夕飯であるカレーを作ることに隆士は気を向けている。
小町はというと、隆士の手伝いをするほど殊勝な性格はしていないらしく、ソファに陣取りながらテレビを見ていた。小刻みにチャンネルが切り替えられ、せわしないことこの上ない。見たい番組がないのか、それともこれが小町のテレビを見るときの癖なのかは隆士の知ったところではなかったが。
「……で、続きだろ。つもる話とやらの」
「……そうでしたね」小町はテレビから視線を外し、隆士の方を向いた。「榊正義を筆頭とする『境界の力』を使う集団の目的。それが簡単に言うと『世界征服』。それは言いましたよね?」
隆士はそれにうなずいて返した。小町はそれを確認すると、またテレビに視線を戻した。
適当にチャンネルをいじりながら、一旦手を止め、また隆士を向く。
「あなたが『世界征服』という言葉にどれだけのものを想像しているか、私にはわかりません。が、初めに言っておくと、武力だけではないということをよく理解してください」
「まあ、それくらいは判るけどさ。その、『境界の力』? ってのを使うヤツらが何人いるかもわかんねえけど、軍隊を真正面から相手にして勝てるってわけじゃねえんだろ?」
「場合によっては可能ですが、あまりにもリスクが高すぎるのでその選択は取らないでしょう」
家路でエンカウントした不良がもし、四人で一斉にかかって来ていたなら、隆士は確実に負けていただろう。一人ひとりは隆士よりもケンカは弱い。だが、だからといって四対一で勝てるほどの強さを隆士は持っていない。相手がいくら弱いといっても、一対一でやり合い、隆士が絶対に勝てるというほど実力も開いておらず、もしかしたら負けてしまうかもしれない、程度には相手も実力を持っている。結局は数なのだ。
「さて、では問題です。榊正義は、なぜ私を連れ戻そうとしていたのでしょうか。頭が悪いなら悪いなりによく考えて答えてくださいね」
癇に障る言い方だったが、隆士は言葉に出してまで抗議しなかった。面倒なだけだからだ。
なぜ榊正義は小町を連れ戻そうとしたのか。
「もしかしてロリコンだとか?」
「誰がロリですか。……違います」
「じゃあ、お前の『眼』だろ。単純に考えて」
「……驚きました。正解です」
「驚いたって、お前な……」
それがどういう使われ方をするのかはわからないが、隆士にはそれくらいしか理由が思いつかなかった。もし自分が榊ならば、という立場で隆士は考える。ただの裏切り者だというだけならば、むしろ始末しにかかる。しかし、小町には『未来視』という
どうにかして説得しようと思うだろうし、それが出来なくとも何らかの処置を行う。順当に考えれば、それは当り前のことだ。
「そう。十中八九、榊正義の狙いは私の『眼』にある」
「じゃあ、自分を道具みたいに扱われて、それが厭で逃げてきたってことか?」
「私だって人間です。それくらいは思いましたが、たぶん違います。言ったでしょう、新しく入ってきた人がいて、その人がきっかけだったと」
「ふぅん?」
小町はそこで会話を区切り、またテレビに集中し始めた。ただ、チャンネルは数秒に一度、長くて一分ほどしか同じものを映していないから、それを集中と言っていいかは隆士にはよくわからなかったが。
「…………」
突っ込みたいことは多くあったが、今は自分の置かれている状況を整理したいと隆士が思ったところで、小町にじっと見つめられていることに気がついた。
「……なんだよ」
「いえ――――」
言葉を続けようとしたようだったが、小町はその言葉を飲み込んだ。ただ、じっと見つめてくるだけ。
隆士は出会って間もないが、小町という少女の性格はだいたい理解しているつもりだ。ズケズケとモノを言う彼女にしては、こういう反応は珍しい部類なはず、と彼は予想している。
じぃっと見つめてくる小町は、口をパクつかせながら何かを言おうとしていて、そうして出てきた言葉は――――
「上手いですね」
なんでもない、称賛の言葉だった。
「あー、まあ」少し拍子抜けしながら、隆士は照れ隠しに頬を掻いた。「まともにできる料理なんてそうあるわけじゃねえけど」
「……私のお弁当も作ってもらえませんか?」
「なんで俺がそこまでお前の面倒見なきゃなんないんだよ!」
小町の提案を隆士がふざけるな、と一蹴すると、彼女は残念そうに「そうですか」と言うだけ言って、またテレビを見ることに集中し始めた。
せっかくの静かな時間なので、隆士はこれ幸いと今までの出来事を整理することにした。
まず、宝院小町という少女について。隆士の前に現れたかと思えば、数分も経たないうちに殺害した、ということになっている。曖昧な表現になってしまうのは、その殺害対象である滝隆士がこうしてカレーを作れるくらいにピンピンしているからである。
次に、小町の能力について。『未来視』。未来を視ることができる能力であるらしい。この能力のせいで、幼い頃に気味悪がられた親戚からの引き取りを拒まれ、その能力に何かを求めた榊正義の手で保護されたのだという。また、彼女が隆士を殺した理由は『死の未来を視た』ためだと言う。思い出すことで改めて違和感を覚えた隆士だったが、今は考えなかった。
そして、『境界の力』。死に近づけば近づくほど、つまり瀕死になればなるほど、傷つけば傷つくほど力を増す能力。生きるか死ぬかを体験した者だけに発現する能力だという。
「……なあ、おい」
「なんでしょうか」
小町はテレビから隆士へ視線を移し、隆士は思い出したことを小町に問いかけることにした。
「もしかして、その『境界の力』ってヤツは、死にかけたって条件満たしてたら誰でも使えんのか?」
「さぁ?」
「さぁ、ってお前また……」ガリガリと頭を掻いてから、隆士は質問を変えた。「じゃあ、俺はどうなんだよ。あのときのパンチ、あれはおかしいだろ。人吹っ飛んでたぞ」
「……あれがあなたのデフォルトじゃないんですか?」
「そうであってたまるか。投げてんじゃねえんだから、あんなに吹っ飛ぶわきゃねえだろ」
小町はまたじっと隆士を見つめ、こくりとうなずいた。
「なら、たぶんそうです」
「だから、たぶんとかそういうのやめろ。ハッキリ言えよ、ハッキリ」
「と、言われましても。あなたが『境界の力』を手に入れたということを確かめるには、あなた自身が傷つくほかありません。もしその気があるならば手頃なものが手元にあるでしょう? その包丁とか」
「…………」
隆士は包丁を見た。普通に使っている分にはなんでもないのに、改めてじっくりと眺めてみると、包丁に言い知れぬ恐怖を感じた。調理器具としての包丁ではなく、人を傷つけるための包丁として見方を変えるだけで、これほど威圧感が増すと彼は思っていなかった。
ごくり、と生唾を飲み込む。
「ですが、今はやめた方がいいですよ」
「? どういう意味だよ」
「あと、ご。よん。さん。にい。いち」
ぜろ、と小町が言うのと同時。廊下からリビングへ続く扉が勢いよく開かれた。
「こんばんはー! おーい隆士、ごはん食べに来てあげたよー!」
「っ、頼んでねえ! ていうか、帰れ!」
飛び込んできたのは茜だった。彼女は小町に気づかずにそのままテーブルに着き、こちらをニヤニヤと見上げてくる。呆れた様子でそれに睨みかえす隆士は、カレーのついたオタマでソファに陣取っている少女を指して言った。
「あいつで間に合ってる。帰れ、茜」
「んー? おお、こまっちゃんじゃん。こんばんはー」
「こんばんは、茜。あなたはよく彼の家に来るのですか?」
「よくってほどでもないかなー。今日は特別だよ」
「特別」
「そ。特別」
二言三言、茜と小町がしゃべり、隆士はそれを聞き流しつつ眺めていた。すると、茜が振り向き、隆士にむかってニヤリと、いやらしい笑みを浮かべた。
「で、隆士。昨日の今日出会った女の子連れ込んでどしたの?」
「…………どうかしてんのはお前とあいつ。ウマが合うだろうから、二人で世界征服でもなんでもしてくれ。それと言い訳する必要もないけど一応言っとくぞ。押しかけられたの。俺は被害者なの。判るか? 判ったら帰ってくれ」
「照れちゃって、もー。お邪魔虫ですかね、私?」
「照れてねえ! あとごめん、やっぱりカレー食べてくか?」
茜の「お邪魔虫」という言葉に反応して、隆士は元々帰るつもりもなかっただろう茜を引き留めた。隆士と小町が二人っきりという状況そのものがおかしかったのだ。それでも小町が襲ってこなかったのは、おそらく茜が来ることを視て知っていたからだろう。
茜さえいれば、小町は襲ってこない。もし、茜に見られてもいいのなら、ここにこうして立っていられるはずがない。なぜなら、茜も始末してしまえばいいからだ。それでも襲ってこないということは、『茜がいれば襲ってこない』という答えを示していた。そんな確信が、隆士の中に生まれていた。
なんとなく人心地ついた隆士は、思い切りため息を吐いた。
「それにしても、こまっちゃんもやるねー」隆士の考えなどわかるはずもなく、楽しそうに茜が言う。「隆士が私以外の子、家に入れたのっていつ以来になるっけ?」
「覚えてねえ。あと、入れたんじゃなくて入ってきたんだよ、そいつ」
「入っちゃえば同じだよねー? 押しかけ女房って言葉だってあるじゃん?」
「女房だなんて、茜、それは言いすぎですよ」
「言いすぎとかそういう問題じゃねえだろ。馬鹿か、お前ら」大皿にご飯を盛りつけながら、隆士はうらみがましい口調で続けた。「これ食ってどっちともさっさと帰れ!」
自分用、茜、小町の都合三枚の大皿にカレーを盛って、隆士はテーブルの上に乱暴に皿を置いた。ソファに陣取っていた小町もいそいそとテーブルについた。
さて食べようと隆士がスプーンを持った瞬間だった。
「サラダとかないんですか?」
「お前は……。何様のつもりだ、おい」
「奥様」
「ふざっ――、お前いい加減にしろよ!」
「夫婦喧嘩は犬も食わないよ、隆士」
「だまれぇ! お前らカレー食ってさっさと帰れ!」
隆士の怒りもむなしく、食事中の会話のほとんどが似たような内容のことばかりだった。
最初はイチイチ目くじらを立てていた隆士も、途中から口を出すことも面倒になり、ヒートアップする会話の内容を聞き流すだけになった。隆士が一人冷めた目線で茜と小町の会話を聞いていると、なんとも馬鹿馬鹿しい気持ちになってきていた。
茜の妄想が炸裂した内容の質問に、小町は実際にした会話を面白おかしく改変し、恥ずかしそうに(もちろん、無表情なのだが)答える。そのたびに茜はキャアキャアとうるさく声をあげ、さらにぶっ飛んだ質問を投げかける。これの繰り返し。小町の方もネタが尽きてきたのか、茜に押され気味で会話を進めていく。そのうち隆士は、茜の妄想に会話として対応している小町をある意味で尊敬し始めていた。
「……はぁ」
それでも、ため息をつかずにはいられなかった。隆士のほんの小さな抵抗の意思だった。
もちろん、そんな抵抗で暴走を止めてくれるなら隆士もここまで参ったりはしない。妄想は走り、会話は成立しているのかしていないのかわからなくなってくる。
出会ってすぐの男の家で、我がもの顔であれだけ堂々としていられる小町がすごいのか、それともそれくらいのことにイチイチ反応している自分の器が小さいのか。そんなことを隆士が真剣に考え始めたときだった。
「ところでさ、こまっちゃん。私は家が近いからまだいいけど、こまっちゃんはまだ家に帰んないでいいの?」
「……」
茜のその言葉に、小町は隆士の方を向く。途端に嫌な予感が隆士に走った。
「泊めてくれるんですよね?」
「…………。いや、ちょっと待てお前」
小町の発言を否定しようとした瞬間、テーブルが強く叩かれた。茜だ。
「隆士っ」テーブル越しに隆士に向かってズイ、と顔を近づける。「あんたって子はっ、お姉さんどうしたらいいかわかんないよっ!」
「どうにもしなくていいから。お前は黙って家帰っとけ」
「私が帰ったらこまっちゃんと二人っきりで何するつもりなのっ!?」
「なんにもしねえよ馬鹿!」
詰め寄る茜を言葉で押し返し、隆士は無表情で返事を待つ小町に改めて視線を戻す。
「なに考えてんだお前! 泊めるつもりもないし、飯食ったら帰れって言っただろ」
「……冗談です」
「…………」隆士はじっと小町の眼を見た。彼女のガラス玉のような不気味な瞳から、何とか彼女の意図をくもうとした。「……冗談、ね」
そんな隆士を見た小町は、茜の方を向き、無表情ながらやわらかい声音で茜に言う。
「ということで、途中まで一緒に帰りませんか、茜。私はまだ彼と少しだけ話があるので、玄関先で待っていていただけると幸いです」
「うん、わかった。そういうことなら、まあいっかな」
茜はそのままイスから立ち上がり、早く来てね、と言い残して部屋を出ていった。小町は茜がちゃんと外に出ていったかを確認してから、隆士と向かい合う。
「さて、時間がありません。さっそくですが、これ以上あなたを生かしておくことができません」
「いきなりだな、お前」
「これ以上は、
そこまで言われて、隆士はぐるりと脳がひっくり返った。一気に吐きそうになる。彼の頭の中で、思考が渦を巻いた。小町の言っていることを理解できるのに、頭の中がその理解を拒んでいる。そんなはずはない、ありえない。思考を塗りつぶすように、言葉が重なっていく。馬鹿馬鹿しい、小町お得意の冗談に決まっている。思考を塗りつぶすように、言葉が重なっていく。
隆士のそのわだかまる感情のすべてが、小町に向けられた。小町を捌け口にして、彼の感情が一気に濁流と化す。身体が火を噴きそうなほどの激情に、隆士自身、歯止めが効かない。
「テメエ……ッ!」
隆士は正面に立つ小町の胸ぐらを引っ掴んだ。彼女を引き寄せ怒鳴り散らそうとした瞬間、小町が消え入りそうな声で言った。
「――――ごめんなさい」
「あ?」
小町が謝る理由を、隆士はうまく見つけられない。
「なに、謝ってんだよ」
「……私のせい、だから」顔を近づけているから聞き取れるような声で、小町は続けた。「私のせいだから、だから、ごめんなさい」
「…………わけわかんねえんだよ、ちゃんとしゃべれよ!」
「――――電話」
小町がそう言ったのと同時、リビングの電話が鳴り響いた。もちろん隆士はそれを取る気にはなれなかった。それよりも、早く目の前の少女を殴り倒したくてしょうがなかった。
「出てください。取り返しがつかないことになりますよ」
「……チ」
怒りにまかせて小町を突き飛ばしてから、隆士は電話を取った。
「誰だ」
『こんばんは、少年』
隆士の受話器を握る手に力が入る。めき、と音を立てて受話器が軋んだ。
「誰だって訊いてんだよ」
『これは失敬。榊正義という。そこに宝院小町はいるだろうか?』
榊正義。その名前を聞き、隆士は一瞬硬直した。
深呼吸をはさんでから、隆士は榊へ返事した。
「いるよ」
『それはよかった』
受話器の奥の声は、ホッとしたように言う。それが隆士のイライラをさらに募らせた。
『取引しないか、少年』
「わかった」
『内容は聞かなくてもいいのかい?』
「どうせ、こいつと茜を交換しろとかだろ。喜んでやってやる。どこに連れてけばいい?」
『話が早いね。君の家の近所の公園。あそこがいいかな。待ってるよ』
ブツ、とやけに耳障りな音を鳴らしながら、電話は切れた。叩きつけるように受話器を置き、隆士は怒りを込めて、小町に視線を戻した。
そこには、包丁を持った小町が立っていた。
「な――――、」
「私はここで捕まるわけにはいかないんです」
「だ、だからって茜は……」
「だから謝ったじゃないですか、ごめんなさいって」
「――――――――、あ?」
「あなたが茜を見捨てられないことくらい、見ていればわかります。だから、ここであなたを殺します。言ったでしょう?
包丁と、小町の双眸。ぎらぎらと照らつく三つの光に凝視されて、隆士の身体は固まった。
進まない。進めない。
「…………知らねえよ。お前が視た未来なんて、まったく、これっぽっちも知らねえ」
そこで、隆士は閃いた。小町の言葉の端々に抱いていた疑問の正体。違和感の正体。
口にだして、自分は冷静でいられるのだろうか、と疑問が重なる。これを口にだしてしまったら、目の前の少女を、それこそ殺さずにいられるのだろうか。
隆士はそんな懐疑を振り払った。進め、と自分に言い聞かせる。今一歩、前進。
「おかしくねえか? お前が視た未来っていうのは、俺がいて、お前が死ぬ未来なんだろ。だったら、なんでこんな、こんな
瞬間、小町の肩がビクリと震えた。彼女の手に持つ包丁が、向けるべき先を見失う。隆士はこれで確信した。
「そうだよな? お前が俺を無視すれば、こんな、茜まで巻き込んだことにはならなかっただろうが。俺だって、お前に殺されずにすんだ。お前だって、一人多く殺さずにすんだ。なんでだ? なんで俺のところに来たんだ? 殺すためなんて、今はもう理由になんねえぞ」震える小町を睨みつけながら、隆士は続けた。「――――憐れみか? 俺がかわいそうだったから、だったらせめて自分の手で殺してやるとかって思ったのか? ふざけんなよ、いい加減にしろ。お前が何人殺したかなんて知らねえけどな、今さら憐れんでんじゃねえよ。テメエのワガママで、俺と茜を巻き込んでんじゃねえぞ!」
隆士の声に、小町は応えなかった。無表情のまま固まって、一言もしゃべらない。どこまでも無表情な少女は、静かに包丁をテーブルの上に置いた。
「……違う。あなたを憐れんだわけじゃないんです。ごめんなさい。うまく言えません。謝ることくらいしか、私にはできません。ごめんなさい」
「だったら、だったらなんでここにいるんだって訊いてるんだよ! 謝るくらいなら、俺を殺すな、茜を巻き込むな! どうするつもりなんだよ、捕まるわけにはいかないって、どうするつもりなんだよ、お前!」
小町はその問いに答えなかった。ややあって、彼女はなにも言わずに自分のカバンに近づいていく。隆士はハッとして、彼女の腕を掴んで止めた。小町は隆士の方を向かずに呟いた。
「離してください。着替えるだけです。できれば、出て行ってもらえるといいのですが」
いろいろと言いたいことはあったが、隆士は小町の腕を離した。小町はそのままゆっくりと動き、カバンの中から服を取りだした。
「……ごめんなさい」
「謝るなよ。もういい、勝手にしてくれ……」
隆士はそのままリビングを出て廊下に立った。壁にもたれながら、ぼうっと考える。彼の中のなにもかもがスッキリとしなかった。小町のこと、茜のこと、『世界征服』のこと。一週間にも満たない時間で、隆士の周りは激変した。
知りもしない少女に襲われ、病院で目を覚まし、茜が泣き、そして宝院小町に出会った。
隆士は死んだはずなのだと言う小町。俺は生きているはずだと言う隆士。
食い違い、なにかがおかしくなっていく。
「……あなたの言う通りだった。私は、あなたに会うべきじゃなかった」リビングから、小町の独白が聞こえた。隆士はそれに静かに耳を傾ける。「茜まで巻き込んだ。私は本当に馬鹿です。頭が悪いのは、きっと私の方。あなたは、きっと、やさしい人だから」
隆士は答えない。小町の独り言に付き合う義理も彼にはない。ここまで来て、仲良くお話をするような関係でもない。小町の独白は続いた。
「確かめてみたかった。自己満足だって判ってた。巻き込むって、視て知ってた。だけど、私は確かめてみたかった。謝ったって謝りきれませんよね。だからもう、ごめんなさいは言いません」
小町は、やはり無表情で話しているのだろうか。
隆士に浮かんだ疑問は、そんなことだった。彼にとって小町が無表情でいることは、イライラの種にしかならない。だというのに、隆士にはとにかくそれが気になって仕方なかった。
小町に対して怒りを保てるから? 小町のことを認められないから?
理由が知れなかった。
ただ、なんとなく。考えられることが他になかったから、隆士はそんなことを考えていた。
能面のような無機的で不気味な顔をして、話しているのだろうか、と。
隆士はしばらく、そんなことを考えながら小町の独白を聞き流していた。小町の声として聞くと、どうしてもイラついてしまう。だから、言葉の羅列として聞き流していた。
どうしてだ、と隆士は自問した。どうして、小町の声でこんなに心地良くなっているのだろうか、と。答え。割と簡単。小町には聞こえないように、隆士はぼそりと呟いた。
「あいつ、声綺麗だな……」
「――――ありがとうございました」
自分の声が聞こえてしまったのか、と隆士は焦った。隣に小町が立っているのかと思い、思い切り隣を見ても、誰もいない。どうやら、リビングの中から言葉をかけられたらしい。
それを着替え終わった合図だと解釈して、隆士はリビングへ戻った。
「おい?」それほど広くないリビングに、隆士の声が響く。「おいって、どこだ?」
返事はなかった。小町のカバンを探す。ない。制服もない。小町が、いない。
書置きの一つもなかった。テーブルに置かれていた包丁だけは、キッチンの元あった場所に丁寧に戻されていた。
「……にげた、のか?」
誰にでもなく、隆士は問うた。答える者はいない。彼はそのまま部屋を見まわし、窓の一つが開けっ放しになっていることに気がついた。
脳が反転した。落ち着きを取り戻していた感情が、一気に沸騰する。
「ふざけ、ンなよ……っ!」
今まで茜と小町と一緒に食事を取っていたテーブルを隆士は蹴っ飛ばした。ガツん! と大きな音をたててテーブルが床に倒れた。彼の爪先はジンジンと痛んでいた。関係ないとばかりに、今度はイスを蹴り倒した。蹴ったイスはソファに命中し、音をたてて床に落ちた。もう一つのイスを片手で持ち上げて、がむしゃらにテーブルに叩きつけた。バきん、と音をたててイスが砕けた。テーブルは真ん中あたりでへこんでいた。
「ふざけんなあァ――――あァッ!」
隆士が暴れまわる事に疲れて、息を整えて始めて、やっと何かを考えられるくらいに落ち着くことが出来た。
「クソ……、なにしてンだ、俺っ」
テーブルとイスは、もはや原形をとどめていなかった。テーブルやイスであった木材が、ゴミのように散乱していた。
この惨状を見て、隆士の心に焦りが生まれた。こんなことをしている場合じゃないだろ、と頭を思い切り掻きむしった。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。なにもできない。茜を助けることも、小町を追いかけることも、なにもできない。暴れることくらいしかできない。そんな考えが、彼を押し潰そうとしていた。
「……クソッタレが。ごちゃごちゃ考えてんじゃねえよ」
隆士は頭を振った。押し潰されそうな思考なら、考えない方がいいと頭を振った。彼は急いで自分の部屋に行き、いつから使ってないかも忘れた金属バットを持ち出した。とたんに不安になる。こんなもので大丈夫なのだろうかと。
相手は『世界征服』が出来るだけの力を持っている。それに、たった一本のバットと、たったひとつの命で立ち向かうことの、なんと無謀なことか。彼の握りしめたバットが軋む。
隆士は貫く。大丈夫か、ではなく、準備は万端と思い込んだ。どうせなにもできないのなら、悪足掻きもいいだろう。あるいは、つばさの元へ逝くことができるのならそれはそれで良い。自滅願望にも似た感情が、隆士を支配し始めていた。
しかし、怖い。死んでもいい、なんていうのは結局は建前で、『準備は万端』と思う心がイチイチ揺らぐ。覚悟と恐怖の葛藤に、隆士は混乱した。「死んでもいい」という感情と、「死にたくない」という感情。
カタチの無いたったそれだけの思いに、隆士はがんじがらめに遭った。
知らないうちに出てきた選択肢は、たったふたつ。
――一。生きるか。
――二。死ぬか。
不透明な設問の選択肢は、両極端な回答。
そこに、隆士が選ぶという権利は存在していなかった。
――――『自由ってなんだと思う?』
「なんだよ、こういうこと訊いてたのか」
そこに、隆士が選ぶという『自由』は存在していなかった。
「……そんなこと知らねえよ」誰もいない虚空に、隆士は呟く。「だから、俺が行くんだろ」
隆士は走った。散歩気分で行ける公園は、走れば一分くらいで到着する。
隆士は走った。
隆士が隆士自身の、を見つけるために。